27:行き止まる世界

 薄い夜の空の下、街灯のぼんやりした光に照らされて彼は気負わないふうに立っていた。春の夜風が肌寒い。彼はこちらに気が付くと振り向いて手を振る。何度か見た私服を着込んで、やや寒そうにぶるりと体を震わせた。
「待ってた」
「……そりゃ、どうも。悪かったな。一応謝っとくよ」
「いい。ちゃんと来てくれたからね」
 そう言うと口付ける。唇が唇から離された後、すぐに拭った。その様子に残念そうに眉を下げるが、しかし別段気分を害したわけではなさそうだ。
「……仕掛けてこないのかよ」
 拍子抜けして挑発するような目で尋ねてやると「まあね」と気の抜けた返事を返して「破滅の光」は「優しい闇」をその腕の中に抱いた。人通りが多いわけではないが、少なくない通行人が二人のそのさまをちらちらと横目で――ある者は羨ましげに、またある者は疎ましげに――見て、素通りしていく。「恥ずかしい」と抗議するとまた唇を塞がれた。
「あと五分だけくれよ」
「……なんで」
「君の温度をこの腕の中に感じて――」
 抱き締める腕の力が強くなる。儚い夢の残滓を逃すまいとするかのように彼は少女を抱いた。ふと、既視感を覚える。だが何と重ね合わせているのか思い出せない。
「それから、一緒に死にたい」
 懇願するように言った。腕を振り解くことが出来ない。


 「殺し合おう」、それが破滅の光の常套句だった。「好きにしろ」、それが優しい闇のいつもの返し文句だった。ふたつは何度もその不毛な遣り取りを繰り返して、そして特にそのことに何の疑問も抱かないまま文字通り死合いをした。どちらの手にも明確な殺意がある。だが、その瞳の中は酷く空虚だ。定められたままに体を動かしているに過ぎず、意志というものが殆ど感じられなかった。
 その繰り返しに変化が現れたのはいつのことだっただろう?
『愛してる。どうしようもなく堪えがたく狂おしく君のことを愛してる。胸が押し潰されてしまいそうに苦しい。君を手に入れたい。君を失いたくない』
『……仮に手に入れたとして、どうするというのだ?』
『わからない。ただ、手に入れたい。君を手に入れたらわかるような気がする。君と一緒になればわかるような気がする。君を腕に抱けばわかるような気がする。……君は、どうすれば手に入る?』
 ある時突然、それまで操り人形の木偶の棒でしかなかった破滅の光はそんなことを言い出した。優しい闇には破滅の光が理解出来なかった。初めて理解という言葉の意味を知った。その瞬間破滅の光は優しい闇にとって「得体の知れないもの」になった。
 「似たような何か」だったものが「似ているけれど明確に違うもの」になった。
 それから徐々に、破滅の光と優しい闇に自我が形成されていった。そしてこの時代をもって、ほぼその形成は完了する。破滅の光は感情を手に入れ、優しい闇は遊城十代という名の倫理と理性を手に入れた。そしてここにきて彼らは気付いたのだ。一番の、疑問点に。
 自分達は、何故生まれてこの運命に置かれているのだろう?
 光あるところに闇があり、闇があるところにまた光がある。一枚のカードから始まったこの宇宙に、命を育む優しい闇と命に知性を――時には毒林檎ともなりうる諸刃の剣を――与える破滅の光は創世の始まりから存在していた。だけどそれは朧な有耶無耶したものの集合体に過ぎないものだった。破滅の光と優しい闇の記憶の奥底に、そのぼんやりした霞のような姿が残されている。それらは世界中のどこにでもあってどこにもないものだった。有象無象で曖昧模糊な神の原型だった。神の成り損ないみたいな人型じゃなかった。喩えただけであって、神なんていやしないという思いは変わらないけど。
 そのはずが、気が付いた時にはふたつは人の形を、姿を得てしまっているのだった。それが無作為に抽出された生け贄か何かならまだどうとでも解釈出来ただろうがどの時代もどの時代もその代行者は同じ顔をしているのである。ずっと生まれ変わり続けて光と闇に縛られ続けていた。だけど契機がない。
 どうしてふたつは人になろうなどと思ったのだ?


「君がそんなことを気にしてるとは思わなかったよ。相変わらず繊細だ。とてもこと細かだ。俺だったらそんな些細なところまで気が回らないよ」
「回らない、じゃなくて回していないというのが正しい表現だろう。お前はずっと目を背けている。この悪夢とも何ともつかない夢が永遠であればいいと思ってる。それはきっと、一番最初の理由が思い出せないからなんだ。どうして夢の世界に逃げようと思ったのかもう覚えていないから、いつ夢から醒めたら嫌な現実が終わっているのかがわからない。或いは永遠に終わらないから永遠に夢を求めているのかもしれない。だけどそんな永遠は馬鹿げてる。ずっと夢を見ていたいんなら死んでしまえ」
 だから、一緒に死のう。何もない中空をごく自然に踏み締めて十代は言った。ディスクを左腕に装着して展開させる。
「一番最初の理由を、俺は知りたい。そこに全ての回答があるんじゃないかと思えるから。それに納得が出来たら、俺とお前のふたりで死ぬんだ。破滅の光と優しい闇は恒久の真理だけど、何かに憑き動かされているような破滅の光と優しい闇の代行体は必要ないよ。冥界なりなんなりに還るべきだ。それまでのどんな人生が蓄積されていようがこの魂は今はこの子達のものなんだから、俺達が不正に使っていい理由なんてどこにもない」
「……耳が痛くなる程正論だ」
 ヨハンもディスクを展開させながら、十代の主張に応える。
「でも俺の感情としては、ノーだ。君が俺を拒むのと同じように。俺はその結末を受け入れることが出来ない」
 両者がデッキをディスクに叩き込む音が小気味よく響いた。同時に、夜の空が割れるように空気が揺れる。
「存在しない答えを見付けさせるために、俺はお前の前に立った。今、一つ賭けをしてる。その賭けに勝ったら、お前も俺も何かしらの真実に近付くことになるだろうな。否応なしに。その時気が変わったらまた聞かせてくれ。いい返事を期待してる……さあ、デュエルだ。俺の象徴もお前の象徴も、兵隊も全部カードになってるこの状態でデュエル以外で決着を付けるなんて選択肢は有り得ないだろ?」
 「ユベル‐Das Extremer Traurig Drachen」のカードをひらひら翳してやるとヨハンはそれには反論しない、というふうに自身もまた「究極宝玉神レインボー・ドラゴン」のカードを示して見せた。それぞれ最後の一枚である「光と闇の象徴」をディスクに挿し入れるとモーメント・システムがそれを感知してデッキをオートシャッフルする。排出された五枚のカードを手に取り一瞥してから十代は背中から伸びた悪魔の翼をばさりとはためかせ、不敵に笑った。
「じゃ、先行は俺から貰うぜ」
「好きなようにしていいぜ。勝って君を蹂躙するのは俺だからな」
 ヨハンもまた背に生えた純白のやわらかな翼を翻して澄ました顔で答える。
 ふたりは今、ネオドミノシティ上空に立って――もしくは、浮かんで――いるのだった。



◇◆◇◆◇



 一口に機密保管室と言っても、海馬コーポレーション本社の有する機密物の数には膨大なものがある。その理由の一つに、KCの保安性の高さを見込んで十代のように私用の金庫代わりに使う社員が上層部の一部とはいえ後を絶たないという事情があった。遊星はそのような悪習に常日頃から異を唱えている一人だったが、しかし遊城十代が自分を当てにしてこの場所を選んでいたのだと思うと文句を言うわけにもいかない。
「カード名……いや、せめて保管している外装の外見だけでも聞いておくべきだったな……」
 モーメントの監視も怠るわけにはいかないので解除自体は職場で事情をかいつまんで説明したうえで行うつもりなのだが、そもそも開封するものが見付からない。サイズを聞いておかなかったのは確実な失敗だったと今更どうにもならないことを考えながら遊星は広大な室内で遊城十代――もとい、に委託を受けた誰か――の署名が入ったプレートをぶら下げた物がないかどうかを探していた。一応、その委託された人物の方には当たりをつけている。百年前にインダストリアルイリュージョン社との連携連絡を任されていたデザイナーズチーフの前田隼人だ。卒業名簿には載っていなかったが、ペガサス故会長の推薦で高校を中退した年を参照したところ十代の在学期間と一年被った。カードの製作を依頼出来たという事情を鑑みるに恐らく彼で間違いない。
 カードそのものを厳重に梱包した上で二種類のパスワードとカードリーダーが仕掛けられていることを考えると、然程大きいわけではないだろうがかといって小さいなどということもないだろう。百年前なら今より機械は大型のはずだから(信頼を置ける機械を選んだのなら尚更だろう)サイズは大体小型ダンボール程と言ったところか。
 そんなことを考えながら部屋の半分程を物色し終わった頃、ポケットに入れてあった社内連絡専用の端末がぶるぶると震えた。何事かと思い通信に出る。すると音声口からは切迫した様子の部下の声が聞こえてきた。
『私用で部署をあけていられることを承知の上で報告致します。現在時刻一八一〇をもってシティ上空に異常事態が発生し、それに伴うモーメント運行グラフの乱れが確認されました』
「異常事態の内訳と乱れの詳細を」
『シティ上空でデュエルモンスターズのモンスター・魔法・及び罠の効果が実体化し現実に干渉を及ぼしている模様。既にコンクリート破片の落下等の被害が報告されています。強力な干渉波の発生により肉眼以上の手段による観察は不可能、肉眼の方も何らかの妨害を受けているらしく視界が明瞭に確保出来ず数秒以上の直視も不可。モーメントグラフは下降と上昇を小刻みに繰り返し、緩やかに域値に近付いていっています』
「了解した。権限は気にしなくていいから出来る限りの手段を尽くして現在値以上を維持しろ。俺も出来得る限り早くそちらへ向かう。上空の現象は無理に観測を続けなくとも良い。そちらの解決手段に繋がる可能性を持つものの捜索に入っている」
 短い受理の言葉の後、通信が切れる。遊星は端末をポケットに戻して室内の捜索に戻る。どうやらあまりかまかけている時間はないようだ。



◇◆◇◆◇



 薄暗くなっていた空が、急に真っ青に晴れ渡る。時刻は午後六時十分過ぎ。どう見積もっても一度沈んだ太陽が輝くには早すぎる時間だ。
 驚いて上空を見あげた龍亞の目に入ったのは見覚えのあるフィールド魔法だった。朽ちたコロッセオ、四つの塔、そしてそこにかかる美しい虹。かつての繁栄を窺わせる、荒廃した美しいがどこか寂しく儚い都市の残骸。「虹の古代都市 レインボー・ルイン」だ。宝玉獣専用のサポートカードである。
 このカードを見たのは遊星に見せられたヨハン・アンデルセンの対戦ビデオの中でだ。遊星が散々疑ってかかっていたその人がこのカードを発動した相手は、確か一人がプロデュエリストのカイザー亮、そしてもう一人が――
「あーっ!」
「急に叫ばないで龍亞! ただでさえ今混乱が発生してるんだから!」
「だって、思い出したんだよ、さっき話した噂話の人の名前。遊城十代。遊城十代だ !!」
「それ、本当なの龍亞」
「本当も本当、大マジ。間違いないよ。それでこのカードはヨハン・アンデルセンのフィールド魔法。名前はえーっと……虹の古代都市、だっけ? 正確には覚えてないけど……」
 どういうわけか夜の空を割って出現した虹の都市を目を細めて眺め、龍亞が言う。よく晴れた快晴の空がまるでドームか何かのようにネオドミノの上空を覆っていた。上空遠くにモンスターらしきものと、よく目を凝らさないと見えないが豆粒のようなサイズの人が見える。だけど小さすぎて誰なのかはさっぱりだ。
 ただ、見えなくても予感はあった。片方は恐らく遊城・ヨハン・アンデルセン。であるならば、きっともう一人は十代だ。不動十代。
「よく覚えてるわね、そんな細かいこと」
「ずっとひっかかってたんだよなぁ、遊城十代って名前が。例の先輩が言ってた噂話さぁ、まだあるんだ。すっごいオカルトっぽいから龍可は聞いてくれないと思ってあの時は言うの、やめたんだけどさ。……その人、デュエルモンスターズのカードを現実のものにすることが出来るんだって。サイコ・デュエリストなんてメじゃないんだぜ、って俺のこと脅かすように言うんだ。俺はアキ姉ちゃんを知ってたからそんなの嘘だって言ったんだけどその先輩はこんなふうに返してきた。……その人、精霊を魂の中に入れて人間業じゃないことをやってのけたんだって。例えば空を飛ぶとか」
 空の方を指差して言う。龍可はさっきみたいに「嘘吐かないで」なんて茶々を入れることなく黙って龍亞の言葉を聞いていた。隣でアキが呟く。……「空を見上げられるの、もしかして私達だけなのかしら」。
「本音言うと、噂が独り歩きして付いてった尾ひれか何かだと思ってた。噂がおっきくなっちゃうのってよくあることだし。だけど今あの光景を見たらビビッときちゃったんだ。あれ、十代とヨハンだよ。絶対そうだ。遊星の勘はやっぱり外れてなかったんだ」
「ビビッと来たって、いくらなんでも理由が適当すぎるわ」
「こう、なんていうかなぁ、上手く言葉に出来ないんだよぉ。多分さぁ、本当に二人は生まれ変わりなんだ。ヨハンが変になったのはそのことを思い出しちゃったからで、今度は十代にその番が回ってきた。じゃなきゃ、誰があんな空高いとこでデュエルなんかするんだよ。モンスター同士が戦ってて、あれ、丸っきりデュエルじゃんか。空飛ぶD・ホイールは遊星しか持ってないしそしたら空に遊星号が見えてなきゃおかしい。――あ、そうだ遊星!」
「ちょっと龍亞!!」
 一人で納得して龍亞がポケットからモバイル端末を取り出す。遊星の勤務状況なんて知らないから構うことなくコールをかけた。プルルル、と短いコール音に続いて『どうした、龍亞』と聞き慣れた声が聞こえてくる。不動遊星のものだ。
「あっ、もしもし遊星。大変なんだ。ネオドミノの空が割れちゃって、上空でデュエルが始まってるんだけど――」
『知っている。十代……さん、とヨハン・アンデルセンだろう』
「やっぱりそうか。遊星も見た? あの夜空をぶち破って現れたフィールド魔法。名前はなんだっけな、……虹の古代都市……」
『レインボー・ルインだ。龍亞には見えるのか? 上空で起こっていることが』
 端末の向こうから不思議そうな遊星の声が聞こえてくる「あったりまえだよ」、と叫ぶように言ってやるとそうか、と思い当たることがあったみたいな呟きが返ってきた。
『部下の報告では、機械による上空の観察は全滅して肉眼での観測もままならないということだった。辛うじてデュエルモンスターズだろうとの推測は立っているが……といった調子だ。もしかしたらだが、赤き龍の力が作用して俺達だけジャミングから保護されているのかもしれない。今のところ痣はなんともないが』
 遊星がそう言った瞬間右腕が酷く痛む。赤き龍の、シグナーとしての痛みだ。同時に脳裏にヴィジョンが閃いた。一瞬だったが、十代の姿が見えた。荒廃したコロッセオに足を付きカードを繰っている。表情はきりりとしてまるで十代じゃないみたいに冷静だった。
『……前言撤回だ。間違いなく俺達は赤き龍に保護されている。あの予見の、レインボー・ドラゴンに関わる部分は恐らくこのことを指していたんだな。ヨハン少年がこの街の、ひいてはシグナーである俺達の無事に関わることに赤き龍は気付いていたんだ。……この戦いに出る前に、十代さんは……俺の娘の体を借りた尊敬する人は言っていた。街に被害が出る可能性が高いと』
「十代もやっぱり変で、遊城十代との関わりがあったんだ? 遊星は会って話をしたの? っていうか、この前あれだけ危惧して恐れてた割に随分普通だけど」
『想定していた分衝撃は少なかった。それに、やっぱりあの人の存在感が大きいんだ。あの人の声で喋られると無条件に安心してしまう。呑まれているんだな。アキに言われた通り、あの人に関する俺のスタンスはやや宗教じみたところがあるのかもしれない。今改めて否定出来ないと思った』
 苦笑したような声が一瞬だけ漏れ、その後すぐに押し殺したような声が続く。遊星は注意深く言葉を選んで状況の説明を試みた。龍亞の言葉は要領を得ておらずやや意味を取り辛かったがそこは付き合いの長さでどうにか出来る。
『今、俺は一枚のカードを頼まれて探している。そのカードが状況を打破することに繋がる……らしい。見付かるのにそう時間はかからないはずだが、恐らくパスワードの解除に時間が掛かる。出来るだけこちらも急ぐがそれでも間に合わない部分があるだろう。牛尾と狭霧に連絡してセキュリティを動かしておいてくれ。住民には自宅への避難を呼び掛けてとにかく外に出ている通行人を減らして欲しい。それから状況解析は俺がやるからといってセキュリティには手出しをさせないでくれ』
「わかった……けどなんで? セキュリティと一緒にやった方が効率がいいじゃん」
『いや、俺も実際には解析を行わない。あの人達の事情は、俺達のような蚊帳の外の人間が無粋に横覗きしていいものじゃないんだ。あの人は俺に見せたくないと言った。踏み込んで欲しくないのだと言った。であるならばそっとしておいてやるべきだろう』
 遊星の言葉に龍亞はふーん、と頷く。しかしわかった、という了解の返事をして通信を切ろうとした龍亞の端末を横から掠め取った手があった。今まで黙っていたアキだ。
「遊星。確認だけするけれど、履き違えてはいないのね?」
 話を横聞きした上での、アキの心配する声が遊星に届く。遊星は通話口の横で首を振ってその問いにきっぱりとした答えを返した。
『……本人にも、言ったが。娘は娘だ。十代は俺の最愛の娘で、あの人とは違う。直に話してわかったんだ。――あの人は俺達の娘を連れていったりはしないよ、アキ』
 上空でぱっくりと夜空を侵食している「レインボー・ルイン」の光景の中に、新しい大きな影が出現する。白く長い体躯の美しい龍が咆哮した。究極宝玉神レインボー・ドラゴン。七色の虹を思わせる宝玉の「神」。
『十代は――十代さんではなく、十代が――出掛けに俺に約束をして行った。必ず帰って来ると。今まであの子が約束を破ったことがあるか?』
「……ううん。ないわ」
『大丈夫だ。花嫁姿を見るまでは死ねないと、そう言って送り出したからな。あの子は約束を破らないし、父親の他愛のない願いを踏みにじったりはしない。優しい子なんだ。十代さんが関わっているぐらいだから余程の事柄に巻き込まれているのだろうが、俺はあの子から話してくれない限り詳細を聞く気はない。帰ってきたら、お帰りと言って抱き締めてやるんだ。……それで、大丈夫だよ』
 もう一度「大丈夫」、と繰り返してやるとアキの声音も少しずつ落ち着いてくる。妻を随分と精神的に疲弊させていたのだろうなと考えて遊星は己の腑甲斐無さに心中で息を吐いた。キスや、ハグで誤魔化せばいい問題ではない。次の休みは娘のためでなく妻のために返上することになりそうだ。嫌な気はしない。久し振りに夫婦水いらずで過ごす時間を持つのもいいことだろう。
「十代は、大丈夫ね?」
 その問いには当然という言葉でもって返してやった。言い淀む理由なんかない。
『あの子には俺が世界一尊敬している人が付いている』



◇◆◇◆◇



 超融合のカード、そしてユベルを覇王――優しき闇の罪の象徴とするならばレインボー・ドラゴンは破滅の光の原罪の証である。
 究極宝玉神レインボー・ドラゴン。宝玉を統べる七色の虹の、究極の神。名前こそものものしいが、レインボー・ドラゴンそのものに明確な自我はない。あれはただ主の命に従うだけなのだ。破滅の光の、忠実な下僕。それだけ。
 美しい姿を持ってはいるが、だから正義だとか庇護してくれるに違いないとか、そういう思いを抱くのは見当違いも甚だしいと言うものである。主が守れと言えば、確かにあれは自らを賭してそれを守るだろう。でも主が破壊せよと言ったならば躊躇うことなくその吐息で跡形残らず吹き飛ばしてしまう。例えそれが、ほんの一瞬前まで己が必死に守っていたものだとしても。例外はない。
 だから十代は例の事件の時にパラドックスがレインボー・ドラゴンを縛り「sinレインボー・ドラゴン」を召還した時は息を呑んだものだ。――「罪・虹の龍」。未来から来たというパラドックスがその龍の持つ意味を正確に把握していたかどうかは知るべくもないが、実に皮肉な名前である。
「おいおい、やってくれるぜ……俺は生前ヨハンがここまで速攻でレインボー・ドラゴンの召喚を決めたところなんか見たことない」
「そりゃ、あいつは甘いからなぁ。性格も甘いが詰めも甘い。甘ったるい境遇で生きて死んでいった。羨ましいよ。だけど随分勿体ないことをしてた。………それにしても今日の君は随分出足が遅いな。のろいと言っても差し支えないぜ。腕が鈍ったんじゃないか?」
 ヨハンの場に出ているのはレインボー・ドラゴン、サファイア・ペガサス、それからトパーズ・タイガーの三体。魔法罠ゾーンには伏せカードが一枚と装備カードが一枚。ルビー・カーバンクル、コバルト・イーグル、アンバー・マンモス、アメジスト・キャット、それからエメラルド・タートルは墓地だ。その内三体は降雷皇ハモンのコストにされて墓地送りになったわけだが、そのハモンはフィールドどころではなく除外ゾーンで眠ることを余儀なくされていた。
「まあうん、ハモンにまさか次元幽閉を仕掛けてくるとは思わなかった。備えの良さは流石だな」
「スターダスト対策にデッキに入れてたんだよ。奈落以下一般的な汎用除去カードは破壊効果を持ってるせいでスターダストに対しては悉く無力だからな」
「ああ……なるほど」
 ヨハンはにやにやした嫌な笑いを止めない。十代の場にはフレイム・ウィングマンだけが辛うじて立っている状態だ。伏せカードはなく、ユベルは手札に回ってきてしまい若干腐りかけている。
 光の護封剣を先のターンに発動していなければ即死だっただろう。
 レインボー・ドラゴンの攻撃力は神の名に恥じない四〇〇〇、サファイア・ペガサスは通常の一八〇〇を装備魔法「宝玉の解放」で上昇させ二五〇〇の値まで底上げしている。トパーズ・タイガーは一六〇〇だから二一〇〇のフレイム・ウィングマンでも破壊出来るがそこまでが限度だ。
(この状況を打破するにはシャイニング・フレア・ウィングマンを呼ぶのが一番早い……けど手札はすっからかんだ。ユベルだけ持っててもどうしようもない。例え次のターン融合解除を引いてリリース要員を確保出来たとしても維持コストを用意出来なければユベルは自壊する。あーくそっ、八方塞がりだろこれ!)
『クリクリ……』
『十代』
 ハネクリボーとユベルが心配そうに十代の方を見る。この体の現在の持ち主である不動十代は、負荷が超過してしまったのかデュエルを始めた辺りから返事を寄越さなくなってしまった。魂の奥の方で昏睡しているのだろうか?
「追い詰められて焦ってる横顔も綺麗だぜ。なあ、そろそろサレンダーしたらどうだ? 楽になれる。愛し合って共に死のう。勿論、その前に子供を残してみるってのも一考の余地はあるけど――」
『あるわけないだろ!!』
「君に聞いてるわけじゃないんだぜ。ユベル」
「ユベルと同意見だよ。その体はお前のものじゃない。本人が意識不明の状態で好き勝手やる? 冗談じゃないね」
「俺は英国出身じゃないから紳士ではないんだよなぁ」
「デンマーク人だもんな! ヨハン・アンデルセンは!」
 そもそも破滅の光と優しい闇が人の形を得た頃はまだイギリスという名前の国家が存在していなかった。英国紳士も何もあったものではない。
「ええいもう、どうにでもなれ!」
 破滅の光のにやにや笑いを受けながら十代はドローをする。何か起死回生の手段と成り得るカード。都合良くそれが回ってくることを祈りながら。
「神を信じていないと大声で言いふらす割には、必死に祈るんだなぁ。良ければ聞かせてくれよ、君が祈った神の名前を」
「いないさ。そんなものは」
 イエス・キリストも阿弥陀仏もアッラーも信用してなんかいない。神の名を冠したもの程胡散臭いものもない。目の前に鎮座している究極宝玉神がいい例だ。神を名乗るから救ってくれるだなんてそんな都合のいいことがあるわけないのだ。いつだったか誰かが言っていたあの言は実に秀逸だと思う。「神は、何も救わない。あなたが一人でに救われる」。誰の言葉だかは定かではないがもしかしたら詐欺師の言葉だったかもしれない。実に素晴らしいお言葉だ。
「それでもあえて言うとしたら『超融合神』だな」
「なんだそれ」
「昔、破滅の光に当てられちゃった俺の半身が作り掛けた破滅の権化さ。チェーン・マテリアルで十二の生け贄を与えられて、十二種類の世界全てを呑み込んで超融合されるはずだった神様の姿を真似たがらくた。ろくでなしの破壊神。でも結局生まれなかった。『カラレス』――『超融合神Callosity useless』は『カラーレス』、無色を意味する仮り染めの名前だけを与えられて闇に消えた。何故なら超融合が融合させたのはファントム・オブ・カオスやジャイアントウィルス、ゲート・ガーディアン、それら十二の悪魔ではなく遊城十代とユベルだったからさ。だから俺が、遊城十代が祈る神は世界中どこを探したって存在しない。俺が信じてる神様は永久欠番で、いつだって俺の願いは俺の知らないところで一人でに叶っていく。名前も知らないろくでなしの神が叶えてしまう」
 十代はドローしたカードを捲って表向きにした。馴染んだカードだ。名前は「E・HEROバブルマン」。



◇◆◇◆◇



 一つ目のパスワードは『我が最愛の友ヨハン・アンデルセンに送る』。デンマーク語。
 二つ目のパスワードは『オーバー・ザ・レインボー』。こっちはドイツ語。
 そして三つ目のパスワードはカードだ。『闇でもなく、光でもない、遊星の信じる希望の形』。
 最後の一つに辿り付くのに大分時間がかかってしまったが、これでようやくこの厳重なロックを解除することが出来た。マトリョシカのように幾重にも重なった入れ子の箱の中から、小さな赤いベルベッドのケースが出てくる。丁重な梱包を紐解き、慎重に蓋を開けると予期していた通りに一枚のカードが現れた。イラスト部分に特殊な虹色のホイル加工がされており、縁もカード名の刻印もその不可思議なレインボー・カラーに光るやや黄金がかったインクで印刷の上から加工が施されている。
 カード名――「Beyond the World」。
 まばゆい白と深い黒のコントラストを背景に世界の向こう、果てを目指して掛かる虹と二頭の龍が描かれた魔法カードだ。