26:マイドリーム・マイヒーロー
『今度は俺とデュエルしようぜ遊星。きっとまた会えるさ。こうして一度集まれたんだからな。未来は任せたぜ? お前ならきっと上手くやってくれる。――なんとなくわかるんだよな。お前もきっと、誰かにとってのヒーローなんだろうって』
今から二十二年前のあの日、遊城十代が不動遊星にかけた言葉であり、そして永遠に果たされることがないと思っていた約束だった。遊城十代は死んでいた。今から三十八年前に。死者は黙するもので、まかり間違っても墓から這い出てきてデュエルを申し込んできたりはしない。それはB級ホラー映画の中だけの出来事だ。口がある死人など墓地発動効果を持つカードだけである。
だというのに、今現在十代は遊星の眼前にしかと立ちその圧倒的な存在感を示している。強者のみが持ちうる絶対の威圧。だがそれは娘の体なのだ、と思うと複雑な心境になるとともに頭の中がこんがらがってしまいそうな感触を覚えた。
「遊星」
十代の短くも厳しい声が響く。
「……迷ってるんだよな、お前。純粋なデュエリストとしてお前は俺と戦うことを喜んでいる。だが娘だと思うと、なかなかそうも言ってはいられない。なあ、だからさ遊星」
十代はディスクを取り出すと腕に装着し、デッキを勢いよくディスクに叩き込んだ。モーメントエンジンの駆動音がしてデュエルディスクが起動する。
「今、俺を娘だと思うな。手加減などもっての外。俺を遊城十代だと思って全力でかかってこい。――そしてその上で、俺がお前を完膚なきまでに叩きのめしてやる」
だからお前もディスクを構えろ。無言の圧力を肌で感じ取り、遊星は黙って遊星号からデュエルディスクを取り外した。娘とディスクを使ったデュエルを最後にしたのはいつだっただろう? もう大分長い間彼女とカードを通して触れ合っていなかったような気がする。
そこまで考えて、遊星は短く首を振った。この人は言った。「娘だと思うな」と。今遊星の正面に立っているのは遊城十代だ。武藤遊戯を継ぐ者。史上最強のHERO使いにして遊星が尊敬してやまない存在。
ディスクを構え、使い慣れたデッキをセットする。ディスクがオートシャッフルを終えるのを確認した十代が目を細め、薄く唇を動かした。
「約束を果たそう、遊星。最初で最後の、大人げないまでの先輩の全力だ」
「俺のターン、ドロー。手札からE・HEROプリズマーを召喚。プリズマーの効果発動、エクストラデッキの『ネオス・ワイズマン』を参照し『ユベル』を墓地に送る。カードを二枚伏せてターンエンド」
先攻で出来ることは少ないので下準備だけ進めて手早くエンド宣言をする。手札もまあ悪くない。遊星の展開力の高さを利用してユベルで制圧することが出来そうだ。いざとなったら超融合でモンスターを吸収してしまうことも出来る。
十代のエンド宣言を受けて遊星がターン宣言をしてデッキからカードを一枚ドローする。遊星の方も手札は悪くなかったらしい。だが、遊星の回りが良ければ良い程十代としては都合がいい。
「手札から魔法カード『ワン・フォー・ワン』を発動。手札の『ボルト・ヘッジホッグ』を墓地に送ることでデッキから『レベル・スティーラー』を特殊召喚。更に手札一枚をコストに『クイック・シンクロン』を特殊召喚」
先日借り受けた二丁ガンマンが遊星のフィールドに現れる。くるくると銃を回し、そして相対する十代を威嚇するように銃口をこちらに向けた。本気だな、と十代は舌を巻く。今日の遊星は恐らくここで止めてくれる程甘くはないはずだ。
「手札から『ジャンク・シンクロン』を通常召喚。ジャンク・シンクロンの効果発動、墓地からレベル二以下のモンスターを一体特殊召喚する。俺は墓地より『ボルト・ヘッジホッグ』を特殊召喚!」
「……自己蘇生を使うと除外しなきゃなんねぇもんな。使い回す気か」
「更に墓地からモンスターの特殊召喚に成功したことで手札の『ドッペル・ウォリアー』の効果発動。手札のドッペル・ウォリアーを特殊召喚する」
頭が痛くなるような特殊召喚のオンパレードだ。流石は遊星、一筋縄ではいかない。後攻一ターンでフィールドをモンスターで埋め尽くしてきた。そして彼の真価、この時代最流行の戦術はその先にある。フィールド上のチューナーはレベル五、クイック・シンクロンとレベル三、ジャンク・シンクロンの二体。となれば自ずと遊星の取る手段は読めてくる。遊星の手がディスクのエクストラデッキが納められている場所に伸ばされた。
「レベル三チューナーモンスター、ジャンク・シンクロンをレベル二、ボルト・ヘッジホッグにチューニング。――集いし星が新たな力を呼び起こす。光さす道となれ! シンクロ召喚! いでよ、ジャンク・ウォリアー!!」
遊星のサテライト時代からの愛用モンスター、廃棄されたスクラップの中から誕生したくず鉄の戦士ジャンク・ウォリアー。スターダスト・ドラゴンと双璧を成す遊星のエースモンスターの一体だ。アタックは二三〇〇とやや控えめだがこの状況ならばその値を越え一気に跳ね上がるということを父に散々負かされてきた不動十代は知っている。
(だが……それじゃ、まだ俺には届かないぜ。まだまだ甘い。俺はお前に負けてやるわけにはいかないんでね)
その状況でもなお、十代は笑んだ。覇王の向かうところ敵なし。伊達に仰々しい名前を名乗っているわけではない。
「ジャンク・ウォリアーの効果発動。フィールドに存在するレベル二以下のモンスターの攻撃力の合計分自身の攻撃力を上昇させる。俺のフィールドにはレベル一、レベル・スティーラーとレベル二・ドッペル・ウォリアーが存在する。スティーラーの攻撃力六〇〇とドッペル・ウォリアーの攻撃力八〇〇を加算しジャンク・ウォリアーの攻撃力は三七〇〇となる! ……続けて!」
攻撃力三七〇〇といえば、あの神のカードの一柱「オベリスクの巨神兵」に迫る数値だ。だが遊星はそれでよしとせずに更なる召喚を行うべく手を動かす。
「レベル五チューナーモンスター、クイック・シンクロンをレベル一、レベル・スティーラーとレベル二、ドッペル・ウォリアーにチューニング。集いし願いが、新たに輝く星となる。光さす道となれ! ――シンクロ召喚! 飛翔せよ、スターダスト・ドラゴン!!」
遊星の魂、星屑の龍がフィールドに降臨した。十代が借りた時とは比べものにならない美しさだ。やはり本来の主の元にいてこそ精霊は輝く。……レインボー・ドラゴンの時も思ったことだが。
「ドッペル・ウォリアーの効果によりドッペル・トークンを二体守備表示で特殊召喚する。バトル! ジャンク・ウォリアーでE・HEROプリズマーを攻撃!!」
「罠オープン、『ヒーローバリア』! 一度だけモンスター一体の攻撃を無効化する!」
「だが、まだスターダストの攻撃が残っている。スターダスト・ドラゴン、シューティング・ソニック!」
「甘いぜ、甘すぎる。俺をワクワクさせたことは評価してやるがそれだけだ。言っただろ、お前を完膚なきまでに叩き潰してやるってな! ――罠オープン、『リミット・リバース』! 墓地から攻撃力一〇〇〇以下のモンスター一体を表側攻撃表示で特殊召喚する。俺はユベルを召喚!!」
戦闘が巻き戻り、墓地から魂を分かちた半身であるユベルが姿を現す。ユベルは十代を一瞥すると愛し気に視線を投げ掛け、それから遊星に向き直った。
『もう僕の出番かい? 今日の君は随分せっかちだ』
「人を待たせてるしな。頼むぜ、ユベル」
『言われなくったってわかってるさ。それにこうして君に呼び出されるのは百年振りだ。腕も鳴るってものだよ』
ま、僕は動かないけどねぇ? 気安いふうに言ってユベルは両手を広げる。
「……そのモンスターは、昔十代さんと一緒にいた……」
『おや、覚えていてくれたんだ。物覚えがいいんだね。そうさ、僕こそが精霊ユベル。十代と魂を共にする覇王の守護者。そういえば、君とは何年か前に一度会ってるかな?』
「……それいつだ? ユベル」
『君が幼い頃の話さ。昏睡してしまった君のそばでどうしたものかと思案していたら父親のそいつが通り掛かった。その時変な顔してたから僕の姿も見えてたんじゃないかな。それだけだよ』
さあ、急ぐんならさっさと先に進めなよ。ユベルデュエルの続きを促す。巻き戻された戦闘を続行するかどうかを遊星に尋ねると彼は首を横に振った。
「戦闘を中止。……あなたが出したカードだ。その上、攻撃力はゼロ。何もないはずがない」
『ま、賢い選択だ。それでも十代には遠く及ばないけど』
そのまま遊星はエンド宣言をし、ターンが十代に切り替わる。十代はカードを一枚ドローし、口端で薄く笑った。この一枚で全てが繋がった。
ドローしたカードは、「スナイプストーカー」。
「ユベルを守備表示に変更することで、リミット・リバースの効果によりユベルは破壊される。――そしてユベルの効果発動! 自身以外のカード効果で破壊され墓地に送られた時、その進化した姿をデッキ・手札・墓地から呼び寄せる。『ユベル‐Das Abscheulich Ritter』を特殊召喚!」
「何……?! では攻撃を誘うような召喚の仕方はブラフ……?」
「いや、ユベルの効果で攻撃してきたモンスター分のダメージを負うはめになってただろうな。尤も破壊効果が付いてるんでスターダストが無効化した上でユベルも進化したろうけど、それは所詮結果論に過ぎない。――更に、E・HEROプリズマーの効果を発動。シャイニング・フレア・ウィングマンを参照してE・HEROスパークマンを墓地に送る。このターン、プリズマーはスパークマンとして扱われる……そして手札から融合を発動。手札の沼地の魔神王とスパークマン扱いのプリズマーを融合しエクストラデッキから『E・HEROシャイニング・フレア・ウィングマン』を召喚する。シャイニング・フレアウィングマンの攻撃力は墓地にいるHEROと名の付くモンスターの数かける三〇〇だけアップする。現在墓地にいるのはスパークマンとプリズマーの二体。よって攻撃力は三一〇〇!」
「だが、ジャンク・ウォリアーを越えることは出来ない!!」
「スターダストさえ倒せれば問題ないんだよ。確かにユベルは今のままじゃ能動的な攻撃は出来ない。そう、今のままじゃな!!」
ユベル‐Das Abscheulich Ritter、忌まわしき騎士の名を冠するユベルの第二進化形態。第一進化形態のユベル同様、このモンスターも効果破壊されることで次なる形態へと姿を変える。具現化した悪夢は、究極の悪夢へと変貌を遂げる。
そしてそのおぞましい姿こそがユベルの愛と信頼の形なのだと、十代は――覇王は知っていた。ユベルは自らの人としての姿を棄てて覇王、優しき闇の力そのものであるDas Extremer Traurig Drachenと融合した。優しい闇を守る悪夢となり、彼女はその全てを闇に捧げた。
だから十代は躊躇わずその手段を取る。彼女こそが十代の、確固たる意志の表れだ。
不動遊星への感謝と愛の形。
「手札からスナイプストーカーを召喚し、スナイプストーカーの効果発動。手札一枚をコストにサイコロを振り、一と六以外の目が出た時指定したカード一枚を破壊する。俺はユベル‐Das Abscheulich Ritterを選択」
「――スターダスト・ドラゴンの効果をチェーンする!」
「残念だが、こいつの効果はランダム要素の入った不確定破壊だからスターダストの効果は使用出来ない。見せてやるよ、俺を守る最強の守護者を。……効果破壊されたことで『ユベル‐Das Abscheulich Ritter』の効果が発動。デッキ・手札・墓地から『ユベル‐Das Extremer Traurig Drachen』一体を特殊召喚する。降臨せよ、覇王究極の僕――我が半身の悪魔よ!!」
とてつもなく巨大な、四つ頭の頭がその姿を顕す。左半分が女、右半分が男の奇妙な面が胴にあり、四肢の位置から伸びる竜の四つの頭にもそれぞれ顔が付いていた。酷く禍々しいフォルムだ。故にかつてその姿は、王子の父であった王にこう形容された。
『二目と見られぬ醜い竜の姿』。
だがユベルは美しい。醜いだなんて誰が思おうか。彼女が美しい人の姿を棄てたのは他の誰でもない覇王、優しい闇に愛された王子のためなのだ。
「さあ、バトルだ。E・HEROシャイニング・フレア・ウィングマンでスターダスト・ドラゴンを攻撃! シャイニング・シュート!!」
シャイニング・フレア・ウィングマンの攻撃によりスターダスト・ドラゴンが光の中に掻き消える。そういえばこいつは光属性で、ネオスも光属性だったなということを何となく十代は思った。優しい闇に使役されているくせに真逆の性質を持っているのだ。毒をもって毒を制する意味があるのかもしれない。
スターダストさえ除去出来ればユベルの能力を行使することにもう問題はない。ユベルの能力は「攻撃力分のダメージを与え、そしてその後破壊する」ものなのだ。破壊に「ヴィクティム・サンクチュアリ」をチェーンされててしまっては目も当てられない。最終形態まで進化したユベルはバウンス・除去に殆ど耐性がないのである。
尤もこの段階で遊星の残りライフは三四〇〇。破壊効果が発生する前に効果ダメージで勝負は決する。
「そしてユベル‐Das Extremer Traurig Drachenでジャンク・ウォリアーに攻撃。ナイトメア・ペイン!!」
ユベル究極体の五つの顔に付いた数多の眼が妖しく発光する。その光に当てられたジャンク・ウォリアーは操られているようにふらふらとユベルの方へ向かっていき、その拳をユベルに向かって力なく振り上げた。「スクラップ・フィスト」だ。だがその腕が生み出した破壊力は、そのままジャンク・ウォリアーのコントローラーである遊星に跳ね返る。
「ユベルの効果により、遊星に三七〇〇のダメージを与えジャンク・ウォリアーは破壊される。俺の勝ちだ、遊星」
遊星の残りライフ三四〇〇は一気に消し飛び、ディスクの数値は無情に「ゼロ」の値を示す。十代はデッキとディスクを仕舞うと父の方へと歩み寄って行った。普段の人に近い姿に戻ったユベルも後ろにくっ付いてきている。
「お前はよくやったよ、遊星。だが、俺はお前に負けてやるわけにはいかなかった。……これは俺とヨハンの問題なんだ。まあ確かにちょっとばかりこの街には迷惑というか被害を被って貰うことになると思うけど……」
「……ネオドミノに、被害を?」
「俺とあいつがデュエルしたら恐らく全てのカード効果が現実に干渉を起こす。上空にいきなり虹の古代都市が出現したりモンスター同士の打ち合いの余波でちょっと振動が発生したり火の粉が散るかもしれない。あんまり高層に作られてるビルは一部破損するかもな。KC本社とか。……いや、うん、俺も出来る限りその辺は注意するけどあいつは多分全然気にしないだろうし……そんな顔しないでくれよ……」
可能性を述べ上げてみると、遊星が絶望的な表情になった。彼はこの街を救ったことを誇りに思っていてまたこの街の美しく平穏な姿を誰よりも愛している。衝撃的という言葉では済まなかったのだろう。だがこの件に関しては事前に知らせない方が酷なことだと思う。
「つってもKC本社はかなり頑丈に出来てるし、俺も昔止むを得ず本社に仕掛けられた爆弾を止め損ねて大爆発を起こしたの間近で見たことあるけど割とすぐに復興してたぜ。機密情報とか大事なものにはあまり被害がなかったって後で海馬社長に聞いたし」
「そうは言っても……あの、KC本社の五十六階には俺の職場があるんですけど……」
「マジか。そいつは参ったな、お前がモーメントを制御出来なくなるのは避けないと」
「モーメントを?」
遊星の疑問に「ああ」と短く答えて十代は地にしゃがみ込んでいるいる彼の肩に手を置いた。随分疲労して、がちがちに凝り固まっている。そういえば最近は会う機会が少なかったから肩揉みもしてやっていなかった。父のこの背中は、家族を守ることで傷付いてきた背中なのだ。娘からしてみればこれほど誇らしい背中もない。全てに決着がついたら肩ぐらい揉んでやれよ? と魂の奥で成り行きを見守っていた不動十代に言ってやると彼女は素直にこくりと頷いた。
「破滅の光――四十年前のゼロ・リバースと先日のセカンド・ゼロ・リバースを引き起こす影響元となった力が暴れ回ることになる。フォーチューン搭載型とはいえ影響される可能性は少なくない。いいか遊星、兆候を感じたら躊躇わずにこの街のモーメントを全て停止させろ。逆回転しだしてからじゃ遅い。……尤も、暴走して命令を受け付けなくなるかもしれないが……。その場合は俺がなんとかする。俺の力は破滅の光と対極を成す闇の力だからな。上手くいけば打ち消せるかもしれない。それからもう一つ」
人差し指を立てて遊星の顔の正面に自分の顔を持ってくる。遊星は無言で、しかし真面目な表情で娘の姿をした先達の言葉に耳を傾けていた。生真面目な奴なのだ。きっと、今から言うことも一度で呑み込んでくれるだろう。
「お前にしか頼めない仕事があるんだ。KC本社の地下機密室に一枚のカードがある。厳重にロックがかかっているが、お前の立場なら解除して持ち出すことが出来るはずだ。パスワードは三つあって、まず一つが『我が最愛の友ヨハン・アンデルセンに送る』だ。デンマーク語な。スペルミスすると開かないから気を付けろよ」
『君がその指定をあのコアラにした時も思ったけどなんでデンマーク語なんだい?』
「何かマイナーな言語で簡単な奴が何かって考えたらデンマーク語だった。ヨハンに教えて貰えばまず間違わないしな……そんで二つ目が、『オーバー・ザ・レインボー』。こっちはドイツ語」
『だからなんで回りくどい言語を選ぶんだい君は』
「ヨハンの奥さんに聞けばすぐわかったからだよ。……そして、最後の三つ目。カードスキャナーが出てくるはずだから『希望』をスキャンしろ。希望の象徴を。光でもなく、闇でもない、お前の信じる希望を」
ひとしきり言い終ると十代はすっと立ち上がり、ぱんぱんと服を払う。沈み始めだった夕陽はもう地平線の奥へ溶けるか溶けないかというところで、辺りはすっかり薄暗くなってしまっていた。
遊星も十代に倣い立ち上がる。並んでみると背丈には随分な差があって、この少女の体がいかに華奢であるかを思い知らされるようだった。そう、少女だ。今代の優しい闇は細く、ともすればあっという間に壊れてしまいかねない脆い生き物だった。けれど強く美しい。硝子細工のように繊細に見えるが、その実は強靭な強化硝子に近い。
そういうふうにこの少女が育ったのは一重にこの男が慈しみ育てたからなのだ。いい親を持ったな、と思うと自然と笑みが零れた。
本当に幸せな時間だった。
「行くんですか」
背を向けた十代に遊星が言葉を投げかける。
「ああ。俺は勝った。だからお前にはもう、俺を止める権利はないぜ」
「止めません。遊城十代を止めるなんてことは俺には出来ない。あなたは走っている。あなたの行くべき場所へ――未来へ」
恥ずかしげもなくそんなことを言う。百年前、同じようなことを十代に言った男がいた。『遊城十代は、確かに皆が望んでいるようなヒーローなんかじゃないかもしれない。でもその足を止めることは出来ないんだ。体に染み付いたものはそう簡単に捨てられない。――十代はずっと、走り続けている。ヒーロー達とワクワクすることを見付けるために』。誰かなんて考えるまでもない。ヨハンだ。ヨハン・アンデルセン。
単純な愛よりも深く強い結び付きで繋がっていたその友は、更にこう続けた。
『お前が足を止めるのはきっと死ぬ時だよ。その瞬間まで未来を夢みているんだ。明日何を食べようとか、そのぐらいのことから何まで全てが新しい感動に満ちている。そう考えるとさ、素敵じゃないかな? 少なくとも俺はそう思う。だから俺も、十代のように走ることを止められない』
その時はとんだロマンチストだなと頭の片隅で思ったものだが、彼のきれいな笑顔を見ていたらそんなことはどうでもよくなった。ヨハンは綺麗だ。きらきら輝いてて、大きな夢を持っていた。「精霊と人間の架け橋になる」。ユベルは『頭の悪い子供みたいな夢だ』と不機嫌そうに鼻を鳴らしたけど十代はそうは思わない。
けれど今、十代にそう笑いかけてくれたヨハンは走ることを止めてしまった。過去に縛られ、破滅の光というまやかしに囚われて後ろ向きに座り込んでしまっている。そんなのは駄目だ。良くない。
遊城十代が走り続けているというのなら、ヨハン・アンデルセンもまた走り続けていなくては駄目だ。
「だから、俺と約束してください。帰ってくると。儚く消えてしまったりなんかしないと。走り続けて、そして、ちゃんと俺のところへ帰ってくると」
遊星は僅かに目尻を赤くして泣いていた。大の男がいい年をして、泣いているのだった。娘のために。でもそれは当たり前のことで、何ら恥ずべきところのないことなのだ。子供の心配をしない親がどこにいよう? いたとしたらそいつは人でなしの親でなしだ。そいつの子供はそう思っているに違いない。「お前なんか親じゃない」と。かつての遊城十代のように。
遊星の目から零れた涙が滴になって頬を伝い落ちた。「十代!」彼は敬語を止め、尊敬する先輩ではなく愛する一人娘に対して叫ぶ。
「帰って来い、十代。お前の家へ、家族の待つ場所へ。この年で娘を失う目になど遭ってたまるものか。俺は娘の花嫁姿を見るまでは絶対に死ねないと、お前が生まれた時にそう決めたんだ」
「ああ、勿論帰ってくるさ。絶対に帰ってくる。――父さん」
だから約束、十代は指切りをする仕草をして、振り返った視線の先の父に笑いかける。
「大好き。世界一かっこいい俺の父さん」
その後は、もう振り返らなかった。振り向くなんて恥ずかしくて出来なかった。十代も静かに泣いていたのだ。父の愛が苦しいぐらいに嬉しかった。息が詰まってしまいそうだ。
『……泣いてちゃ、はじまらないけどさ。今だけ泣いていいよ。不動遊星、あいつは君の最高の父親だ。悔しいけど僕もそれは認めざるを得ない』
「あたり……まえ、だろぉ。俺が選んだ父親なんだからな」
『僕じゃ君の父親にはなれないからねぇ。その点じゃあの男には敵わないね。ま、あの馬鹿丸出しのフリルに負ける気はしないけど。ほんと、なんでこう君はそれでもあいつのことが好きなんだか』
遊星への敗北宣言から、さり気なくヨハンの罵倒へと話をスライドさせる。ユベルのヨハン嫌いは徹底したものなのだ。それに今は、いつまでも遊星のことを考えているわけにはいかないのもまた事実だった。ヨハンのことを考えなければいけない。自分を待っている破滅をもたらす波動に愛された男のことを。
「……遊星が俺のことを愛してくれる最高の父親なのだとしたら、ヨハンは俺の最高のパートナーなんだ。あいつは俺にあいつ自身の全てを向けてくれた。包み隠さずお互いを曝け出せるという意味でヨハンを超える奴なんかいないんだ。俺は明日香のことはすごく大事に思ってたし愛してたけど、明日香に俺の全てを見せることは出来ない。彼女は俺の汚い部分をそれなりに知っていたけどもでもやっぱり隠したい部分ってあるんだ。それは性別上の問題であったりするし、その他の、すごく醜いものであったりして、」
でも、そんな汚い部分でもヨハンには隠さなくて済んだ。ヨハンは何だって笑って許してくれる人で、そして無条件で十代の全てを受け入れてくれる人だった。十代が女だったとしたら、彼を拒む理由はなかっただろう。
ヨハンの隣は酷く心地よく、暖かく、魅惑的なものだった。いっそ蠱惑的な程に。だが居心地が良すぎて二人して駄目になってしまいそうな部分があった。それは多分ヨハンが綺麗すぎたからなのだ。破滅の光という彼の濃縮された暗部は十代が生きている限り奥底に閉じ込められ続けた。
だからヨハン・アンデルセンは死を迎えるその瞬間まで一秒も欠かさずずっと輝き続けていたのだ。穢れも汚れもないベルベットや宝石のように。
「俺はさ、あの頃みたいに汚れを知らないような存在に戻って欲しいとは思わないんだ。それって不自然だし。人間は清濁併せ持ってこその愚かで美しい生き物だと思ってるから。……でも、今のままじゃ駄目だよ。俺は狂ってようが馬鹿げていようがなんだろうが、ヨハンを愛しているけれど――」
たくさんの「ヨハン」の姿が頭の中を通り過ぎていく。そしてそのどの姿も、最後には「破滅の光」になってしまう。遡っていくと奥の奥の方に一際眩しく発光する思い出があった。光が強すぎて何も見えないけれど、何かすごく懐かしくて大事な思い出なのだということだけが漠然と伝わってきた。
「走り続けている俺を綺麗だって言ってくれたあいつが止まっているのを見るのは我慢ならない。何度も何度も、そんな姿を見てきて、でも俺も立ち止まってしまっていたからどうすることも出来なかった。今度は違う。何か掴める気がするんだ。百年前に造ったあのカード、あれを造ろうと思ったのはある夢を見たからなんだよ」
『どんな?』
「真っ白で、眩しくて、切なくて刹那くて暗くて昏くて儚くまばゆい夢」
『わけがわからない』
ユベルが頭を振る。
「俺もあんまりわかってない。だけど大事な記憶だってことはわかったんだ。真っ白な光に塗りつぶされてしまっていたけど、あれがきっと鍵を握ってる。もしかしたら全ての発端になったものかもしれない。今はまだ憶測にすぎないけど……そうだな。そう遠くないうちに答えが出るかもしれないぜ」
遊星がカードを間に合ううちにディスクに送ってくれればだけど。目尻に最後まで残っていた水分を手の甲で乱雑に拭き取って十代は顔を上げる。信号が青になって、足を進めるとその分だけ待ち合わせた街路に近付いていく。
不動十代と遊城・ヨハン・アンデルセンが出会ったその場所で破滅の光は待っている。十代が着いたら、彼は甘ったるい声と表情で「殺し合いをしよう」と囁いてくるだろう。それがたった一つのやるべきことなのだと嘯いてくるだろう。
嘘ばっかりだ。そんなの、欺瞞だ。
「今度は殺し合いになんてさせてやるもんか。遊星と約束したしな、『十代』も『ヨハン』も生きて帰してやる。俺はさぁ、あいつら……破滅の光と優しい闇は、ここらで幸せになってもいいと思うんだ。いつまで悲劇ごっこをしてれば気が済むんだって、いい加減思わずにはいられねぇんだもん」
「Deadend World」-Copyright(c) 倉田翠