03


 【DDD】のあと、Knightsが名誉挽回に走り回っているその頃。
 泉のもとに一枚の絵はがきが届いた。差出人は不明。投函場所はフランスのパリ。宛名の部分には、印字されたシールが貼られている。
「なにこれ」
 不審がって視線をずらすと、下に手描きの楽譜が書いてある。
 ……もしや手の込んだ悪戯だろうか。
 そう思いつつ、泉は四小節しかない楽譜へ律儀に目を通した。
「いちおう、メロディにはなってるのか……」
 楽譜の書き方はお世辞にも綺麗と言い難い筆致だったが、内容自体は、存外、整った旋律だ。
 とはいえ、たったの四小節。それだけで何を判断するということも出来ず、泉はよくわからない絵はがきを引き出しの中にしまい込み、それきり忘れてしまった。なにしろ忙しくて、そんな絵はがき一枚、長々と構っている暇がなかったのだ。
 そんな泉が不審な絵はがきのことを思い出したのは、それから一週間が経ったあとのことだった。
「……ゆうくん、その曲なに?」
 モデル仕事の現場で一緒になった真が、楽屋で音楽を聴いていた。彼はイヤホンをしていたが、音量が大きめなのか、音漏れして楽屋に響いている。
「あ、泉さん。ねえ泉さんもこの曲聞いた?」
 泉に気がつき、真が目配せをしてきた。聞いた? なんて言われても、そもそも何のことかよくわからない。
「だから、その曲なに?」
 若干の苛立ち混じりに再度訊ねると、真は慌てたように「ちょっと待ってね……」と何タップか画面を操作し、スマートフォンの画面を泉に見せて寄越した。
「最近リリースされた、パリの流行歌だって」
「パリ? ゆうくんそんなのも聴いてるんだ」
「ううん、なんかこれ、動画サイトを経由して、日本でブレイクしてるんだ。でもわかる気がするな〜、このメロディライン、どっちかというと日本人受けする感じだし……」
「……ちょっと聞かせて」
「え? ああ、はい。どうぞ」
 真からイヤホンを受け取り、自分の耳に挿し込む。途端に、明るく軽快なシャンソンが泉の中に流れ込んできた。フランス語の流麗な歌唱が何を言っているのかは聞き取れなかったが、でもこの軽快なメロディーに混じる悲哀的なコーラスラインには、どこかで覚えがある。
「ゆうくん。この曲作ったの、誰」
 泉は冷え切った低い声で真を問いただした。
「え? 泉さん、どうしたの。すごい顔……」
「いいから。誰なの、作曲者は」
「あ、うん、ちょっと待って。公式コミュの動画だからキャプションに書いてあるはず……ええと、『ダ・ヴィンチ=アンジェラ』、だって。う〜ん、聞いたことない。誰かの変名か、或いは全くの無名の新人かな」
 真の言葉のバックで、シャンソンのBメロが鳴り終わった。
 泉は真のスマートフォンを握り締め、茫然自失の面持ちで、流れ込むメロディに蒼白な思いで向き合った。知ってる。この音楽を知っている。だってこれは一週間前に送られてきた、あの絵はがきに書いてあったものだ。引き出しの中にしまって放置していた、あのエッフェル塔の写真が印刷されている……。
 ああ、それじゃきっと、このメロディは。
「……あのアホ。生きてたの……」
 ――月永レオの新曲なのだ。
「……泉、さん?」
 泉は顔を覆い、俯いた。真が心配そうにこちらを覗き込んでくる。「ありがと、ごめんねゆうくん、でも大丈夫だから」。真にこの顔を見られるのはすごく嫌で、泉は顔を覆う手を、離せない。
「泉さん、知ってるの? この曲の作者」
「知ってる……と、思う。だって俺、こいつの音楽を、飽きるぐらい聴かされてきたの。どんな小さなクセでも知ってる、あいつがどんな曲を作るか熟知してる、そのことに今更気付かされるのが腹立つけど、でもそうなの。ずっとそばにいたんだから。ずっとあいつの曲を歌うのは、俺の役目だったんだから……」
「……もしかして、Knightsの……月永先輩?」
「多分ね。……そうじゃなかったらどんなにかよかったのに」
 泉の声は、かわいそうなぐらい震えていた。ああ、あのバカ、生きてたんだ。春先、判子を貰いに行った時は、引きこもりで……死人みたいな調子だったのに。またこんなふうに音楽が作れるようになったんだ。しかもこんなに明るくてかわいい、大衆向けのシャンソンを……。
 それが嬉しい、と泉の中の天使が嘯く。よかったあ、あんなふうにぐちゃぐちゃに壊れた俺たちの青春は、だけど無駄じゃなかったんだね。月永レオという稀代の才能は、瀬名泉のために使い潰されて、死んじゃったりしなかったんだ! やったあ! ねえ俺は罪人から脱却したんだよ、許されたんだ、聴いてよ、この美しいメロディ!
 だけど一方で、泉の中の悪魔は、地団駄を踏んで憎しみの眼をぎらつかせている。無駄じゃなかった? 許された? なに、寒々しいこと言ってるのかなあ。俺たちの青春は二度と帰ってこないんだよ。壊れた夢は不可逆だ。月永レオは確かに立ち上がったのかもしれない、瀬名泉の知らないどこかで、ひとりで、俺を置いて、勝手に再起したのかもね。だけど残された俺は? あんたの曲を歌うために、その帰りを待って空の玉座を磨いている俺の努力は? 一体どうしたらいいの? この行き場のない怒りは誰にぶつけたらいい?
 こんな哀しい旋律を流行歌に潜ませて、いったいぜんたい、月永レオは本当に蘇ったって言えるのかなあ。本当は、あいつはまだ……死んだままなんじゃないの?
「ねえゆうくん、この曲の名前と歌詞は、どんな内容なの……」
 俯いたまま地を這うような声でそう訊ねると、真はこくこくと頷いて「和訳してるサイトがあるから出すね」と検索をしてくれた。ほどなくして、ブログサイトが映ったスマートフォンを手渡される。泉はモニタをじっと眺めた。そこには、デジタルのなめらかなフォントで、こう書かれている。
「君は綺麗だよ=v
 ヒッ、と引きつった笑い声が喉から出ていくのを、泉は止められなかった。


◇◆◇◆◇


 それから、絵はがきは不定期に泉の元へ届けられるようになった。
 二枚目のはがきは件のシャンソンを聴いた三日後ぐらいに届き、モン・サン=ミシェルの消印と一緒に賛美歌に似たフレーズが書き留めてあった。手紙に差出人はやはりない。その代わり、時間がなかったのだろうか、前回よりも乱雑な楽譜の書き方が、署名の代わりを果たしている。
 ぐちゃりと記された五線譜は、レオがスタジオの壁に書き殴っていたよれついた線にそっくりだ。
「なんか、天使の賛美歌〜みたいに言われてる曲が、ヒットしてるらしいわねェ」
 はがきの数日後に嵐がそう言って流した曲のメロディは、モン・サン=ミシェルの絵はがきに書かれた旋律と完璧に一致していた。
 三枚目の絵はがきは少し間が空いて、その二週間後にやってきた。ヴェネツィアの光景を切り取ったポストカードには、いつもより長めに八小節ぶんの旋律が刻まれている。このメロディは、一週間後に意外なところから耳に入った。
「流行りの深夜アニメで流れるカンツォーネが、やたらと本格的なので話題騒然〜、って、聞いたよぉ」
 なんか噂によると、元々の作家が急に失踪して、代打で入ったひとが書いたらしいよ、と聞いてもいないのに凛月が教えてくれる。アニメのエンディングで映し出されたスタッフロールには、挿入歌の部分に、「作曲:作曲魔人X」という文字が並んでいた。
 四枚目の絵はがきはさらに間が空き、一ヶ月後にやって来た。到着までに何があったのか、はがきはよれよれで、書いてある旋律も、既に街でリリースされているシングルのものだった。五枚目の絵はがきはその次の日に現れた。六枚目の絵はがきはそれから三週間後に。どちらも、はがきの到着から遅れて、何らかの形で流行歌として泉の耳に入った。
 そして今、七枚目の絵はがきが泉の前に置かれている。
「……何がしたいのかなあ、ほんと、あのバカ……」
 今度の絵はがきは、カナダから送られたものだった。ナイアガラの滝がど派手に写し撮られ、その裏側に、毎度おなじみの五線譜が手書きで添えてある。どうせこの旋律も数日もしないうちにリリースされ、いやでも泉の耳にこびり付くのだろうけれど――でも泉は律儀なので、それを読み解いてしまう。
「ふうん。メロディラインは明るいんだ?」
 八小節の間に記されたのびやかな旋律は、綺麗に盛り上がり、たぶんこの曲のサビを切り取ったものなのだろうなあとなんとなく思った。透き通るような音の並びは、ピアノの涼やかな演奏がよく似合う。気高く、誇り高く、美しい旋律。いつかレオが、泉に無限に作ってくれた曲たちのように。
(……俺の好きなタイプの曲なのに、この曲はもう、俺にくれないんだ)
 泉は吐息をひとつ漏らし、絵はがきを引き出しへしまった。


 八月の、蒸し暑い日本の夏。Trickstarと合同の【スターマイン】をなんとか無事に成功させ、泉は仮設の控え室にどかりと腰を下ろした。Knightsの出番は終わったが、まだ余興の花火が打ち上がっており、Trickstarの面々や、司、嵐などは、控え室の外に出てそれを眺めている。
「はあ、チョ〜疲れたぁ……」
 直前ギリギリまで海外へバカンスに行っていた影響で時差ボケを起こしていた泉は、仕事が終わるやいなやすっかりしなびてしまい、机の上に突っ伏して倒れていた。隣で凛月がセッちゃん大丈夫? とかなんとか心配そうにこちらを伺ってきている。夜行性ゆえか、ライブ後だというのに、今日の凛月は他人を心配する余力があるらしい。
「いいの、セッちゃん。ゆうくんと一緒に花火見たいって言うのなら、あとちょっとだけ無理できるお薬、出してあげるけど」
「要らないよそんな怪しい薬。ていうか今日は、もう本当無理。ただでさえ海外から戻ってきたばっかりだっていうのに、またあのアホから絵はがき届いてるし。あ〜あ、郵便受けなんか確認しに家へ戻るんじゃなかった……」
「絵はがき?」
「……王さま≠ェ送ってくる、わけのわかんないはがき……。いっつも、あいつが作ったであろう新曲のワンフレーズだけ、書いてあるの。なんのつもりなのかなあ、ほんとに。手の込んだ殺害予告みたいな真似しちゃってさあ……」
 今日のやつはこういうのだったよ、と泉が鼻歌で旋律を諳んじる。その音を聴いて、凛月がはっと表情を変えた。凛月の顔色が、彼の得意とする夜だというのに、一気に青ざめ、険しいものになってゆく。
「セッちゃん」
 凛月は机に投げ出された泉の肩を揺すぶった。泉が緩慢に顔を上げる。その視線の先に、いやに真剣な顔をした、凛月がいる。
「その曲、今外で流れてるよ」
 その言葉に、泉は弾かれたように立ち上がった。
 時差ぼけで異様に重たい身体を引き摺り、仮設控え室の外に出た泉の鼓膜を、まず花火の爆音が襲う。次いで、その間を縫うように、男性ボーカルの軽妙な歌声が届く。Knightsの公演のあと、スターマインの後半を担うことになっていた男性二人組の弾き語りユニットだ。アイドルというか、歌唱方面に特化した二人組で、芸歴は十年を超す大ベテラン。
 だけど今大事なのは、そんな些末な情報なんかじゃない。
「うそ」
 泉は呆然と立ち尽くした。舞台の上からマイクとスピーカーで拡声された歌声は、否が応にも、泉の耳を侵食した。流れ込んでくるメロディは、たった今、泉が諳んじてみせた、「ナイアガラの滝の絵はがき」に記されていたものとまったく同じだった。
「うそだ……」

 ――ねえ、もしあの日あの場所で、私たちが同じ気持ちだったならば。
 ――どうか私のことなど忘れてください。
 ――叶うならば、想い出の中でだけ一緒にいさせて。

「嘘だって言ってよ、ねえ!!」
 サビに乗せられて届く歌詞は、あまりにもはっきりとした失恋の言葉。泉は自分の中に残されていた全ての力が、たよりなく指先から零れ落ちていくのを感じた。操り糸を失ったみたいに、がくりと膝から崩れ落ちる。顔から砂浜に突っ込みそうになる寸前、凛月の腕が泉の身体を支え上げた。
「セッちゃん」
 凛月が名前を呼んでいる。
「何があったの」
 儚く甘ったるい失恋の歌を掻き消すように、強く。
「わかんないよ……」
 泉は消え入りそうな声で嗚咽を漏らした。
 あいつの言語的センスが壊滅していることを一番知っているのは泉だ、だからきっとこの歌も、レオはメロディを提供しただけで歌詞は他の人間がつけたのだろう、そんなことはわかっている。でも、今は、絵はがきにのせて届けられたこのメロディが……月永レオという傲慢な男からの最低最悪のあてつけのように思えてならなかった。
 よりによって「どうか忘れてください」だなんて。「想い出の中でだけ一緒にいさせて」だなんて。最低、最低、最悪だ。ねえ俺、そんなに悪いことしたかなあ? こんなこと言われるようなこと、やったっけ? ただでさえ惨めだった俺に、どれだけ鞭打てば気が済むの?
「わかんない。俺をどうしたいの、ねえ、王さま。あんた一体、何様なの……!」
 確かに瀬名泉は、毎日のように、月永レオを殺してきた。
 想い出の中に埋葬して、美しい想い出だけを選り集め、綺麗だねって褒め称えて、ガラスの額縁に飾り立てていた。
「やめてよ。やめて……俺だって忘れたいよ、幸せだった過去も全部投げ捨ててあんたなんか関係ないとこに行ければよかった、でも出来ないんだよお! 何も忘れられないの……俺に残されたのは、惨めでも醜くても、あんたの帰る場所を守り続けることだけなんだから。それさえ奪うっていうの、あんたは!!」
 俺はもうあんたの鞘じゃなくなっちゃったの? 、と。
 凛月に支えられながら、泉は血を吐くように呟いた。
「……絶対、絶対、嫌だ。俺はKnightsの瀬名泉だ。それだけは、たとえあんたにでも否定させてやらない……!」
 泉の悲痛な叫びは、幸いのこと、花火の爆音とあたりの熱狂に掻き消され、そばにいた凛月以外に聞こえることはなかった。泉を支え、凛月が立ち上がる。肩で泉を背負い、控え室へ戻っていく。
「……セッちゃんはさあ、王さまのことが、好きなんだよね」
 控え室の扉を閉めた後、凛月が密やかにそう訊ねた。
「恋、してるんだね。……そうなんじゃないかなって、昔から……思ってはいたけど。よりによって、ひどいやつに惚れたもんだね」
「うん……」
「でもその気持ちを胸の中にずっと抱いてるから、セッちゃんは今もきれいだよ」
 凛月がぽつりと告げる。その肩に、ぽたり、と水滴が落ちた。やがて滴は雨になり、凛月の肩口をしとどに濡らしていく。
「好きだよ、今でもまだ、こんな残酷な仕打ちをされても、あいつの気持ちがわからなくても。俺たちの青春が帰ってこなくても、永遠に空っぽの玉座を眺め続けることになっても」
 二人の他に誰もいない控え室で、泉はさめざめと泣いた。泉の中にわだかまっている感情の全てが、涙になり、零れ落ちていった。凛月は泉の身体を抱き寄せて胸を貸してやった。泉の悲しみの深さは海のようだった。この傷を癒してやれるのは、きっと世界にたった一人しかいなくて、でもそいつは、この場所にはいない。
 いてはいけないはずなのだ。
「……ねえもし、王さまが帰って来たら、セッちゃんはどうするの……?」
「歌うよ。錆び付いた昔の曲を。戦うよ、俺は騎士だから。それで……それで…………」
「それで?」
「ふ……ふ、ふふ。殺しちゃおっかな、れおくんの、首をきゅっと絞めてさ。そしたらもう、二度と俺のこと、置いていけなくなるもんね……」
 なんてね。
 はにかんだ泉の表情は、涙と悲しみでぐちゃぐちゃだ。
「そうだね。……セッちゃんがやりたければ、それでいいよ」
 凛月は静かに、弱り果てた友達の身体を抱きしめた。壊れた恋心を拾い集めて眠る瀬名泉の身体は、ぞっとするほど頼りなく、冷え渡っている。

 ――ああ、どうか、この想いがまだ届くのならば。
 ――恋心よ、どうか安らかに。

 楽屋の外からかすかに聞こえてくる声は、笑えないレクイエムを歌唱していた。