17:雨上がりの街で
※ヨハ十要素皆無で二十明日全開です。苦手な方はいっそ飛ばされた方が良いかもしれません。
土実野町の一角にある小さな個人商店、「亀のゲーム屋」の前に一人の人間が立っていた。降り荒れている雨を気にも留めずその人物はしとどに濡れている。びしょびしょだ。いつもは上方に跳ねている茶色い髪もぐったりとしていた。まるで濡れ鼠のようだ。
「……どうしたの、こんなところで。帰って来て早々傘も差さないでびしょびしょに濡れている君を見付けることになるとは流石にボクも思わなかったなぁ」
「……ゆうぎ、さん……」
「こんなところで話すのもなんだし、うちにお入りよ。風邪ひかれちゃ困るし、その感じだと君は何か悩みがあってここに来たんだろう? ボクで良ければ相談に乗るよ。――ココアは好きかい?」
遊戯はにこりと笑う。その言葉に遊城十代は小さく頷いた。
「……ここに来れば、遊戯さんに会えるような気がしたんです。すみません。迷惑をかけるような真似をしてしまって……」
「いや、気にしてないからいいよ。久しぶりに可愛い後輩の顔も見れたことだし」
「……え?」
「そんなに不思議そうな顔しなくったっていいじゃない。君のことだよ、十代君。何年ぶりかな、君を最後に見たのは。卒業の時だから二年ぐらいかな?」
ボクの自慢なんだよー君は、と言って遊戯は十代の頭を撫でた。十代は実感がわかないのかきょとんとした顔をしている。代わりに、ひょこりと彼の影から出て来たハネクリボーが羽を広げ、嬉しそうに笑った。
「大きくなったね。なんだかお兄ちゃんになった気分だ」
「そんな……俺なんかに遊戯さんが、勿体ない……」
「もう、そういうこと言わないの。君はねえ、僕に対して腰が低すぎるよ。いっそ海馬君ぐらい尊大でもいいんじゃないかって思うね」
「そ、それは流石にどうかと思いますよ」
「ふふ、半分冗談で半分本気、かな。ああやっと笑ってくれたね、十代君」
武藤遊戯のライバルである海馬瀬人がどんな人物かを思い浮かべて十代は苦笑を浮かべた。テレビでKC社の社長としてメディア露出している姿しか殆ど見たことはないが、異様に尊大でまた自信に満ち溢れていたように思う。だがそれは海馬瀬人本人の実力と地位があってこそのものだ。十代にはとても真似出来るものではないしまたしたいとも思わない。
「……そういえば、遊戯さんは今もこの家に住んでいるんですね」
普段は旅に出て世界中をフラフラしているのだと昔双六に聞いたことがあるが、その割に部屋は生活感に満ちていた。枯れていない花、埃の少ない家具。机の上に散乱しているカード。少なくとも旅に出ていない時はこの家に帰ってきているのだろうということが伺える。
十代自身はというと、本気で根無し草だ。宿はその日の気分と運次第で野宿だってざらである。紛争地帯にふらっと赴いてみたこともあった。学生時代にアカデミア島で散々遭難した経験からそういう状況には強いのである。
自分の帰る家、というものはアカデミアを卒業して二年持ったことがなかった。実家とは疎遠な状態にあって入学式以来連絡を取っていない。十代にとっては長らくアカデミアのあのぼろいレッド寮が帰る場所だった。家を借りたって一人じゃ寂しいし滅多に居付かないから荒れさせてしまうだけだ。
ヨハンの家には比較的良く泊まるがそれでもやっぱりあの場所はヨハンの場所であって、決して十代の居場所ではないのだ。どこかよそよそしい。体の一部としては、馴染まない。あくまでも「他所のお家」なのだ。
「まあね。じーちゃんも母さんもいるし、ここには父さんも帰ってくる。ろくに働いてないからそもそも家を借りられるような身分じゃないしね」
「え、でも大会優勝の賞金とか結構あるんじゃないですか」
「全部家に入れたよ。ボクが出来ることってそのぐらいしかないし……前にね、一度海馬君がここに来たことがあってねぇ。あの時は面白かったな、『遊戯貴様、こんな狭苦しいところに住んでいるのか。俺の所有しているマンションを借りるがいい』なんて言ってアタッシュケースからパンフレットを取り出すんだ。ものすごい高そうなマンションでね、まあどうせタダで押し付けてくれるつもりだったんだろうけど断ったよ。この家を離れる気はないんだ。……もう一人のボクと過ごした日々は、この家にあるから」
「もう一人のボク」。武藤遊戯と体を共有していた「名もなきファラオ」の魂。武藤遊戯の写真のうち、ある一時期だけ妙に鋭い目付きの写真とあどけない童顔が写った写真が混在しているのは彼が二つの魂を宿していたからなのだという話はマニアの間では有名なものだ。しかしその奇妙な現象は彼が高校を卒業する頃になるとぱたりと止んでしまった。
彼は還ってしまったのだ。光の中へ――誰からとなく流れ出した噂だ。本当かどうかはわからない。目の前にいる本人に問い詰めるつもりはさらさらなかった。
「その様子じゃ、今の君は帰る家をあえて持たずに世界中を勝手気ままにぶらついているんだろうね。そしてそれを揺るがすようなことが起こったんだ。違うかな?」
「え、あ、はいっ。……その通りです。あ、でも別に嫌な話ではないんですよ。ただ、おこがましいなって。身の丈に釣り合ってない、分不相応な話で……」
遊戯の身の上話からするりと本題にスライドされ、戸惑いしどろもどろになりながらも十代は説明を始めた。事の発端は今月初め頃に土実野町で偶然明日香と出会ってしまったことだった。
覇王として大きすぎる力を持つ十代は高校を出てから旧知の友人達との交流を意図的に避けるようになっていた。真っ当な人でない自分が彼らの中に混じるということが何か異質なような気がして、逃げるように当てのない放浪を続けていた。二年はそれで何とかなっていた。
でも、その沈黙は遂に破られたのだった。
「高校の時同級生だった女の子にこの前ばったり再会して。……好きだって。ずっと、今も、好きなんだってそう言われたんです。どこにいるとも知れない俺を待つのには飽き飽きしたから帰る場所にならせて欲しいって。そう、言われて。――俺はもう、人間じゃない。化け物なのに。そんなふうに言われて……俺もう、どうしたらいいのか、わからなくて……」
言葉はなめらかには続かず、途切れ途切れになってどんどん小声になっていく。明日香のことは嫌いじゃない。だが、彼女には幸福が約束されているはずだという考えが根底にあった。自分なんかよりももっと相応しい相手がいるはずだと思っている。彼女が自分にそういう好意を向けてくれていたことは知っていたけれど、それは一過性のものだと、そう思っていたのだ。
「逃げたのかい?」
遊戯の剥き出しの質問に十代は黙って頷く。
「もう、わけがわからない。頭の中ぐちゃぐちゃで、ろくなこと考えられなかった。だから明日香には時間をくれって言って……気が付いたら、あそこでぼーっと突っ立ってた」
「そうか。……君は今、とても繊細な悩みを抱えているんだね」
弟が大人になっていくのを眺めるのってこういう気持ちなのかな。遊戯はそう言うと十代の頭を撫でた。
◇◆◇◆◇
「――十代。十代でしょう。驚いたわ、あなたに会えるとは思ってなかった」
気紛れに土実野町を訪れ、KC本社ビルを特にこれといった用もなく見上げていた十代の耳に入ったのは聞き知った女性の声だった。十代がよく聞いていた頃のものより若干だが低く、艶やかになっている。だが誰の声であるかは間違わない。明日香だ。天上院明日香の声。
ゆっくりと振り向くと薄手のカーディガンを羽織り長めのスカートに身を包んだ彼女の姿が目に入る。学生時代は特に気に留めたこともなかったがアカデミア本校の女子制服というものは妙に露出が多く、その制服をきっちりと着ていた彼女を見慣れていたものだったから保守的な服装というのが新鮮だった。丸っきり良いところのお嬢様といった感じだ。頓着しないものだから汚れてぼろぼろになる一方の高校の制服を未だに着続けている十代みたいな人種とは住む世界からして違っているような気がした。
「何年ぶりかしら、卒業して以来だからもう二年近くになるわね。……あなた、同窓会にもちっとも顔を出さないんだもの。本校生じゃないヨハンだって顔を出してるのよ、あなたも……ごめんなさい。そういう話をしたいわけではないのよ。……あのね、十代。この後何か用事があったりするかしら?」
「いや、ないけど。何か用か?」
「あなたにしたい話があるの。お風呂と夕食は用意するから私が借りてる部屋に来てくれないかしら。……駄目?」
そう言って小首を傾げる。この時十代はまだ、汚い恰好についてだとか卒業以来音信不通になっていることへの文句だとかを言われるものだとばかり思っていて、用があるわけでもないから軽い気持ちで彼女の言葉に頷いたのだった。別にデメリットはない。この段階ではまさかあんなにびっくりすることがあるとは思っていなかったのだ。
十代が了承すると明日香はほっとしたように息を吐いて「こっちよ」と十代の手を握った。どういった事情かは知らないが彼女は今この町に居を構えているらしい。確かまだカレッジの二年生だったはずではと思うが気にしても仕方ないので尋ねることはしない。聞かせたい話なら彼女から話してくれるだろう。
「この町に新しくアカデミアの分校が出来たから、そこでインターンをさせて貰っているのよ。所謂研修ね。その二ヶ月の間はこの町に住むことにしているの」
十代の表情の機微を読み取ったのか明日香がそう捕捉してくる。彼女は本当によく気が回る。
明日香にシャワールームに押し込まれ、更に手持ちの衣服も根こそぎ奪われた(そのまま洗濯機に放り込まれて電源を点けられた。全部洗ってくれるつもりのようだ)十代は大人しく体を清めることにした。そういえば最後にシャワーを浴びたのはもう何日も前のことだったような気がする。土実野町に来る前は発展途上の国だとかそういう地帯を回っていたから泉で体を流すぐらいのことしか出来ていなかったのだ。
浴場から上がってみると籠の中に男物の下着(新品)とシャツが入れてあった。誰のだろう、と邪推する。有り得ないがもし十代のためだとしたら手際が良すぎてそれはそれで怖い。
彼氏が出来ているのだとしたら自分なんぞ家に上げていいのだろうかと考えたがまあ兄である吹雪が押しかけてきてそして置いて行ったあたりが妥当なところだろうと見当を付けて有難く着させてもらう。シャツを着てみると隅に「10JOIN」の刺繍が入れてあった。案の定だ。あの人はこの刺繍を自分で縫ったのだろうか。
「……シャワー、サンキュー明日香。この服吹雪さんのか? あの人が刺繍を入れているところを想像したらちょっとシュールだったんだけど」
「その台詞、機会があったら兄さんに直接言ってくれないかしら。変なものを置いて行かれて迷惑しているのよ。……ちょっと待っててね、今エビフライを揚げているから」
「おー、マジで。何か悪いな」
「いいのよ。好きでやってることだもの。あなたの好物は何かしらって考えたらこれしか思い浮かばなかったのよね」
「基本的に何でも食うぜ、俺」
「私の気分の問題よ」
油の中に海老がぼとりと落とされて音を立て始める。キッチンから繋がったダイニングまで流れてくる揚げ物の匂い。何となく陣取ったソファからダイニングの方に体を曲げるとエプロンを付けた明日香の姿が目に入った。奇妙な心地だ。自分のためにエビフライを揚げている明日香が同棲している彼女か結婚した妻のように思えてこそばゆい。
(……ケッコン、ねぇ)
自分とはまるで無縁に思える文字の並びだった。誰か一人の女性を大切な人と定めてその人と生涯を連れ添うことを愛の元に誓う。むず痒い。そして訪れることのなさそうな未来だ。人間でなくなってしまった十代を伴侶にしたいなんていう変わった女性がこの地球上のどこかにいるようには十代には思えなかった。人は異質なものを恐れ忌み嫌う。そして十代は異質だ。
化け物だ。
いずれ明日香も結婚するのかなぁとぼんやりと考える。いつか見たレイの「恋する乙女」の姿が脳裏を過った。「ハッピー・マリッジ」を装備した花嫁姿の少女の精霊。あんな風な純白のドレスを明日香が着る。悪くない光景だなと思う。
十代自身、明日香のことを好ましく思っていることは否定しない。知っている女性の中では最も「好意」というものを寄せている相手になるだろう。だがそれは万丈目のようなストレートな感情ではない。ドレスを着た明日香は想像できても式服姿の自分が思い浮かべられないのと同様に「人並みの幸福を手に入れた自分」というのが想像出来そうになかった。
「お待たせ、出来たわ。冷凍の海老だし、トメさんの作ったものには及ばないと思うけど食べてちょうだい」
「トメさんのは別格だよ。あの人より美味いエビフライを揚げるのは高級レストランのシェフだって出来っこないさ。サンキュ、明日香。いろいろ気を遣わせちまって悪いな」
実際、明日香の作ったエビフライは申し分のない出来だった。エビフライは高校時代に十代が一番好きだった食べ物だったが、そういえば卒業してからはあまり食べていなかったということを思い出す。卒業してから知ったのだが「エビフライ」というのは日本で独自に発展した食べ物なので似たようなものはあってもそれそのものは諸外国には存在しないのだ。典型的な洋食のメニューだとばかり思っていたものだから外国ではエビフライが食べられないのだと知った時はそれなりに衝撃を受けたものだ。今はご覧の通り、食べられない状況に慣れてしまっていたが。
エビフライを食べている十代を明日香は満足そうに微笑んで眺めている。何か言いようもなく愛おしいものを眺めているような表情だった。笑みが柔らかい。
「どうしたんだよ? 明日香。俺そんなにがっついてるか?」
「エビフライを食べる時は昔からこんなものだったわよ、あなたは。エビフライにがっついてないあなたなんて想像も出来ないわね」
「……そ、そうか……?」
そうよ、自覚がないのね。そんなことをあっさりと言ってから明日香はやや思案するような顔を見せた。皿に盛ってあったエビフライはもう数尾程にまで減っている。あれ、もしかして明日香も食べたかったのかな、そう申し訳なく十代が思ってなんかいると予想外の言葉が明日香の口から付いて出てきた。
「あのね、十代。食事がそろそろ終わったみたいだから、私があなたにどうしてもしたい話をするわね。冗談は言わないからそのつもりで聞いて欲しいの。…………私、あなたのことが好きなのよ」
十代は一瞬己の耳を疑って箸を止めた。
「あなたがもしかしたらふらっと私の前に現れるかもしれないって、そういうふうに自分を慰めながら待っているのがこの二年辛かったわ」
「……明日、香?」
「あなたに今日会って、こうして向かい合って、顔を見て……私ね、思ったの。やっぱりあなたのことを諦められない。私からこんなことを言うのはおかしなことかもしれないけれど――結婚、ううん、そう大げさなものでなくったっていい。私のそばにいて欲しいの。もう、あなたがどこか知らないところへ行ってしまうのは嫌なのよ」
あまりに急な予測出来ていなかった流れに十代は箸を取り落した。エビフライだけは慌てて呑み込むことで落下を抑えたのは、我ながら上手くやったと思う。
◇◆◇◆◇
そのような顛末を話すと遊戯は何がおかしかったのだろうか、くすくすと笑って十代の手のひらを優しく握った。
「……そんなにおかしかったですか?」
「ちょっと、ね。ちょっとだけだよ。うーん、ボクも杏子に似たようなこと言われた時は面食らったもんだ。しかも君は自分のことがあまり好きではないものね」
「どういう意味ですか、それは」
「君は自分のことを化け物だと思っている節があるだろう?」
さっきも言ってたもんね。遊戯のその言葉には黙って頷く。
「……事実、ですから。俺はデュエルモンスターズの精霊と魂を分かちました。その気になれば背中から悪魔の翼を生やして飛ぶことも不可能ではないと思います。混じりっ気のない人間じゃない。――それはもう、化け物でしかないでしょう?」
「うん……それはどうだろうなぁ。ボクは一概にそうであるとは思わないけれど」
遊戯は口元こそ薄く笑んでいたものの、目はあまり笑ってはいなかった。優しいけれど真剣な眼差しだ。
「君みたいな純粋で綺麗な子が化け物だなんて、そんなことがあるわけないじゃないか」
そしてこともなげにそう言った。十代にとっては酷く衝撃的な言葉だった。
それは紛れもなく肯定の言葉だった。十代が二年とちょっと前に棄ててしまったものだ。そしてその一方でどこかで求めていた言葉でもあった。自分では棄てたくせに諦めきれていなかった言葉だった。
十代はなんだか泣きたくなってしまう。彼は意識していないだろうけれどいつだって、武藤遊戯という人は十代の求めているものを与えてくれるのだ。……その時の彼は、かつて己と体を共有していた魂――彼の言うところの「もう一人のボク」を失って久しかったがそれが如何程のことであったろう? 武藤遊戯はいつだって城遊十代の絶対的存在で、崇拝対象だった。いつまでも焦がれて背中を追い続けている。
「今……なんて……? 俺の聞き違い、ですよね?」
「あのねぇ。どうしてそう悲観的になるかなあ。だって君のどこが化け物だって言うんだい? 皆と少し違うから化け物? それっておかしくないかな。そしたら世界中余すことなく皆異質になっちゃうでしょ。……誰かと違うことを恐れることはないんだ。だってそうじゃなきゃ、皆画一的な既成品みたいになってしまうでしょう? ボクはそんな世界は嫌だな。海馬君も城之内君も杏子も漠良君も……もう一人のボクだって、きっとそう言うはずだよ。ちょっと変わってるぐらいで丁度いいんだ」
「遊戯……さん……」
「ボクは君のことが好きだよ。一生懸命頑張って、前を向いて走ってる。もし君が頑張りすぎて、その腕で誰かを傷付けてしまったのだと感じたらほんのちょっとでいい、足を止めてその人を抱き締めてごらん。怖がる必要はない。君は沢山の人に愛されていて、そしてまた君の愛も多くの人に受け入れて貰えるはずだ。走り続けていられることは君の美点ではあるけど、同時に欠点でもあるんだ。前しか向いていない君は過ぎ去った過去に置き忘れて来たものに大概の場合気付かないで行ってしまう。君は知っているかい? 君が大人になってしまった後も、君の仲間達は変わらない愛情を君に向けてくれているってことを」
遊戯は微笑む。十代は言葉を失ってその場に立ち尽くしてしまった。十代はユベルと融合して人の心の闇の深さを知った。闇の側面を見て人間という生き物をあらかた理解したかのような気持ちになっていた。けれど彼の前に立って、それがどんなに驕った思い込みに過ぎなかったのかを思い知らされる。武藤遊戯という存在はやっぱり偉大で、そして遊城十代にはとても思い至らない程遥か遠くを見知っている。
「君は、人間が嫌いかい?」
「……いえ。……いいえ……。好きです。どんなに愚かしくても前に進もうとする力を失わない。……俺はずっと、こんなふうになってしまった今でもまだ、愛すべき人間でいたい……」
「だから、ボク言ってるでしょ。君はどこにでもいる普通の子供だよ。親が居て友がいて、恩師、頼れる知人、それらを持っている。君は一度世界を計るものさしを捨ててみるといいよ。きっと世界が変わる。人間は愚かだけど賢くうつくしい生き物だって、そのことは、知ってるでしょ?」
だからねえ十代君、その女の子もね、ボクとおんなじふうに君のことを思っているんだよ。遊戯は柔らかい表情のままで尚も話を続ける。十代は呆けた顔を情けなく晒して言葉を失ってしまったままだ。言葉一つ一つが新鮮で十代の狭苦しい世界を崩して造り変えていくようだ。くだらない価値観が崩壊していく。
「見てくれが好きになったわけじゃないでしょ、彼女は。三年間ずっと見ていた君という人間の内面性をどうしようもなく愛おしく感じて、そして君を包んであげたいと思っているんだよ。放っておくとどこへ行ってしまうかも何をするかもわからなくて不安だから一緒にいたいって思うんだ。それが女性が男性を愛するってことなんだって。杏子の受け売りだけどね」
「……あ、杏子さんの……。それで、遊戯さんは?」
「まあボクはそれを聞いてもぶらぶらしてるダメな奴だけどね。君はそういうふうにおざなりにしないでちゃんと結論を付けなくちゃダメだよ。十代君、君自身は彼女のことをどう思っているの? 幸せにしてあげられる自信が、愛する自信があるかい? そこから先は、もうボクに口出し出来るところじゃないから黙っておくけど――自ずと答えは見えてくるんじゃないかな」
遊戯はこれで話はおしまい、と言う代わりに立ち上がって空っぽになった自分のマグと十代のマグを持って来た時に使ったトレイに載せた。十代も彼に倣って立ち上がる。窓の外をちらりと見てみると雨はもう止んでいるようだった。
「さて、この後はどうする? ご飯ぐらいは出してあげられるけど。宿がないんだったら泊まっていってもいいよ」
「いえ。遊戯さんのお宅に泊まらせていただくというのも魅力的な話なんですが、お暇させて貰います。……明日香のとこに行かないと。彼女はきっと答えを待ってるから」
「そうか、やっぱり君の中では答えが出てたんだね。……行ってらっしゃい、十代君。ボクはしばらくこの家にいるから、結果が出たら教えてくれないかな?」
「ええ。近い内に。――ありがとうございました」
明日香の家の場所は覚えている。土実野町の構造は、修学旅行でトラブルに巻き込まれた時に大体把握してしまっていた。彼女に会うことを躊躇う理由はもうない。後は確かめるだけだ。自分の素直な思いと、彼女の本気を。
相変わらずにこにこと笑っている遊戯に見送られて十代は「亀のゲーム屋」を飛び出して行った。
◇◆◇◆◇
「明日香」
彼女を捕まえて、十代は短く名前を呼んだ。明日香は驚きを禁じ得ないようで目を丸くしている。けれど驚愕しているだけではなく、表情には僅かな期待とそれから恐怖が混じり込んでいた。もしかしたら、という淡い希望と拒絶された時の痛みを想定しているのであろう恐れの感情。
「俺なりの答えを、見付けてきた。……君に伝えたい気持ちがある」
いくらか話をしてから唇を彼女の耳に近付けてその答えを囁くと、少し頬を染めた後ややあって明日香は静かに泣いた。十代は黙って彼女を両腕の中に抱く。
彼女が零した涙は喜びの涙だ。涙が十代の手のひらに付着する。温かい。その温度が十代のこれからを暗示しているかのように思えた。人間の温もりと幸福がそこにはあった。
<アイオーン・完>