06


 帰って来た。
 あのアホが、何考えてるのかわかんない宇宙人みたいなやつが、俺たちの「王」が……帰って来た。
「思いだした! おまえら、明日ライブやるから! 『Knights』でっ♪」
 久しぶりに会ったかと思えば、そんな破天荒を通り過ぎて傍若無人なことをなんでもないように宣う。ああ、もう、本当にイライラする! なんでこう、こいつは、落ち着きがないのかなあ!?
 でも。
 だけどちょっとだけ、ほんの少しだけ、ワクワクした。楽しそうだって。俺は抱きしめていた過去の栄光を手にとって眺め回した。その中にはいくつもの、二人で舞台に立った輝かしいライブの記憶が収められている。
 全ての記憶は、美しい側面だけを残して想い出のかたちに丸められていた。きらきらと光を反射して……おもちゃ箱へ大事にしまわれたビー玉みたいだ。
 ねえ、もしかしたら。
 俺はこっそりと微笑む。もしかしたら……あの頃みたいな日々が、また帰って来るのかな。そうだといい。 
 あいつは上機嫌で、俺たちのための曲を作るからそれを歌えだなんてわめいている。相変わらず無茶苦茶な要求をしてくるもんだ。あんたの無茶振りに応えられるやつがどれだけ貴重か、わかってんのかなあ? 
 でもまあいいや。いいんだ。……いいよ、それでも。
 あんたが俺のために作ってくれた音楽で、また昔みたいに、一緒に並んで舞台に立てるのなら。
 それだけで必死にしがみついてアイドルを続けて来た、その価値があるって、信じられるから。

 なのに。

 あのバカは来なかったんだ。
 舞台の上、俺の隣、俺がみじめな思いをしてまで守り抜いた、王の玉座に――戻っては来なかった。


 転校生とレオがセッティングした、Knightsの突発ミニライブ。
 Knightsが久々に新曲を見せるということで、校内のファンはもちろん、耳聡い校外のファンも屋外ステージへ詰めかけて、泉の視界は、思っていたよりも遙かに多くの人間で埋め尽くされていた。
(まあだからって、俺のやることはべつに変わらないけど……)
 昨日渡されたばかりの新曲を歌い上げ、割れんばかりの拍手と声援が泉たちを包み込む。失神しちゃうんじゃないかってぐらいの黄色い歓声が、あたりを支配している。
 振り付けはほぼ即興で、パフォーマンスはその場その場の思いつき。かろうじてセットリスト通りに演奏が流れているのが不思議なぐらいしっちゃかめっちゃかのライブだったけど、出来は上々だ。唯一、レオのやり方に慣れていない司がぎこちない動きを見せているけれど……元々そういうところが「かわいい」とか言われてうけているところもあるので、ライブの出来を左右するほどではない。
「泉ちゃん、大丈夫?」
 曲と曲の合間、MCパフォーマンスをしている途中で嵐が寄ってきて泉に小さく耳打ちをした。観客の視線は、中央で司をいじりながら軽くコメントをしている凛月へ集中している。今回の新曲を披露するに至った経緯、そしてレオを知らない新規ファンに向けた、Knightsの王についての説明。それらを凛月は軽妙なテンポで進め、場を暖め、……当の王本人がこの場にいないことを、きれいに誤魔化している。
「ちょっと、舞台の上で無駄口叩かないで。集中しなよ」
「平気よ、今はみんな凛月ちゃんのお喋りに夢中だもの。それより……心配よ、泉ちゃん、張り切ってたみたいだから……」
「何が?」
「何って、……だから、王さまのことよ」
 あしらおうとしたけれどうまく出来なくて、泉は嵐の指先に甘んじた。マイクを持っていない方の手を、そっと握り締められる。手袋越しでもわかる汗ばんだ手のひらは、嵐の方は熱いぐらいだったというのに、泉の方は、心なしか冷えていた。
 これじゃ心配されるのも当然だ。情けない。
 泉は首を小さく横へ振る。
「別に……あいつが勝手なことするのなんて、昔からそうじゃん。最初から、期待なんかしちゃいけなかったんだ。そうだよ……分かってた。何かを望むから、裏切られた時辛くなる。だから最初からそんな高望みしなきゃいいんだって、俺だって分かってたよ……」
「泉ちゃん……」
「……まあだからって、自分は制服のまま観客席で腕組みとか、流石に何様なわけ? って感じはするけど」
 高見の見物が出来るような立場でもないくせにね、と唇を歪めてやると嵐は躊躇いがちにまなじりを伏せって頷いた。
 Knightsの新曲お披露目兼、月永レオ帰還の場として設けられたこのライブに、あろうことかレオは参加しなかった。放送部が陣取っている撮影用席に関係者として入り、何を考えているのかわからない表情で、こちらをじっと見てきている。
 そのことに気がついた時、泉の胸に去来したのは落胆でも怒りでもなく、ただ、やるせない諦念だった。勝手に期待して勝手にまた裏切られた自分をばかだなあと乾いた心で笑い飛ばして、マイクを握り締めた。
 分かってるよ。期待なんかしちゃだめ。多くを望んではいけない。戻って来てくれただけで十分贅沢なんだから。曲は作ってくれるつもりみたいだし。
 ……今日だって、バカみたいに十何曲も新曲を出してきて、一日でそんなにすぐ覚えきれないからって数曲だけ選び直したぐらいなのだ。もうすっかりスランプの面影はなかった。
 喜ばしいことだ。抗争に明け暮れて潰れてしまったかつての月永レオはもうどこにもいない。レオは生きている。輝かしい才能を十全に発揮している。ただ同じ衣装に袖を通して泉の隣で歌ってくれないだけだ。アイドルをしてくれないだけ。だけどあの男は元から作曲家に一番向いているのだから、それでいいのだ。
 ただ、泉が、ほんの一瞬また甘い夢を願ってすぐうちひしがれたというだけの話。
「?まだまだ新曲はいっぱいあるから、心ゆくまで聞いてってね、お姫さまたち。次はねえ……セッちゃんのソロがあります。王さまの新曲歌ってるセッちゃん、見たい??」
 目を瞑り、瞬きをし、再び大きく見開いた。泉の準備が出来たことを見越したのか当てつけなのか、凛月がにこやかに笑いながら、進行を巻いていく。ひらりと振られた彼の手を追うように、観客の声援がひときわ大きく盛り上がった。「見たい!」「嬉しい!」「泉くんの歌大好き!」「早く聴きたい!」なんて声がさかんに飛び出す。Knightsのファンがアイドルとしての瀬名泉を求めている。
「あら、お呼びが掛かっちゃった。泉ちゃん、行けるかしら?」
「うるっさいなあ、誰に向かって言ってるわけ、なるくん。チョ〜うざぁい!」
 自分を鼓舞するように、マイクが拾わない程度に強い口調で嵐をはね除けた。瀬名泉の身体を、頑なに凍り付いた誇りだけが支えている。
「……俺が出来なきゃ、誰がやるの。俺はKnightsの瀬名泉だよ? 誰より完璧にアイドルをやり遂げてみせる。美しく振る舞うよ、精々、あいつに幻滅されないようにねえ」
 この舞台に立つ限り、自分はKnightsの瀬名泉だ。
 たとえ、玉座が空でも。王冠が床に投げ捨てられていても。心が軋んで悲鳴をあげそうでも。虚勢でも誇り高く、プライドを胸に抱きしめて。それが泉が自分に課したルールだから。
「――泉くん! 今度はまた王さまと一緒に歌って!!」
 だから、ファンのそんな声が聞こえても、泉はきらびやかなアイドルの相貌を一切崩すことなく、マイクに唇を近づけて高らかに歌い上げた。高音の難しいパートを一気呵成に畳み掛け、愛を歌い、夢を歌い、希望を歌った。
 その途中で一度だけ、関係者席にいるレオと目が合った。何メートルも離れた先にいるのだから、それは錯覚だったのかもしれないけれど、確かに、目が合った、と思った。
 あの愛らしいグリーンアップルの瞳が、夢見る子供のように煌めいて、愛おしげにこちらを見ている。『セナ、』声が聞こえる。泉の口から、舞台に設置されたスピーカーから、流れる大音量の歌声を打ち消して、届くはずのない幻聴が聞こえてくる。
『うん、やっぱり、セナはきれいだ』
 幻の声はゾッとするぐらい確かに泉の鼓膜を震わせて、脳をぐちゃぐちゃに揺すぶって。
『大好きだよ、きれいなセナ』
 そうして彼方の男が唇を動かすのに合わせ、泉の心に出来た傷口へ何度も塩を上塗りした。


◇◆◇◆◇


 本当に、クラスが別でよかった。
 あと部活も別でよかった。月永レオが学院に復帰してからというもの、そのことを特によく思う。
「ああ、全く本当に度し難い。月永め、弓道場にまた性懲りもなく落書きなどしおって。おかげで朱桜がへこへこ頭を下げながら、伏見と雑巾がけをする羽目になったんだ」
「悪いとは思うけど、どうにかなるならとっくに手を打ってるよ、俺たちだって。あいつ人の言うこと、とことん聞かないからねえ……?」
「分かっている。分かってはいるが、どうにも言わずにはおれん。……済まんな、瀬名。いやこんな聞き苦しい愚痴、本来は口に出すべきではないのだが。どうもな……」
「はあ、あんたも大概迷惑掛けられてるよねえ、蓮見」
「まあな……。とはいえ奴の弓道の腕は本物だ、帰って来てくれたことは、素直に喜ばしい。リトル・ジョンも嬉しそうにしているし、悪いことばかりではない」
「ああ、あの子……。最近姿を見ないなと思ったら、王さまの方に懐いてたの」
 泉がふうんと答えると、蓮見敬人は眉間に皺を寄せたまま気むずかしそうに頷いた。いやこの生徒会副会長殿は、大体いつも、気むずかしそうに眉根を寄せているのだが。今日の彼は、気むずかしい顔の中にも、なんとなく喜色が滲んで見える。
 普段はお堅い紅月の首魁とはいえ、ユニット衣装を脱げば、「デッドマンズ」やら「ロビン・フッド」を名乗ってやりたい放題した過去を持つ男だ。同じ弓道部の仲間としてそれなりにレオを気に入っているのだろう。
 敬人は溜め息を一つ吐くと、「世話をかけるな」と呟いた。
「俺はどう足掻いても生徒会の――権力体制側の人間だ。月永個人のことは好ましいと思っても、奴がやり過ぎた場合などは、処断せざるを得ん。しかしまあ全てが本意というわけではない……そのため、貴様には苦労を掛けることもあるだろう。奴のことは、貴様に任せるのが一番だからな」
「ええ……。なんで俺なわけえ? それこそ、転校生とかにやらせとけばいいでしょ、あいつ仮にもプロデューサーなんだからさあ……」
「何を言っている。奴を御せるのは、夢ノ咲中を探しても貴様だけだろう、瀬名。月永が従うのなど、貴様の言葉だけだ。三毛縞の折り紙付きだぞ」
「超いらない」
 そういえば、そんなことを昔三毛縞に言われたことがあったような気はする。Knightsが凋落をはじめる切っ掛けになった、あの「チェス」の連中とライブ対決をするはずだった日のことだ。まあ結局、レオが三毛縞と色々やっていたせいで、チェスの連中は来ないまま、不戦勝になったのだが。思えばあれが全ての悪夢の始まりだった。あそこからレオは壊れ始め、身体にいくつもの風穴を開け、自分が吐き出した血でどろどろに汚れて、それで……。
『おまえのせいだろ……ぜんぶ! おれはさぁ、おまえの夢を叶えてやろうと思ったんだよ!』
 泉は目を瞑って唇を噛みしめた。嫌なことを思い出してしまった。過ぎ去った出来事をいくら後悔しても仕方がないのに。それもあんな、悲しみだけが堆く積まれた頃のことなんて。
「俺の言うことなんか聞きやしないよ、れおくんは」
 あの頃のレオは泉に求めるだけ求めて、我が儘に振る舞い、そして泉の言葉を聞かなかった。
 ……もしかしたら。今学院に帰ってきた月永レオは、作曲のセンスこそ取り戻して、元気なように振る舞っているだけで、根っこのところが壊れたままなのかもしれない。泉はそんなことを考える。
 だってそうでなきゃ、泉が一生懸命磨いて待っていた特等席を無視して、あれだけ人を楽しませることが好きだった、愛されるべき男の子が……泉の願いを平気な顔して踏みにじるようなことがあるだろうか?
「第一……俺の言うことを本当に聞いてくれるっていうのなら、すぐ帰って来てくれてもよかったでしょ、俺のとこに……」
「ん? 何か言ったか、瀬名」
「……なんでもなぁい」
 それより、授業始まっちゃうよ、優等生。
 泉がぶすくれて言うのと同時に始業のチャイムが鳴り、がらりと戸を開いて担当の教師が教室へ入ってきた。


 直前にした会話のせいか、四時間目の授業は、ちっとも内容が入ってこなかった。教師の声は全て上の空を通り過ぎ、腕だけが、機械的に動いて板書を写し取っている。しかしその意味を今の泉はちっとも理解出来ていなくて、自分が何を書いているのかまったくわからない。
 教師は小さな声でゆっくりと喋る大人しいタイプで、問題児の羽風といつもやかましい守沢がユニットの仕事で不在にしていたことも手伝い、教室の中は静寂に包まれていた。チョークが黒板を引っ掻くコツコツという音に、無数のシャープペンシルが走る音が響くだけの空間は物侘びしい。そのさびしさに耐えられずふと窓の外を眺めると、途端に、別世界のような喧噪が飛び込んでくる。
(体育の授業してる)
 窓から見える広いグラウンドに体操着を着た生徒達がばらばらと散らばっていた。見覚えのある顔が多い。あの派手なロン毛は日々樹渉で、小柄ながら俊敏に動いているのが仁兎なずな。号令を掛けているのが鬼龍紅郎。それから――
「あ」
 ぴょんぴょん跳ねるオレンジ頭の、月永レオ。
 不登校気味で授業にもろくに出ないレオが、ひどく珍しいことに、体育の授業に興じていた。あまりにも珍しすぎて正直何かと見間違えた可能性を疑ったが、目を凝らせば凝らすほど、そのオレンジ色がレオであることは決定的になっていった。
(……元気そう)
 泉はぼんやりと窓の外を眺め続けた。視線が、勝手に、レオの姿を追いかけてしまう。ああ、ばかばかしい。女々しいことしちゃってさ。我がことながら反吐が出る。そう思うのに、レオから目を離せない。
 ――こうして目で追ってるぐらいが、丁度良かったのかなあ。
 思い出すのは、泉がKnights……チェスに入る前、まだレオと知り合うより前のことだ。
 五奇人に匹敵する天才であり異端児だったレオは、入学当初から学院内では有名人だった。それこそ、人より顔がいいぐらいしか取り柄のない泉と違って、瞬く間にレオの名は学院中に知れ渡り、ほどなくして泉の耳にもその名が届いた。
 音楽の天才、作曲の鬼才、そのうえ、人の言うことをなんでも信じる愚かで従順な神童。月永レオに貼られた、数々のレッテル。
 その評を聞くたび泉は思ったものだ。「ああ、住んでる世界の違う人間がいるんだなあ」と。「きっと一生、関わり合うこともないのだろう」と……。
『おまえ、綺麗な顔してるな! それに声も! 綺麗なものは、大好きだ。決めた! おまえ、おれと一緒のユニットに入れ!!』
 だけどあいつは瀬名泉を見つけてしまった。
 見つけて、側に置き、名前をつけて着飾らせた。
 その時点で既に瀬名泉は恵まれていた。それ以上を求めたら天罰が下るんじゃないかってぐらい、恵まれていた。たとえほんの一瞬で終わる儚い夢だったとしても、美しい青春まで与えられたのだ、もう十分じゃないか。
 ――あ〜あ、恋なんてするんじゃなかったなあ。
 ――最初から身分違いの片思いだってわかってたはずなのになあ。
 そんなことをぼんやり考え、終わってしまった恋心を弄んでいると、窓の外の光景に変化が起きる。
 泉はぎょっとして瞬きをした。
「げっ……」
 レオが、こちらを振り返ったのだ。嫌だ、目が合ってしまう。それでぷいと目を逸らすが、もう遅い。
 視界の斜め向こうで、レオがぶんぶんと勢いよく手を振っていた。
 泉と目が合ったことを無邪気に喜んで、嬉しそうにこちらを見つめてきている。遠くから。手が届かないぐらい彼方から。そして唇を大きく開いて、ライブの時と同じように泉へ幻聴を届けるのだ。
 ――『さみしいの? セナ』。


◇◆◇◆◇


 四時間目が終わって昼休みになってすぐ、バタバタと廊下を走る音が聞こえてきて、それから勢いよく教室の扉が開いた。「誰だ! 廊下を走ってきたのは!」敬人の怒号が教室中に響きわたる。「――貴様か、月永! まったく度し難い!!」。
「……え? 王さま?」
 泉は聞こえてきた名前に驚き、弾かれたように頭を上げた。教室の中に、本来このクラスにいないはずのオレンジ色が存在している。しかもそいつは、どんどんとこっちへ向かって距離を詰めてくる……。
「――セナっ! 大丈夫か、なんか、あったか!?」
 レオは、あれよあれよという間にこちらへ駆け寄ってくると、何故か心配そうな顔をして泉の手を握り取った。泉の冷えた手のひらを握り締めたレオの手は、太陽のように熱かった。レオは元々子供体温で手が暖かいたちなのだが、いつにも増して、ちょっとびっくりするぐらい高温だ。
「なんかあったかって、あ、あんたの方が、よっぽどどうかしてるんじゃないの。何、この手。熱すぎ。風邪でも引いたんじゃ……」
「ああ、おれ、グラウンドから一生懸命走ってきたから! 本当は授業なんかほっぽり出して行きたかったんだけど、オバちゃんがやたらと止めるから抜け出せなくて。でも、どうしても、一秒でも早くセナのとこ行きたかったから! だから走ってきた! 命の続く限り全速力で! セナ、大丈夫か!?」
「ば、バカじゃないのお!?」
 はあはあと浅く息をしているレオの手を、思わずぎゅっと握り締め返す。言われてよく見れば、レオは体操着を着たままで、頬に汗が伝い、肩を忙しなく上下させている。
 どうやら、本当の本当に、全速力で走ってきたあとらしい。でもどうして? その理由が皆目検討つかず、泉は訝しむ。
「ていうか、止めてよねえ、そういう恥ずかしい真似。なんもしてないのに、来ないでよ」
「ん? だってセナ、おれのこと呼んだだろ?」
「はあ? 呼んでないけど?」
「えっ、でも、窓の外からおれのこと見てただろ? だからああ、おれのこと呼んでるのかな、って」
 それで問いただすと、レオはさも当たり前のように、さらりと、泉の目を真っ直ぐ見てそんなことを言い放った。
「――は?」
 泉は頭を巨大な氷塊でぶん殴られたような心地になり、握り締めていた手を突き放した。
「何……? あんた、呼んだら来るって、そんなたまじゃないでしょ……?」
 急に頭の中がざわざわして、背筋を悪寒が駆け上がる。一体何を言っているのだこの男は。何度呼んでも来なかったくせに。電話は音信不通で、失踪期間中、一度だって出てくれなかったくせに。LINEもメールも、既読さえ付けず、見向きもしてくれなかったくせに。
 なのに、呼んだのか、だって?
「呼んでないよ。全然、呼んでない……!」
 呼んだよ。あんたがいない八ヶ月間、必死に、何度も、でも気付いてもくれないから、悲しくなってもう止めたんだよ。
「え、そ、そうなのか? う〜ん? 呼んでるように見えたんだけどなあ……?」
「目の錯覚。気のせいだよ、完璧に。それよりこっちは用がないんだから、さっさと自分の教室に戻りなよ。いつまでも汗臭い格好で俺の前にいないで」
 ああ、そうだよ、そうだった。
 鳴らない電話、既読の付かないメッセージ、聞き飽きてしまった「お掛けになった番号は現在おつなぎ出来ません」という電子音声。それら全てに嫌気が差して、泉はレオに期待することをまったく取りやめた。現在にも未来にも、夢を見ることをやめなくちゃと誓った。だって辛い思いをするだけだから。苦しい思いをするだけだから。
 そう決めていたはずなのに、レオが帰ってくるなんて「有り得ない奇跡」のせいで、また勘違いしかけていた。
「帰って」
 恋心はもう死んじゃったんだ。
 風穴だらけの心臓は、真っ黒い血を垂れ流して、もう二度と蘇らない。
「用がないなら帰ってよ」
 これ以上の奇跡なんて起こりっこないんだよ。絶対に。
「……セナがそんなに言うんなら、……帰るけど。でも、これだけ言わせて?」
 だから信じない。目の前でこの男がどれだけ悲しそうな顔をしていたって信じない。レオのことを信じちゃいけない。玉座が空っぽでも、泣いちゃいけない。
「おれはね、セナの願いを叶えてやりたい。セナのことを守ってやりたい。セナの夢を愛してあげたい。だからおれに出来ることがあったら、なんでも言って」
 どんなに甘い言葉を囁かれても、頷いちゃいけない。
 泉は歯ぎしりをし、右手を強く握り締めた。あまりにも込めた力が強くて、爪先が手の皮を食い破ってしまいそうだ。ああ、本当に、なんて酷い男なんだろう。レオの言葉は最低の屈辱感を泉にもたらす。そんなつもりなんかないくせに。お願いなんて叶えてくれないくせに。なのにそんな、期待を持たせるようなことを、言うのか、あんたは。
(じゃあ、俺と一緒に舞台に立って、歌ってよ。それだけで……それだけでいいのに……!)
 たった一言、そう伝えられたらどんなにかよかっただろう。
 けれど肥え太った自尊心が邪魔をして、それだけは口に出来ない。傷付きぼろぼろに成り果てた、恋の終わりが口を塞ぐ。惨めに生きさらばえた友愛が、レオの裏切りに怯えている。
「……スタジオに、ちゃんと顔出してよね。かさくんが毎日うるさいから」
 絞り出した声は語尾が僅かに震えていた。泉の中で、小さな子供が体育座りをして俯いている。本当のことを何一つ言えない弱虫。だけど虚勢を張ってでもレオを追い返すしか、泉に選択肢はないのだ。
 レオにだけは、絶対に見せたくない。
 みじめな剥き出しの瀬名泉を、腥くて綺麗じゃない丸出しの人間を、膿んでぐずぐずに潰れきった傷口を。
 「綺麗だね」と言って泉を見つけてくれたレオにだけは、絶対に。