19:これからの予兆、これまでの追想
「ただいまぁ、これ今日のお土産。ブルーアイズぬいぐるみとブルーアイズマウンテンコーヒーの豆ね」
「お帰りなさい、楽しかった?」
「ん。けど、疲れたー。もうくったくた。今日は風呂入って寝るよ。……あれ、父さんは?」
土産袋を机の上に置きながら十代がそう尋ねるとアキは黙ってテレビを点けた。七時のニュースが画面に映る。画面の右上に出ているテロップにはこう書かれていた。――「相模原のゼロ・リバース事件、KCモーメント開発研究局の不動博士により未遂に終わる」。
「マスコミの対応やなんかで忙しいから今日は帰れなそうだって、さっき電話を貰ったわ。お父さんに何か買ってきたの?」
「コーヒー豆だけね。あ、二個あるけど片っぽはジャックの分だから」
「高いのによく二個も買ってこれたわね」
「豆二つで六千円でしょ、交通費と食事代なら残りで何とかなるよ。ぬいぐるみはヨハンが買ってくれた。ブルーアイズがなんか可愛くて見てたら欲しいなーって思ってるのばれてたみたい」
「……でも付き合ってるわけじゃないのね?」
「そうだよ。ヨハンは友達なの!」
昼頃にキスされたけれど、あれは親愛の表現なのだと本人が言っていた。だったらそういうことだろう。大丈夫だ。遊城・アンデルセン家では普通のことなのだ。子供に寝る前にするお休みのキスみたいなものに違いない。
風呂を沸かすためのスイッチを入れてから十代はテレビの前に座り込んで画面に映る父と午前中に訪れ、そして慌てて立ち去った相模原モーメント施設を眺めた。あの時相模原で何が起きたのだろうかという疑問がまだ頭から離れないのだ。
『今日午前十一時頃、相模原にあるモーメント施設で小規模な爆発が発生、更にその後逆回転を起こしかけたものの正午頃に無事事態は解決し特に周辺への影響はないとの発表が関係当局から入りました。事件の原因は不明、あと少しで第二のゼロ・リバースとなるところだったという発表に近隣住民は困惑と安堵の声を上げています』
ニュースキャスターがそう言うと画面がスタジオから住宅街のものに切り替わった。現地のキャスターが道行く住民達にマイクを向け、意見を求めている。
『全く知らなかったです。え、ゼロ・リバースになるかもしれなかった? やだ、怖いわ』
ベビーカーをひいた主婦がカメラに向かってそんなことを言った。口端では怖いなどと言っているが殆ど対岸の火事と同じような態度だ。この女性はゼロ・リバースの恐ろしさをあまりよく理解していないに違いない。
でもそれは仕方ないことだ。ゼロ・リバースに実際に遭った世代は十代の父である遊星がぎりぎり最後ぐらいのもので、それ以降に生まれ、特にシティで育った人間にはあまり馴染みがないものなのだ。社会の授業で「とても恐ろしくおぞましい事件だった。今世紀最大の悲劇だ」というふうに習いはするがそれだけである。過去に起きた惨劇というだけで十代にはあまり実感がない。それは画面の向こうの女性にとっても同じことのはずだ。
それでも十代はまだ馴染みがある方だった。父遊星は幼い頃からごくたまに、思い出したようにぽつりとゼロ・リバースの話をすることがあったからだ。父は当時爆心地にいた人間の中での唯一の生き残りなのだという。まだ生まれて間もない赤ん坊であった父は一号機モーメントの開発研究主任であった十代の祖父にカプセルに入れられて爆心地から極力遠ざけられ、一命を取り留めた。両親を失い孤児となった父は同じようにゼロ・リバースで親を失った子供達と孤児院で育ち、スラムと化しサテライトの名で呼ばれるようになったその場所で理不尽な抑圧と差別に晒されて育ったのだそうだ。
生活基盤が根本から瓦解したサテライトの住民は一号機モーメントから遠く事件の被害を殆ど受けなかったシティの人間から徹底的な差別を受けた。父の左頬にある犯罪者の印、黄色のマーカーはサテライトからシティへと脱した罪として焼き付けられたものなのだという。父はその話をした時にこう言った。理不尽に思える話だが、それが己の罪なのだと。モーメントシステムを制御仕切れなかった不動博士の息子として当然の報いなのだと。
テレビにはもう女性の姿は映っておらず、映像はスタジオの女性キャスターに戻っていた。キャスターの背景には参考映像として衛星から記録されていた四十年前のゼロ・リバースの光景が映し出されている。これが今日相模原で起きていたかもしれなかったことなのだ。ぴんとこなかったが、けれどひんやりとした汗が十代の頬を伝った。
十代とヨハンが相模原モーメント施設の、しかもモーメント・ルームに侵入したのは午前十一時半前後のことになる。言うまでもないが「ゼロ・リバースが起きかけていた」丁度その時刻だ。きんきんと甲高い耳鳴りの音はまだ十代の耳の中にしっかりと残っていた。今思えばあれはモーメント機関が逆周りに回転をしかけていたことによって起こっていた正真正銘の異常だったのだ。まぶしい白一色の光も溢れ出した「マイナスエネルギー」とかいう奴に違いない。キャスターの奥で流れる映像は酷くまぶしい光にビルや建物が覆い尽くされ、次の瞬間崩壊し地盤沈下を起こしたところで止まった。
今更のように、認識が追い付いてくる。十代とヨハンが生きているのは本当に幸運なことなのだと自覚する。二人は爆心地も爆心地の、モーメント機関の目の前にいたのだ。今回は何とか未遂で終わったらしいが、あのままもしゼロ・リバースが起こっていたらと思うとぞっとする。多分二人とも死んでいたはずだ。
『この件について当局の不動博士が行った記者会見では以下のようなコメントが為されました』
キャスターの言葉の後、画面に見慣れた父の姿が映った。マイクがたくさん置かれた机に向かって立っている。KCの社員である証のロゴが入った白衣はややよれていて、激務と疲労を物語っていた。
『午前十一時頃、相模原の施設担当者から開発局に原因不明の爆発事故が起きたため全所員を避難させたとの通達が入りました。それを受けて念のためにこちらから許可を取りモニタリング・コントロールを試みていたところ、午前十一時半頃に制御不能に陥りゼロ・リバースの兆候を確認。それから三十分程制御を試み、正午過ぎに完全掌握に成功し相模原モーメントは通常運転状態に復帰しました。これによる甚大な被害や影響はありません』
『ゼロ・リバース程の緊急事態に瀕することになった原因はなんですか?』
『不明です。今のところ施設を統括するマザー・コンピューターの何らかの影響による不調が有力説となっていますがはっきりとお答えすることは出来ません』
『何故開発局からの遠隔操作が可能だったのですか? 全モーメント施設は独立運行をしているということになっているはずですが……』
『該当施設が旧型機を採用していることを理由に先日こちらから遠隔監視を申し出ました。相模原施設とネオドミノに存在するもの以外のモーメント機関は各施設に運行が委ねられています』
『近隣住民に警報を出さなかったことに何か意図は』
『ありません。全所員総出で制御に当たっていたためその余裕が取れなかったのが原因です。説明もなく住民の皆様を危険に晒してしまったことに関して深くお詫び申し上げます』
父が画面の向こうで深々と頭を下げるのをぼんやりと見ながら十代は原因不明の爆発は自分が人為的に起こしたものだと暴露したら一体どうなってしまうのかと考えてみた。数秒でとんでもないことになりそうだという結論が出たので十代は考えることを止めた。父も、よもや娘がテロ紛いのことをしていてあまつさえ事件当時にモーメントの目の前に立っていただなんて夢にも思うまい。
風呂から出て、ベッドに潜り込んで十代は今日のことを考えた。午前中は散々だった。途中まではワクワクドキドキしていたけどヨハンが倒れてからはそんな余裕なんてなかった。ヨハンが目を覚ました時は本当に安心して、飛び上がるぐらいに嬉しかった。彼を失うことになってしまったら取り返しのつかないことになるところだったのだ。
二人でなんとかシティに帰る道を見付け、海馬ランドに辿り付いた頃には時刻は二時を回っていた。あんな事件の後だというのに腹の減り具合は正直で、とりあえず園内のレストランで食事を取ることにした。
「なあ、ヨハン。大丈夫か? どっか痛んだり変なとこないか?」
「心配要らない。この通りぴんぴんしてる」
そう言ってヨハンはにこにこしながら十代が食事をするのを眺めている。ヨハンの食事はまだ手が付けられていなかった。いつもは真っ先に食べ出すのに、おかしなこともあるものだ。
「食べねぇの? ヨハンらしくもない」
「食べるよ。ちょっと十代に見惚れてただけだ」
「……やっぱ変だ。あの時本当は頭でも打ってたんじゃないか」
「平気だって。でもまあそうだなぁ、冷める前に食べないとな」
十代がなおもいぶかしむようにじとりと見ているとヨハンはフォークを取ってスパゲッティを食べ出す。そういえばこのチョイスもいつもと違うといえばそうだった。おんなじスパゲッティでもヨハンはトマトソースを好むのにこの時食べていたのはバジリコだった。
その後土産物屋を物色して、時間が余ったのでいくつかアトラクションに乗る。その間ヨハンはあまりはしゃがなかった。別にヨハンがいつも子供のようにはしゃいでいたとかそういうことはないけれど、普段の――少なくともこの一ヶ月と少しの間見てきたヨハンとは何となく違うような気がした。同じヨハンのはずなのに別の人間みたいだ。
「……なーんて、そんなわけないよな。だってヨハンはヨハンだもん。見た目が一緒で、しかもずっと一緒にいたのに中身が別の人間になっちゃうなんて有り得ない。朝は普通だったし。思い違いか、ちょっと疲れてたか、そのどっちかだよな」
買ってもらった青眼の白龍のデフォルメ人形を抱き締めてそう尋ねるとぬいぐるみのブルーアイズの上にちょこんとハネクリボーが乗ってきてさあ、どうかなというふうに羽を広げる。その姿が思いの他可愛らしく、十代はハネクリボーをよしよしと撫でた。
「なんだよハネクリボー。相鎚打ってくれんのか?」
『クリー、クリクリィ』
「あはは、可愛いやつ」
くすくす笑うと、その声を聞き付けてかサイ・ガールやA・O・Jサイクロン・クリエイタ−、それからA・O・Jクラウソラスらのモンスター達が半透明な精霊の姿で出てくる。十代はハネクリボーをぬいぐるみごと体の方に抱き寄せてから彼らの頭も労うように撫でた。
「そういや、どたばたしててまだお礼も言ってなかったなぁ。今日はみんなお疲れさん。ありがとう、すごく助かった。また必要な時が来たら力を貸してくれな!」
精霊達が嬉しそうに頷く。しかしハネクリボーは十代の腕の中でA・O・Jモンスター達をやはりじっとりとした目で見ていた。この小さな精霊はどこまでも機械仕掛けの正義のモンスター達が気に食わないのだ。
◇◆◇◆◇
十代がすっかり眠りに落ちた頃、部屋の中では二人の精霊が溜め息を吐いて会話をしていた。片方は光属性、天使族の十代のマスコットモンスターハネクリボー。そしてもう片方は闇属性悪魔族の精霊――ユベルだ。
『あーあ、まただよ。めんどくさいことになってきた』
『くりぃ』
『そりゃ十代のためだってわかってはいるけどさぁ。どうして僕は十代の意識が完全に落ちてる時しか出てこないって約束しちゃったのかなぁ? 見て御覧よ、案の定じゃないか。だから僕はあのフリルが嫌いなんだよ』
『く、クリ。クリクリ』
『まああいつのことはなんだって嫌いだけどね。いけ好かないよまったく。壊滅的に相性が悪いんだ。君とA・O・Jシリーズみたいなものさ、ハネクリボー。生理的に受付けない。そういうふうに出来てるのさ。なんであいつはあんなにきらきらと無駄に輝く瞳をしているわけ? 気持ち悪くて仕方ないんだけど』
ユベルが理不尽なまでにヨハンを批判する。あの、二つ前の時代の頃からユベルはヨハンのことが嫌いだった。憎んでいると言っても差し仕えない位だ。ヨハンという男はどんな時も無条件に十代の信頼と愛情を奪い取っていく変な奴だった。あのフリル男! ユベルは顔を歪ませる。
『十代はあんなに信頼しているのにあいつときたら、最後は裏切るんだよ。まあ覇王に殺されるんだけどさ。それでも全然足りない。忌々しいことにあいつが死んだら十代も死んでしまうんだもの。あんな奴のために十代が死ななきゃならないだなんて信じられないよ。どうしてそんなことになるの?』
『……クリィ……』
ユベルが語気を荒らげる。彼女は怒っていた。ヨハンが、破滅の光が許せない。そして破滅の光がそばに迫っているとわかっているのに何も出来ない自分の役立たずさに失望している。結局また何も出来ずにむざむざと十代の死を見看ることになるのだろうか? そう考えると腹立たしかった。
『百年前は、覇王が先に起きてたから良かったけどさ。今度はあっちの方が早かった。今の十代はただの女の子だ。しかもヨハンに恋しかけてる。むかつくよ。最悪だ。ああもう、あいつが襲いに来たら僕もうちょっと、百年前にした約束を守れる気がしないよ。どうせもう向こうは目を覚ましてるんだし十代の中の覇王が起きてしまってもそれってしょうがないことだと思わないかい?!』
『……クリクリ。クリ』
『あのねえ、僕に怒るなって言う方が無理だよ。僕は誰よりも十代のことが心配で誰よりもあいつのことが嫌いなんだ。あのフリル。胸糞悪いよ。仕方なく嫌がらせに体を乗っ取ってみたりしたけどフリルのくせにものすごい筋肉付いてたし。わけわかんない』
『クリクリクリ。クリ』
『それにレインボー・ドラゴン。あいつも嫌いだ。闇に染めてやった時もさ、何にも言いやしないんだ。人形か張りぼてなんじゃないかい、あのドラゴン。――ああ、苛々する。こんなにむかつくのはいつぶりだろうね』
ユベルがそうぼやくとハネクリボーはクリクリと小さく鳴いてある事件のことを指した。それにユベルもああそうだねと顔を歪ませて同意する。
『あったねぇそんなこと。全く、僕の十代を誘拐しようなんて馬鹿な奴だよ。ヨハンとレインボー・ドラゴンの次に嫌いだね、ああいう頭の悪い連中』
ユベルははっ、と嘲るような声を出した。何があろうとヨハンより嫌いなものはない彼女だが、幼い十代を誘拐するという暴挙に出たあの時の犯人達への怒りはまだ消えてはいないし、今でも大嫌いだ。
◇◆◇◆◇
今から九年前、まだ十代が七歳の少女だった時の話だ。
「この少女が不動博士の娘か」
「ああ。間違いない。不動十代――不動遊星と十六夜お嬢様の娘だよ。今年で七歳になるらしい」
「妙なこと考えてんなよペド野郎。俺はアルカディア・ム−ヴメント復興のためにこの子を利用するのは仕方ないと思って割り切っているが、この子の安全を脅かすことは許せねぇ。まだ七つの子供だ。復活の威厳と身代金は必要だがそういう方法を使ってまで不動遊星に見せ付ける必要性は感じない。俺にも同じぐらいの娘がいるんだ。確かにディヴァイン総統を殺した奴は憎いがそれとこれとは別の話だ。それにそんなことになったら十六夜様も傷付かれる」
「ふん、マジではやらないさ。後腐れが残る……」
「本気でやろうとしたら俺のジェネティック・ワーウルフが実体化するからな」
「だから冗談だっての。ったくおっかねぇな」
「全ての親の気持ちだよ。お前は信用ならないしな」
黒服を着た怪しい男達の前で幼い十代は昏睡していた。目隠しをして、後手に腕を縛られている。幼い子供にする仕打ちではないが、男達は犯罪者でまた十代の持つサイコ・デュエリストとしての能力を警戒していた。かつてアルカディア・ムーヴメントに所属していたあらゆる能力者の中でも特に抜きん出た素質を持っていた十六夜アキの娘だ。どれ程恐ろしい能力を秘めているのかわからない。
クロロホルムで無理矢理意識を奪われた少女を自動車の後部座席に寝かし付け、二人組みの男達は目的地に向かって車を走らせる。紛うことなき誘拐だった。新生アルカディア・ムーヴメントを興すために彼女が必要なのだ。
十三年前に本部ビルを何者かに急襲され、瓦解したサイコ・デュエリストの楽園を目指す組織アルカディア・ムーヴメント。本部急襲で多くの構成員はセキュリティに確保されてしまったが、一時期行方不明になってしまっていた総統のディヴァイン含め数十人がその直後に集結し地下組織を興していた。組織の有力な能力者でディヴァインのお気に入りであった十六夜アキを取り戻すことがまず第一に組織が企てたことだった。不動遊星とかいう青年に絆されてあの高潔な魔女の仮面を棄ててしまったのだという情報にディヴァインを始めとした組織の面々は憤りを感じていた。
「彼女は我々に必要不可欠な人材です。居場所はここだということを私が思い出させてみせる」
そう言って、不動遊星からの彼女の奪還にはディヴァイン自らが単独で赴いた。だが彼が帰って来ることはついになかったのだ。
「不動遊星に総統は殺された」
誰からともなく、組織ではそういう声が持ち上がった。あの総統が一介の青年に殺された。その衝撃は大きかった。
そこからは、組織にとって長く辛い年月が続いた。
やがてサテライトとシティが統一され、WRGPが開幕し、謎の巨大な飛行体がシティ上空に接近し……多くの事件の最中で不動遊星の名は耳に入って来た。学生の有志による十六夜アキの動向調査も続いていたが、そこでも不動遊星の存在がちらついた。凍て付くように鋭い一輪の薔薇の花のようだった十六夜アキはいつの間にか不動遊星の仲間になっていて、そこにかつてのような高潔さや孤高さは最早なかった。だが、ディヴァインを殺す実力を持ちその上世界の危機を救って英雄とまで呼ばれるようになった不動遊星に誰が立ち向かえよう? 十六夜アキの一件は痛ましかったが組織は地下に潜り続けた。
それから更に数年経ち、気が付けば不動遊星はあの大企業海馬コーポレーションの一研究部門を任される主任となっていた。組織は少しずつ力を蓄えていたがだとしてもどうにか出来る相手ではなかった。彼には弱味と言えるものがなかったのだ。そうこうしているうちに不動遊星は十六夜アキと結婚した。一部の構成員は泣いた。
この時点で地下組織発足から実に六年あまりが経過していた。
そしてそれから更に七年経った今、ようやく不動遊星にとって唯一明白に弱味であると言えるものを手に入れることに成功したのだ。娘である。個々が高い能力と豊富なコネクションを持ち、人質としてはまるで機能しない不動遊星の身内と言える関係者の中で彼女だけはそうではなかった。幼い少女は親に庇護されるのが当然の弱い生き物だ。自己防衛の手段など殆どない。
だがしかし、それでも構成員達は辛抱強く耐えた。幼過ぎる彼女は常に保護者の目の元に監視され保護されている。その状態では誘拐などままならない。だから彼女がジュニアスクールに通うようになって初めて具体的な案が提案された。ジュニアスクールに進学した彼女は時折一人だけで帰路に着くことがあったからだ。
作戦は慎重に慎重を期され、そして今日やっと実行に移された。今のところは成功している。
「ともかく資金を手に入れられさえすればそれでいい。不動遊星相手にあまり危険な橋は渡りたくない」
「それに関しては同意する。まあ、大事な娘のためだ。命がかかっているとなれば数億ぐらいは支払うだろうよ。海馬コーポレーションの主席研究員様にははした金だろう、その程度」
「はっ……気に食わねぇ話だ」
到着した使い捨ての家屋の前に車を停め、未だ目を覚ます兆しのない十代を丁重に車から降ろす。そのまま家屋の中に彼女を運び入れると予め用意してあったベッドの上に寝かせた。薬は当分切れないだろう。本当によく眠っている。
「お前は電子バリケードシステムを作動させてチェックをしろ。それとこの子にあまり近付くな。万が一のことがあってからじゃ遅いしな」
「へいへい。元々俺が選ばれたのはメカ関係の腕を買われてのことだしな。仕事はするし本物の子供を襲ったりはしないからそう警戒するなっての。頭ン中で十分だ」
「……それはそれで可哀想だがまあ妥協所だな。とにかくバリケードの方は任せたからな」
あのメカニックの天才、不動遊星を相手にするということで万が一場所が割れた時の立て籠もり用にバリケードシステムには相当な気を使った。単純にしてシンプルなものを採用し、指紋音声網膜の三点が揃わない限りバリケードが解除されないようにしてある。停電でも起これば話は別だが、電力供給設備がモーメントに切り変わってからは停電など一度も起こっていない。そう都合よく停電なんぞ起こりはしないだろう。
「不動博士の娘は預かった。身代金を用意しろ」。そんな旨の脅迫電話が海馬コーポレーションに掛かってきたことでモーメント開発研究局は大騒ぎになっていた。だが当の不動博士本人はというと、連日の無茶なスケジュールによる疲労で寝潰れている。彼は一週間不眠不休でプロジェクトを指示し、つい数時間前にやっと睡眠を得ることが出来たのだ。研究員達でさえ交代で眠っていたというのに全く恐ろしい話である。
「チーフの耳にこの話を入れたら、あの人のことだから絶対に飛び起きてまた体を酷使するに違いない。だけど今チーフにそんなことをさせたら良くて体調失調による入院、悪くて長期療養だ。今は休ませておきたい」
所内ではそのように話がまとまり、休憩に入っている所員達だけでその件に当たることになった。天才の中の天才であるような不動遊星程ではなくともこの部署に属する所員は誰もが相当な才能と実力の持ち主だ。全員が能力を集結させれば下手にセキュリティ頼みにするよりも効率よく捜査が進む。
「電話履歴から発信地の逆探知完了した。シティ外れの六十八番地区だ。誰かコネのある奴セキュリティに手を回して出動させろ。公衆電話からだから案外近くに潜伏しているかもしれない。この手のことをやらかす奴は大概馬鹿だからな」
「もう手配した。不動博士の名前を出したら狭霧セキュリティ長官と牛男実動部隊長が出てきたけど、チーフって何者なんだ?」
「英雄だよ。ちょっと体を張り過ぎるきらいがあるけどただの善良なネオドミノ市民にとっての英雄さ」
「今更だけどすごい人の下で働いてるよな俺等……おっ、今該当地区の実動部隊が出たってさ」
「身代金要求ってことは手荒に扱われてることはないだろうし……チーフを気苦労で半殺しにする前に片を付けてしまいたいな」
一人がそんなことを漏らすと、全所員がそれに同意した。
対応が早過ぎる。バリケードの調整を担当していた男は心中で悪態をついた。身代金要求の電話をしてから一時間も経っていない。だというのに、建物は既に多くのセキュリティに包囲されている。
投降を呼び掛けるセキュリティの声に舌打ちをし、男はどうすべきかを考える。予想外の早さであったことは確かだが、想定していなかったことではない。こうなったら身代金を諦めて逃げるが勝ちだ。今組織の足をセキュリティに掴ませるのは得策ではない。一度処断された前例があるからだ。
「おい! 逃げるぞ、ガキを置いて準備をしろ!」
無線装置越しに相方に声をかけるが、反応がない。男はまた舌打ちをする。何をやっているんだ、あいつは。
階段を駆け上って相方の男が少女を監視しているはずの部屋へ向かう。建物の外から聞こえてくるパトカーや白バイのサイレンが五月蠅い。突入部隊がバリケード突破を試みているのが階段の窓から見えた。だが無駄だ。そんじょそこらの手段ではこのバリケードは解除出来ない。物理突破などもってのほかである。
「――ったく、何をやってんだお前は!」
苛立ちから荒々しくドアを開け放してそう叫ぶ。相方の男に文句に一つでも言ってやらなければ気が済まない。だが、そこで男が見たのは想像してもいなかった光景だった。
「……なに。君もこいつの仲間なわけ? 僕の十代を誘拐した見の程知らずの馬鹿なんだね?」
「な? あ、は……」
「なんて馬鹿そうな顔。ああ、こんな奴が十代の体に触れることを許すなんて僕としたことが……!」
攫ってきた少女が何故か拘束を解いて部屋の中央に堂々と立っていた。監視をしていたはずの相方は床に倒れている。遠目で気絶していることが分かった。表情が悪夢を見た子供のように歪んでいる。
「お前……何者だ……」
男は絶望的な声で呻いた。有り得ない。こんなことは想定していなかった。この少女は何の能力も持たないただの「不動遊星の弱味」でしかなかったはずだ。サイコ・デュエリストとしての能力だけは警戒していたがこの建物の中にデュエルディスクは男が持っている一台しかない。一応警戒して、監視の相方にはディスクを持たせなかったのだ。何かの弾みに少女の手に渡ってしまうと厄介だったから。
だというのに、そこまで万全を尽くしたにも関わらず
相方は気絶している。一体この少女が何をしたというのだ?
振り返り、男の方に少女が歩いてくる。少女の瞳は左右でちぐはぐの、オレンジと黄緑に妖しく光っていた。こんな目をした人間がいるだろうか。未だかつて聞いたこともない。
「ああ、最悪。本ッ当――最悪。大事な大事な十代が危うく酷い目に遭うところだったなんて有り得ないよ。ねえ、そこのお前。とりあえず目障りだから消えてくれないかな」
少女の人ならざる瞳がかっ、と輝く。あどけない声で紡がれる死刑宣告は酷く場違いな響きを持っていた。目の前に立っているのは確かに今日攫ってきた七歳の少女だ。調べではよく笑う無邪気で純粋な子供だということだったはずだ。なのに今彼女は少女らしからぬ口調で悪態をつき、あまつさえ男に消えろと言っている。
男は本能的な恐怖を少女に対して覚えた。死がぞわりと背後に忍び寄ってくる。怖い。恐ろしい。この得体の知れない子供が心底恐ろしい。
「ひっ――!!」
本能が促すままにデュエルディスクを装着し、震える手でカードをディスクに叩きつけて実体化させた。「カオス・ソーサラー」のカードだ。実体化した混沌の妖術師が主の命じるまま手から黒い波動を生み出し、少女に向かって放つ。人質を傷付けてはいけないだとかそういうことを考えている余裕などなかった。この異質なものを一刻も早く排除せねば安寧はないのだ。
「ナイトメア・ペイン。ふん、やっぱり馬鹿だね」
だがその攻撃が少女に当たることはなかった。それどころか、少女に当たる前に何か不可視の壁にぶつかったかのように軌道を百八十度変更して男と妖術師目掛けて一直線に返ってくる。男がああ、と掠れた声を出した瞬間カオス・ソーサラーは爆散した。攻撃から身を守る盾はもうない。
「別に死にやしないよ。それに大怪我したって自業自得。僕の能力は悪意を均等に、平等に、跳ね返すだけのものだからね。お前が攻撃なんかするから悪いんだよ? まあ、攻撃しなかったとしたらここに伸びてる男みたいに散々な悪夢を見せられて失神することになっただろうけど。ある意味こっちの方が幸せなんじゃないかい?」
腹にカオス・ソーサラーの攻撃が直撃し朦朧としている意識の中で、男はそんな声を聞いた。ぼやけた視界の中に大きく広がった悪魔の翼が見える。そうか、あの少女は悪魔だったのか。なんてことだ。間際にそう納得して男は気絶した。次に目を覚ましたのは警察署の中だった。
「え、あれ、起きたんですか、チーフ。おはようございます。あの、今ちょっとばたばたしてますけど別に変わったこととかはありませんから……って、どこに行くんですかチーフ!!」
「夢を見た。フォーチューン二号の運転を今すぐ停止する」
「は? 何を言っているんですか。今フォーチューン二号を落としたら大規模停電が起きますよ。駄目です。戻ってください」
「……娘が……」
「へ?」
娘、という言葉が遊星の口から漏れたことに反応してびくりと所員の肩が震える。だが遊星はそれに構うことなく一直線にコントロールパネルの方に向かって行った。寝起きだからか足取りが覚束ない様子だ。当然である。一週間起き続けだったところにやっと睡眠を取ることが出来て、しかもまだほんの六時間しか寝ていないのだ。
そんなことを所員の一人が思っている内に、遊星は彼の横を通り過ぎて前へ進んでいく。わらわらと集まってくる所員達の制止を振り切って遊星はコントロールパネルに到達すると何の躊躇いもなく彼しか知らない暗証番号を入力しネオドミノの全モーメントをコントロールする制御装置を起動させた。無言で高速タイピングを始める。何か命令を打ち込んでいるらしい。
「……娘が、危ない、という夢を見た。要は大規模停電が起きなければいいんだろう? 二号に割り当てられている区域を一時的に他の四台でまかなう。一時間は持つ」
「た、確かに理論上はそうかもしれませんがそれにしたって無理が……大体どうして急にそんなことを」
「理論を実践出来ない奴は科学者じゃない。……フォーチューン二号運行停止した。一時間後に自動復旧する」
「何言ってるのかわからな、って早いですチーフ! ああもう!!」
所員があああ、と頭を抱える。勝手に運行状況を大幅にいじったことでシティのお偉いさんから文句を言われるのは必須だ。どうしてそんな面倒なことを、ただでさえ忙しいのに、そんなことをぐるぐると巡らせていると思いがけない方向から所員に向けて声が飛んできた。
「副主任! 現場から通信です。たった今停電によりバリケードが無力化したため突入部隊が突入に成功、十代ちゃんを無事確保とのこと。十代ちゃんに怪我などは見られず犯人とみられる男二人は床に倒れて気絶していたそうです。原因は不明――」
「……なんだって?」
予想外の展開に驚いて遊星の方を振り向くと、まだ寝足りなかったようで遊星はシステムコンソールに突っ伏して寝ていた。本当にこの人は何者なのだと副主任の男は呟く。
「やることだけやって無意識に娘を助けてまた寝るとは……やっぱりチーフは我々とは次元が違う」
とりあえずこの人をもう一度ベッドに連れ戻さないと、と考えてから副主任は手すきの部下数人に指示して遊星をコンソールから引きはがした。
◇◆◇◆◇
『あいつらは本当にどうしようもない馬鹿だった。救いようがない。どうしたらあんな、愚の骨頂みたいなことが出来るんだろうね』
『くーり。クリ』
『ま、今はそんな昔のことはどうでもいいけど。問題はヨハンだよ。ああ、自由に動けたら今すぐあいつ葬り去ってやるのに』
『くりぃ……』
『過激で結構。十代を守るためならなんだってやるさ。そのためにこの身体になったんだから』
月明かりに照らされ、顔の半分を濃い影に沈めながらユベルはそうハネクリボーに答えた。ばさりと羽根が広がり爪が明かりを受けて光る。ハネクリボーは何か言おうとしたが、ユベルの横顔を見てそれを止めた。
ユベルの顔は毒を吐くような苦々しい表情に染まっていた。眉はきつく顰められ、青白い唇を噛み締めている。細められた両目と対比するかのように額の目がぎょろりと動いた。感情がダイレクトに表れている。
『破滅の光なんて大嫌いだよ。僕の十代を、王子を、いつもあいつは攫って行くんだ。あの馬鹿な人攫い達からは簡単に取り返せたけど、破滅の光は地の果てまで、死の向こうまでずるずると引きずっていってしまう。僕の手の届かない場所まで。そうして連れ去った後、二人は一緒に同じ場所にいるんだ。そう思うとすごく腹立たしい。死という形で、あいつはいっつも最後に十代を独占してしまうんだよ』
ユベルが心底憎々しげに言った。
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