14:レインボー・ルインの昔話(下)
レインボー・オアシスにその予言が下ったのはヨハンとジューダイの婚約が決まってからたった三つばかり月が巡った日のことでした。その日は酷い雨で国中がどろどろしていて湿っぽく陰気な感じでした。
「強大な龍の力がレインボー・オアシスを破滅に陥し入れる。十六の年を迎えてもカーの姿見えぬ者がその身に宿る龍の力を目覚めさせる時王国は終末を迎える。巨大な闇の龍を宿す少女とつがいの光の龍を宿す少年に気を付けよ。災いは避けられぬ」
予言は年に二度王宮で行われる恒例の行事で、未来視の能力を持つカーの声を聞く形で行われています。今まではこの先の繁栄を約束するような先行きの明るい予言がずっと続いていたのですが、今度は違いました。むしろ全くの真逆です。
「その精霊は、我が精霊の力を持ってしても抑えることの出来ぬものなのか」
レインボー・オアシスの王は予言師にそう尋ねました。王は穏やかで争いを好まぬ優しい人物で、国民からの信頼も厚い好人物です。残酷な事が苦手で、戦も嫌っていましたがその身に宿る精霊はとても強大な力を持っていました。この国が軍隊を持たずに平和を維持していられるのも、王や国民達が精霊の人智を超えた力を行使出来るからでした。王の精霊は今現在国で最も強い力を持っているとされています。王が敵わなければ最早誰にもその未知の脅威を止めることは出来ません。
「我が――光と闇の竜の力を持ってしても、その脅威には立ちうち出来ぬか」
「是。王の光と闇の竜は確かに強力だが、少女の闇の前には明るく少年の光の前には暗い。災いを覆がえす事は出来ぬ」
「王国に終末が訪れた時、民はどうなる?」
「絶望に呑まれ、二度と帰らぬ者となるであろう」
「そうか」
予言師の言葉に淡々と頷いて王は思慮深い顔を苦脳の色に歪ませます。側近が王の決断を待って息を呑み、広間には恐ろしいまでの静寂と緊張が張り詰めていました。
やがて、王は決断を下します。
「闇の龍を持つ少女と光の龍を持つ少年を秘密裏に処刑せよ。好ましくない手段ではあるが、一千の民の命には代えられぬ」
王は静かに言いました。
程なくして王宮の調べにより、十六になっても精霊の出ていない少女と少年が国に一人ずついることがわかりました。少女の名前はジューダイ、少年の名前はヨハンと言います。二人は品行方正で真っ直ぐな若者で、これからを期待されているごく普通のありふれた幸せ者でした。三ヶ月前に婚約し、周囲からも祝福されています。二人には何ら悪いところはありませんでした。至って模範的な国民でした。
でも災いの種は摘まなければなりません。
◇◆◇◆◇
その通達は突然二人の元にもたらされました。いつものように仕事をしていたヨハンといつものように家事修行をしていたジューダイの元に彼等は訪れてきました。
「王宮まで御一緒願いたい。これは国王命令です」
「……俺が、何をしましたか?」
「貴殿は何もされてはいません。予言のためです。……不幸な出来事です」
ヨハンが蒼白な顔でそう尋ねると王宮からの使いは気まずそうに首を振って同情の眼差しをヨハンに向けます。しかしそれだけで、彼等は黙々と命じられた仕事を遂行しました。ヨハンから武器になりうる一切の物を取り上げて両側から拘束し、見慣れた我が家から王宮までの搬送の準備を始めます。
「御家族の方々も御配慮頂きたい。彼に非はありませんが、災いの種となるとの予言が下りましたゆえ王は止むなく処刑の処断を下されました。彼は非常に優秀な国民でした。処刑は近日王宮で秘密裏に行われます。――お悔み申し上げます」
ヨハンの家族は皆唖然として固まってしまっていて、王宮からの使者の言葉を上手く理解出来ていないみたいでした。母も兄達も何も言うことが出来ず、幼い末の妹も泣くことを止め酷くしんとしていました。年取った祖父だけが、ややあって口を開きます。
「ヨハンは、そのお勤めでこの国のお役に立てますかな」
しわがれた深い声での問いかけの意味を察し、使者も静かに答えます。
「はい。必ず」
祖父はそれは良かった、と言ってヨハンの方に振り向きました。ヨハンは祖父の知る限りでは気丈な少年でしたが、そうは言ってもまだ十六の子供です。守護してくれる精霊もまだいないのです。彼は恐怖にわずかに震えていました。祖父は優しい手を彼の頭に伸ばして撫でてやります。
「……ヨハンや、わし達はお前のことを愛しておる。どんなことがあっても――どんな姿になったとしても。お前は愛されている。それを忘れてはいけないよ」
「……祖父ちゃん」
「わし達には、どうすることも出来なそうじゃ。すまないヨハン。――もう行きなさい、これ以上は余計に別れが辛くなる」
「父さん、母さん、兄さん達……」
祖父の手がどいてしまった頭部を自らの手で触れ、ヨハンは消えてしまった感触に自分のこの先の運命を重ねて人前であることもはばからずに泣きました。
「役に立てない駄目な息子でごめん。俺も皆のこと、愛してる。例え俺がどんな姿になったとしても」
これ以降、ヨハン少年は家族と会話を交わしていません。
「ヨハン」
「ジューダイ! お前も……お前も、家族から引き離されて……?」
「うん。多分もう……会えないね」
王宮に付き、とりあえず今晩はと宛がわれた部屋にはヨハンの婚約者であるジューダイが既に通されていました。それなりに広い室内に並んだベッドが二つと、テーブルと向かい合わせの二つのチェアー、それからクローゼットに背の高いランプ。王宮の部屋としては質素な造りなのかもしれませんが、庶民のヨハンから見れば十分以上に豪奢な部屋です。
ヨハンの記憶が確かならば使者は「処刑を処断された」と言っていたはずなのですが、どうもこれは処刑される人間に施される待遇ではないような気がします。
「ジューダイも『処刑』されるって言われて連れて来られたのか?」
「そう。でもこの部屋で待ってろって言われて今拍子抜けしちゃってるところ。確かに今日は何もしないって言われてたけど、私てっきり牢屋とかに入れられるものだと思ってた。だってこれって来賓待遇でしょ?」
「ああ。俺も妙な気分になってる。そういえば、あの使者は予言がなんとかって言ってたけど……」
ヨハンが何か悪事を働いたという疑いがかかっているからではなくて、何か予言のためだと使者は言っていました。そしてそれは不幸な出来事だとも。
予言というのは、恐らく半年に一度王宮で行われている儀式のことでしょう。そんな話を子供の頃に聞いたことがあります。この先の国の吉兆を予見の力を持つ精霊に占ってもらうのだそうです。この国が豊かで平和なのもその予言が一役買っているかららしいのです。
「さっぱりわからない。ただ一つ確かなのは、『予言』で不吉な相が出たから俺達二人は連行されたってことか。濡れ衣を着せられてるわけじゃないから間違いでしたって釈放してもらえることは多分ない。……実感全然ないけど、俺たちはどうもここでそう遠くない未来に死ぬ運命らしい」
淡々と事実を整理していきますが、何故か悲壮な気持ちにはなれませんでした。嬉しいわけでも辛いわけでもなく、感情が一定のところを上下せずじっと直線で動いている、そんな感覚です。酷く頭が冴え渡っていっそ不可思議なまでに冷静でした。ジューダイが隣にいるからかもしれません。彼女がいなかったらどうなっていたかは想像もつきませんけれど。
「王様は優しい方だって、そういうふうに私聞いてる。もしかしたら予言で殺されなければならない私達に、せめてそれまでの間苦痛を感じてもらいたくないのかもしれないって思った。罪もないのに牢獄に入れるような方じゃないんじゃないかな」
「人によっては予言されたことが罪だとか言いそうだけどな。……なんかもう、よくわかんないよ。何がどうしてこんなことになっちゃったのか。だって俺、つい数時間前までいつもと変わらない一日を過ごしてたんだ。ご飯食べて仕事してた、それだけなんだ。そもそもその予言とやらの内容も知らない。何が、なんだか……」
「うん」
「ジューダイと一緒にいられるのがせめてもの救いで、そうでなきゃおかしくなってたかもわからない」
ヨハンは情けなく息を吐きました。もう本当に、何もわからないのです。
◇◆◇◆◇
しばらくの間はうんうん唸っていたヨハンでしたが、窓から見える陽が沈み出す頃には思考することを放棄して今まで目にしたこともないような豪奢なベッドでごろごろしていました。ジューダイはというとヨハンとつがいになったベッドの端に腰かけてぼーっとしています。時折、手持ち無沙汰に指を弄っていました。
「ジューダイ、何してるの?」
「ん……あのね、精霊の声が小さいけど、はっきり聞こえるの。今までそんなこと全然なかったんだけど、王宮に来てから急に」
「え、ってことはジューダイの精霊がもうすぐ出てくるかもしれないってことか?」
ヨハンが興奮して聞きますが、ジューダイはやんわりと首を振ります。
「普通、存在がはっきりと感じられてから名前を聞いて姿を現わせるようになるのに早くても三ヶ月かかるっていうから生きてる間には無理じゃないかな」
「……そうだった。俺達、明日には死ぬんだったな」
明日の日の目を見ることも叶わないかもしれないようなそんな身分だったことを思い出してヨハンはヨハンがっくりと項垂れました。どう足掻いても逃げられない現実は心を重くさせます。ヨハンにとってのせめてもの救いは隣にジューダイがいることでした。不謹慎な話ですが、「ジューダイと共に死ぬことが出来るのなら」という思いは確かにヨハンの中にあったのです。世界で一番大好きな人と一緒に死ねるのならばそれは仕方のないことかもしれないとヨハンは思っているのです。国王というこの国最大の権力者に目を付けられては死の定めを逃れられないだろうということをヨハンは重々わかっていました。
どれだけ唐突でどれだけ理不尽だったとしても、一平民の身分でその決定を覆すことは出来るはずもありません。
ジューダイが返事を返して来ないので精霊との対話に集中させてやろうとヨハンは彼女の視界の中から離れて背後に回りました。背中を合わせると彼女の体温が伝わってきます。それだけで何も怖くないような気がしました。権力が無力な二人に牙を剥いていても、まだ世界には見捨てられていないような錯覚を覚えました。彼女を自分から奪わない限り世界はヨハンにとっての味方です。
でもそれは、当然のことながら現実から逃避しているヨハンの思い込みにすぎません。世界に意思がないのに敵も味方もあるわけがないからです。強いていうとしたら、世界というものはあらゆる生き物の母であり父であり敵であり味方であり庇護者であり殺戮者でした。世界は命を生んでそして殺します。それこそが人間が運命と呼ぶものです。
やがて太陽が沈み切ってしまった頃に部屋の扉が開いて、使者が王との謁見のために広間へ行くよう告げました。
「すまない」という謝罪の言葉がヨハンとジューダイが初めて見た王の第一声でした。嘘偽りのない心からの言葉でしたが、しかしそこに譲歩の余地はなくその言葉は酷く冷たい印象をヨハンとジューダイに与えます。
「君達にはすまないと思っている。だが私は王だ。一千の命をそれで救えるのならば二つの命を葬ることもまた止むなしだという判断を下した。……冷血だとでもなんとでも罵ってくれて構わない。だが、何と言われようと私はこの手で君達を殺すだろう。我が光と闇の竜が直に君達の喉元に喰い付くだろう」
「……王自らが手を汚すというんですか」
「それがせめてもの私の誠意だ」
「ああ……なるほど」
ヨハンは緩慢に頷くと自分達に相対している国王を眺めます。部屋に設えてある玉座には座らず対等に立って話をする王は確かに思慮深く人の出来た人間であるようでした。そしてその決断は一国を預かるものとしては何ら間違ったところのない選択です。王には国を守る義務があるのですから。
ただ、当時者であるはずのヨハンとジューダイがおいてけぼりにされているだけで。
「……いくらか、お聞きしたいことがあります」
「好きなように」
「俺達が殺される理由になった予言とは一体どのようなものだったのですか」
「光の龍と闇の龍がこの王国に破滅をもたらすというもので、十六になっても精霊と対話していないつがいの少年と少女に気を付けろというふうに続いていた。この国に今、その条件に当てはまる人間は君達二人しかいなかった。であるから、君達を処刑することに決まった」
わかりきっていた事実は酷く単純で明快です。どこにも介入の余地なく完結していてそして簡潔でした。
「予言には、俺達を殺せば王国は破滅を逃れると続いていたんですか?」
「予言は災いは避けられぬという一文で締められている。だが災いの原因がはっきりしている以上それを取り除くことで最悪の可能性を回避出来るのならば打たぬ手はない。どうあろうと君達の処刑は変わらない。納得などいかないだろう。話に聞く限り、君達は優秀で誇れる国民だった。君達自身には何ら非はない。私とて殺すことはやぶさかではない。……だが再三言った通り譲れないものがある」
君がその少女を守りたいと願っているように私もまた民の命を出来る限り多く守りたい。そう言って王は口を結びました。天秤にかけたらどちらが重いかなどというのはヨハンにだって考えるまでもなくわかることでした。ただヨハンには、予言の内容だけが漠然として理解が至っていなかったのです。自分達がこのレインボー・オアシスの王国を滅ぼす? それは何か質の悪い冗談なんじゃないだろうか? だってヨハンもジューダイも、特別な力なんてなんにもないただの人間です。しかもまだ成人もしていない子供でした。
ヨハンの隣で両手をあわせているジューダイは先程から静かなもので、一言も言葉を発しません。喋る言葉が見付からないのかもしれないとヨハンは考えました。ジューダイはあまり積極的な性格ではなくて、内気と言っても差支えない時がままあるのです。心を許した人間にしか彼女の心の声は向けられません。
でも、その予想が少し違っていたということをヨハンはすぐに悟りました。
「…………ッヘ。それが、あなたの名前なのね」
他人に聞かれないように小声で呟かれた言葉が、微かにヨハンの耳に入ってきます。どうやらジューダイは自分の中に宿る精霊と対話をしているようでした。精霊の声が聞こえるようになってから名前を教えてもらえるまで、一般的には半年、早くて一月と少しかかると言われています。ジューダイが声を聴きだしたのは王宮に来てからです。いささか不自然な話でした。
王も彼女の様子に鋭く勘付いたようで視線をヨハンからジューダイに移します。それに気付き、ジューダイも慌てて顔を上げました。
「あ……」
「精霊の……闇の龍の、名を聞いたのか」
いつの間にか、王の背後に一匹の竜が出現していました。王の精霊である光と闇の竜です。右半分が黒く、左半分が白いこの精霊は光と闇、二つの力を等しく宿しています。
「精霊が実体化する前に君達を殺さなければならない。出来れば、今夜一日ぐらいは良い環境で……最後に思い出の一つでも作って貰いたかった。だが彼女の様子ではどうやらそうのんびりはしていられないようだな」
「…………」
王の言葉はあくまでも静かでしたが、今は言葉端から焦りが感じられました。精霊が実体化したが最後、世界が滅びてしまうかのような焦り方です。実際にどの程度の脅威なのかはわからないのですから王が過剰に警戒するのも仕方ないことでした。何せ予言は国の破滅を謳っているのです。
「君達には自覚がないだろう。だが、その内に宿る精霊が強力な力を持っていることはまず間違いがない。そうでもなければこの年まで精霊の声を聴かないということはまずないであろうし、私の光と闇の竜もこれほど警戒心を露わにはしない。……君達は危険だ」
王はそう宣告すると徐に片手を上げました。光と闇の竜がその大きな口を開きます。口から漏れた吐息は白と黒が混じり合った奔流となり、主人の命を待って口元でわだかまっていました。
その吐息が明らかにジューダイに狙いを定めていることに気付いてヨハンは思わず飛び出してしまいます。ジューダイが驚いて目を丸くしました。ヨハンがジューダイを両腕でしかと抱きかかえたのです。
「――ジューダイっ! 王、お願いです――どうせ殺すのならば一思いに二人一緒に逝かせてください。生きることが許されないのなら愛する人と共に死にたい……!!」
ジューダイを抱き締めたままヨハンはそう懇願しました。どうせ死ぬのです。ならば考えていたように、共に。「ジューダイが先に死ぬ」という可能性をまざまざと見せつけられてしまった今、その思いは更に顕著になっていました。一人で死ぬのを恐れているわけではなく、ただヨハンは目の前で血だらけになったジューダイを見るのが嫌だったのです。自分だけはっきりした意識を持って朦朧とした目をするジューダイを見なくてはならない末路を想像してヨハンは目蓋をきつく閉じました。想像でも見たくないものでした。
大好きな女の子を守ることが出来ないばかりではなく自分が無傷であったらとという想像に吐き気を覚えるほどにです。
「ジューダイを一人で行かせたくない。俺の目の前で一人だけ儚くなるなんてそんなのは嫌なんです。ですから……」
「承諾した」
王が頷き、ジューダイが慌てたような顔つきになります。「駄目、ヨハンは死んじゃ」、そう彼女の唇が動きます。でもヨハンはそれを唇を触れ合わせることで無理矢理に封じました。ジューダイに何と言われようと今この時ばかりは引くつもりはなかったのです。
あからさまなまでのそれはヨハンのエゴイズムでしたが、王は咎めることをしませんでした。どうせ二人とも死ぬのです。二人とも殺さなければならないのです。一息に済んだ方が王としても気が楽でした。未来ある若者の将来を奪われた断末魔を聞くのが一度で済むのであれば。
いかな賢王といえど所詮は人の子です。そのような考えも仕方のないものでした。
「君達をこの手にかけた罪を決して忘れぬように刻もう。すまない――だがその犠牲で国は救われる」
王の制止が解かれ、光と闇の竜の吐息が解放されます。
光と闇、二つの膨大なエネルギーを孕んだ致死の攻撃は無抵抗の二人に目掛けて一目散に飛んでいきました。
二人の運命は一蓮托生になっているのだと、その時ヨハンも王も思っていました。光と闇の竜が放った吐息は正確にジューダイを狙い、それを庇うような位置でヨハンが彼女を抱いています。どう足掻いたってヨハンの死は避けられないものでした。ジューダイの死が避け難いことであるのと同じように。
でも、ヨハンは死ねませんでした。
衝撃が過ぎ去った後に違和感を覚えてヨハンは恐る恐る目を開けます。丁度、ジューダイの体の中に役目を終えた精霊が還っていくところでした。四つの首を持つ暗色のドラゴンがどんな役目を負っていたかは考えたくもありません。彼女はヨハンの腕の中でいつの間にか酷い重傷を負っていました。恐らくそれは光と闇の竜の攻撃を諸手に引き受けた代償でした。もしくは、慣れないまま強大な精霊の力を行使したフィードバックだったのかもしれません。
いずれにせよはっきりとしているのは、ヨハンは全くの無傷でジューダイ一人が死にかけているということでした。それはヨハンが最も忌避した最悪の末路で、起こり得る予定のまるでなかったことでした。
「よはん」
彼女がか細い声で言います。彼女の腹部からはとめどなく血が溢れ出ていて、どんどんと生命力が削ぎ落とされていっているのが否応なしに伝わってきました。零れた体液が赤い血溜まりを作り出し、徐々に広がっていきます。座り込んで彼女の上半身を抱くヨハンの体に触れる程になるのも時間の問題でした。
ヨハンの膝に生温かい感触が伝わります。
「なん……で……じゅう、だい」
「よはん、ごめんね。ごめん。さいごまでいっしょにいてあげられなくて、ごめん。わたしがさきにしななきゃ、だめなの。よはんはまだしんじゃだめ。……わたしのなかのせいれい――Das Extremer Traurig Drachenがいったの。“わたしが死ねば”よはんのなかにいる子がよはんをまもってくれるって」
「どうしてそんなことをしたんだ、ジューダイ! 俺の命なんか君の命に比べればどんなに軽いかわからない。惚れた女一人守れないでなんでおめおめと生きてなきゃいけないんだよ! 君が死ぬのなら俺も君と一緒に死ぬ!!」
「だめ、それは。よはんはしんじゃいや。わたしがしんでも……よはんが、」
ヨハンが生きていてくれるんなら、幸せだから。
大分動かなくなってきていた口で最後にジューダイが紡いだ意思のある言葉はそれが最後でした。後は切れ切れの呼吸音が掠れて響くばかりです。苦しい音でした。ヨハンは腕の中のジューダイが遠くへ行ってしまうのを予見して頭の中が真っ白になってしまったかのような錯覚を覚えます。
だんだんと、彼女の体温が冷めていくのをかじかんだように固まってしまった手のひらで感じました。零れる血はまだ温かく、けれど、肌はもう生きた人間のそれではありませんでした。腕の中の彼女の体重が軽くなっていくようで、ヨハンはとうとう嗚咽を漏らします。
「……行ってしまうのか、ジューダイ」
ジューダイは答えません。彼女はすでに物言わぬ死人でした。
「俺を置いて、君は、行ってしまったんだな。……俺は君を守ることが出来なかったんだ。こんなに好きなのに。愛しているのに。君と共に死ぬこともできなかった。――俺一人、醜くも生き残るのか」
「ジューダイが死んだ」という事実を受け止めつつある脳は奇妙に冷えていました。ジューダイの亡骸を抱いてうわごとのような言葉を口走るヨハンを王とそれに従う光と闇の龍は静かに身守っています。王は本当に良く出来た人格者でした。きっとヨハンの気が済むまで泣かせてやろうだとか、そんなことを考えているに違いありません。
ヨハンは芯の冷え切ってしまった頭で考えます。――この距離ならば、『俺の精霊』はやれるだろうか?
この時ヨハンは初めて、それまで朧気に感じるだけだった己の内に宿る精霊の存在をはっきりと自覚しました。魂の中で、白い――潔癖なまでに白い純白の精霊がうねっているのです。その精霊は巨大な体躯の龍の精霊でした。光の龍。死んでしまったジューダイの中に宿っていたらしい闇の龍と対極を成す存在。
「心が苦しいのは、君を守れなかったから? 守ることすら許されなかったから? 心がからからに乾いてしまって上手い答えが見付からない。だけどはっきりしていることがあって、……死んでしまった君はもう二度と俺に笑い掛けてはくれないし声を聞かせてもくれない」
ジューダイが死んだという現実がヨハンの認識を方端から塗り変えていきます。ジューダイが愛していた丘の上の花々も、ジューダイの家族も、彼女が好きだったメロディも髪飾りも洋服も自分の声も姿も何もかもが真っ白な絶望に塗り込められて消えていきます。後に残ったのは酷く空虚でまっさらでストイックな感情でした。ただ一つの真っ直ぐな願いであり祈りでした。
だからヨハンは、その唯一の望みを己が精霊に願います。
「もう何も要らない。世界も、俺の心も、全て光の中に消し去ってしまってくれ。俺の精霊、究極宝玉神レインボー・ドラゴン」
「大切な人一人守ることが許されない、こんな世界なんか壊れてしまえばいいのに」
少年は言いました。
「もう誰かを愛する心なんて要らない。こんな思いをするぐらいなら心なんかなくっていい。――全部、真っ白になってしまえばいいんだ」
その言葉に呼応して少年の体から一体の精霊が現出します。王が息を呑み、動くことを忘れている間に眩い光を撒き散らしながらその精霊は空へ空へと高く登ってゆき、王国全土を見渡すと一声咆哮を轟かせました。
体に七つの宝玉を宿した巨大な白龍――光を司る究極の宝玉の神にして虹の化身――がその金色と純白の翼を広げた時、王国は少年の絶望が生んだ破滅をもたらす光で白く染まり、そして誰もが成す術を持たないままに崩壊が始まったのです。
レインボー・オアシスの王国は一瞬の内に滅亡しました。そこには悪意も敵意も害意もありません。あるのはただの虚無です。
少年に宿る精霊は美しい虹の龍でした。純白の体に黄金の翼。それはそれは見目麗しい姿を持つ神に匹敵する精霊です。
でもその龍には心がありません。少年は深い絶望を受けて願いました。「心など消えてしまえ」と。「世界など壊れてしまえ」と。
虹の龍はその願いを叶えました。少年は心を忘れ、龍自身もまた少年の望むままに己の心を消し去ったのです。心ない慈悲なき神は命のまま淡々と最後に少年が心から願った破壊をもたらします。繁栄していた都は光に呑まれ崩壊しました。少年が大好きだった少女を殺した虹の王国は滅亡したのです。
そこにはもう「オアシスのラスト・リゾート」はありません。「レインボー・オアシス」は跡形もなく消え去りました。
残ったのは破滅した虹の王国の成れの果て、「レインボー・ルイン」だけです。
少年の世界を焼き尽くした光は少年とその家族も等しく襲いました。その日、いつものように家で暮らしていた少年の家族は破滅を司る光に呑み込まれてその人としての命を終えました。
けれど、家族を愛していた少年は彼等を暗闇を彷徨う死人にすることは出来ませんでした。命が次々と果てていく中、彼等だけは精霊として現世へ留まることを余儀なくされたのです。
少年が誰よりも尊敬していた父は青玉になりました。
口うるさいけど優しかった母は紫玉になりました。
誰よりも少年を可愛いがってくれた祖父は緑玉になりました。
大きくて物静かな一番上の兄は琥珀の橙玉になりました。
ぶっきらぼうだけど頼りになる二番目の兄は黄玉になりました。
お調子もので少年をよくからかった三番目の兄は藍玉になりました。
そしてまだ生まれたばかりの末の妹は、紅玉になりました。
精霊となった少年の家族は少年の深い絶望に触れ、そのことをいたく悲しみましたが言葉には出すことは出来ません。少年は心を失っていました。愛するということを、すっかり失ってしまっていました。
今の少年には誰のどんな声も届くことはないでしょう。それこそ彼を狂わせてしまったあの少女の声でも、光の龍の力で奥底に押し込められてしまった心には届かないに違いありません。
「レインボー・ドラゴン」
少年が自らの精霊に呼びかけますが、返事はありません。虹の龍は主の罪を負って心を失ってしまったからです。レインボー・ドラゴンの心は空っぽの空洞でした。少年が絶望からレインボー・オアシスの王国を破滅させてしまったという事実が覆しようのないことであるのと同じようにそれは確定的で不変の現実です。光を司る龍には最早心などないのです。
「俺は、もう何も感じない。家族だった宝玉を見たってこれっぽっちも感慨がわかない。ただどうして俺なんかが生きてるんだろうって思いがあって――そして何でだか、闇を宿したあいつに会いたいって強く思う。それは俺が光だから? 破滅をもたらす光が全てを包み込む闇に引き寄せられているから?」
当たり前のようにレインボー・ドラゴンは黙りのままでした。少年はそれを見て少し考えた後にまた口を開きます。
「レインボー・ドラゴン、俺も眠らせてくれよ。体がだるいし、もう何もやることもない。何も考えたくない」
大事なものを失ってしまった少年はぽつりと、まるで何の変てつもない人間であるかのように最後の言葉を漏らしました。
「……俺はもう、疲れたよ」
破滅をもたらす光になった少年は優しい闇にどうしようもなく焦がれ、そして眠りに就きました。
次に目覚めた時、少年はもう何も覚えておらずにただ本能のままつがいである闇を求めるのです。けれどかつて少年だった光は闇にどう接すればいいのかわかりません。光には膨大な力がありましたが愛するということを丸っきり忘れてしまっているので昂る感情は相手を傷付けることでしか表せないのです。
そして二人は延々と続く殺し合いにその身を投じることになります。会いたくて愛したくて抱き締めたくてたまらなかったはずの闇を光は殺します。闇もまた、かつて愛してその命を捨ててまで守った光をただ防衛本能に突き動かされるままに殺します。二人は永遠に殺し合いを続けます。二人が心を取り戻すまで。
これで、大昔に滅んでしまったレインボー・ルインの物語はおしまいです。
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