29:レーヴ・レ・ジィユ・ズヴェール

 かつて美しい虹が架かることで有名だったレインボー・オアシスの王国に一人の少年と少女がいた。彼等は祝福された二人で、幸せを約束された婚約者同士だった。二人の前途には幸福があるはずだった。
 だがある日突然脆いガラスのように、二人の世界はひび割れてぐしゃぐしゃになってしまう。

 どうせ死ぬのならば、愛する者と一緒に死にたいのだと少年は王に懇願した。一人で果てるのも、一人で儚くなられるのも少年にとっては多大な苦痛だった。二人で一緒にいることが少年の幸せの全てだった。王はその願いを聞き届け、二人を一度に葬るのに十分な攻撃を従える竜に命じる。光と闇の竜は大きく口を開け、死の吐息を放った。二人はその瞬間共に絶命するはずだった。
 だが。
『なん……で……じゅう、だい』
 少女は致命傷を負い、しかして少年は無傷のままであった。少女の中に宿る闇の竜が死の一撃を一手に引きうけたからだ。しかし代償に少女は死を余儀なくされた。少年は叫ぶ。――「どうして、そんなことをしたんだ! 君が死ぬのなら俺も君と一緒に死ぬ!!」
 だが少女は朦朧とした意識を手繰り寄せて少年に遺言を残した。
 ある種呪いのような言の葉だった。
『よはんはしんじゃいや。わたしがしんでも……よはんが、よはんがいきていてくれるんならしあわせだから』
 その言葉を最後に少女は果てる。腕に触れる生温い血液、もう動かない手のひら、睫毛、唇。軽くなっていく、ほんの数秒前まで最愛の少女だったいきものの亡骸。残骸。青冷めた顔。
 その冷たく鋭利で、しかし揺るぎない現実に少年の理性と心は無残なまでに破壊された。

『もう、何も要らない。世界も、俺の心も、全て光の中に消し去ってしまってくれ。俺の精霊、究極宝玉神レインボー・ドラゴン』
 壊れてしまった少年はただひたすらに破滅を願う。少女がいない世界に意味を見出すことが出来ず、彼は世界を呪った。少女を奪い去った彼にとっての世界、レインボー・オアシスの破滅を願った。
『大切な人一人守ることが許されない、こんな世界なんか壊れてしまえばいいのに。もう誰かを愛する心なんて要らない。こんな思いをするぐらいなら心なんてなくっていい。――全部、真っ白になってしまえばいいんだ』

 光は少年の願いを叶える。レインボー・オアシスの王国は一瞬の後に崩壊し破滅を迎えた。後には遺跡が残るばかりだ。虹は破滅する。成れの果てのレインボー・ルインだけがそこに残る。
 だが少年は世界を滅ぼすという大罪の対価に、望み通り心を奪われた。愛するという心、慈しむという心、悲しむ心、怒る心、あらゆる心を失った。破滅を願う叫びに呼び寄せられたそれは大いなる力を与える代償にその無垢なる魂を囲い込む。破滅の光は囁く。――「尽きることなく、永久に甘美なる破滅を繰り返せよ」。
 そして少年は破滅を司る光になった。神に心はない。
 だから神の代行者である少年にも感情はない。


 存在が薄れゆく中、少女は祈った。少年の幸福だけを望んだその末路を嘆き、しかし彼女はそれでも少年の幸福を祈った。
 美しい王国が崩壊し少年が一切の感情を失ってしまったことにいたくショックを受け、だが一心に祈った。
『Das Extremer Traurig Drachen、私の精霊。ヨハンを助けて。ヨハンを助ける力を私にちょうだい。ヨハンを一人にしたくないの。ずっと、そばにいてあげたいの。ヨハンが失ってしまった心を取り戻すまで』
 破滅に引き寄せられた光の行いに漠然とした意識を向けていた闇は気紛れに少女の祈りを拾い上げた。ちっぽけな存在だったが、その身に強大な精霊を抱いていた少女の祈りはその存在に反して酷く大それたものだった。
『そのために私が何を失ってしまっても構わない。どんな代償だって受け入れる。だから、お願い、私の神様』
 闇は少女の祈りを聞き届ける。少女の魂は少年の魂に寄り添い、そして二つの魂は眠りについた。
 だが少女は世界崩壊の大罪を犯した少年を救うという大それた願いの代償に心を奪われてしまう。少女は愛を忘却する。慈悲も喜怒哀楽も忘却する。何もかもが底なしの真っ暗闇に吸い込まれ、封じ込まれる。あまりにも愚かな優しすぎる願いに呼び込まれた優しい闇は囁いた。――「我が力を貸し与えよう。だが、祈りの代価にそなたの心は眠りに就く。その祈りが叶うまで」
 そして少女は永遠を生き命を育む優しい闇となる。神に心はない。
 だから、神の現身となったその魂にも感情はない。


 少女が願ったから、優しい闇になったその魂と破滅の光になった魂はいつも寄り添ってそばにいた。けれどそれはもう少年ではなく、少女でもない。破滅の光は少年であった時の記憶を全て忘れた。優しい闇も少女だった時の記憶は全て失くした。二人は一番近い場所にいるはずなのに、一番遠い場所にいた。どこまで行っても平行線で、交わる場所がない。
 何も思い出せないまま、二つは出会いと別れ――一時の死を繰り返す。何かを知るために殺し合いを繰り返す。何度も何度も、殺し殺されを繰り返す。
 あれから数千年が経ったが、少女の祈りはまだ叶っていない。



◇◆◇◆◇



「……触れ合うってさ」
「うん」
「こんなに、簡単なことなんだよなあ。どうしてあいつはそのことに気付けないんだろう。どうしてああも盲目的なんだろう」
 二人して縺れ合って落下していく最中でヨハンが言った。ジューダイはヨハンの腹部に突き刺した剣の柄を握り込んだまま彼に覆い被さる形で小さく頷く。
「破滅の光は、忘れてしまったんだ。大事なものを。優しい闇も忘れている。思い出しそうになっているけれど、まだ喉につっかえてて出てこない。だから、あの二人はそれを知ろうとしてぶつかるんだ。特に破滅の光はそう」
 頼まれた通りにジューダイはヨハンをその手で刺した。そして二人は揃って奈落へと落ちていく。足場を踏み外した瞬間に響き渡ったユベルの絶叫ももう聞こえなくなっていた。まるで遠い昔の出来事のようだった。
「僕に話しかけてきた優しい闇は……覇王は、感情に乏しい。自発的に破滅の光を殺そうとも思っていなかった。殺されそうになるから防衛している感じだったな。でも僕が約束だからこの手で君を刺すんだって言ったら反対しなかった。暴走しているのは光だ。あの光は全てを焼き尽くす。希望の欠片もない」
「随分言うなあ……否定はしないけど。あれと――破滅の光と一体だった時、というよりあれに乗っ取られていたというのが感覚としては近かったかな、その時はまあなんというか強烈な衝動があった。君を手に入れて蹂躙したいという衝動だ。声高に愛を叫んで、君からの愛を望んだ。でもあいつには一つ大事なものが欠けている。 感情だよ。感情がないから、他者を理解することが出来ない。それどころか自己すらわからないんだ」
 ジューダイとヨハンは確実に死の底へと落ちて行っている。彼らの体を一時的に支配しこの馬鹿馬鹿しい運命に引き摺り込んだ破滅の光と優しい闇はもううんともすんとも言わず、元のように眠りに就いていた。次に彼らが目覚めるのはヨハンとジューダイが生まれかわって十数歳の年を迎えた頃だ。彼等にとっての死は眠りの始まりでしかない。死の瞬間を彼等はその体の人格に押し付けてさっさと眠りに就いてしまうのだ。
「本当、迷惑な奴らだ」
 ヨハンがぼやいた。
「それは僕も思う。でも、可哀想だとも思うかな。どんな理由があったのかそれを知ることは僕達にはもう出来ないけれど、彼等には感情がないんだよ。それってすごく空しいことじゃないかな。何があったって無感動なんだ。何も楽しいこともないし、嬉しいこともない」
「あいつら人間じゃないんだ。しょうがないだろ」
「……そうかな」
 ジューダイが目尻の下がった焦点の合わない瞳のままでどうだろう、とヨハンの言葉を否定する。
「僕はそうは思わない。彼等はかつては人間だったんじゃないかな。人間だったから、感情を知ろうとするんだ。人間だったから失われてしまった愛を取り戻そうと思う。だけど思い出せない。それが苦しくてもがく。その結果また堂々巡りに陥ってしまう。きっとそうだ」
「……ジューダイの考えは哲学的だな」
 自身もまた大分視線の覚束なそうな、眠たげな儚げな瞳でジューダイを見つめながらヨハンは被さっているジューダイの体に触れようとする。だが腕は上手く動かず、彼の顔ではなく背中に当たった。動こうとしない体に叱咤を送ってその冷えていく背中を掻き抱いてやる。ジューダイはくすぐったそうに目を細めた。本当は腹が刃物に圧迫されて苦しいくせに、もう死の間際で感覚がおかしくなっているのかもしれない。でもそれはヨハンも一緒だ。
 深々と貫かれた腹部に痛みはなかった。ただジューダイの決意と優しさだけが感じられた。
「愛するってさ」
「うん」
「こんなに、簡単なことなのに。いつまで繰り返すんだろう。いつになったら、あいつらは気付くんだろう」
 海の底へと二人の体は沈んでいく。落下を始めた中空のあの地点から何キロ落ちただろう。何キロ沈み込んで、どれ程深く堕ち込んでいったのかもう二人には知る由もない。深い海の底からはもう上も下もわからなかった。ただ美しい蒼色があった。沈んでいるのかも浮かんでいるのかも、感覚が鈍って定かではなくなる。
「死ぬんだな」
 ジューダイがぽつりと漏らすとヨハンも頷いた。
「死ぬんだなぁ。暗くて冷たい。なんたって死の底だ……だけど心地良いような気もする。君がいるからかな?」
「そうかもしれないね。……そういえば、あの二人は……破滅の光と優しい闇は、一緒に死ぬのに一緒にはいないんだな」
「ああ、確かに。同じ瞬間に果てて連れ立って目蓋を閉じるのに、確かに近い場所にいるのに間にぽっかりと溝が開いてる。触れ合うことを禁じられているみたいだ」
「ああ……」
 沈み込んでいく、ぼやけて揺れる紺碧の世界の中にほんの一瞬だけきらきら輝いて眩しい光景が映りこんだ。はっきりしないけれど、酷く温かいということだけは伝わってきた。もう体の器官は殆ど機能してやいないから恐らくはそう感じていると思い込んでいるだけなのだろう。温かい幻の奥の方で誰かが振り向いて手を振った。何だか泣きたくなってしまった。でも涙が出ているのかさえもうよくわからない。
「愛して、愛が深すぎて、その果てに全部失ってしまったんだ」
 二人は海に沈んでいく。だけど寂しくはない。寧ろその先の世界へとそそくさと行ってしまった破滅の光と優しい闇のことの方が気がかりだった。行ってしまった二つの方が、哀れだった。

 これがある時代の、二つの国の王子の最期である。



◇◆◇◆◇



 好きな言葉は何か、と興味本意で聞いてみたことがある。するとその人は鳶色の目を細めて「そうだなぁ」と思案するように顎に人さし指を当てた。細長くうつくしい女のような指。だがそう言うと彼は決まって機嫌を損ね出すので口にはしない。
「なんだろ。ガッチャ、はそういうのとは違うんだよな。うーん、それって座右の銘ってことだろ? 難しいこと聞くなぁ」
「そんな悩むことだったか?」
「悩む悩む。だって遊戯さんのお言葉はどれもみんな素晴らしいもんだから……」
「まーた武藤遊戯かよ。ほんっと好きだな」
「しょうがないだろ。大好きなんだ。世界で一番尊敬してる人なんだよ」
「はいはい」
 十代の武藤遊戯病というのはこれが凄まじいもので、結構な重傷患者だよなぁというのがヨハンの素直な感想だった。何かにつけて「遊戯さん」「遊戯さん」と名前を口に出す。褒めてやれば「遊戯さんに比べればまだまだ……」と言うし褒めてやらなければ「遊戯さんみたいになりてー」という。アイドルのおっかけをしているのに似ているようで、しかしそれよりも大分悪質だった。
 彼は武藤遊戯という人物に偶像化された神を見出しているのだった。「かみさまなんかろくでなしだから信じたことがない」と大声で言いふらしているくせに彼の武藤遊戯を見る目はイエス・キリストを崇める敬虔なキリスト教徒と何一つ変わらない。だが武藤遊戯は万能ではない、一人の人間に過ぎないということを十代は理解していた。あえて言うのならそこが他の宗教徒との違いだった。
「そう拗ねるなって。ヨハンは世界で一番大事な親友なんだから。世界で一番大切な女は明日香だけど」
「世界で一番ばっかりだな、お前」
「ああ。万丈目は世界で一番面白い奴だしカイザーは世界で一番かっこいい先輩。翔は世界で一番の弟分で……あ、ここは剣山と二人で一番かな……そんで、クロノス先生は世界で一番すげー先生!」
『十代君、先生が抜けてますのにゃあ……』
「悪いな、大徳寺先生も好きだけどやっぱクロノス先生にはかなわねぇよ」
 あの人はたまにわがまま言って生徒を困らせたりするけど本当にいい先生なんだぜ、そう言って十代は向日葵みたいな笑顔を作る。すごく眩しいヨハンの好きな表情だ。心から笑う時に眩しいくらいにいい表情をするのは、この人のいくつになっても変わらないところだった。大人になってしまった今でもそれは揺るぎようのないことだ。ニヒルな表情の影に隠れてしまいがちだけど彼にはまだほんの少しだけそういった要素が残っていた。少年時代の残滓みたいなものだ。
 大人びたふうでいて、子供っぽい所作が残っている。習慣化してしまっているあどけなさとでも言おうか。それは多分、遊城十代が遊城十代である限りに永遠になくならないものなのだ。あのイルカの言葉を借りるのであれば、「ワクワクを失わない限り」変わりようのない彼の本質。
「で、結局お前が好きな言葉って何なんだよ。武藤遊戯のお言葉の中でも特にイチオシのこれ! ってやつが一つはあるだろ」
「んー、そうだなぁ」
 筆記具を取り出し、さらさらと文字を紙に書き付けていく。ぶっきらぼうだけど素朴な文字だ。本人曰く「ちょっと汚ねぇけどまあ読めなくはないはず」のくせのある日本語。
「なんだそれ」
「『人は生きている限り、人であることを止められない』。昔な、遊戯さんが俺にかけてくれた言葉だよ。その時はよっぽど悲愴な顔をしてたらしい。人間じゃなくなっちゃって、一人だけ世界からあぶれちまったと思ってた時だ」
 精霊ユベルと魂を分かち人の理を超えた能力を手に入れた十代は度々自分を「化け物だから」と卑下した。どうやら武藤遊戯の前でもそんな態度を取っていたらしい。
「お前なぁ、まーだそんなこと言ってんのか? 馬鹿だな。お前が化け物なはずあるかよ? だってそもそも融合したユベルだって化け物なんかじゃないじゃないか。あんなに人間くさい化け物なんか俺は見たことがない。それに根性曲がってるだけであれはあれで綺麗ないきものなんだなぁと思うよ。十代に対して恐ろしいぐらい純粋なんだ。……だからな、お前はすっげぇ綺麗なの。いつだってきらきらしてる」
「……ヨハン?」
「それで、もし本当にお前が救いようのないぐらい混じりっけなく『化け物』になってしまったのだとしたら、俺も一緒に行ってやる。人間止めてお前の隣にいてやるよ。何年でも何十年でも何百年でも何千年でも。絶対一人ぼっちになんてしてやらない」
 無理だろそんなの、そう言おうとして開かれたのだろう唇は右手で覆った。もごもごと声が漏れるが言葉になっていない。十代が観念したように表情を変えてからふいと手を放してやると、すぅはぁと酸素を吸い込む。
「やってみなきゃ無理かどうかはわかんないし、お前が化け物になる未来なんて訪れないから大丈夫だよ。なぁ?」
『……本当、これだから自覚のない馬鹿は……。そうだったら苦労しな……』
「いいよ、ユベル。そんなことわかってる、わかってるけど……なんか俺、今無性に嬉しいんだ。なんでだろ。なんでこんなに、嬉しいんだろうな」
 脳味噌腐ってるんじゃないかい? と言わんばかりの視線をヨハンに向けて悪態をつき出したユベルを十代が制止する。「十代?」彼の顔を覗き込むと、十代は静かに涙を零していたのだった。はらはらと雫が零れ落ちて、ヨハンはなんだか不思議な気持ちになる。涙する十代の横顔は言いようもなく綺麗だった。
「ヨハンと、ずっと一緒にいられたらなぁ」
 ヨハン・アンデルセンは知らない。優しい闇と破滅の光が、気が遠くなるくらいずっと延々と殺し合いを続けているということを。彼が本当に、「十代と同じように」化け物になってその隣にいることが出来るのだということを。
 そして十代はそれをちっとも望んでやいないのだということを。
 ヨハン・アンデルセンには人でいて欲しい。だけど、どこまでも一緒だという言葉がじわりと胸に染み入る。それは酷く甘美な毒のような言葉だった。まだ心のどこかでそれを望む自分がいるのだということをまざまざと自覚させられる。
「でも、それは駄目なんだよ。人でなきゃ。俺は自分が化け物と呼ばれるのは気にならないけどヨハンがそう呼ばれるのは、堪えらんない」
 涙に濡れた唇でそんなことを言って、彼はヨハンの手のひらをそっと握り込むのだった。
「ヨハンは、今のままでいいんだ」



◇◆◇◆◇



 なだらかな丘の上に、こじんまりとした可愛らしい白い家が建っている。その庭に蒼髪の青年と茶髪の女性が立っていて、幸せそうに微笑み合っていた。
 女性の腕の中にはまだ幼い赤子が抱かれていて、両親に向かってきゃっきゃと笑っている。無邪気な赤子の頬に母の優しい手が添えられ、そんな女性の穏やかな表情に父親の青年は頬を緩めて彼女にキスをした。
 ごく幸福そうな家族の光景。さりとて裕福なわけではないが、過不足のない満ち足りた平穏の姿だった。だがこれは幻だ。
 かつてレインボー・オアシスの王国に住んでいた少年が夢見て、そして手に入れるはずだった幻想だ。
「幸せになりたかった。ありふれた幸福が欲しかった。それだけだったんだ」
 女性から赤子を受け取って青年が振り向く。ヨハンと同じ顔でこちらに微笑みかけ、少し寂しそうにはにかんだ。女性もこちらへその穏やかな顔を向ける。髪が長く、女性らしい淑やかな雰囲気を持っていた。レインボー・オアシスに住んでいた少女が成長してそうなるはずの姿だった。でもそれも幻だ。青年も、女性も、赤子も、家も丘も草木も花々も空も雲も太陽も虹も全て余すことなく幻だ。
「……だけど、もういいんだ」
 青年は静かな声で続ける。隣で女性は寂しそうに微笑んで、彼女の夫の体を撫でた。
「俺の夢は醒めた。光の中に消し去った思い出は還ってきた。元ある場所へ全てが還元される。死者は潔く死ぬ。もう俺の始まりの理由はとっくにぼろぼろに千切れてどこかへ飛んで行ってしまっていたんだ。なのに置いて行かれた残りかすが、それすらも未練にしてずるずるとどうしようもない諍いを続けてた。でもそれももう全部終わりだ。俺の幸福はすぐそばにあった」
 そういうと赤子を抱いたまま隣に立つ女性を抱き寄せてキスをする。女性は嬉しそうに夫の口付けを受け入れる。背景の咲き誇る花々とよく似合っていた。
「ジューダイはずっと隣にいてくれた。俺が気付かなかっただけ。目を背けて、大事なものも一緒に見失ってただけ。君達から見た俺はどうだった? 滑稽だっただろう。馬鹿馬鹿しくってやってられなかっただろう?」
 青年は――破滅の光は、ヨハンと十代に問いかける。二人の中にたくさんの記憶、光景が閃いて過っては消えていった。
 遊城十代が言う。「ヨハンには人でいて欲しい」。ヨハン・アンデルセンは笑う。「どんなになったって君のそばにいたい」。
 結局ヨハンは人を止めてしまう。遊城十代が必死で押しとどめた破滅の光は輪廻を一回りしてから這い出てきた。遊城・ヨハン・アンデルセンの体を乗っ取った。だけど状況が違った。不動十代は少女だった。
 強い既視感が無意識のうちに破滅の光を襲う。破滅の光はかつて、まだただの少年だった頃に一人の少女を愛していた。記憶を失くしたってその事実は変わらない。魂は覚えている。彼は少女を傷付けることが出来ない。
 少女の笑顔を見ていると、どうしようもなく堪らない心地になる。だが破滅の光はその感情の名前を知らなかった。そうこうしているうちに優しい闇が目覚めて、破滅の光はいよいよ決断をしなければいけなくなる。
 だが優しい闇もまた、十代が少女であったようにそれまでとは違うものになっていた。彼は遊城十代の残滓と統合されて人に近いものになっていた。だから優しい闇は感情を知っている。心を知っている。
 やがてその二つの異変が、ぐるぐる回り続ける歯車を止める鍵となる。
「俺は十代の言葉を裏切って人であることを止めようとしてしまったけど、十代はそれでも俺を気遣ってくれた。俺との因縁を、絆だって思っていてくれていた。それが、どんなに尊いことだろうか?」
「……別に、大したことじゃない。ヨハンは親友だぜ。当たり前のことじゃないか」
 女性――優しい闇が遊城十代の口調を真似て返答を返す。破滅の光はこら、と小さく溜め息を漏らして彼女の頭を撫で、そして文句を言う。「その恰好でその言葉遣いをするんじゃない」。
「……どうして最後、俺達二人を隔離したんだ?」
 ヨハンは気になって破滅の光に尋ねた。十代もそういえば変だなと思って小首を傾げる。おかげで全体を俯瞰して見ることが出来て、色々とわかりやすかったのだけれど。それぞれの意識が切り離されていない状態だと、どうしても視点が偏るのだ。
「ジューダイが意図したことでも、俺が意図したことでもない。君達が耐え切れなくなって飛び出したんじゃないか? 或いはレインボー・ドラゴンとDas Extremer Traurig Drachanの差し金かもしれない。あいつらは純粋な始まりの意思の体現だから。まあ片方にはユベルが混ざってしまっているけれど。――なあ、完全な外から見た俺達の小競り合いはどんな風に君達の目に映った? どんなにか矮小なものだった? 教えてくれよ。わかるだろう、今なら」
 破滅の光の問いかけにややあってからヨハンが口を開く。彼は一個一個慎重に言葉を選んで言うことを整理していった。
「……なんていうかさ。空しかったよ。俺、お前と一緒に過ごしてる間に思ったんだ。ちょっとおかしくなっちゃってたけどお前は優しい闇のことを単純に好きだった。始まりはきっとそれだけのことだったんだ。二人が惹かれ合っていて、抱き締めあいたくて、そんな簡単なところから全部始まったんだ。どこかで狂ってしまって、こんなことになってしまったけど。いや、どこで狂ったかなんてわかりきってるな。あの時だ。虹の王国であの子が死んだ時全てがおかしくなった」
「……でも、二人が殺し合う運命はすごく馬鹿馬鹿しかったけど、二人の存在は矮小ではなかった。そんなつまらないどうでもいいものじゃなかった。俺はそう思う」
 ヨハンの言葉を十代が引き継ぐ。ヨハンはその言に大いに頷いて、十代に同調するように更に声を繋げる。
「一生懸命愛してたんだ。お前は、あの子のことが好きだった。あの子はお前のことが好きだった。それが馬鹿馬鹿しいもんか。好きあってすれ違ってしまったことは悲劇だったけど、でももういいんだろ?」
「……ああ。そうだな。全部、もう、いいんだ。お前達を巻き込む理由はもうどこにもないんだ」
 破滅の光の腕に抱かれた赤子がおぎゃあと泣き出した。慌てて彼は赤子をあやし出すが、上手くいかなくて優しい闇に赤子を取り上げられてしまう。赤子は泣き止んだ。破滅の光はなんだか嬉しいような、寂しいような顔をして妻と子から離れて棒立ちのヨハンと十代の方へ歩み寄り二人の頭を順繰りに撫でる。
 もうどこにも狂気はなかったけれど、代わりにどうしようもなく儚い手のひらだった。
「最期まで付きあわせてごめんな。迷惑かけて、ごめん。もう俺達はお前達には関係ない。ジューダイの祈りは叶った。だからお前達はお前達で幸せになれ」
「……行くんだ?」
「お前達が願った奇跡ももう叶った。俺達がここに留まる理由はなくなったんだ。かつて遊城十代が尊敬してやまない人はこんなことを言ってな――『死者は、死さなければならない。不必要に現世に留まってはならない。死者と生者との理を乱してはならない』」
「『人は生きている限り人であることを止められない。だが死した時、人であることを止めなければならない。死者は生者にはなれない。死者は生者に成り代わることは許されない』。……あの人自身、アテムという死者を生者に成り代わらせていた過去があった。だけどそれは不自然なことだ。戒めの言葉だよ。それを乱しちゃいけないんだ」
 優しい闇は破滅の光の言葉を引き受けて、夫と同じように二人の頭を撫でる。彼女の手のひらも儚かった。だが確かに感じられる幸福があった。
 それを境に、ふっと幻が遠くなる。散々十代とヨハンを、たくさんの二人を振り回してきた破滅の光と優しい闇が遠くなる。儚く、透明で手の届かない存在になる。
 死者が正しく死者になる。
「さよなら、未来ある子供達」
 遠のいた世界から幸福そうな夫婦が別れの言葉を告げた。白い家も丘も何も見えなくなる。世界が切り替わる。現実に帰っていくのだと十代とヨハンは予感した。
 少女と少年は数千の時を経て再会を遂げた。もうどこにも少女を失った悲しみに嘆く哀れな少年も、少年のために祈る苦しい少女もいない。

 後には眩しい虹が残るばかりだ。