25:だいきらいなかみさまへ

 「最後の日だからな」。そう言って朝起きて早々に破滅の光が魂の奥の方に引っ込んでしまったため、ヨハンはものすごく久しぶりに自分の意志で体を動かすはめになっていた。もう何日も主導権を持っていかれてしまっていたのでどうも感覚が掴み辛い。何だか自分の体じゃないみたいだ。
「好きなことしておけよ。何なら学校をサボってどっか行ったっていいぜ」
「サボってまで行きたいところなんかない。十代がいないじゃないか」
「十代っつったって、向こうも状況は似たりよったりだから十代の姿をした何かにすぎないぜ。君の大好きな不動十代じゃないんだ」
「それでもいいよ。そばにいたいんだ。ちょっと話しかけることは出来ないかもしれないけど……」
 ヨハンは昨日見た優しい闇――覇王の声を思い出す。体が少女のものだからややトーンは高かったが、それでも十分に恐ろしい重低な声音だった。有無を言わせぬ圧力がある。そして瞳は妥協を許さない美しい金色だった。いつもの可愛らしい鳶色はその中にはない。瞳の色が変わることなんてあるとは思っていなかったけど、人智を超えた存在である優しい闇ならそのぐらいはやってのけてもおかしくはない。
 そういえば対極の力である破滅の光に自身は寄生されているわけだけど、もしかして自分もそういうふうに色が変わっているのだろうか?
「銀色だよ。綺麗だろ、真っ白な閃光みたいで」
 ご丁寧に返答が返ってくる。白銀、という言葉があるぐらいだから確かに銀は光の色としてはいいセンスかもしれない。シャインスパークだ。
「……なあ。なんで急に俺に体を返す気になったんだよ。ずっと押しこめるばっかりで何もさせなかったくせに。どういう心境の変化だ?」
「返すといっても数時間のことだぜ。放課後には最終戦争だ。運が良ければ何日か長引くかもしれないけど悪けりゃ今日中にこの体は――お前は絶命する。死ぬんだ。勝っても負けてもそれは変わらない」
 だから最後ぐらい、なぁ? 破滅の光は極めて真面目な顔をしてそんなことを言う。ヨハンは押し黙って何か問うべき言葉を模索したが、見付からないので考えることを止めた。


「結局昨日は帰って来なかったなぁ、遊星の奴……」
「仕方ない。父さんは忙しい人だから」
「今日ばかりは仕方ないで済まないんだよ。俺はな、あいつのこと結構買ってる。あいつは人が良くて、馬鹿正直で、そして家族思いの奴なんだ。しかも勘がいい。俺の見立てじゃ、十中八九あいつは『娘が娘でなくなってしまう』可能性に気付いてる。そして俺が破滅の光とのいざこざに出掛けるとなればどこにいたって嗅ぎ付けて飛んでくるだろう。そういう奴なんだ」
「否定しない。父さんは家族馬鹿なんだ。家族のためならどこで何してたって駆け付けて来てくれる。母さんと俺のことが世界一大好きで、大事なんだって。ずっとそう言ってた」
 父は忙しい人だった。勤務医である母も忙しいが、それに輪をかけて多忙な人だ。だがそれでも家族との時間をないがしろにしたことはない。十代が学芸会に出れば仕事を抜け出してでも来てくれたし、運動会の日はスケジュールを前倒しにしてでも一日休みを取ってくれた。誕生日の夜はプレゼントとケーキを用意して十代を迎えてくれた。父自身が家族の愛というものに疎遠に育ったから、尚のこと家族が大事なのだと言っていた。
 十代はそんな父が好きだ。世界で一番誇らしい父だ。だから残りかすの気持ちはよくわかった。
 二人は不動遊星というお節介な、愛すべき人をこの因縁に巻き込みたくないのだ。
「遊星にはさ、本当は関係ないことなんだ。知らなくていいことだ。でも、あいつはいい奴だから。きっと知らなくていいことまで知ってしまって、余計なとこまで首を突っ込んでくる。後戻り出来ないぐらいに深い泥沼まで、躊躇せずに踏み込んでくる。目の前で起きてることを放っておけないんだ。それは遊星の美点だけど、同時に欠点なんだよ。……美点であり欠点でもある、か。昔そんなことを遊戯さんに言われたっけ」
 『……走り続けていられることは君の美点ではあるけど、同時に欠点でもあるんだ。前しか向いていない君は過ぎ去った過去に置き忘れて来たものに大概の場合気付かないで行ってしまう。君は知っているかい? 君が大人になってしまった後も、君の仲間達は変わらない愛情を君に向けてくれているってことを』――かつて苦悩していた遊城十代に武藤遊戯はそう言葉をかけた。自分は皆と同じ人間ではなかったのだと、そう思い込んでいた十代に彼はかみさまか菩薩みたいな表情でそう語って聞かせた。
『君は悩んでいるね。大事な人のことで、酷く思い悩んでいる。それだけその人のことが、君にとって大きなものなんだ。恋だとか、そういう言葉よりもっとずっと深いところでその人と君は繋がっている。違うかい? かつてボクと彼がそうであったようにね。それはとても大事なものだよ。愛情に近いものだけれど、それよりももっと壮大で力強くそして恐ろしいものだ。いいかい十代君。その気持ちを忘れてはいけないけど、決して呑まれてはいけない。強い感情は時として人の心を縛り付けてしまう。ボクがあの日彼を光の中へ還してやるためにはその思いと決別をすることが必要だった。……きっとね、君にも同じ決断をする時が来るよ。ふふ、ボクの勘、結構当たるんだ』
 ある日彼は笑ってそんな予言をした。結果は的中だ。本当にあの人はただものじゃない。
「遊星が真実に手を伸ばそうとすると俺達は困っちゃうんだよなぁ。本音を言えば遊星には無関係でいてほしかった。でもそうも言ってられない。だったらこっちから仕掛けないと」
 これは俺とヨハンの問題だから。同じことを言って数百年前に彼は――王子は、従者として彼を愛するものとして最後まで付き添おうとしたユベルを突き放して置き去りにした。また繰り返すのかと、心配になって十代がそのことを問うと残りかすは「ああそのこと?」と十代の頭を撫でる。
「だって今度は、終わらせたいんだろ?」
「ああ、勿論そのつもりだ。だから遊星にはただ突き放すようなことはしないで、遊星にしか出来ない仕事を頼もうと思ってる」
「……父さんにしか出来ない仕事って、」
「まずモーメントの監視。何か起きそうになったら速攻動力を落として貰う。まあ動力を落としてもあいつの影響で回り続ける可能性はあるけど、それは気にしてもどうにもならないことだし。それともう一つ。俺が百年前に隼人に作って貰ったカードを取りに行って貰おう。この時のためのカードだからな」
 残りかすが「あれだよ」と空を指差して示したカードを膨大な記憶の中から捜索する。程なくして十代はそのカードがどうして今手元にないのかを思い出した。大事なカードで、何かの間違いが起きて紛失してしまうことが許されなかったので完成後誰の手にも渡さず海馬コーポレーション本社の地下に厳重に保管するよう頼んだからだ。だから作製を依頼したものの、一度も現物を拝んでいない。
「この町で海馬コーポレーションより安全に機密物を保管出来る場所はないからな。持つべきものは大企業である程度幅が利く地位に就いてる友ってか」
 十代がこのカードの製作を依頼した時点で前田隼人はKC本社直属のカードデザイナー達の中でも特に重要な役職であるデザイナーチーフの位に就いていた。ペガサス会長とKC側との遣り取りを円滑にするためにインダストリアルイリュージョン社から移籍をすることになったのだと当時誇らし気に隼人が語っていた記憶がある。
「でもそれ、父さんが海馬コーポレーションに就職してなかったらどうするつもりだったんだよ」
「その時は、まだ使う時になってなかったんだって思って諦めたさ。俺はいくらでも生まれ変わるし、デュエルモンスターズが存在している限りあの会社がなくなることはまずない。そしてデュエルモンスターズが消えてしまったらカードそのものが意味を為さなくなっちまう。タイミングを逃すんだな。そしたらまあ、あれだ。また別の方法を探したと思う」
「すっげぇアバウト」
「ああ、まあなぁ。基本的に行き当たりばったりなんだ」
「王子だった時はもう少し思慮深くて慎重だった気がするんだけど?」
 堂々と言い切るのでやや意地悪い声で言ってやると残りかすは頭の上に置いた手のひらをわしゃわしゃと動かし、髪の毛をくしゃくしゃにしてくる。卑怯だ、と言って上目遣いに見上げると残りかすは勝ち誇ったような顔をしていた。なんとなくむっとする。
「確かにたくさんの『十代』は同じ魂を持つ存在だけど、でも絶対に同じ存在ではない。この魂の中には今まで生きてきた数だけの人生と物語がある。そして俺とお前を除いて、その全ての人生の終末がろくでもないもので締められてる。今のところはな。そうでない俺達には、そのろくでもない結末の連鎖を断ち切る権利がまだ残されているんだ。そうだろ」
「うん。だからとりあえずその手、どけて」
 短く要求を述べると残りかすはややしゅんとした表情をした。どうやらいいことを言ったつもりなのに流されてしまったので少しショックだったらしい。



◇◆◇◆◇



「あれからどう? 遊星」
「変わりないわ。相変わらず仕事に忙殺されているし相変わらず思い悩んでいるわよ」
 龍亞の問いにアキは溜め息で持って返答を返した。街中のカフェでアキと龍亞、それから龍可がテーブルを一つ囲んで話をしている。
「なんかこう、変わらないよなぁ遊星は。大人になっても几帳面なまんま」
「余計な心労を抱え込むのも変わらないわね。……どうして、あんなに思い詰めているのかしら」
 相模原モーメントでゼロ・リバース未遂の事件が起こってからというもの遊星は変だ。過剰に娘のことを心配しているし、これまた過剰に娘とその友人のことを問題視している。遊城・アンデルセン一家の過去百年にわたる経歴を調べ上げてまで何か不測の事態が起こり得ると主張を続けている。
 そりゃあ、あれだけの事実を見せられたとなればアキとて遊星の主張を全て妄言で片付けたりはしない。遊城・ヨハン・アンデルセンはヨハン・アンデルセンと瓜二つの顔立ちをしているし、それは娘の十代と遊城十代にも言えることだ。だけども、それが短絡的に二人の存在の定義に繋がるとも思えなかった。二人は今生きている人間なのだ。百年前に生きていた人物二人と一括りにされるのはどうも腑に落ちない。
 けれどその仮説を一笑に付してしまうことが出来ないのもまた事実であった。遊星の危機感というべきか、直感というものは今まで幾度も世界を救ってきた実績がある。否定してしまうのは簡単だがそれで後々痛い目を見るのはたまったものではないし、それにアキは遊星のそういった真っ直ぐな部分も好きであったから、なんとももどかしい思いをしている。ジレンマだ。
「仕事に支障をきたしてはいないみたいだから、そこはいいんだけど。……もうここのところずっと十代に対する視線がぎこちないわ、あの人。元々忙しいせいであまり話す機会を持ててないから十代の方は気にしてないみたいだけど……」
「まあ、アキ姉ちゃんとしてはやな感じだよな。家族がよそよそしいのはよくない」
 龍亞がケーキを口の中に入れて言う。龍可も同調した。
「遊星自身には、多分悪気とかそういうのはないと思うのよね。単純に心配しているんだと思うの。実際、ヨハン君はなんだかちょっと変な感じがしたわ」
「え、それ本当? 龍可。どんなふうに?」
「この前、私達がお邪魔してる時にヨハン君来てたでしょ。あの日すれ違った時にね、あれ? って思ったの。無邪気だった子供が急に冷めた大人になってしまったみたいな感じ。私は彼のことをよく知っているわけではないけれど、どこかよそよそしい印象を覚えたの」
「へー、全然気付かなかった。そっか……そんなことって本当にあるんだ。だとしたらあの話、マジなのかなぁ」
「あの話?」
 んん、と顎に手を当てて龍亞が思案するような表情をする。龍可は不思議に思って尋ねた。すると「龍可は知らないんだ?」と龍亞が意外そうな顔をする。
「アカデミアにいた頃に聞いた噂話だよ。ずっと昔の話なんだけど、アカデミア本校があのでっかい校舎ごと異世界に飛ばされちゃったことがあったらしくて……」
「龍亞。今は冗談を聞きたいわけじゃないの」
「冗談じゃないって! 噂話だけど。……でね、その時異世界ではゾンビ騒動とか悪魔憑きとか口にすることが憚られる程恐ろしい恐怖体験とかいろいろあったらしんだけど……」
「龍亞。回り道はしなくていいからさっさと本題」
「ちぇー、わかったよ。それで、なんとか皆帰還してきたんだけど一人だけ一緒に帰ってこなかった生徒がいるんだって。その生徒は皆とは一週間遅れて帰ってきたんだけど、その時は隕石の如く降ってきてアカデミア島にクレーターを作ったとかなんとか……わかったごめん龍可。このくだりははしょるよ」
 また話が脱線しそうになり、龍可に睨まれると龍亞は小さく竦んだ。この兄は妹を溺愛しているのだが、また同時に妹に睨まれると逆らうことが出来ないのである。
「その人、異世界に行く前と随分感じが変わってたんだって。天真爛漫な子供だったのに、急にやさぐれて大人びたふうになっちゃったって……。本当に違う人になっちゃったみたいな変わりようで随分周りは驚いたって聞いてる。あと童顔だったのがすごくイケメンになってたらしい」
「……最後、すごくどうでもいいんだけど」
「でも龍可、私はその最後の部分があるからその話は今でもアカデミアに伝わってるんじゃないかと思うわ……」
 龍可はずっと龍亞ばかり見ていたからそうでもないらしいのだが、基本的に女子はかっこいい男の子というものに弱い。今まで童顔だと思ってマーク外にしていた生徒が何故か急に影のある美少年になっていたとしたらその衝撃は並大抵のものではないだろう。翳りを帯びた部分も「憂いがあっていい」とかなんとかで済まされてしまうに違いない。
「でも一番不思議なのは、どうして龍亞がその話を知ってたかよね。だってそれ本校の話でしょう? ネオドミノ校と本校って交流はあるけど噂話の輸入がされる程ではないもの。それに私が知らないってことはそんなにメジャーな噂話でもないみたいだし……」
「うーん、俺も先輩からの又聞きだからどうしてかはよく知らないなぁ。でも先輩の口ぶりだと、その人アカデミア本校ではかなりの有名人だったらしいよ。その人の他の話だと、入学試験で実技担当のすげー強い先生をあっさり倒しちゃったって逸話もあって……」
「その話はまた今度ね。でも、そうすると遊星の心配はあながち的外れってこともないのかも。少なくとも十代はヨハン君が変だって感じてて、だから確かめてみるって言ってたし」
 先日の十代の姿が脳裏に甦る。『実は俺も、ここ最近何か変だなーって思ってるんだ。いつものヨハンじゃないみたい。妙に優しいし、声、なんか甘いし。確かにヨハンであるはずなのにまるで人が変わっちゃったみたい』彼女は確かにそう言った。彼女の口ぶりだけだと単に女性として意識され出したからなのではないかと言ってやりたくなるが、龍可はヨハン少年の変化を感じ取っている。どんな理屈かはわからないけれど「まるで別人になってしまったみたいに」変貌してしまうことは有り得なくはないのかもしれない。
「確かめるって……何で?」
「デュエルでしょ。ヨハン君も十代もデッキを持ってるんだから。あの子ならそれ以外で決着つけるなんて考えられないんじゃないかしら」
「……。それもそうね」
 誰に似たのかは知らないが十代は根っからのデュエル馬鹿なのだ。相手がデッキを持っていて自分もデッキを持っているとなればまずデュエルをしたがる。大概のことはデュエルで解決できると信じている。デュエリストの聖地であるここネオドミノシティ――武藤遊戯、海馬瀬人、城之内克也らを輩出した旧土実野町だとその論理で実際まかり通ってしまうのでその持論を彼女はあまり疑っていない。
「デュエルで解決出来れば楽でいいんだけど。まあ、デュエルで世界の存亡が決まったことも何回もあったし、案外結果が出たかもしれないわね」
「うん。ねえアキさん、折角まだ時間があるんだし、とりあえずその話は置いておいてウィンドーショッピングに出掛けない? 十代達のことは結局十代達が解決するしかないわ。いくら遊星が心配したって、私達が考えたってしょうがないもの。……あと龍亞、あなたどうしてさっきから唸ってるの?」
「え? あ、声に出てた? ごめん。ちょっと引っ掛かることがあってさ……」
「買い物の荷物持ち頼むから、あんまり声に出さないで考え事してて」
「あーうん。わかった」
 龍亞は妹の理不尽な要求に素直に頷いて頭の中の朧な記憶を追いかける作業に戻った。
 あの、伝説の人の名前をそういえば一度先輩が教えてくれた気がするのだけどもどんな名前だっただっけか?



◇◆◇◆◇



 久方ぶりの学校だったけれど、あまり意識はクラスメートのお喋りやらには向かなかった。ずっと上の空だ。気が付くと、視線で十代を追っている。女子達に紛れて何か話をしている彼女は、相変わらず色気も何もない男子のものと同じ仕様のズボンを着用していたが、だからって男なのかと疑うことはもうない。十代はヨハンにとって混じりっ気のない女の子だった。親友で、その先のことを考えた相手で、そして好きな女の子だった。
「……今更気付いたって遅いのに」
『御愁傷様。まあ気付かせたのは俺だけどな』
「お前って本当にいい性格してるよな。……なあ、もし今さ、俺が十代の方に行ったらどうなると思う?」
『向こうはヨハンの体はもう完全に破滅の光のもんだと思ってるからなぁ。良くて上辺だけのいつも通りの反応、悪かったら警戒されて無視されるかもな』
「だよな。馬鹿野郎、だったら俺今日こんなふうにしてもらえなくても良かったよ」
『まあそう言うな』
 落ち込むなよ、と言ってくる破滅の光に誰のせいだと思ってるんだ、と返してやると破滅の光は悪びれるふうもなく『俺のせいだな。ははっ!』と言って笑った。無性に腹立たしい。
いつもヨハンは魂の奥の方に引っ込んでいて、何となくまわりの様子を知ることが出来るか出来ないか程度だったのだが破滅の光は家を出るなり体から飛び出てきて精霊のようにふわふわと浮かんでいる。「何やってんだよ」とじっとりした視線で尋ねると『あの中は窮屈すぎる』と肩を回した。
「その窮屈な中に俺はずっと閉じ込められてたんだぞ」
『怒るな怒るな。一応、悪いとは思ってる』
「お前の言葉って一から十億まで全部信用ならないのがすごいよな」
『そこまで言われると照れるな』
「褒めちゃいねーよ」
 溜め息交じりに言ってやって鞄を机に降ろす。その間破滅の光はじっとヨハンのそばで腕を組んでいた。服装は相変わらずヨハン・アンデルセンのもののままだ。薄紫のフリルシャツに青い、アカデミア・アークティック指定のブレザー。紫でラインが入れられた黒のパンツ。髪の毛はヨハン同様跳ね放題で、ヨハンより身長がやや高い。
「……。思ったんだけどさ、なんで頑なにその恰好なわけ? 他にもあるだろ。王子様時代の普段着とか正装とか戦着とか……全部フリル付いてんじゃん。なにこれフリルの呪い?」
『あいつ個人の趣味だよ。言ってやるな。……好きなんだ、この姿。馬鹿で真っ直ぐだった。唯一何も知らないで幸福な人生を謳歌して死んでいった。それが許せなくて羨ましくて、でもそんな姿もやっぱり俺の一部であるわけで、気に入ってるんだ。ヨハン・アンデルセンは遊城十代に幸福を与えられた。一番あいつとの関わりが密接だった人格なんだよな、こいつは』
「ああ、そっか。俺への当てつけかと思ってたら違うんだ」
『お前、未だに曾祖父のことが嫌いなのか?』
「こればっかりは性分って奴だな。同族嫌悪なのかもしれない」
 鞄から一限の教科書を引っ張り出すと机の上に筆記具と一緒に無造作に放る。一息吐いて席に着こうかと思った時、思いがけない人物がこちらの方にやって来た。十代だ。ずんずんと一直線に歩いてくる。
「じゅうだ……」
「"ヨハン"。今日の放課後、多分遅れる。場所はどこだっけ?」
「あ……ああ。わかったよ。場所は……」
『トップスを抜けてすぐの場所にある街路。ネオドミノシティ二十四番区域八番街路』
「ネオドミノシティ二十四番区域八番街路……だって。あー、わかった。俺達が一番最初に会ったとこだ。ぶつかった場所。……十代? 俺の顔に何か付いてる?」
 破滅の光の言葉を伝えると十代は変な顔をして、じっとヨハンの瞳を見る。十代の瞳はいつもの鳶色だった。ヨハンの瞳も同様に緑色だ。薄い新緑の色。金色じゃないし、銀色でもない。
「いや……なんでもない。そうだな、どうでもいいことだよ。じゃ、放課後」
 しかし十代はヨハンが見つめ返すとはっとしたように体を震わせ、言い訳をするようにそう言うとくるりと身を翻しヨハンから遠ざかっていく。手を伸ばしかけたが、留まった。伸ばしたって触れられない気がした。
「よっ、おはよう遊城。彼女と喧嘩か?」
「いやいや、放課後会う約束してたぜ。倦怠期の間違いだろ」
「あー、まあ、好きに解釈してくれ」
 その様を見た学友達がからかいに集まってくるが、訂正する元気など残っているわけもなくヨハンは机に突っ伏した。喧嘩、という言葉はあまり間違っていない。あれはきっと破滅の光と優しい闇の終わらない痴話喧嘩みたいなものだ。あいつら本当は似た者同士なんじゃないだろうか。
「……そういえば、お前って十代には見えないんだ?」
『お前にしか見えない。覇王であろうと俺の姿は不可視のはずだ』
「ああ……そう」
 疑問も晴れたのでヨハンは目蓋を閉じて本格的に居眠りを決め込む。学友達が「おいヨハン寝るのかよ」だとか「ほっとけほっとけ。面白いから」だとか好き放題言っているが、こいつらはこれでしっかり先生が教室に入ってくれば起こしてくれるのであまり問題はない。


「……さっきの」
 十代が消え入りそうな声で言った。
「……ヨハン、かな」
『さあな。もしかしたらそうだったかもしれない』
「ヨハンが表に出てきてるの? どうして?」
『俺に聞かれたって困るぜ』
 近代史の授業は今時代が大正に移り変わったあたりらしく、黒板には板書がつらつらと書き連ねられていっていたが十代はどうも集中することが出来ずにうわの空でそんなことを考えていた。朝、遊星とケリを付けるのに時間がかかりそうなので遅れる、と一応声をかけに行ったのだが、その時のヨハンはいつもの人好きのする表情をしていた。優しい闇としての記憶を手に入れた十代からすると、ともするとあどけないようにすら思える。それは紛れもなく遊城・ヨハン・アンデルセンのする表情なのだった。
 破滅の光が装っているという可能性もゼロではないけれど。
「ヨハン、だったとしたら……。喋りたかったなぁ。頭、撫でて貰いたかった。キスされてもいいな。ぎゅーって抱き締めて貰えたら最高だな。無理だろうけど。……なんでそんな面白い顔してるの?」
 残りかすは十代の台詞に笑いをこらえてみたり赤くなったり青くなったり、唇を必死に結んだまま(多分開いたら笑い声とかが漏れてしまいそうなのだ)一人で百面相をしている。不思議に思って尋ねると彼はすうっと大きく息を吸ってそして吐いてから十代の疑問に答えた。
『いやあ。お前がヨハンに恋する乙女の視線を投げかけてるのを見ると自分がそうしてるみたいで面映ゆくて……。俺も女だったら素直にそういうふうに思えたのかな』
「ああ、昔ヨハンのこと盛大に振ったもんなぁ」
『異世界でさ……ヨハンがいなくなって、俺発狂したじゃん。あれって多分さ、ヨハンのことがすごく好きで好きでたまらなかったってことなんだと思うんだ。ヨハンが死んじゃったって思ったら目の前が真っ暗になった。今までのことが全部どうでもよくなった。世界なんか消えちまえって思った。覇王は優しいから、俺の願いを純粋に叶えてくれてしまった。その結果があの大虐殺。多分俺、本質ではヨハン……というか破滅の光と、何も変わらないんだ。一緒なんだよ。お互いが世界の全てだったんだ。あの頃はまだ子供だったから』
 でも、と残りかすは続ける。
『俺は大人になった。ならざるを得なかった。そして知ったんだ。それじゃ駄目なんだって。世界は一人とか二人で出来てるわけじゃない。数十億人の命、そして数えきれないぐらいのたくさんの生命で形作られてる。ヨハンだけで出来た世界は俺の思い込んだ幻想だった。それを知って、俺はヨハンを選択肢から知らず知らずのうちに除外してた。明日香と結婚して、そういうアウトサイダーな考えは捨てた』
「……うん」
『破滅の光は、その現実を知らない。直視することを恐れて目を背けている。あいつはまだ子供のままなんだ。ずーっと、ずっと、何千年も子供のまま時間が止まってるんだ。凍り付いたように永遠に子供じみた夢の続きを追い求めてる。それじゃ駄目だよ。夢はいつか醒めるから夢なんだ。醒めない夢はただの死だ』
 残りかすは躊躇せずに言い切った。破滅の光は動く死人だ、と続けた。十代は漠然とその意味を理解する。この人は、夢を終わらせて現実に連れ戻してやろうとしているのだ。
『あいつが見てるのが悪夢だろうが幸福な夢だろうが、知ったことか。俺があいつを生きた人間に戻してやる。そして一緒に死ぬ。破滅の光と優しい闇なんていう幻想はもう終わりだ。お前達には必要ないものだから』



◇◆◇◆◇



 終礼の後、ヨハンには目もくれずに学校を飛び出した。一目散に家に向かう。帰宅してみるとやはり誰もいなくて、扉には鍵が掛かったままだった。そういえば今日は出掛けるから遅くなると母のアキが言っていたような気がする。遊星は一昨日から職場に缶詰めで帰ってきていない。
 だけど、十代には――遊城十代には、予感があった。不動遊星は絶対に来る。あいつはネオドミノの救世主でありこの街に住む人々のヒーローなのだ。ヒーローは絶対に機を逃さない。何があったって世界の危機を耳ざとく聞きつけて駆け付けてくる。


 支度をして家を出ると、遠くからD・ホイール独特のエンジン音が聞こえてきた。その音はどんどんと近くなる。シルエットが目に入り、十代は確信した。真っ赤で、シンプルなD・ホイール。世界で一番かっこいいバイクの、遊星号だ。
 遊星号は家の玄関前で急停止し、一人の男が降り立った。全盛期に比べるとやややつれた顔付きをしていて、老けている。何しろ一児の父でもう四十の年を迎えているのだ。変わっていない方がおかしい。
 でも、あの正義感の強い眼差しはあの時と同じだった。パラドックスと三人でディスクを構えた時と一緒だ。
「――十代。どこへ、行くんだ」
「……父さん」
 やっぱり不動遊星はやって来たのだった。職場から慌てて飛んできたのだろう、遊星号から降り立った彼は白衣を着たままだし息が上がっている。本当に勘がいい。きっと彼は「娘が遠くへ行ってしまう」というその予兆だけでここまでやって来たのだ。
「どこかへ。俺にもわからないぐらい、遠くか……案外、近いか」
「何を、言ってる……?」
「"お前には関係のない話だよ。遊星"」
 「父」と呼ぶことを止めて言い放つ。遊星の表情が一瞬驚愕に歪み、そしてすぐに「ああ、やっぱり」といったふうに得心したものになった。呼び捨てで冷たい言葉を吐かれたのは娘の遅い反抗期のせいではないとわかっているのだろう。遊星は重々しく頭を振る。
「やはり、あなたか。"十代さん"」
「驚かないんだ?」
「予感はあったんだ。それこそ娘が生まれた時から。そして先日のゼロ・リバース未遂騒動の時強く感じた。俺の愛する娘は……」
「人間じゃないだろうってか」
 吐き棄てるように言う。十代の瞳はニヒルで、そして乾いて飢えていた。どうせそうなんだろう? お前も、そう言って俺を疎むんだろう? 瞳は暗に、しかし雄弁に語っている。
 遊星はその表情のあまりの陰鬱さに思わず息を呑んだ。それは確かに愛する娘が出来るものではなかった。だが、それは些末な問題でしかないということを遊星は知っている。
 どう変わろうと娘は娘だ。
「いいえ、十代さん。俺の娘は、何があろうとも俺の大事な娘です。人でないだなんて冗談でも言わない。あなたとの繋がりを感じただけで、そんなことは微塵も思わない」
「そっか。やっぱお前はいいやつだな」
 やっぱ勿体ないよ、神様。俺の大っ嫌いな神様。そう言って十代は遊星の手を握り、温度を確かめ、そして突き放した。不動遊星は出来た人間だった。彼は十分すぎる愛情を娘に注いでくれた。幸福な十五年間だった。思い残すことなんかもうなんにもない。不動の苗字を得ていることが夢みたいなことに思える。
「ありがとう、こんなになっても愛してくれて。お前みたいな親に、一回でいいから愛されてみたかった。今まで俺を――この魂を持つ人間の親になった奴らはみんな最後には俺を嫌がって遠ざけた。十五、六で変な力に目覚めちまうからな。人には過ぎた力だ。でもそいつらが悪いわけじゃなくて、それは人間っていう種族の性質みたいなもんだ。人間は自分の理解を超えるものを許容することが出来ない。だから俺の望みは永遠に果たされないイレギュラーみたいなもんだった」
「一回でいいからだなんて、どうしてそんなことを。何度でも言います。いや、言う。俺は遊城十代を尊敬していて、そして何より、不動十代、俺の娘を愛している。いつ、どんな時だって。――愛してるんだ、十代!!」
 遊星が叫んだ。びりびりと鼓膜が震える。十代はあんまり驚いてしまったのでぽかんとだらしなく口を開けてしまう。なんだか泣いてしまいそうだった。優しい闇の長年の夢の一つが今明確に果たされたのだと証明されたのだった。
「娘を愛さないような親に俺はなりたくない。娘が例え非行に走ろうが殺人に手を染めようが、俺が十代を愛さないなんてことは有り得ない。愛してる。俺も、アキも、世界で一番お前を愛してる。宝物なんだ。……だから、遠くへは、行かせない。どんな力があったって知らない。俺の手の届かない所へは行かせられない」
「……そっか」
 でも十代は、やっぱり遊星の手を振り切ったのだった。それでも遊星を巻き込むわけにはいかない。愛しているからこそ、愛されているからこそ、だ。頬を涙が伝う。十代は泣いていた。でもそれを恥ずかしいとは思わないし、むしろ嬉しいと思う。
 親に愛されて泣けるなんて今まで数千年の間に思ってみたこともなかった。
「あの時の約束を果たそう、遊星」
 十代は夕陽を背にそう言った。夕陽の中に溶けて沈んでしまいそうな儚い表情だった。
「ディスクを構えろよ――俺とデュエルだ。絶対に、お前をここから先へは通さない。あんなくだらないものにお前は首を突っ込んじゃいけないんだ」

 だいきらいなかみさま。
 今、一度だけお礼を言いたい。あんたのことは相変わらず嫌いだし胡散臭いと思ってるけど、これだけは感謝してもいい。
 この人の娘に生まれさせてくれて、ありがとう。