05


 ――お願いお兄ちゃん、泉さんが、泉さんが大変なの。倒れて病院に運ばれたって、Knightsのひとから連絡があったの……!

 カフェテリアでパフェを食べていたレオのもとに掛かってきたのは、必死になって啜り泣く妹の、切迫した訴えだった。
 電話を取るなりレオは急に顔色を変え、店を出て走り出してしまって、三毛縞は慌ててそれを追いかけることになった。着の身着のままで飛び出していったレオを追うため、会計を手早く済ませてタクシーを拾い、まだなんとか目視出来る場所を走っていたレオを追うように指示。すんでのところでレオを回収し……今はレオの携帯でもう一度電話を掛けさせ、妹に連絡を取らせている。
「うん……うん、ありがとな、ルカ。お兄ちゃん、今、そこに向かってる。……大丈夫だって。大丈夫……あのセナが、こんなところでくたばるわけないんだから……」
 声の震えを必死に押し殺して気丈に受け答えするレオを横目で見ながら、「妹の前ではかっこいいお兄ちゃんでいたいから」、なんて言っていた在りし日を思い出した。大切な人の前ではいい格好をしておきたいのが人の常だが、浮世離れした「奇人」に近い生き物である月永レオにも、そういう感情はちゃんと存在している。特に妹と……泉が絡む場面では。
 セナにはかっこわるいところいっぱい見られちゃった、といつかレオは言っていたけれど。
 それでもまだ隠しておきたいところがあるのだろう。心の一番やわらかいところ――月永レオという男の、心臓の一番近くに。
「……場所なんだけど、やっぱり、夢ノ咲大学病院、だって。おれが昔入院したとこ……大通り三丁目の角を曲がって、その奥。受付で『瀬名泉の知り合いです』って言えば通してもらえる、っぽい」
「うん、重畳、重畳。るかちゃんにありがとうだなあ。到着までちょっとばかり時間が空くから、レオさんはしばらく休んでいるといい。レオさん、すごい顔してるぞお。ちょっとカメラには映せないぐらいだ」
「……ん。じゃあ、お言葉に甘えて、ママ、あとはよろしく」
 三毛縞が耳打ちすると、レオはタクシーの窓ガラスを眺めたまま、緩慢に頷いた。曇った窓ガラスには、げっそりした死人みたいな顔が映り込んでいる。見るからに憔悴したその顔色に心臓が早鐘を打つ音が重なり、レオは耐えきれず、目をつむる。
 ――泉さんは、意識不明の重体なんだって。
 妹の声が、耳の中でまだこだましていた。
 ――Knightsのひとたちは、泉さんがお仕事を頑張りすぎたせいじゃないかって……。
 ――どうしよう、お兄ちゃん。このまま泉さんが目を醒まさなかったら、わたし、どうしよう……。
 電話口から聞こえた妹の声はひどく掠れていて、見えなくても、彼女の視界が大粒の涙でにじんでいることは明らかだった。どうしよう、だなんて。レオは暗闇の中できゅっと拳を握りしめる。そう言いたいのはレオの方だ。妹の前ではぎりぎり言わなかったけれど、レオの心臓は、今にも破裂してしまいそうに痛ましい。
「セナ……いなくなっちゃやだ……」
 両手のひらを組み、祈るように額へ押しつけた。ちょっと前まで「あわせる顔がない」なんて言っていたことを全部棚に上げて、今は一刻も早く、泉の元へ行きたかった。そして生きている彼を見て安堵して、あとは……あとは、わからない。
「おれを置いていかないで……」
 瀬名泉は月永レオにとって光だった。
 恩返しに、彼の望みを叶えてやりたいと思った。
 誰に怨まれても嫌われてもいい、他のあらゆる全てを切り捨てて、世界じゅうの全部を敵に回したって、泉がいてくれるならそれでいいと思っていた。
 一度拒絶されて、もうそばにはいられないかなと思ったあとも……それでも、同じ空の下に泉が生きていて、それからレオの歌を歌ってくれているのなら、それだけでもういいよ、と思っていた。
 だけど、その泉が、今まさにレオの世界から消えてしまおうとしている。
「おれの中からセナを奪わないで」
 祈りは懺悔の言葉と同じだった。
 月永レオは手を組み合わせて告解した。彼が祈る先に神さまはいない。その光景を、三毛縞が冷ややかに見守っている。


◇◆◇◆◇


 諸般の手続きを三毛縞に任せ、レオが泉の病室に入った時には、もう面会時間ぎりぎりの時刻だった。急に倒れたうえにアイドルをやっているという事情から、泉は個室に安置されている。薄暗い照明を、リノリウムの床が白々しく照らし出す。泉の身体に繋がれたコードは、心電図を映し出す計器へ伸び、ピッ、ピッ、と規則正しく、彼が生きている証拠を鳴らしている。
「セナ」
 レオはその姿を認めるなり、一目散に泉へ駆け寄った。病室には他の誰もいない。だから誰にはばかることもなく彼の手を握り止めた。泉の手は冗談みたいに冷たく、指先はやせ細り、頬は痩けていた。
「セナ、おれの声が聞こえる?」
 答える声はない。心電図の電子音だけが、辛うじて彼はまだ死んでいないと告げている。
「お願いセナ……答えて……」
 幽鬼のように軽い手のひらを必死に握り締め、レオは懇願した。愚かなほど純粋無垢に祈った。神さまお願い、どこにもいない神さま、どうかセナを連れて行かないで。この美しい人間をまだ召さないで。おれの大切なものを返して……。
「セナ……!」
 何度も何度も、レオは名前を呼んだ。一つ一つに万感の思いを込め、命さえ懸けてもいいというほど、瀬名泉を求めた。
「ん……」
 やがてレオの思いは通じる。そのうち、泉は、呻き声を上げると身じろぎをしてぼんやりと瞳を開いた。あの美しい碧眼はどちらとも焦点が合っていなかったけれど、そんなことは、どうだってよかった。
「……せ、セナ?」
「だ……れ……? あ……ああ、王、さま?」
「……!! セナ! そうだよ、おれだ、月永レオだよ……!!」
 レオは泉の手を握り締めたまま、感極まって叫んだ。
 泉が、呼び声に呼応するかのようにとろりと微笑む。ぼんやりした瞳は現実を映していない。手のひらを繋ぎ止める温もりも、正確に知覚出来ていない。
 だからだろうか。
 瀬名泉は、幸せな夢を見る末期の少女みたいな顔をして、
「あ……はは。ばかだなあ、俺。こんなふうになるまで、自分を酷使してるって、気づけずに……あんたがいる夢まで、みてる、の」
 そして終わりの日を迎えた少年のように微笑んだ。
「……セナ?」
「Knightsの……やつら。心配、して、るのかな。じゃあ……これは、三途の川を渡る手前の、夢なのかなあ? それとも悲嘆の川のほとり? なら俺のカローンは、あんたか。笑えない夢……」
「……」
「ねえ……王さま。ううん、れおくん。夢でも、いいよお。俺の前に来てくれたのなら、愚痴ぐらい、聞いてけ……」
「……。うん。いいよ、セナ」
「あはは、素直じゃん。あ〜あ……現実でも、このぐらいあいつが、俺に対して素直だったら、なあ……」
 途切れ途切れに喋る泉の双眸は、やはりどこも見ていない。彼の意識はまだ夢うつつの中にいるのだ、と、流石のレオでも理解が追いついた。レオは泉の願いに頷いた。ずっと泉に会うのが怖かったことを思えば、泉が正確に現実を把握出来ていない現状は、好都合だったとも言えた。
 それから泉は、のべつ幕なしに、月永レオに対しての愚痴を漏らし続けた。
 まず彼の愚痴は、レオが謹慎を食らい、登校してこなくなった冬の季節から始まった。ドリフェス制度が本格運用され、生徒会以外のユニットが淘汰され……地獄のような圧政の時期についての話は、聞くだに、胸を突き刺す悲壮さがあった。ただそれでも、泉は懸命に活動を続けていたと言った。そんな泉を見かねたのか、凛月と嵐も、正式なKnightsのメンバーとして泉に寄り添ってくれることが増えた。
 四月になり、新しい学期がやってくると、一人の新入生がKnightsの門戸を叩いた。いや正確には何人か加入希望者がいたのだが、一人を残し、泉の独断で切り捨てたのだという。この頃から、泉は、「Knights」というユニットを守り抜くことに必死になりはじめた。それもただ漫然と続いていればいいわけではなくて、誇り高く、格調ある、王が帰還するに相応しい騎士の城としてのKnightsに、執着するようになった……と泉自身は懐古した。
「守りたいものがあったの、……れおくんの夢を、本人がどれだけ切り捨てたとしても、俺だけは見失っちゃいけないと、そう思ったから」
 本当は、あの最後のライブを行った日に、全部終わっていたのだと分かっていたけれど。
 泉の気持ちも、願いも、祈りも、全部全部ごみために叩き付けられてもう二度と帰らないだろうと知っていたけれど。
「だけど信じたものを捨てなきゃいけないほど、俺の心は落ちぶれてないんだって、そう信じたかったのかな」
 だから空の玉座を毎日磨いていたんだよ、と泉は笑った。
 何をしたって報われない、失った過去は戻らない、ひび割れた友情はどぶに流され、あの日の青春は死んでしまった。愛した世界は壊れた。瀬名泉に残されていたのは、愛おしいものたちの残骸ばかり。王なき剣は錆びつき、拭う手もなく、ただ蒙昧に砂へ埋もれて消えて行くだけ。
 そんなことはわかっている。
 でも許せなかった。それを認めてしまえば、泉が全てを捧げた青春が、あの日あの瞬間隣で笑っていたレオの笑顔が、美しかった想い出までもが、踏みにじられて虚妄の嘘へ変えられてしまいそうで、耐えられなかった。
「俺はね、俺だけは、れおくんを忘れちゃいけないんだよ。俺はれおくんの鞘だから、あんたが、昔、そう言ったから。れおくんの存在を証明し続けるの。いなくなったあんたのことを、誰も彼もが忘れていっても……俺だけは、その価値を、きれいな曲を、才能を、証明しなくちゃって」
 それなのにあんたはよくもまあ絵はがきなんか送って寄越したよね、と泉の唇が寒々しく震えた。絵はがきに書かれていた旋律たちを泉がどのように受け取ったのか、恨み節のように赤裸々に開帳した。「一つ目のメロディを聴いた時、ぞっとした」泉が言う。「君は綺麗だよ、だなんて。呪いの言葉みたいだと思った……」。
 二つ目のメロディも、三つ目のメロディも。四つ目も五つ目も六つ目も、なにひとつ笑えなかった。でも極めつけは七つ目だ。あれが本当に、最低最悪の、最後通牒みたいだった、と泉が囁いた。手の込んだ殺害予告の、その仕上げみたいな曲だった、と。
「ふ……ふ、ふふ。『どうか私のことなど忘れてください』、だって。……よくも……よくもぬけぬけと、そんな歌を、俺へ送りつけられたもんだよねえ。女々しいわがまま……。れおくんはさあ……残された人間の気持ち、少しぐらい考えてみたこと、あるわけ? 忘れたくても忘れられない、愚かな人間の気持ちは……?」
「…………」
「……だんまり、か。でも、そうだよね。そんなふうに、ひとの心がわかるやつだったら、あんなことしない……。俺だって……俺だって忘れたいよ……全部忘れて捨てられちゃえばよかった……幸せだった過去も何もかもポイしてさ、新しい幸せを見つけて、あんたのいない世界へ行くんだ……でも、出来なかったよ……」
 泉の指先が力なくレオの手を掴む。ああ、この指先にもし力があったのならば。
 きっと泉はレオの手を引きちぎってしまいたかったに違いない。
「い、いつも、胸が……張り裂けそうだった。あの曲を聴くと。俺が大好きなメロディが、れおくんの作った曲が、俺じゃないやつの歌を乗せてるの。信じられない……あんなにこっぴどく裏切られたあとでも、まだ、人間は傷つくことが出来るんだなって、裏切られるもんなんだなって、知ったんだよ、俺は。笑える……こんなに努力して……泥にまみれて、汚辱を啜って、それでも生きようと、藻掻いて……! その結果得られたものは、『もう忘れてよ』とかいう、包丁みたいなメッセージだなんてさあ……!」
 レオは静かに、泉の糾弾に甘んじた。泉の言葉はどれもこれも鋭利で、容赦がなく、レオの心を的確に抉り抜いた。向こうも、これが夢だと思い込んでいるぶん、遠慮なしに本音をぶちまけている節があった。
 レオは目を逸らしてしまいたい気持ちを必死に押さえ、朦朧とした泉の顔をじっと見つめ続けた。彼の硝子玉のような瞳には悲しみだけが灯り、表情は嘆きに歪んでいた。
 だけどそれでも、瀬名泉という男はどうしようもなく気高くて美しかった。
「どれだけ傲慢にふるまえば気が済むの、れおくん」
 美しい手負いの獣が、蛍光灯のうそ寒い灯りの中でレオだけを見つめている。自分の心臓から噴き出した血で汚れた獣が、それでも輝く魂を抱きしめ、泣いている。
「あんたのことなんか嫌いになれちゃえばよかったのに」
「……うん」
「あんたのことなんか憎んでしまえたらよかったのに」
「……そっか」
「全部夢だったらよかったのに……!」
「……」
「だけど……」
 泉の言葉が一度そこで止まった。指先が甘ったるく絡み合う。弱った人差し指と、心細い人差し指が、相互依存のように抱きしめ合う。
 きっとその図こそが、月永レオと瀬名泉という関係性の全てだった。瀬名泉は誇り高く気高い人間だったけれど、月永レオは奔放で自由で傲慢な嘘みたいな人間だったけれど、その実ふたりとも、いつも心細くてさみしい生き物だった。
「だけどれおくんが好きだよ……どうしようもなく、みじめでも、それが俺のすべてなの……」
 恋心はとっくに砕け散っているのに、それでも未練がましく、あんたの帰りを待っているの、と泉が言った。
「れおくん……ねえ、おかしい? 夢の中じゃないと、こんなことも言えないんだよ、俺って。現実の俺は、プライドばっかり高くてめんどくさい、つまらないやつ……。れおくんの居場所をずっと抱きすくめてるくせして、あんたが本当に帰ってきたら、きっと俺はまた、怯え始めるんだよ。どうしよう。またれおくんが俺を置いて行ったら。どうしよう……れおくんが俺を嫌いになったら……そんなことばっかり、考えてる……毎日…………」
 ねえお願い、俺を嫌いにならないでよ。
 愛してなんて言わないから、そんな贅沢言わない、瀬名泉はいい子でいるから、好きでいることぐらい許してよ。
「あんたのこと好きなだけでいいの、目で追って、大好きだなって思うだけでじゅうぶんなの。だけどれおくんがもし、それさえも俺に許さないって言うのなら、」
 底なしの海みたいな色をたたえ、泉が嗚咽を漏らす。
「れおくんなんて死んじゃえ……」
 それは魂の奥底からひりだした、泉の心の全てだ、と月永レオはそう思った。
 レオは小さく首を横へ振った。ふたりの指先はまだ緩慢にまぐわっていた。もうどこにも行かないよ、と、やっとの思いで絞り出した声は低く掠れている。
「セナがそう望むならおれはずっとそばにいるよ……」
 だけどもしおまえがおれの首を絞めるなら、おれはそれを甘んじて受け入れるよ。
 耳元でそっと囁くと、泉は満足したように頷いた。それから泉は再び微睡みの中へ落ちていった。病室に静寂が戻ってくる。心電図の音だけが規則正しく鳴り響く。
 泉が完全に寝入ったことを確かめ、レオは泉の額にキスをして、その場を立ち去った。


◇◆◇◆◇


「――よくもまあ、あんな残酷なこと言うよね?」
 病室を出た先で、氷のような声がレオを引き留めた。
 声がした方へ振り向くと、ひどく冷たい眼差しをした男がそこに立っている。
「……リッツ。久しぶり……」
「そうだね、随分久しぶり。それより、話は大体聞かせてもらったよ。ねえ……王さま。あんた、どういうつもりなの……?」
「り……リッツ?」
「セッちゃんがあんなに弱って傷付いてるの、全部王さまのためなんだからね」
 朔間凛月は、細腕からは想像も出来ないような力強さでレオの腕を掴み取り、静かに、厳かに、そう言い放った。レオはその言葉に何も言い返せない。言い返す資格が、ない。
「三毛縞と話は付けてる。王さまはそろそろ、自分がしでかしたことの重大さを知るべきだよ」
 凛月が有無を言わせぬ口調でそう言った。


 病室から少し離れ、人気のない病院の廊下で、凛月はこの頃の泉の様子について、とうとうとレオへ語って聞かせた。スターマインのあとに失恋の歌を聴いて以来、泉が異様なまでに気合いを入れ、アイドル活動に勤しんでいたこと。身を粉にして働き、一度は地に墜ちようとした「Knights」の名声回復に努めていたこと。あれほど避けていたモデル業を再開したかと思えば、「モデルの瀬名泉」ではなく、「Knightsの瀬名泉」として取り扱ってもらえるよう、あちこちに根回しをして動いていたこと。ユニットとしてのKnightsを盛り立て、復調させ、レオがいつ戻って来ても大丈夫なように、彼にふさわしい玉座を磨き上げていたこと。
 その果てに泉は倒れ、この病院へ運ばれた。医師の診断によると過度の緊張とストレスが続いたことによる心労性のもので、命に差し障ったりするようなものではないとのことだったが、根本の原因が取り除かれない限り何度再発してもおかしくない――文字通りアイドル生命にとっては致命傷に近いものだということも、凛月は淡々と話した。
 聞けば、今日倒れたのも、モデル界のお偉いさんに頭を下げ、少しでもKnightsに明るい道が開けるよう、神経を遣ったそのあとだったのだという。
「セッちゃんの遺言を王さまに渡すはめになるのだけは、ごめんだよ、俺は」
 凛月の言葉は怜悧で、レオに現実逃避の隙を与えない。先ほどまで見ていた泉の有り様もあいまって、レオはなにもかも、打ちのめされるような心地がしていた。自分がのほほんと国外で暮らしている間、泉は、今にもすり切れそうなぐらい心をはりつめさせて戦っていたのだ。いや、レオだって、単にのんべんだらりとしていたわけではないのだけれど――泉の鬼気迫る様子を並べられると、もう何も言い返せない。
「だからそうなる前にさっさと帰って来て。王さま、本当はもう、学院自体は怖くないんでしょ。エッちゃんも副会長も、別にもうKnightsのこと、取って喰う気はないみたいだし。王さまが怖がってたのは、ただ、セッちゃんのことだけ」
「……うん。あらゆる全部の言葉が耳に痛いけど、いみじくもその通りだ」
「じゃあもう、大丈夫でしょ。セッちゃんにだけ泣かせるな。俺はねえ、怒ってるよ」
「うん……」
「もちろん俺だって、王さまのことは好きだけどさ。それ以上に今回は、セッちゃんの味方なので。出来ればセッちゃんには幸せになってもらいたいの」
「おれも……おれもセナに幸せになってほしいよ」
「じゃあ、なんとかしなよ。出来るのは王さまだけなんだよ」
 そこまで言い終わり、凛月は「はあ、疲れた……」と大きく息を吐いた。
 一方的に言いたい放題言われた格好になるけれど、レオは悔しいともいやだとも一切思わなくて、ただ、情けなさとわけのわからなさだけが、胸のうちにわだかまっていくのを感じていた。「セッちゃんにだけ泣かせるな」――まったく、その通り。「じゃあ、なんとかしなよ」――一体どうやって?
「セナが、おれのこと好きだって」
「そうだよ」
「おれ、一回セナに拒絶されたんだ。それでもまだ、ほんとに、おれのこと好きでいてくれるの?」
「それでも殺したいぐらい好きだって、セッちゃんは泣いてたよ」
「おれはどうしたらいいのかな……」
「知らない。そんなの、自分で考えなよ」
 一応聞いてみるけれど、凛月の返事はにべもない。そりゃそうか。泉が愛想を尽かしていてもおかしくなかったのと同じぐらい、凛月だって、レオに愛想を尽かしていても、おかしくないのだ。
 けれど、それでレオがうちひしがれたように俯くと、凛月はばつが悪そうに溜め息を吐いて、レオの方に向き直った。
「……王さま、自分がセッちゃんに対してどう思ってるのかは、わかってる?」
「え?」
「自分の気持ち、ちゃんと言葉に出来る?」
 凛月の問いかけは簡潔だが複雑怪奇だった。レオは問われるままに、自分が泉へ抱いている感情を脳裏に書き出して整理しようと試みた。
 ――まず最初は、綺麗だと思った。顔立ちがすごく整っていて、あと、声も好きだ。歌は調子っぱずれだったけど……声が大好きで、それだけでずっと聴いていたいと思った。
 月永レオは瞬く間に瀬名泉に夢中になった。出会ってからは、毎日が、嘘みたいに楽しいものになって、キラキラと輝いていた。泉と二人で過ごす青春があれば他に何もいらなかった。泉がそばにいてくれるだけで無限にインスピレーションが湧いてきて、アイディアが溢れ、作曲をする手は止まらない。そこで一度レオの夢は叶った。少なくともレオ自身はそうやって理屈を付けた。泉に与えられた作曲のアイディアは、レオの一生をかけても、使いきれないほど膨大だった。
 いつしかレオは泉のためになんでも出来るとまで思うようになった。泉の夢をなんでも叶えてあげたい、なのに泉はいつもどこか不満そうで、不機嫌で……そういうへそまがりなところも愛おしかったのだけれど、できれば、自分の隣で笑っていてほしかった。
「おれ、セナが好きだ」
「そう。それで?」
「それで……セナが笑ってくれると嬉しくて、ずっとそばにいてほしいって、思うようになった。今も。でもおれはもうセナを傷つけたくないから、一緒にいちゃだめだから、そう思ってたのに……」
「……」
「……。頭の中、ぐちゃぐちゃだ。おれ、それでもほんとは、セナのそばにいたいよ。……なあリッツ。これって……これが……『恋』なのかなあ……?」
 辿々しい言葉で、必死に、自分の気持ちを繋げていく。
「そうだよ」
 腕組みをして静かに立っている凛月は、一言、レオの問いかけを肯定した。
「――、」
 レオは息を呑んで目を見開いた。
 この数ヶ月間、空想の中の瀬名泉と共に紡いだメロディが、一息に溢れ、レオの頭のなかで無差別に暴れ回った。全てのメロディに瀬名泉への思いが息づいていて、あらゆる音楽は、瀬名泉に捧げられたものだった。
 レオは愕然とする。なんて酷い二律背反。なのに月永レオは、願っていたのだ。どうか忘れてください、と。
「……今おれが作ってる曲は、全部、セナの曲なんだ」
 呆然と呟けば、だろうね、知ってるよ、と素っ気ない返事が戻ってくる。どれもこれも、ぴんとはりつめて、あまりにも凛々しくもの悲しい旋律ばっかりだったから。気付いてたよ、と彼は言う。
「でもおれ、忘れてほしかった。セナの中から消え去ってしまいたかったんだ。なのに、出てくるメロディは全部、セナへ向けたラブ・ソングのかたちをしてたんだ……」
 そのことに今更気付いたよ、と言ったレオを、凛月は笑わなかった。
「おれ……セナが好きだ……」
 口からひとりでに零れ落ちた声は、さっき口にしたものとまったく同じ言葉だったけれど、孕む響きはまるで違っていた。好きだ。レオの口から身勝手に感情が零れ落ちて行く。好きだ。どうしようもなく。もはや自分に嘘はつけない、好きで、好きで、好きだ。
「好き、好き、大好き、ずっと前から、そうだった。あの日セナにキスしたのも、それを振り払われて怖くなったのも、全部そうだったら辻褄が合う」
「え……キスしたの? いつ……?」
「おれが最後に、舞台に立った日……ごみための上で、雨に打たれながら、ああこんなに泥まみれになってもセナはきれいなんだ、どうしてもキスしたいなって思って、そうした。ボロボロに傷付いてもどれだけ血に汚れても、それでもきれいな、おれのセナ」
 胸が張り裂けそうに痛い。名前を付けず、目を逸らしていた感情が、レオの前に鎮座している。瀬名泉が、あの世界でもっともうつくしい生き物が、キスしたレオの手を振り払って拒んだ。その日の悲しみが、レオの前で声高に自分を主張しているのだ。
「ああ、もしあれを『恋』って呼ぶなら、おれはもう失恋しちゃったんだ」
 レオはぽろぽろと涙を流しながら、今にも消え入りそうな声で呟いた。電話が掛かってくる前、三毛縞が言っていた言葉が、ぐるぐると渦を巻いている。恋、恋、恋だなんて。そんなもの無縁だと思ってたのに。気ままに愛を振りまいてそれで満足だと思っていたのに。
 だけど何もかも取りこぼしてから、思い知らされてしまう。レオは泉からの愛を求めている。
 叶わない夢だ。
 泉の恋心をへし折った挙げ句失恋の曲で畳み掛けて潰したのは、他でもないレオなのだから。
「……セナに会うのが怖いよ」
「セッちゃんだって、ずっと怖がってるよ」
「……うん。おれもセナも、拒絶されるのがすごく怖い。だけど逃げてばかりのおれと違って、セナはずっと、おれを待ってるんだよな……」
 泣きはらした顔を上げると、凛月がむっすりした表情でこちらにハンカチを差し伸べて来ている。「そうだよ、だからねえ王さま、もうわかってるでしょ」。凛月から受け取ったハンカチで、乱雑に顔を拭った。ハンカチはすぐにびしょ濡れになった。自分が思っているより、ずっとずっとレオは泉に恋していて、恋破れた悲しみは大きかった。
「学院に復帰するよ」
 レオが呟くと、凛月がそっかと頷く。
「セナが待ってくれてる玉座へ、戻る。それで出来るだけのことをする。もちろん、不満が出るようなら、それには向き合うよ。けど今のKnightsは、まだおれのKnightsだから。セナがそうなるように守っててくれたから。おれは王の努めを果たそう。……いいかな、リッツ?」
「いいもなにも、王さまの号令に逆らうほど謀反心強くないよ、俺は」
「リッツはいい騎士だな〜、ほんと」
「当然でしょ。俺たちKnightsは、セッちゃんが王さまのために選りすぐったメンバーなんだからね」
 汚れてしまったハンカチを返そうとしたら、「洗濯してスタジオに持って来てよ」と凛月が笑った。久しぶりに見た凛月の笑顔は、凛として美しく、どこか泉の面差しに似てきている、ような気がする。
「今度はセッちゃんを裏切らないでよ、王さま」
 凛月がとびきりの笑顔でそう囁いた。レオは確からしく頷いた。壊れてしまった恋心を握り締めて、レオは決意する。

 ――今度こそセナの願いを叶えてみせる。

 そのためにどんな代償が必要になっても構わない。