20:憂いの波紋
「十代を傷付けたら」
ヨハンが厳しい語調で、腕を組み眉を攣りあげる。
「絶対に許さない。この変態」
「……やらないって。お前がめんどくさいからな。十代が『ヨハン』に夢中になるってのはお前にとっても不都合なくいい話だと思うんだけどそれでも駄目なのか?」
「十代も俺もまだ十五歳なんだよ。なんてこと考えてるんだ」
「お前が嫌がるからわざわざ考慮して唇は外してやったじゃないか」
「不意を突いて女の子の大事なファーストキスを奪うなんてまっとうな男のやることじゃない! 卑怯だしお前は変態だ!!」
「几帳面だなー、本当に面倒臭い奴だ」
破滅の光は肩を竦めて目を細め、だるそうにそう呟いた。
破滅の光、とかいうよくわからないものがヨハンの体を乗っ取ってしまってから数日が経つ。自分が体の主導権を握っていない、つまり体を動かすために神経を使わなくてもいいのをいいことに、ことあるごとに文句を言うのが最近のヨハンの日課だった。どうせヨハンがどれだけ喚いたところで外には漏れやしないのだ。ヨハンの声は魂の奥の方で反響するばかりだから破滅の光にしか聞こえない。律儀に返事を返してくる破滅の光の声もそうだ。二人の会話は魂の中で行われているのだ。便利なのか不便なのかわからないが。
いつどんな時でも、授業中だろうがお構いなしに声を上げるためついには「もう大人しく寝てればいいのに。歴代みたいにねじ伏せてやろうかお前」などと言わしめさせてしまったヨハンだが言葉とは裏腹に破滅の光がヨハンの意思を押し止めようとすることはなかった。野放しにされている。不思議に思って「ほっといてもいいのかよ。邪魔なんだろ、俺」と尋ねると破滅の光は数式を解きながら「別に」と言った。
「あいつが寝てる間はお前っていうものさしがあった方が便利なんだよな。何せ俺が体験したことのない環境だ。この体での常識っていうのがいま一つ掴み切れてない。あと退屈しないし」
「退屈って……そういう問題なのか」
「んー。今はいい。それにお前が完全に引っ込んじまったらお前に擬態出来なくなる。においが変わっちゃうんだよなぁ」
「におい?」
「十代にばれて覇王が出てきちゃうかもしれない。何千年も血生臭いことやってきてやっと手に入れた機会なんだ。茶番でもいいからもう少しのんびりしてたいんだよ」
「遊城は大問三。不動は大問四……」数学教師が板書をするようにヨハンを当てたので、頭の中で会話を続けながらも彼は立ち上がった。ずっとヨハンと話をしていたくせにノートには該当箇所がしっかり解いてある。話しながら数学を解くなんて器用な奴だと素直に感心していると「お前がちゃんとやってたからだよ、ヨハン」と褒められた。
「それにな、お前も見ただろ? やんごとなき身分だった頃は三人ぐらいと一気に話をしなきゃならない時もあったからな」
「ああ……でもそれお前じゃないだろ」
見せられた過去の記憶――たくさんの前世――の中には確かにどこかの国の王子だったらしいものもあったが、王子だったのは破滅の光として目覚めるまでだ。目覚めた後は、職務も立場もほっぽりだして優しき闇を手に掛けに飛び出していった。そしてその後は死ぬまで殺し合って、人知れず朽ち果てる。だいたいいつもこんな感じだったはずだ。
「この魂がかつて持っていた全ての人格は即ち俺でもある。お前もそうだよ、散々言っただろ? あの偽善者の塊みたいだった時の『ヨハン』も遊城十代に下心を抱いていた『ヨハン』も全部俺なわけ。ああでも傑作だよなぁ。今のお前は十代の血も、ヨハンの血も、等しくひいているんだもんな。対極の力を持つ二人の子孫なんだ」
「そういやそうだったな。あーあ……生まれ変わりだって言われ続けて散々嫌な思いをしてきた曾祖父さんが本当に前世だったなんて考えたくもない。アメジスト達は知ってたのかな」
「そりゃそうさ。あいつらはずっと俺のそばにいたから。俺のことも知ってるよ、なんでか近頃はデッキから出てこないけどな」
「ルビーはいつも通りだろ」
「ルビーは特別。あの子は純粋なんだ」
黒板に板書をし終えた破滅の光はそう言うと隣で同じようにノートを書き写している十代の方を覗き込み、内容を一読してから彼女に笑顔を向ける。ああまただよとヨハンは溜息を吐いた。破滅の光は十代にいやに優しい。不自然なぐらいだ。しかも下心丸出しなので、ヨハンはこいつの望んでいる平穏、つまり「遊城・ヨハン・アンデルセン」として「不動十代」とありきたりの生活を送るということはそれが原因で近いうちに瓦解するのではないかと踏んでいた。
当たったからといって特にどうということもないけれど多分外さないだろうとも思う。自分の顔がどんな表情をしているのかは考えたくもなかったが、ここ最近の十代の反応で大体の想像はついた。あまり嬉しくない。
「十代、ここ間違ってる。あとここはこっちの方がいいかな」
「あ、ああ……サンキュ」
十代の反応があまり芳しいものではないのは、ヨハンの体が十代にぴったりと密着しているからだった。親友の距離ではない。ヨハンだったら間違いの指摘をするぐらいの用ではあんなに近くに寄らない。
とはいえ十代も今はまだ不思議に思うぐらいで拒絶したりはしないので傍目からはまあまあ仲の良い付き合いだしのカップルに見えないこともなく、そのこともあって校内では最早そういう扱いが定着しつつある。破滅の光というものは狂執的に優しい闇を愛していて、手に入らないならいっそ殺すということを何度か実行している程のきちがいだというのに十代に対しては妙に人間くさい態度を取っているのだった。十代に対する言葉の掛け方だとか触り方だとかは本当に愛しくてたまらないものを愛でる時のそれだった。
それはすごく不自然なことだ。でも何故か、おかしいと断じることは出来なかった。どうしてだろう? だってどの記憶を覗いたって、絶命した優しい闇を腕の中に抱いて狂笑していたり、逆に優しい闇に致命傷を喰らって恍惚としていたりするのが破滅の光の最期だったのに。
とうに頭の螺子が吹き飛んで、おかしくなってしまっていたはずの存在がごく普通の人間みたいな顔をして生活していることがどうして否定しきれないのだろう?
「……確かに今のところお前は十代に無理矢理何かするとかそういうことはしてない。けど、我が物顔で十代に接するのも止めろ。十代は友達だけど、それだけなんだよ。お前の態度はそうじゃない。十代だって困惑してる」
もやもやした気持ちに整理がつかないまま憮然とした声でそう言ってやると、破滅の光は嫌らしい笑顔で「好きにさせてくれよ、なぁ?」だなんて返してくる。ヨハンはなんとなく嫌な予感がして真っ白な何もない世界で頭上を見上げた。白一色のこの世界には果てがない。蓋もない。空がなければ天井もなく、永久の白い光が無限に続いている。足が地に付いているのかどうかは立っているはずのヨハン自身もよくわからない。
ヨハンは沈み込んでしまいそうな白の奔流を踏みしめて手のひらを握り込んだ。今はどんなに優しい顔をしていても、あの時確かに破滅の光は十代を手籠めにするだとかそういう「よくない」発言をしていたのだ。十代の親友として、それを忘れることはヨハンには許されない。
◇◆◇◆◇
「よ。お疲れさん遊星。大分大変だったみたいだな?」
「ああ。今日やっと時間が取れたところだ。報道陣やらお偉いさん方やら相手に堅苦しいやり取りを続けるのは嫌いなんだが、それも仕事だからな。仕方ない」
「テレビで記者会見してた遊星見たけど、やっぱなんか違和感あるよなぁ。うん、こっちの方が遊星らしくていいや。……今はちょっとくたびれてるけど」
徹夜には強い遊星だが、今回は徹夜に加えて応対疲れのストレスなどもある。それに遊星はもう年が四十を数えているのだ。無茶をしても平気だったあの頃と違って若さはない。目の下には隈が出来ていた。
「ああ、そういえばジャック。十代からお前に預かり物がある。海馬ランドの土産でブルーアイズマウンテンのコーヒー豆だそうだ」
「ふっ……心得ているではないか。今度会った時に小遣いをやると伝えておけ」
「ジャック。あんまりうちの娘を甘やかさないでちょうだい」
「まあいいじゃねえか、最近自分とこの娘が反抗期気味で寂しいんだよ、こいつ。なあ遊星、ところで俺にはねぇの?」
「ない。ジャックと家にコーヒー豆を買った段階で予算が尽きたらしい」
遊星が当たり前のように告げるとクロウは出鼻を挫かれたみたいになる。何の疑問もなく自身も貰えるものと思い込んでいたらしいが、小遣いのそう多くない十代に何を期待しているのかという話だ。確かに十代はジャックとクロウを同じぐらいに慕ってはいるが、海馬ランドに行ってブルーアイズコーヒーを見てしまったならジャックを優先してクロウは切って捨てるだろう。そもそもブルーアイズコーヒーが妙に高いのが悪いのである。
そんなクロウの様子を龍亞がからかい、龍可にたしなめられる。こういう光景が広がるところはもう二十二年前からずっと変わらない。ブルーノがいなくなってしまったことを除けば、チーム5D’sはある種終わらない夢の象徴みたいなところがあった。永遠に続く馬鹿騒ぎだ。過ぎ去った青春が、まだそこで居眠りをしているかのような感覚。
「ねえ、そういう話もいいんだけど、先に大事な話をしておかないと。ね、遊星。今日はそのために皆で集まったんだもの」
世間話が盛り上がりかけたところで龍可がストップをかける。遊星は黙って頷いた。彼女の言い分はもっともだ。
「そうだな。まずはこの話をしておこう。……相模原モーメントについて、俺の知る限りのことを」
「赤き龍との関連が何なのかわかったのか?」
「いや。だが赤き龍が示して見せた光景が程なくして現実になったことを鑑みるにレインボー・ドラゴンのこともあながち的外れってことはないだろう」
そう言って、遊星はパネルモニタとノートブックを取り出す。立ち上がった画面に映った書類データには赤字で「門外秘・シティ提出書類」と記入してあり「制作責任 海馬コーポーレーションモーメント研究開発局最高責任者不動遊星」と署名がしてある。
「部外者に見せていいの? これ」
龍亞が言った。
「構わない。どうせこれがなくても同じ内容を話すんだ。それに皆は部外者ではないだろう。赤き龍は全員に等しく告げたんだからな」
書類を次のページに送ると、参考資料として埋め込みの動画が映る。遊星の指がプレイヤーのボタンをタップすると再生が始まった。あまり画質は良くない。定点カメラの映像のようだ。
「相模原施設のモーメント・ルームに設置されていた監視カメラの映像だ。所員が避難する原因になった『原因不明の』爆発が起きた頃に破損していて、その後の映像はない。……だが」
言葉を一旦切って動画を一時停止させる。画面の端に何か機械の一部らしきものが映っていた。だが何の機械だろうか? 形状は鳥の鈎爪に似ている。
「何これ。何かのメカみたいだけど。これが監視カメラを壊した原因なのかな」
「ああ。あらゆる可能性を除外せずに考慮し解析した結果、八十六パーセントの確立で『A・O・J サイクロン・クリエイター』と一致するという結論が出た」
「A・O・Jぅ? 機械は機械でも機械族のモンスターじゃねぇか。なんでモンスターがモーメントルームの中にいて監視カメラを壊すんだよ。そもそもモンスターが現実のものを壊せるっておかしいだろ。闇のデュエルの最中でもない限り……」
クロウが馬鹿馬鹿しい、というふうに手を広げる。だが彼はすぐに表情を渋くして、「もしかしてマジで闇のデュエルかなんかか?」と恐る恐る口に出した。しかしそれはアキが否定する。
「サイコ・デュエリストだと考えた方がまだ有り得るんじゃないかしら? アルカディア・ムーヴメントの残党はまだいるでしょうし。モンスター一体を実体化させるぐらいなら大抵のサイコ・デュエリストなら出来るわよ」
「でも攻撃を物理破壊出来るぐらいにまで実体化させるのは難しいんじゃないかしら? 力には強弱があるって昔十代が言ってたわ」
「それはそうなんだけど。サイクロン・クリエイターは下級モンスターでしょう? 上級になるほど難しくなる傾向があるけど、レベル四つぐらいなら大丈夫よ」
「お前は以前ブラックローズも実体化させていたな。そのレベルの能力者はどの程度存在する?」
「……正確な数はわからないわ。私の限界はレベル八ぐらいなんだけれど、それでも稀だって、昔」
昔、それを誰に言われたのかを思い出したのだろう。アキの表情が歪む。遊星は黙って彼女の頭を撫でた。アキは遊星の顔を見て、ありがとうと小さく言う。それを見て龍亞が何か言おうとしたが龍可に頭を叩かれてそれは叶わなかった。
「ねえ、ちなみに十代はどのくらいなの? やっぱアキ姉ちゃんと同じレベル八くらい?」
別の疑問を龍亞が口に出す。アキはやや思案する様子を見せてからその問いに答えた。
「ネオスがレベル七だからそこまでは出来るんじゃないかしら」
「一度俺のレッドデーモンズをコントロール奪取された時も実体化していたように思う。八まではいけるんじゃないか」
「へー。やっぱ親子なんだなぁ」
「遺伝なのかしらね。精霊視の力は突然変異だけど……ああでも、ヨハン君の家は遺伝体質で全員視えるってそういえば言ってた」
龍可が思い出したように言うと遊星が頷いた。遊城・ヨハン・アンデルセンは遊城十代とヨハン・アンデルセンの子孫だ。本来は遺伝などしない特異能力のそれも、遊城十代が先祖だというだけで有り得るかもしれないと思えてしまう。遊星は二十数年前に会った彼のことを思い浮かべた。デュエルを始める前の一瞬だけ、鳶色の瞳がオレンジと黄緑に変わったのだ。彼は本当に不思議な人だった。でも不思議だと思うだけでどんな異能力を持っていたのかはまるで知らない。
「それで、爆発事故の原因は実体化したモンスターなんじゃないかということを上に報告しておいたんだが、まあ上層部は半信半疑といった感じだったな。皮肉にもアルカディア・ムーヴメントの知名度がそこそこあるおかげで真っ向から否定はされなかったが、だとしても動機がないんだ。ゼロ・リバースを引き起こすことが目的だと考えるのは難しい。サイコ・デュエリストが能力を振り絞ったところでモーメントを逆回転させるほどのエネルギーは生み出せない。理論上は」
「本音のところはどうなんだ」
「九割九分九厘不可能だ。旧型とはいえ数日前に俺がメンテナンスをしたばかりで数値は至って正常だった。何か人智を超えたものの影響でもない限り針がマイナスに振り切れるなんて有り得ない。全く有り得ないという言葉こそが有り得ないと最初に言った人物は偉大だな。赤き龍の警告を受けなければ俺だってまさかそんなことになるとは思わなかったし備えもしなかった」
ふう、と息を吐いて遊星が書類のページを捲った次に出てきたページにも、画像が張り込まれている。グラフだ。一定のラインを行ったり来たりしていた線がある地点を境に緩やかな下降を初め、その数秒後急激に下落し平常値と思われる値から反転している状態になっている。省略記号の後、反転から三十分経過したあたりでグラフのラインはまたゆるやかに上昇し最後には最初の値に戻っていた。
「モーメントの値を示したものか」
「ああ。うちの部署で遠隔モニタリングをしていた分だ。それと、これだな。このデータは上には提出していない」
遊星の指がスライドして新しいウィンドウが開く。お馴染みのムービープレイヤーが展開されたが、いつものように映像が映らない。どうやら音声データのようだ。
「破壊されたモーメント・ルームに設置されていた五台の監視カメラの内一台が音声だけ記録に成功していた。……ただ、内容が不鮮明すぎるのと、モーメント逆回転現象に関しては何の参考にもならなさそうだったので報告はしていない。だが、俺達にとっては多少興味深いものだと思う」
音声データの再生が始まると、まず金属質なファンの音が複数、スピーカーから響いてきた。どうやら施設内にどうやってか侵入を遂げたモンスターはA・O・Jサイクロン・クリエイター一体だけではなかったらしい。音からするに、他も機械族モンスターなのだろうか? となると爆発自体もモンスターが原因のものなのかもしれない。
次いで、ビーッ、という鋭い音がして直後にカメラが壊れた音が聞こえてきた。それを皮切りに何か鈍器のようなものが機械を押し潰す鈍い音やレーザーが放たれているかのような音が四つ続く。この段階で五台のカメラはこの一台の音声録音機能を覗いて全て無力化されたことになる。
そこで一度ぶちりと音が途切れ、しかしすぐにまたノイズまじりの音声が聞こえてきた。編集で切り取られているらしい。次に聞こえてきた音声は先程よりも雑音が酷く、テレビの砂嵐のようなザーザーとした音以外は僅かにしか聞き取れなかった。それでも、明確に雑音とも環境音とも違う音があることが聞き取れる。こつこつという規則的な音。
靴音だ。
靴音はしばらく鳴った後ぴたりと止まり、代わりにぼそぼそとした人の声が聞こえてきた。
『……て…………おう。…………んは…っを………』
『…………し……』
声は短い会話を交わして止み、入れ替わるようにまた靴音が響く。どうやら靴音はホールに反響しているために格別に聞き取りやすいようだった。反対に声は本当に聞き取りづらい。空間が広いので拡散してしまうらしく、台詞の内容は愚か喋り手の性別も判然としない。
『な……こ………るの………だれ……よ…』
靴の音が一つ遠くなってしまったが、もう一人の人間はどうやら先程から場所を動かしていないようだった。独り言らしき声が漏れる。ぼんやりとした、不思議そうな声が掠れてスピーカーから漏れ出ていた。
そして次の瞬間、予想していなかった音が流れ出た。
『君の役目は終わった。後はもう眠っていればいい。おやすみ――』
クリアな誰かの声。間を空けずに、甲高い回転音が轟音と言っても差支えない音量で唸り出す。「モーメントが逆回転を始めたんだ」遊星が解説を加えた。回転音はどんどんと五月蠅くなり、最後に酷い耳鳴りを聞いていた六人に残して止まった。音声再生自体が止まったのだ。
「……おい、遊星。最後にこうなるって知ってたんならここも省くか直前で止めるかしてくれたっていいだろ……」
「ああ、すまない。俺も忘れていた……」
耳を押さえながら抗議するクロウに同じように耳を押さえた遊星が申し訳なさそうに答える。遊星はきつく顰めた眉をやにわに動かすと、のろのろと指を動かして書類を閉じた。閉じられた極秘書類の下からまた別の書類が出てくる。今度は役所に提出した書類ではないようだった。先程のものに比べてフラットに作ってある。
タイトルはなく、グラフが挿入されその下に少量のコメントが添えてあった。「海馬コーポレーションが所有しているデータを対象に声紋の調査解析を実施。候補が多すぎるため絞り出しは不可能。以下に可能性のある人物名をリストアップする」。コメント通り、その下にずらずらと人名のリストが続いている。どこにでもいそうな人物の、ぱっとしない名前がこれでもかと羅列されていた。呆れかえる量だ。
「最後に入っていた異常な音声は皆聞いたな。あれを解析した結果がこれだ。ただまあ、正確性は正直低い。そもそもの音質が良くないし海馬コーポレーションの情報収集力にも限度があるからな。一応社内で一番性能のいいスパコンを使って過去百年五億人分は解析をかけたが――」
「遊星、職権乱用って言葉知ってる?」
「やれるだけのことをやらなければ気が済まない。仕事の効率を維持するための職業努力だ」
「すっげえ台詞。会社の人たちが聞いたら卒倒しそう」
「そのぐらいで卒倒していたらあの会社の重役なんてやってられないさ。いい意味でも悪い意味でも変人の集まりなんだ、海馬コーポレーションは。俺も含めてな」
「海馬瀬人社長からしてものすごい性格だしね。昔ビデオで見たことあるけどなんか……ジャックをもっと悪くした感じだったなー。あの決闘王武藤遊戯にあんな態度取れるのあの人しかいないよ」
「でもデュエルは凄かったわね。いつも居眠りの龍亞が最後まで真剣に見てたぐらいだもの。懐かしいなぁ、私達が高校生の頃だったっけ? ……あ、ごめんなさい遊星。話を進めて」
いつの間にか脱線してしまったことに気付いた龍可が慌てて遊星に続きを促す。遊星もそれに小さく頷くのみで話を再開させた。リストが高速でスクロールする。「本郷正人」……「溝口明子」……「矢川洋介」……あいうえお順で並んでいる人名が五百ほど流れ去ったところでスクロールは止まった。遊星の人差し指がある一点を明確に指し示す。「人名:ヨハン・アンデルセン」。「一致率:九十一パーセント」。
「……回りくどい手段を使っておいてこれか。遊星。つまりお前は何が言いたい?」
ジャックが珍妙な面持ちで確認するように問う。いくら一致率が高かったといっても相手は死人だ。とうの昔に死んだ人間が相模原のモーメント・ルームでやたらクリアな音声をメッセージのように残していく? ナンセンスにも程がある。
「まさか死んだ後モーメントに溶けて残留思念だか魂だかが残っていたのだとかは言わないだろうな。一応科学者だろう、お前は」
「流石にそれはない。昔モーメントに突き落とされた経験から言わせてもらえばそこに死者の魂が宿るという説はあながち間違いでもないと思うが、まあ俺が見たものはゼロ・リバースで無念の内に死んだ人のものだったろうし……」
ああそういえば、とクロウや龍亞、龍可がぼやく。ダークシグナーの一人、蜘蛛の痣を持つ男ルドガー・ゴドウィンの攻撃によって遊星は旧モーメントの渦の中に叩き込まれた。不思議な力が作用して遊星は帰還を果たしたが、あの光の中で一度死にかけていたはずだ。モーメントの光が人体に毒でないはずがない。
その話が一段落したことを確認して、遊星は持論を続ける。
「……俺は、この結果が真実に繋がるものなのではないかと思う。ヨハン・アンデルセンと赤き龍の警告はどこかで必ず繋がっているはずだ。レインボー・ドラゴンの元の持ち主である彼が、遊城十代の親友であった彼が関与していないとはどうしても思えないんだ。……七体の宝玉獣たちは故ペガサス会長がデザインした一揃えのオリジナルしか存在しないシリーズだ。彼は後にこう述べている。『七体の宝玉獣達はヨハン少年のことを待っていたかのようだった。彼らは血よりも濃いもので繋がった家族のようだ』。そして、」
パネルに膨大な量の個人データが映し出される。ヨハン・アンデルセンの戦歴、遊城十代との関与、そしてペガサス・J・クロフォードの手記の写し。その他諸々。実の家族でも把握していたかどうか怪しい細かなデータに龍亞は権力の偉大さを垣間見たような気がしたが場の空気を読んで黙っておくことにした。隣を見ると龍可も神妙な面持ちをしている。
一体、ヨハン少年がこれを見たらどんな反応をするだろうか? そんなことを考えずにはいられない。
遊星はヨハン・アンデルセンという人間のことを徹底的に洗い上げているようだった。それこそ自らの権力の限りを尽くしてだ。でも龍亞は、遊星が意味もなくそんなことをする人間ではないと知っている。恐らくその行動は危機感からきたものなのだ。遊星は虫の知らせというべきか、そういう「迫りくる危険」を察知する能力が並外れて高かった。特に家族の危機、仲間の危機に対しては異常なまでに敏感なのだ。それに何度救われてきたかわからない。
「究極宝玉神レインボー・ドラゴンは異世界で発見された石板を元にして創造された。石板を発見したのはヨハン・アンデルセン本人。……信じられるか? 異世界に存在したものを引き寄せられるかのように彼は見付け出したんだ。通常誰がそんなものを見付けられると思う? 在り処はこの世界ですらなかった」
「異世界?」
「ペガサス会長曰くそうらしい。この世界の他に宇宙には十一の異次元が存在し、レインボー・ドラゴンの石板はその内の一つの世界にあったそうだ。海馬コーポレーションに保管されていたペガサス会長の個人的な手記にはそうある。信頼するに値する情報だと俺は思っている」
「……それは、そうとして……」
「それだけじゃない。ペガサス会長の手記にはまだ続きがある。異世界に旅立つ前と帰還後の十代さんの様子だ。ヨハン・アンデルセンとの間に何かがあって、どこか彼はよそよそしくなってしまったようだと述べてあった。……俺はこのことを軽視すべきではないと思う。『ヨハン』という存在と『十代』という存在はどこかで深く繋がっている。――それは今も同じことだ」
そう言って、遊星はパネルモニタの電源を落とした。最初にしていたような世間話を出来る雰囲気はもうこの空間にはなく、ただ、漫然とした後味の悪さ、釈然のなさが蔓延している。遊星の論に根拠はない。だが、大ぼらであるとも言い切れない。しかし遊星を信用するとなると十代の親友であるヨハン少年、彼を疑わなければならないという結びに最終的には辿り着く。
「遊星」
アキは顔を陰らせて夫に尋ねる。
「あなたは十代も、ヨハン君も、赤き龍の警告に関係あると考えているの?」
「可能性は否定しない。そうでなければいいとは思う」
「もし、もしもよ。仮にそうであったとしたらあなたはどうするの」
「娘が、遠くに行くというのであれば全力でもって止める。もし、自らの意思で世界の脅威になるのであったら……」
言葉を切り、逡巡する素振りを見せ遊星は押し黙る。アキもジャックもクロウも龍亞も龍可も、遊星の言っていることを呑みこむことが出来なかった。突拍子がない。まるで最愛の娘と世界の命運を秤にかけているかのような言い草だ。
そして事実彼は天秤にかけているのだろう。だけど前提条件からして間違っている。根幹からして覆されている。どうして、あの天真爛漫な愛らしい一少女でしかない十代が世界の脅威に成り得るだなんて考えているのだ?
「どうするのかは、自分でもわからない」
六人が六人、そこで押し黙ってしまった。五人は困惑し、遊星は目を伏せっていて表情が上手く読めない。今日は痣が光ることもない。
九年前に誘拐された十代がユベルの能力を顕現させたことを、この場にいる誰もが知る由はない。だが遊星はかつて十代の背後に影を見たことがある。黒いドラゴンの影。悪夢が体現したかのような影だ。
あの時は一瞬だったし、十代もカードをただ手に持っていただけだったから気のせいだと思ってあまり気に留めていなかった。仕事の疲れかもしれないと。
だって誰が信じようか? まだ漢字も書けない我が子から地を這うような冷気を感じただなどと。誰も信じない。遊星だって信じていなかった。
「だが可能性から目を背けてはいけないと思う。百パーセント有り得ないことなんてないんだ。机を手が通過する可能性よりも低い可能性でこの宇宙は生まれている。……どんなことだって有り得る。『その』事態にもし想定せずに遭遇してしまった時、俺は冷静でいられる自身がない」
例えどんなに荒唐無稽だとしても。
それが父としての遊星の本音だった。
「俺は、十代を愛しているんだ。たった一人のかけがえのない娘だ。もし十代が、ある日急に以前とは違うふうになってしまったら? 考えるだけで恐ろしい」
「遊星……」
「昔は、こんなふうに憶病ではなかったんだがな。前に進んでいれば道は開けると何の疑いもなく思っていた。事実足を引っ掛けることは何度かあったが最後には上手くいっていた。――だが、この前モーメントの制御を試みている時に思った。『どうにもならない』と思わせることはいくらでもあるんだ。俺がZ-ONEとの戦いの中で諦めかけてしまった時のように、絶望的に思える事柄はいくらでもある。例え足掻けばどうにかなるのだとしても、娘が娘でなくなってしまったとしたら――」
あなたは疲れているのよ、それは杞憂だから大丈夫。そう言ってやることが恐らくは周囲の五人にとっての最善だった。だが口を開くことが出来ない。それは本当に杞憂なのだろうか? 疑念が払拭し切れずにぐるぐると巡っている。
世界を何度も救ってきた遊星の勘を笑い飛ばすことがどうしても出来ない。
「俺は、耐えられない」
小さな呻き声が漏れた。
「Deadend World」-Copyright(c) 倉田翠