15:ろくでなしの約束
『え。隣国に行くんですか、王子』
「うん。しばらく会ってなかったしね。元気にしてるって手紙は貰ってたけど……どうしたのユベル、顔がものすごいことになっているけれど」
王子が肯定するとユベルは猛烈に嫌そうな顔をして表情を歪めた。隣国の王子の話になると彼女はいつもそうだ。途端に不機嫌になってしまう。
「まあいつものことだけど、本当にユベルはヨハンのことが嫌いだよね。ヨハンの何がいけないのかなあ? 彼は面白いし優秀な人だよ。非の打ち所がないじゃないか」
『そこがまたむかつくというか……王子のお気に入りでなかったら絶対にあのフリル目も当てられない姿にしてやるのに』
「冗談でもそういうことは言うものじゃない。父上がお聞きになったらなんといわれるか」
ユベルの悪態に王子は肩を竦めて溜め息を吐いた。小馬鹿にする意図はまったくなく、ただ呆れだけが切々と伝わってくる。そんな王子の様子にう、と息を呑んでユベルは仕方なしといったふうに口を閉ざす。この主を呆れさせてしまった時というのはいつもいいことがない。
『王に告げられるのだけはやめてくれないかな……?』
「この後繰り返さないのならね。父上の時間をそんなことに割くのは申し訳ないし。全く、ヨハンの方は好意的なのに」
ヨハンの懐が深くなければ今頃君の命はなかったかもしれないんだよ、とユベルの頭を叩いて王子はその話題を締めた。ユベルはややいじけつつも頷く。散々に言っているがヨハンは隣国の王子だ。次期王位継承者。ヨハンがその気になればたかが従者身分のユベルぐらい不敬罪で首を飛ばすこともそう難しくはないのである。でもヨハンはそれをせず、今までずっと「面白いやつだな、お前」で済ませてしまっている。勿論ヨハンが怒らないとわかっているからユベルも軽口を叩いているのだけど。
「とにかく、明日には発つからそのつもりでいてね。まあ今のユベルなら準備とかはそう必要ないだろうけど……」
ちらりとユベルの方を振り返って彼女のつま先からてっぺんまで、全身を仰ぎ見る。何年か前までは王子とそう変わらない身長の子供だったのが、精霊となったことで急激に体の構造が作り変えられ雌雄同体の悪魔みたいな姿になってしまっていた。王曰くの「二目と見られない醜い竜の姿」だ。王子はそんなに醜くもないし、美しい部分も当たり前に持っていると思っているのだが。
そう。今の彼女は王子――やがて覇王となる少年が無事に大人になるまで守るために人の姿を棄てて悪魔となった存在なのだった。額には菱形の三つめの瞳がぎょろりと覗き、肌は色が灰紫で非常に血色が悪い。背中からは鋭い鉤爪の付いた蝙蝠に似た大きな羽根が広がって、ばさばさとはためいて風を起こしていた。
「……今のユベルの姿を見たらヨハンはどんな反応をするだろうねえ」
『あのお気楽フリル王子のことだから面白いとかそんな反応で終わるんじゃないかな』
「んー。これでも驚かないんだとしたらヨハンは本当に大した器だ」
大げさなリアクションをせずいつもの顔で「イメージチェンジでもしたのか?」と当たり前のように聞いてくるヨハンを想像して王子は苦笑した。彼なら本当にそれをやりかねない。
僕だって最初は驚いたものなんだけど、と零して彼はユベルにおいで、と手招きをする。ともかく荷を詰めないことには、隣国までの旅は始まらない。
◇◆◇◆◇
「ジューダイっ、よく来たな! ユベルも一緒か!!」
もう何度訪れたかわからない見慣れた隣国の王城に足を踏み入れ、侍女の案内を受けこれまた見慣れた大広間に入るとヨハンが待ち構えていたように飛び出してきた。思い切りハグをしてくる。心地よいいつもの体温だ。
「ああ、久しぶり、ヨハン。……君はまた一段と逞しくなったみたいで羨ましいよ」
「そういえばジューダイはあまり体格が変わらないんだな。俺の感覚だと……そうだな、もう三年はこんな調子か」
「まだまだ子供だよ、僕は。君は育ち盛りで羨ましい限りだ」
「そのうちジューダイも大きくなるさ。身長の伸びしろはまだまだある……いつの日か、俺達はいやでも大人になるんだからな」
「……! ああ」
王子はヨハンの言葉に思い当たる節を見付けて眉を潜める。
「君も見ているのか、あれを」
「その様子じゃジューダイもそうみたいだな。そうだ、あの妙な夢だよ。嫌な夢だ。君と俺が真剣を向け合うだなんてことは俺達の間柄から言っても、そして政治的に言ってもいいことじゃない。俺は君とも君の国とも末長く交友を結んでいきたいと考えているからね」
「僕もそうだよ。君と殺し合うなんてまっぴらごめんだ。友をこの手にかけるなど――おぞましい」
例えそこにどんな理由があったとしても。そう続いた王子の声に相変わらず君は潔癖症だなとヨハンは乾いた笑いを零した。彼が自嘲気味に笑う理由を王子は知っている。国家のためを謳って友を殺し、殺して勢力を拡大して地盤を固めてきたのがこの王国だからだ。彼にはその先祖の血が流れている。祖先の穢れた血がある以上ヨハン自身も同類でありまたいつの日か君を裏切るかもしれない、というのが昔彼の言っていたことだった。
でもヨハンは王子から見れば非の打ち所がなく優秀な人間だ。民々を第一に思いやり堅実で質素。派手なものを好まず質実剛健な性質で王宮に籠もることなく積極的に市街を見て国の実体把握に努めている。争いよりも弁論を好むが、文武に秀で指揮能力も高い。王子の知る限りでは彼程絵に描いたかのよう完璧な指導者はいない。彼は市街に繰り出すことを「可愛い女の子を探しに行っているだけ」だと言っていたが不名誉な噂(不埒だとか不節制だとか、そういったものだ)を聞かないことを鑑みるにそれが第一の目的だというわけでもないだろう。
「何度も言っているけれど、祖先がどうであれ君は君だ。君は高潔な人物だよ。信頼に値する綺麗な心の持ち主だ。そう卑屈にならないでくれよ」
「止してくれ、俺はそういう柄じゃない。……だが、君の信頼を得ているということは掛け値なしに嬉しいよ。俺は君のそういうストレートなところも好きだし評価してる。だからそれを失うのかと思うと酷く悔しい」
「……それは、どういうことだい?」
ヨハンの口ぶりに困惑して王子が尋ねると、ヨハンは当たり前のことを言う時のように平静な顔で言った。
「あの夢は、避けられない。俺の嫌いな運命って名前の予定調和だ。あれは近い将来に起こる現実だよ。……そのことには、君も薄々勘付いているんだろう?」
その夢は酷い夢だ。累々と積み上がる大量の瓦礫に囲まれてふたりの少年が立っている。二人が二人とも揃って赤い液体に服を――体を染めていた。言うまでもなく血液だ。鮮血。乗り越えて来た数え切れない程の屍の返り血。
少年の内一人は王子、ジューダイでもう一人はヨハンだ。ただ様子が少しおかしくて、ヨハンは今まで見たこともないような酷薄で狂的な笑みを浮かべている。どこか恍惚を覚えているようですらあった。対照的に、対するジューダイは無感動で無表情だった。冷めた瞳は高潔な金を孕んで混濁した暗い橙色を見据えている。
『君が何を言っているのか幸運なことに俺にはまるで理解出来ない。そして共感も出来ない。君と俺は相容れない。まだそんな簡単なこともわかっていないのか』
『わからないさ。この俺の愛が君に受け入れて貰えない内は絶対にね。覇王』
名を呼び掛けてヨハンの姿をした少年がジューダイの姿をした少年に指を伸ばす。だがその手は彼に触れることなく払い落とされた。覇王と呼ばれた少年は相変わらず一切の表情のない瞳で相手を見ている。
『いつになったら君は俺を愛してくれる?』
『いつになろうとそのようなことは起こり得ない。世迷い言はそのぐらいにしろ。聞き苦しく気色が悪い』
『傷付くなぁ。ならばせめて俺の顔を見てくれよ。心を覗いてくれよ。痛みを共感し愛を分かち合いたい。それなのに君はさっきから一度も本当の意味で俺を見てはくれないんだ。君のその瞳はまるで硝子玉のようだよ。俺を映してはいるが見ちゃいない』
『その価値がないからな』
『覇王様は手厳しい』
くつくつと笑って彼は覇王をうっとりとした目で見つめる。酷く剣呑なやりとりだ。他人の血で血塗れになっている二人はそのくせ自身はちっとも傷付いてやいなかった。誰も二人を傷付けることなんか出来ないのだ。世界を破滅させる光と世界を育む優しい闇をその身に宿した二人は最早人の子の範疇から外れてしまっていた。擬似的な神だ。酷い自己中心主義で、なのに世界の命運を簡単に左右してしまえる力を有してなんかいる。詐欺みたいな話だった。
神はろくでもない。無知無能で本当の所、なんにも考えちゃいない。当然の理屈だ。人間にとっての神というのはつまり人智を超えた理解出来ないものの総称なのだ。よくわからない、異質ででも恐ろしいものを神と呼んで崇める。そうすることで己に災厄が降り注がないように予防線を張りあわよくば利益を得ようとする。全く狡賢い生き物だ。だがそれが、彼等がかつてそうあった生き物で愛すべき愚者達だった。
――愚者だ。けれど賢者でもある。くだらない運命とやらで神もどきに成り下がった二人に比べればよっぽど賢い。
力を振りかざすことでしか互いと交流を図れない二人に比べれば。
『俺はね、ただ単純な心の丈を君にわかって貰いたいんだよ。ねえ、俺はどうしたらいい? どうしたら……俺の心に君は触れてくれる? 君の心に触れることを、俺は許される……? こうして……』
ヨハンの姿をしたそれは右手を振り翳した。手のひらの中に一振りの剣が現れて煌めく。七つの宝玉を散りばめた意匠の黄金の剣。白銀の刃は血に汚れて鈍くくすんでいた。元の美しさは損なわれ、ただ禍々しい匂いをのみ放っている。
『こうすれば……いいのかなぁ…………?』
剣は一直線に覇王の体を目掛けて振り下ろされた。覇王は黙って右手に剣を握り、それを受け止める。覇王の剣もまた血染めだった。
『どうしても、駄目かな?』
血と血に汚染された金属が打ち合い、それの「愛情表現」を拒む。彼は小首を傾げてそんなことをのたまった。瞳の中に渦巻くのは狂気だ。狂的なのではない。狂気そのものだ。恐ろしく歪な感情が発露されている。どうしてこうなってしまったのだろう? 元々この体を使っていたヨハンはどこに行ってしまったのだろう? ジューダイもそうだ。どうしてあんなに冷めた瞳をしているのだ?
「君は……あんな生々しいものが……現実だって、そう言うのかい?」
王子が尋ねるとヨハンは「ああ」と短く、しかし即座に肯定する。
「あの夢から目を背けてはいけない。あれは幻じゃない。君も本当はわかっているはずだ。……俺達にとっての未来、大人になるということは……つまりああいうことなんだってことが」
ヨハンの言葉は重々しかった。王子は首を振りかけたが、しかし最後には頷いた。
◇◆◇◆◇
「夢が怖い?」
かつてそう言って、夢見の悪いユベルを笑い飛ばしてやったことがある。ユベルは小さい頃からあんまり夢見のいい子供ではなかった。しょっちゅう悪夢にうなされては心もとない顔をして、王子にその旨を告げてきたものだ。その度に王子はユベルを軽くからかってやって元気づけてやった。昔の話だ。今は立場がまるで逆だった。
近頃王子はまともな夢を見ない。朝起きた時に嫌な汗が全身をぐっしょりと濡らして冷やしているか、何にも覚えておらず真っ暗い闇が記憶の地平線に続いているかのどちらかしかない。そして悪夢を見ると、決まってユベルが心配そうに顔を覗き込んでいる。まるで王子の母親であるかのように。
精霊とその身を一つにしたユベルは今や悪夢の化身だった。具現化した悪夢――ユベル Das Extremer Traurig Drachen。究極の悪夢Ultimate Nightmare。けれど悪夢の化身である彼女の力をもってしても王子の悪夢を排除することは出来ない。運命から逃れることはできないのだと嘲笑っているかのように。
「怖いか、と聞かれたら怖いよ。恐ろしい。信じたくない……でも、そうして逃げることはきっと許されていないんだろうね。君を見ていると一層強くそう思うよ」
ヨハンの手を握って王子は小さく呟く。手のひらは少し震えていた。それに気付いてヨハンがすまなそうな顔をする。
「悪い、ジューダイ。君を怖がらせようとかそういう魂胆はなかった。……俺もあの未来を恐れているんだ。でも誰にも話せやしない。父上や母上に話したって熱を測られるのがオチだ。こんな荒唐無稽な話は誰も信じちゃくれない……。だが、そうだな、確かに再会したばかりの友人に話すようなことではなかったな。すまない。無神経だった」
「構わないさ。自分にしかわからないことを一人で抱えてると気が狂いそうになるっていうのはよくある話だ。僕でよければ付き合うよ」
「いや、今は止めとくよ。君の後ろでおっかない従者がこっちを見ているしね。それに、そろそろお腹が減る頃合いなんじゃないかな?」
少なくとも俺は減ったかな、と表情を明るく変えてヨハンが言う。その様子に王子はふっと微笑むと「僕もだよ」と応じた。この国独自の伝統料理が王子はなかなか気に入っていて、それもこの王城を訪れる際の楽しみの一つなのだ。
そこまで考えてからユベルの方をちらりと見、王子は一つ疑問に思ってヨハンに尋ねた。
「ヨハン、君はユベルの姿が見えているんだよね?」
ユベルは今はもう人間ではなく、精霊だ。見えない人間は見えない。だがヨハンは元々精霊が見える性質だし、今の発言からしてユベルの姿は見えていると判断して恐らく間違いない。
でもそうすると不思議なことがあった。彼は当たり前のことであるかのように流していたが、彼が最後に会った時と現在ではユベルの姿というのが天と地ほど(これは少し言い過ぎかもしれないが)変わってしまっている。よくあることとしてはとても流せないぐらいに変貌を遂げているのだ。
「その……僕から尋ねるのもおかしな話だけど、何か反応とか……ないのか?」
恐る恐るそう尋ねてみるとヨハンは「へ?」と一国の王子にしてはやや間の抜けた顔をして(王子に対してはたまにする表情だ。本人曰く「ジューダイ以外にはこんな気の抜けた対応はしない」とのことで喜んでいいのかそれとも注意すべきなのかはいまだに判断しかねている)なんてことのないことであるかのようにあっけらかんとこう言った。
「ああ、ユベルがちょーっと感じが変わってることか? うん、格好いいとは思うぜ。だけど目が怖いからあえて黙ってた。もしジューダイから俺へのドッキリ企画で反応を待ってたとかなら悪かったな」
「いや、別にそういうことはないんだけどね。……普通は、この外見を見たら驚くものじゃないかな?」
「いやぁ、どうだろうなぁ。家の方針でちょっとやそっとのことじゃ驚かないように教育されてるからな。俺を驚かしたいんなら『実は女でした』って言って結婚を迫るぐらいはやってくれないと」
「あぁ……そ、そうか」
本気とも冗談ともつかない声音の後半の言葉に王子は気圧されてしまって押し黙ってしまう。背後からぴりぴりちくちくと刺してくるユベルの視線が痛い。
ジューダイが女だったという事実は生まれて十数年のどこにも存在しないし、良き友であるヨハンに求婚する未来も永劫に訪れないだろう。この先何年経ってもそれはきっと変わりようのないことだ。王子は頭の中でぐるぐると渦巻く疑問符を一旦全て奥底に仕舞い込んでこの話題を暫く考えないようにすることにした。ともかく彼はユベルの変化に対して驚かなかった。それだけだ。
余計なことを考える必要はない。
「君を、どうにかして驚かそうと思うことだけは考えないようにするよ。食事にしよう。何だか背中が痛いんだ」
「ああ、その方が良さそうだな。俺も背中が痛い。……なあユベル、冗談だよ。よくあるジョークだ。本気にしないでくれよ、君も夕食にするか?」
『ふざっ、けるんじゃあ、ないよッ……?! 冗談でもそういうことを言うのは止して欲しいねぇ? ああ忌々しいこのフリル王子。きっと脳味噌までフリルになっているに違いないんだ。君が、王子のお気に入りで、王子が親友だと自負していて、王子の――大切な人間の一人でさえなければ、今すぐ僕の手で葬り去ってあげるのにッ……!!』
ユベルが堪忍袋の緒が切れたと言わんばかりに声を荒げ、翼をばさりと大きく広げる。よく見ると髪が逆立っていた。これには流石のヨハンも何か思うところがあったらしい。ひっくと喉を鳴らすと顔を青くして王子の方に視線でもって言外に要求を寄越してきた。――「俺の出来る範囲のことならなんでもするから、ユベルを止めてくれ」――。王子としてもユベルの暴走は不本意であり、放置しておくのは本意ではない。
「ユベル、落ち着いてくれ、ユベル! ヨハンには悪気はないし彼が本気で僕が嫁に来るといいだとかそういうことを言っているなんてことはない。だから……!」
『王子は黙ってて。僕はやっぱり、こいつが嫌いだ』
合わないんだよ、致命的にね! そう叫びユベルの持つ精霊としての異能力「ナイトメア・ペイン」が発動する。しかし特に何が起こるわけでもない。何故なら「ナイトメア・ペイン」は向けられた悪意や敵意を等倍返しにする能力だからだ。現在ヨハンがユベルに向けているのはそういう類のものではない。
意気込んだはいいが拍子抜けしてしまったらしいユベルは舌打ちをすると忌々しげにヨハンを睨み、「ふん」とそっぽを向いてしまった。
(なあジューダイ、いったい俺がユベルに何をしたっていうんだ?)
ヨハンが小声でそっと耳打ちしてくる。王子は一息吐いて同じく小声で彼に答えを返した。
(君は何もしてないよ。ただユベルが拗ねてるだけ。彼女はね、君が僕と仲が良いのが気に入ってないんだよ。独占欲が強いタイプなんじゃないかな。僕は彼女のことも、君と同じように信頼しているし愛しているんだけどね)
◇◆◇◆◇
どうして、僕と君が殺し合わなければならないんだい? 彼はそう言って純粋な瞳を向けてくる。酷く無邪気だ。彼は知らない。ヨハンが人殺しだってことを。いや、大まかには知っているだろう。この国が侵略戦争を吹っ掛けて第二王子、つまりヨハンの活躍で勝利を収めたというのはこの近隣の国々では有名な話だ。でもそう言っても彼はそんなことを気にする必要はないのにだなんて言って微笑むのだろう。全くもって天使のような人間だった。どうして彼と生臭い自分が同じ種族の生き物なのかわからない。
あまつさえ同じ運命をこの先に決めつけられているのが何故なのかなんて、更にわかりようがない。
ヨハンは人殺しだ。それも非人道的な。戦を指揮する時、ヨハンは兵隊を命を持った人間であると考えない。そういうふうに教えられてきたからだ。相対した敵を殺す時もそれは人形か何かだと考える。そういうふうに育てられてきたからだ。だからヨハンは恐ろしい。この、唯一といっていい心を許せる親友を殺す時も同じように無感動に刃を振り下ろしてしまうのだろうかと考えると心底恐ろしい。
ヨハンは彼を殺す、もしくは彼に殺されるあの悪夢の未来がほぼ確定的な不可避のものであると考えていた。悪夢は嫌になるぐらいにリアルで、朝目覚めた時にその感触を手の中に確かめることが出来る程だった。ジューダイの柔らかな皮膚。つややかな髪の毛。そして鋭利な切っ先が己の体を抉り抜く衝撃。見下すように冷ややかな金色の瞳が己の欲望を射抜くあの感覚。狂おしく、たまらなく、狂的で、醜悪なまでの生々しい愛の衝動。
あれは欲情に近い感情だ。愛したいから、剣を向ける。交わる代わりに肉体を抉り合う。あの生き物は愛し方を知らなくて、そして対する覇王という名を持つ生き物もそれは同様のようだった。彼等には人間らしい感情というものが一切合切欠如している。元々はヨハンとジューダイであったはずの肉体はよくわからない生き物の意思に動かされている。
それでもヨハンとジューダイの意識というのは、肉体のどこかにこびりついて残っているのだ。夢の中のヨハンだったものが寒々しい愛を叫ぶ間、ヨハン自身は朧気に何かを思考していた。でもそれがどんな内容なのかは思い出せない。覚えていない。友と狂気を向け合う状況で自分は一体何を考えているのだろう?
「酷い目に遭わせてしまったね。ユベルもまあ……一応、反省はしているみたいだよ。彼女は強情なんだ。……よければ、君も彼女のことを許してやってくれないかな」
「元々怒ってやいないさ。ユベルのそういうところも俺は面白いと思っているし好きだよ」
「はは。君はいい奴だな」
「とんでもない。俺は根本的にどうしようもない駄目王子さ」
また自分をそうやって卑下するのかい? と子供を宥めるような顔をして彼はヨハンの頭を撫でる。ヨハンの頭を撫でるのが、どうも子供のころからジューダイは好きなようだった。ここ数年で身長に大きく差が開いてしまったため近頃は今のように二人が座り込んでいる時にしか触れてくれないが、それでも具合のいい高さに頭がある時は大抵優しい手付きで撫でてくれる。くせっ毛のこの髪の毛のどこが彼のお気に召しているのかは今一つわかっていなかったが心地よいので特に気にしたことはない。
ヨハンとジューダイは幼馴染だ。王子と王子という同等の身分を持つ二人は、まずは国政の道具として引き合わされた。でも天真爛漫な子供達にはそんな大人の思惑なんて知ったことじゃない。二人はそういうやましい思いとは何ら無関係に、うつくしい友好関係を結んだ。成長して大人に近付き、純粋なだけではいられなくなてしまった今も彼との友情だけはまっさらで綺麗なもので変わりなかった。
だからこそ、彼という存在を失うことがヨハンは嫌なのだ。でもヨハンは予感している。
二人が大人になった時、お互いはお互いの存在を失うのだ。
「……なあ、ジューダイ。突然こんなことを聞いて悪いんだけど、もし君が……俺とどうしても殺し合わなければならなくなったとしたら……君は、どうする?」
そう恐る恐る尋ねるとジューダイはきょとんとした顔をして、心地よい手の動きを止めた。目が真ん丸になっている。何か聞き違いでもしたんじゃないかと疑っているらしい。
それから数度己の手の乗った頭とヨハンの瞳を見比べて、どうやら本気で質問しているようだとわかったらしい彼は真面目な顔をして「そうだね」、と思案するふうに人差し指を唇に添えた。
「君に殺されることを選ぶかもしれない。僕は痛いのはあまり好きではないけれど、友を手にかけるのはもっと好まない。それなら君に殺された方がいくらかましだ」
「……随分さらりととんでもないことを言うんだな。俺に殺してくれって言っているようなものだぞ、それは」
「そう、その通りだよ。もし寿命でも病死でもなく他殺が原因で死ぬのであれば君の手に掛かって死にたいかな。勿論そんなことにならないのが一番だけどね。……でも、」
でもという言葉の後に続くであろう言葉が彼の口から漏れることはなかった。ヨハンはジューダイを抱きすくめる。唇を服の中に埋めて先の言葉を塞いだ。聞きたくなかった。太陽のような彼から翳りの帯びた言葉を聞くことが憚られた。
ジューダイがヨハンの腕の中で息を呑む。
「死にたいだなんて冗談でもそんな言葉は君の口から聞かせないでくれよ。君は生きるべきだ。君のような人間が俺みたいなどうしようもない人間に殺されるなんてことがあっていいわけがない。……ジューダイ、もしその時が来て、俺が君を殺そうとしたら…………」
ヨハンは一呼吸置いて深呼吸をするとジューダイの耳元に口を寄せ、彼だけに聞こえるようにひっそりとその文字の並びを口にした。
「その前に俺を殺してくれ。君の手で」
湿っぽい吐息の感触にジューダイが瞬きをしてヨハンの顔を心配そうに見上げ、覗き込んでくる。男のくせに睫毛は長く整っていた。生娘のようだ。
――ずっと昔、本当に生娘であった彼を見たような気がするのは、何かの錯覚だろうか?
「……ヨハン、それは君が本心から望んでいることなのか?」
「ああ。本心で……そして本気だ。俺達が大人になった時、あの悪夢は事実になる。その時もし君が今俺の言ったことを覚えているのなら……約束だ、ジューダイ。頼んでもいいか?」
「……。ああ」
ジューダイはこくりと頷いた。
それが誓いの証で、約束の絆だ。
部屋の隅っこでユベルが苦々しい顔をしているのが目に入った。彼女は気付いている。ヨハンが取り付けた約束の重さを。彼女は知っている。ジューダイが優しい人間だということを。そしてヨハンが、その優しさに無遠慮に甘えられる人間だということを。
(嫌われても、仕方ないよなぁ)
いつかその時が来たらユベルに謝らなければいけない。そんなことをぼんやりと考えてヨハンは目を伏せった。温かい体温がいつか冷たく冷え切ってしまうのだろうということを考えると無性に空しく寂しかった。
ヨハンはまだ知らない、冷え切った大切な人の体を抱いた切なさというのはこんなふうなのだろうか。
どこかで触れたような気もするが、きっと気のせいだ。だってジューダイはまだ生きている。
◇◆◇◆◇
「ヨハン」
ジューダイはヨハンと向き合っている。否、それはもうジューダイの幼馴染にして一番の親友のヨハンではなかった。それは破滅の光という存在だ。
あの約束をしてから数年が経つ。危惧していた通りに悪夢は現実になった。結局二人は殺し合いを余儀なくされてしまっている。
「構わないのか」
覇王が静かな声で問いかけてきた。ジューダイはその問いを無言で肯定する。躊躇する理由はない。それがヨハンとの約束だった。誓約だ。
「構わない。彼はもう、意識を手放してしまっている。あの体を動かしているのは破滅の光だよ。君と対を成すものであって僕と対を成すものではない。彼はあの時言ったんだ。僕の手で殺せと」
「……そうか。ならば、俺はもう何も言わない。好きにすればいい」
「ありがとう。感謝するよ」
ジューダイは覇王から体の主導権を返して貰ってから剣を握る手に改めて力を込め直す。冷たい金属の感触が不快だ。己の手の中に命を奪い取るための道具がある。
「約束を守るよ、ヨハン。僕はこの手で君を殺そう。そして僕も、」
ヨハンを殺したらジューダイは程なくして死を迎える。覇王はそう言った。破滅の光と優しい闇は表裏一体、裏と表に連なった存在。だから片方が死ねば他方も長くは生きられないのだと。後追いで心中をするかのように息絶えてしまうのだと。
今までもそうだったから例外はないだろう。それが覇王の言葉だ。変わらず終わらず繰り返される予定調和なのだ。
「君の所へ行くよ。そういう運命だからね」
大嫌いな神様の、定めたくだらない運命なのだ。
でも今はほんの少しだけそれに感謝した。
「Deadend World」-Copyright(c) 倉田翠