夜風は冷たく、身を切るようで、真緒はコートの隙間から入ってくる骨までしみるような冷気にじっと耐えて、街じゅうを駆けた。
頭上にあかあかと輝く満月が見える。月の光に照らされて駆けめぐる、こんな光景を、昔にも見た気がする。あれはいつのことだっただろう。いつの。いつの……。
「にゃ〜お!」
「あっ、おまえ、来てたのか!?」
「にゃお〜ん!」
思い出せ。思い出せ、思い出せ! いつの間にか現れた黒猫が先導するように飛び上がるのを追いかけ、真緒は己を叱咤した。思い出せ。俺は知ってるはずだよな、だって見てた、あの日、あの瞬間、衣更真緒はあの場所にいた。
――流星群の日だった。
ふたご座流星群、冬の一番ポピュラーな流星の群れ、それを三年前のあの冬の日にも、観たのだ。真緒はその流星群を確かに観ていた。一人で? いいや、違う。もう一人いた。だって真緒はそのもう一人に誘われて、星を見ようと言われてやって来たのだ。
『ねえま〜くん、星がおちてくるよ』
朔間凛月はそう言って笑っていた。
『星がおちてくる。俺が墓土の下に埋まるのを、見送ってくれてるみたい』
笑い顔は寂しそうだった。
『寒い……怖いよ、ま〜くん……嫌だ……』
然るに凛月は覚悟をしていた。世界で一番さびしい終わりを選びとり、その結果自分が世界じゅうのどこにもいない吸血鬼の記憶になることを、もう、覚悟しきっていた。
『でも』
その日朔間凛月は制服を着ていて、マフラーを首に巻いて、いつものように佇んでいた。月明かりに照らされる紅の双眸は涙に濡れて潤んでいた。唇がいくつかの言葉を紡いだ。『だいすきだよ』には音があって、『さよなら』にも音があった。
けど『みつけて』には、音がなかった。
『ま〜くんがもしそれでも俺を思い出してくれるのなら。お願い。約束だよ』
あの場所はどこだっただろう。
思い出せない。大事なことなのに。頭にもやがかかったみたいにぼんやりしている。そこに行かなきゃ。行かなきゃいけないんだ。無我夢中で、がむしゃらになって、どのくらい走ったかもわからない。足が棒になってかちこち固まって、とうとう、前をゆく黒猫も歩を止める。
「ふにゃあ!!」
黒猫の鋭い叫び声。派手なクラクションの音。止まる足。急停止するトラックのブレーキ音。「おい何考えてる! 死にてえのか!」トラック運転手の罵声。すみません、すみませんと謝り、身体を白線の内に下げてから真緒は呆然と天を見上げる。
「……街だ」
夜だというのにちかちか眩しいネオンサインの群れが、夜空の星々も満月さえも、見えなくしてしまっていた。気がつけば真緒はスクランブル交差点の中にいた。人の群れ、雑踏、騒音。流星群も想い出も何も関係なさそうな場所。どうしてこんな所に来ちゃったんだろう。黒猫についていったから? わからない。首を横へ振る。わからない。首の動きは、錯乱しきってちっとも落ち着いていなくて。
「あ……着信……非通知……?」
そんな中、真緒の携帯がけたたましい着信音をかき鳴らす。訝しみながらも、真緒は着信を取った。同時に、目の前にある巨大な街頭スクリーンに、でかでかと見知った顔が映し出される。
「――月永レオ、ニューアルバム。夢ノ咲学院在学時に『Knights』のために書き下ろした珠玉の名曲たちを収めたベスト盤=v
『わははっ☆ 生命を謳歌してるかっ? 夜は輝いてるかっ? 吸血鬼は夜の眷属って言われてるけどっ、今宵のおれは、じゃあ何なんだろうな。おれは神様じゃないけど、今晩だけは全知全能の神様ぶってみる? たまにはそういうのも、趣向が違って楽しいかな?』
「『Load of the Knights』。十二月二十五日、発売=\―」
「つ、月永せんぱっ……」
『しーっ、ダメだダメだ、叫んじゃ! おれはこの件では日向に出ないきまり≠ネんだから』
街頭スクリーンの中で、あどけない横顔をしたオレンジ頭の青年が満面の笑顔を見せていた。このPVを録ったとき、彼は作曲をしている最中だったのに違いなかった。それぐらい極上の笑顔だ。この人のこんな顔は滅多に見られるもんじゃない。それぐらい、ほとんど関わりの薄かった真緒だって知っている。
『けどおれだって、意味のあることがしたい!』
月永レオはそういう人間だ。
自由で気ままで奔放で、役割をいくら与えても型にはめられなくて。「抗争」の頃だって、あの天祥院英智が十重二十重に罠を張り巡らせることで雁字搦めにして、ようやく彼は残されたレールに乗ったぐらいだという。そのあたり細かい事情を知るわけではないが、蓮見敬人が言うのだからそれは必ず正しい。
生きている爆弾。作曲する戦車。しかしそんな彼は、そうである以上にKnightsの王で――
『人間なんだから、舞台に上がって、歌い続けてたい。延々と同じ場所でレクイエムの指揮を執るだけなんてもう飽き飽きだ! クライマックスのパ・ド・ドゥぐらい見たって、バチなんか当たりっこないって。さあっ、走れっ少年!』
凛月の友人だった。
『道はおれが教えてやる! 出血大サービスで、嘘とほんとをぐちゃぐちゃにサンドして! だから走れ。あの丘までまっすぐ。あははっ! おれに魔法をみせて♪』
真緒はかちこちになった足を再び動かし始めた。躊躇っている余裕はなかった。どうして非通知になっているのかは知らないけれど――月永レオというひとは本当に破天荒に四肢を取り付けたみたいなところがあるから、公衆電話から全てを見通すこの通話をかけていると言われても信じてしまいそうなところがある――この通話は本物だ。
電波の向こうに月永レオがいる。Knightsの家長、朔間零も一目置く特大級の天才、そして凛月を大切に思うひと。真緒がこれまで辿ってきた、「消えてしまった朔間凛月」に繋がる最も太い糸を握った男が、受話器の向こうで不敵な笑みを浮かべているのだ。
『吸血鬼が夢から醒める瞬間を、最高の戯曲にして、おれにみせてくれ!』
魔法の終わりが、足音を立ててやってくる。
通話の向こうで好き勝手なことを言う声に従い、真緒はあっちこっちへ走り回った。空振りにひとつ当たる度、レオは愉快そうな笑い声を隠そうともしない。彼は多分愉快犯だった。けれど細く垂れ流された蜘蛛の糸をここで失うわけにはいかない。真緒はあちこちへ自分を振り回す声に、辛抱強く付き合った。
『夢ノ咲にはさ。魔法使いがいて、天使がいて、吸血鬼がいて。今思うと完全に魑魅魍魎の跋扈する領域だったよな、あそこ。まあ、血まみれで殺しあう無法地帯を延々と続けてたんだから、そのぐらい埒外のやつらがごろごろしてて、当然か。アイドルは強くなきゃ生き残れないからなっ! 泥をかぶって返り血を浴びて腥いものを啜り続けて、険しい道のりを乗り越えなきゃ理想郷には届かない。学校は人生の縮図! 箱庭はルイス・キャロルの特許じゃない。あときらきら星もモーツァルトの完全オリジナルじゃないから。これは大事なことだから、絶対忘れちゃダメだぞ』
「はあ、そうなんですか……って、おれは一体いつまで走り続けりゃいいんです!?」
『そんなのもちろん、決まってる! おまえが魔法を使える場所までだ。なあ、もしかしてもう足が動かないとか言いたい? 確かに、のっけから序奏と獅子王の行進曲はハードかもしんないけど、おまえのリッツへの愛ってその程度だったわけ?』
「は、はあ――!?」
右へ行って左へ行って前へ進んで後ろに戻って、この街をぐるぐると縦横無尽に行ったり来たりさせられて。真夜中の街をひた走る。通話の向こうでは、レオが前後の接続を無視して好き勝手に話を繰り広げていた。曰く、ここ数日真緒が急に凛月の足跡を追い始めたこと。Knightsの面々と話をしていたこと。それについてレオが抱いた私見。その他諸々、とりとめもなく。
『言っておくけど、おれは怒ってるんだからな』
そうして何十回かに一回は、彼はその言葉を口にした。
『リッツのいるKnightsは楽しかった! 卒業してからも、リッツのいる舞台はちょくちょく観に行ってた。だからリッツにさよならのメール貰った時はショックだった。あとから理由聞いて、人間を守るために選んだ答えだって分かった時は、怒りでどうにかなって一曲出来ちゃったぐらいだ』
「月永先輩は、凛月がいなくなった理由、知ってたんですか」
『知ってたもなにも、リッツはいつも言ってたじゃん。吸血鬼は、ずっと人間と一緒にはいられない。レイはさ〜、なんか、共存の方向とか考えてたっぽいけど。それはできるやつの理屈≠ナしかないって、おれには思えた。レイは人間と一緒にいられる吸血鬼だったんだ。リッツも、いけそうだったんだけど、結局無理だった。リッツは人間が大好きだったから』
「朔間先輩も人間が好きだと思うんですけど」
『過程から結果を読めよ、少しは自分で考えろ。レイは人間が好き、だから人間と共存を図った。リッツは人間が好き、だから人間のそばから身を引いた。リッツは強すぎたんだ。そもそも、騎士なんて基督教の概念、吸血鬼には合ってなかったし……』
個人の資質として見れば、リッツは騎士向きだったけどな。レオの語り口はいやにしみじみとしている。
『おれが思うに、リッツは吸血鬼のくせに人間が好きすぎた。けどそれは、あいつがKnightsであることの証明だ、おれが絶対に悪く言わせない。おれは天才だから。神様に愛された大天才だから、どんな嘘も残酷も、夢と魔法で綺麗な芸術に仕立ててみせる。……そう言ったのに。リッツはおれを拒んだんだ。ショックだったなあ……。皆殺しにしていいものは簡単だけど、大切なものとか守りたいものって、むずかしいんだ。『俺に魔法を掛けられるのは王さまじゃないんだよ』って。あいつ笑った』
「……凛月に魔法を掛けられるのって、まさか……俺?」
『ば〜かっ、自惚れんな! リッツの魔法に三年間かかりっぱなしだったくせに、生意気だぞ!』
だから誠意を見せろ、誠意! レオの言葉に熱が籠もり、軍歌のマーチングみたいなメロディラインがどこからか聞こえてくる。シンセサイザーの音がしっちゃかめっちゃかに鳴り響き、レオが高らかに独奏曲を奏でる。
凛月は別段、レオにだけ多くを語っていったりはしなかった、とその中でレオは何度か捕捉を重ねた。あくまでレオの立場はほかのKnightsのメンバーと同じで、ただ学院の事情通とそれなりに関わりがあったから、いくつかの筋から集めた情報を縒り合わせて一つの推論に行き着いたに過ぎない、と。
曰く、朔間凛月は真性の吸血鬼であり。吸血鬼は大人になると人と生きるのが難しくなり。
よほどの魔法か奇跡
でも起こさない限り、二度と陽の当たる世界には戻ってこられない、という単純な事実。
そしてよほどの魔法か奇跡は、代償として奇跡を起こした人間の人生を、吸血鬼に縛り付けてしまうのだろう、きっと――だからあの心優しい吸血鬼は身をひいたのだ。
人間は、みんなから愛されるべきであるからにして。独り占めするべきではないからにして。昼と夜は同居できないからにして。いつかお別れをしなくちゃいけないからにして。
『我らは神を呪い、その無償の愛を拒み。永遠に闇のなかを彷徨う定めの咎人=B朔間家の家訓なんだって。ワーグナーもびっくりだよな、おれもびっくりした。
そんなことあるかっての
! けど実際、リッツは世界じゅうのどこからもいなくなった』
陽の光で灰と化すその寸前に、世界の醜きを愛すべき隣人へ見せないため、土塊の下へ舞い戻ったのだ、と彼は言った。
ふとちかちかした光が目に差し込んで来て、真緒はスマートフォンのディスプレイに目を向けた。バッテリーがもうあまりない。記された通話時間は「6:25:30」を記録している。夜通し、走りながらレオと通話をしていたのだ、とその時遅まきに理解した。吉兆が立て続けに起こり、泉と再会し、Knightsのメンバーに繋いでもらって。嵐と会った時には自分にとってどれだけ凛月の存在が大きかったのかを思い知らされて。司と話して、凛月が消えた日のことを知った。
そしてこの夜は、レオの口から、吸血鬼が消えた本当の理由を聞かされたのだ。
白む空の彼方から鳥の鳴き声が聞こえてくる。そういえばもうそんな時間か。ここ最近急に聞こえるようになったサヨナキドリの声は、司の言う通り何かのサインだったのかな。そう考えていると、レオの無邪気な声が真緒の耳をつんざく。
『――あっ! 墓場鳥。おまえのそばで墓場鳥が鳴いてる』
「墓場鳥? サヨナキドリでも、ナイチンゲールでもなくて?」
『ナイチンゲール? ……あ〜、夜にさえずる≠フほうか。おんなじだよ、おんなじ。サヨナキドリってのはさ、墓場鳥とも言うんだ。墓場で鳴くから。墓場で鳴き、生者を死者のもとへ導くんだ。生きとし生けるものを死霊のパーティへ連れ込む……なんてのは、今おれが考えたてきとうだけど。わははっ』
流れ星を見た子供のようにぺらぺらと不吉な言葉を繰り返し、レオが笑う。この人、結局何がしたいんだ? そう真緒が考えるうちにも、レオは続けざまに口を動かし続けている。
『ああ、そうそう。今日の夜明けは、彗星が落ちるって』
「彗星?」
『不吉の象徴だよ』
ナナホシテントウとは真逆のやつ、と通話の向こうでレオが言った。ますます不可解だった。誠意を見せろと言ったり、不吉なことばかり口にしたり、レオの行動はちぐはぐだった。けれど、そういえば。数時間前、司が言っていた気がする。「私がとやかく言わなくたって、その十倍か二十倍はLeaderが言ってくださるはずですから」と。
はあ、なるほど。真緒は合点が言って苦笑する。月永レオはたぶん底意地が悪いのだ。でもそれだけ。本当はレオも凛月の幸せを願ってるだなんてこと、最初から分かりきっている。
そうじゃなきゃそもそも真緒に電話なんか掛けてこないのだから。
『不吉、不運、不幸、その象徴。でもさ、メルヘンってのは大体、不吉なぐらいが勝率高いんだ。魔女の使い魔と墓場鳥に導かれて吸血鬼を探しに行く――うん。さいっこうのメルヘンだな。勝てば官軍っ、負ければ無、返事がない、ただのしかばねのようだっ! これこそ、おれたちKnightsが導く魔法の劇に相応しい☆』
そもそも、六時間超もの時間、レオは興味のない人間と話していられない。月永レオは確かに大天才だ、と真緒は骨身に染みて思った。真緒を惑わせ、あちこち向かわせているその間にこの人は舞台の準備を整えていたのだ。最高のタイミングで最高の奇跡を起こせるよう、力を貸してくれている。
「月永先輩、それじゃ、やっぱり……」
『うん、わかってる。最初っから、そうなんだよ。
――魔法はお前にしかかけられない。夢の終わりはおまえにしか掴めない』
だから、という言葉の先は、うまく聞き取れなかった。
ぶちり、とそこで通話が切れる。慌てて覗き込んだディスプレイはブラックアウトしていて、ボタンを何度押してもうんともすんとも言わない。電池切れだ。これでは、誰の助けも借りられない。
けど、もう、大丈夫だ。
真緒は膝で息をして、そこで立ち止まった。真緒には予感があった。走り回った据えに真緒は何も無い丘の上に立っていた。視界を遮るものひとつなく、朝の光に白みはじめた空が、三百六十度パノラマで広がっていた。
サヨナキドリが鳴いている。「目覚めの時」を告げるために。
黒猫が尾を伸ばす。「星の訪れ」を示すために。
天の彼方からひかりが降り注ぐ。
レオの声はもう聞こえない。ただ、彗星が夜のとばりの終わりを縫い止め、闇夜の右から左へ、過去から未来へ、夜から朝へ、降り注ぐ。
「――凛月!」
星がおちてくる。