07


 大逆転の勝利に、客席は、熱狂の渦に包まれた。
 【ジャッジメント】の舞台で、二人の人間が膝を突き、向き合っている。ナイトキラーズの首魁にして現Knightsリーダー、月永レオ。王に謀反を起こしたKnightsの次期王位継承者、朱桜司。周囲の人間を盛大に巻き込んで行われた壮大な親子喧嘩は、まるで奇跡のような、魔法のような顛末で、幕を閉じようとしている。
「ねえ! 泉ちゃん、凛月ちゃん、やったわ、勝ったのよ、あの子! アタシたちの勝利よ……!」
「うむ……どうやらそのようだ。ふふ……頑張ったじゃん、ス〜ちゃん。すっかり見違えて、お兄ちゃんはうれしい……♪」
「お姉ちゃんも嬉しい♪ さあっ、あの子を抱きしめに行ってあげましょう? アタシたちは?今の?Knights。もうとっくに個人主義者の集団なんかじゃないわ――家族なんだから」
 嵐と凛月が舞台袖から躍り出て中央へ駆けて行く。そのあとを少し遅れて追いかけ、泉は眩しいステージの中へ戻った。散々ぱら勝負を引き延ばされ、手の内を晒すことを余儀なくされ、無様なまでに這いつくばらされたその舞台で、司が興奮冷めやらぬ表情をしている。
「おめでとう、俺たちのス〜ちゃん」
 まずはじめに、凛月が司に飛びついた。
「信じてたわよォ、アタシたちの司ちゃん」
 次いでは、嵐が凛月ごと司を抱きしめた。
「ふん、まあ、頑張ったんじゃないの。まだまだ、青臭いし下手くそだけど。……綺麗だったよ、俺たちのかさくん」
 最後に、全員まとめて泉が抱きしめて。
 そして喜びに涙ぐむ司の背をさすりながら、それをぼんやりと見ているレオの方へ顔をもたげた。
 ナイトキラーズの衣装に身を包み、舞台にへたりこんでいるレオは、流石に体力を使い果たしたのか、息も絶え絶えといった様子だった。澄み渡った瞳の中には、どこか遠い故郷を見守るような寂しい色が浮かんでいる。
 そんな顔して、どうしてこっちに来ないの、れおくん。
 確かにこの舞台では、あんたはKnightsの敵だったけど。
 だけど司の望みはレオの完全復帰だ。それは勝負の前に既に宣言されている。放逐は有り得ない。今泉たちは司を抱きしめているけれど、ここにはまだ確かに、レオのための玉座が、輝いているのに。
「なあセナ、これがおまえの守ってきた『Knights』なんだな」
 口を開かずじっとレオを見上げている泉の代わりに、やおら、レオが唇を開く。
「おれの知らない、『今のKnights』だ。ああ……はは。わはははは。面白いなあ……世界ってこんなに、変わっちゃうんだ。ちょっと目を離した隙に、みんな変わってく。みんな……」
 レオの声は小さく、頼りなくて、奇跡の勝利に浮かれている観客にはもちろん、抱きしめ合っている司や凛月、嵐にも、聞こえないぐらい微かだった。その言葉は泉にだけ向けられていた。「昔のKnights」を誰よりも知っている泉に。Knightsを作り、レオの隣で相棒として戦っていた、瀬名泉に。
「おまえも変わっちゃったのか、セナ?」
 おれはどうしたらいいんだろうね、とか細く呟かれたのを、泉は決して聞き逃さなかった。
 ぽつりとした独り言は、きっと誰に聞かせるつもりでもなく、自分自身のために漏らされた一言だったのだろう。何故なら、それを最後にレオは立ち上がり、馬鹿みたいに大声を上げ、「うっちゅ〜☆ 愛してるぞ、おまえら!」なんて言いながらこちらに飛びついてきたからだ。
 レオの息づかいが近い。泉ごと司を抱きしめて、レオが明るい声で騒ぎ立てる。
「さあ、勝利の歌を歌おう! おまえたちが生まれ変わらせたKnightsのため、祝福の生誕歌を! めでたし、聖寵満ちみてる、新しき騎士たち。月永レオへの鎮魂歌に代えて、おれからはこの歌を贈ろう――」
 ……ああ、こんなにあんたの温もりが近いのに。
 どうしてだろう。俺たちの心は、ずっとずっと、違うところを向いてすれ違って。
 玉座は冷え切り、主のいない剣は、途方に暮れて涙で水瓶を満たしている。
(……確かにかさくんは次の王だ、それに相応しいし、俺だって認めてる。あの子はクソ生意気でむかつくけど、かわいい後輩だよ。そんなかさくんのいるKnightsを守って維持してきたのも、俺。だけど……)

 ――ねえ、れおくん。
 俺が仕える王さまは一人だけなんだよって言ったら、あんたは俺を笑うのかな。


◇◆◇◆◇


「ううむ……最近、セナに避けられてる気がするなあ……?」
 弓道場で矢をつがえながら、レオはむうと首を捻った。隣で同じように矢をつがえている三毛縞が、がははと豪快に笑っている。彼は正規の弓道部員ではないはずなのだが、誰ぞに道着を借りたのだろうか。それなりにさまになる格好で、構えもなかなか堂に入っている。
「レオさんが避けてる、の間違いじゃないかあ? フルール・ド・リスの仕事を請ける頃までなんて、レオさんは音信不通になってるっていうのがもっぱらの評判だったしなあ」
「あれはリトル・ジョンの子供たちの世話焼いてたら、携帯の電池なくなっちゃったから……。う〜ん、避けてるっていうか、よそよそしいのかなあ。会いに行っても素っ気ないし、携帯に送られてくるメッセージは『フルール・ド・リスのこと忘れないでね』っていう味気ない業務連絡だけだし……。うが〜っ、忘れてない、忘れてないってば〜! ちゃんと新曲もいくつか渡したし、なんなら追加もまだ作ってるし!」
「ははあ……そういうことでもないと思うんだけどなあ……」
「うう〜? じゃあおれ、ほんとにどうしたらいいの? おれはセナのお願いを何でも叶えてやりたいのに、あいつの夢を手助けしてやりたいのに……こんなんじゃお先真っ暗だ……」
 型も何も無い構えで撃ち出されたレオの矢は、真っ直ぐに的へ飛び、ぴたりと中心を射貫いた。言っていることはめちゃくちゃだが、身体の動きは統率が取れている。
 ――泉さんなら、心の乱れが態度にもろに出てくるところなんだろうがなあ。
 こういうところがまったくもってレオと泉は正反対なのである。だからこそわかり合えずにすれ違うし、ゆえにこそ惹かれ合うのだろうが。
 まったく難儀なものだ。三毛縞はふうと小さく息を吐き、大きなお節介心からレオに向けて口を開いた。
「じゃあレオさん、俺の思う答えをひとつ言ってもいいかなあ?」
「いいよ」
「うん、あのなあ。今のレオさんの言葉は、どうにも、矛盾しているんだなあ」
 人差し指を立ててそう言うと、レオがびくりと肩を震わせた。どうやら都合の悪いことから目を背けている自覚がないわけではなさそうだ。
 ならばここにはもう一段階踏み込んでおくべきか。そう判断し、三毛縞はなるべく正確な言葉を選んで並べていく。
「そもそも。泉さんのお願いを『なんでも』叶えてやるのなら、レオさんはこんなところで油を売ってないでスタジオへ顔を見せるべきだろう。『忘れないでね』というメッセージは、恐らく『練習に参加してね』という意味だろうからなあ」
「た、たまに行ってるよ、たまに……。けど毎日行ったってしょうがないじゃん、おれ、どうせ当日舞台に上がるつもりないし〜?」
「そこが不思議なんだがなあ。どうして舞台が嫌なんだ? コンチェルトにお月見ライブ、ジャッジメントとこなして、舞台に対するトラウマみたいなのはもう随分払拭しているだろう。ああいや、俺の見当違いだったら、謝るがなあ。だけどもう、本当は怖くないんだろうに」
「……それは……」
「元来、レオさんは舞台の上が好きだ。お客さんが自分の歌や音楽で笑顔になってくれる瞬間が、とみに好きだ。みんなで幸せな歌を歌うことが、君の願いでさえある。なのに何故、さみしい思いをしてまでそれを拒む?」
「…………」
 矢をつがえるレオの手が止まる。取り繕うことも出来なくなり、レオの思考と身体が、一本の線で繋がっていく。
 レオは矢を床に落とし、弓を持ったまま、腕をぶらりと降ろした。
「……怖くなったんだ。セナの隣に立つことが……」
 三毛縞の目に映る月永レオは、精魂尽き果てたような顔をしていた。
 それはまるで生きているのが不思議なぐらい、灰のように真っ白だった。
「おれはね、セナが大好きだ。きれいなセナに一目惚れして、ずっとそばで見てたくって、隣に置いた。でも……一度共倒れしそうになって、おれのせいでセナまで駄目にしちゃうのが本当に嫌で、身を引いたんだ。そういう経緯だからさ、おれは、恐れてるんだよ。おれなんかがセナの隣に立ったら、今度こそ本当に、セナを壊しちゃうんじゃないかって……」
 ぽつり、ぽつり、とレオが呟く。病院へ向かうタクシーで聞いたものと同じ、告解の声。
 この声を聞いていると三毛縞は自分が牧師にでもなったような気分がしてくる。それぐらい、懺悔をするレオの声は静かで、苦渋に満ち、何より己を責め立てている。
「だから、おれさ、セナのことはもう、好きなだけでいいんだよ」
 セナがそういうふうに言うんだ、だからおれもそれ以上は望むべきじゃないよ、とあまりにも寂しい声が彼の口から漏れて……三毛縞はひゅうと喉を震わせた。

 ――君のことを、好きなだけでいいよ。

 それはとても優しい言葉で、同時に、どうしようもなく残酷な言葉だ。好きなだけでいいよ。同じ気持ちでいてほしいなんて言わないよ。愛してなんて以ての外。ただ、ほんの少しだけ、あなたを目で追うことを許して欲しい。
 そんな言葉を、あの日病室で聞いたのだとレオが言う。三毛縞は息を呑んだ――巡り合わせの酷薄さに畏れさえ抱いた。それは恐らく、泉が胸の奥に秘めて墓まで持っていこうとした感情で。彼が最も知られたくない気持ちで。そして月永レオの心の柔らかい部分を、何より正鵠に射貫く、悪魔の言葉だったからだ。
 純粋で美しく、清らかで慎ましい、あまりに鋭利な断罪の刃。
 その刃で心臓を抉り出されてなお舞台へ上がり、ジャッジメントを行っていたと考えると……。レオは今や、棺桶を引き摺って歩いている死体みたいなものだ。
「レオさん、そいつは、」
「ううん、いいよママ。それ以上言わないで? おれもね、バカなりにわかってるよ。おまえの秘密を聞いてしまっただなんて、死ぬまでセナには言わないよ。あいつは、プライドが高いから……気高くて誇り高くて、高潔な生き物だ。その意地をめちゃくちゃにしたくない。それこそ、セナを壊しちゃうよ」
「いや……そう、だなあ。レオさん、それは、泉さんの隣にはいられないわけだ。すまんなあ、無神経なことを言って……」
「あはは! 気にするなって、心が痛いのは、もう慣れっこだよ。ロビン・フッドを名乗って暴れ散らかして、最後はあのボンクラ皇帝に始末されて。そこまでに俺の心という心は全部傷付ききったもん。……そのはずだ。なのにまだ……こんなに心が痛むなんてのは、きっと何かの、間違いだよ……」
 レオの痩せた手のひらが、そっと彼の胸元に捧げられた。心臓を痛みから守るように、彼は手のひらをぎゅうとたわませる。
「なあ、レオさん。痛いなら泣いていいんだぞぉ」
「ありがと、ママ。でもおれは泣かない。もう、おれが許されたぶんの涙は流し尽くしたよ。あの病院の暗がりの中、一生分の涙を、おれの初恋に費やした」
「初恋、か」
「そ。おれはね……セナが倒れたあの日、リッツにお説教されて、ようやく自分の気持ちに気付いたんだ。おれがずっとセナに抱いていた気持ち。おれの中で咲いていた感情のこと。海外にいた頃、おれがセナのための曲しか作れなかった理由。ママはもう、とっくの昔から見抜いてたんだろうけど。その通り、おれは、恋してた。
 ――だけどもうそれは終わってたんだ。おれ自身の手で、絞め殺されて息を奪われ、死んでいた……」
 ねえママ、死んでしまった恋の残骸を見たことがある? レオが訊ねる。見るもおぞましい惨殺死体みたいになった、恋の亡骸を抱きしめたことがあるかな。
 三毛縞は首を横へ振る。するとレオが、蟻の変死体を集めて泣いてる子供みたいな顔をして、微笑む。
「おれはね、セナが夢の中で吐露した姿を見て、はじめて、それを知ったんだ。ひどいものだった。むごい姿だった。目を覆いたくなるぐらいのチアノーゼで、春の面影はどこにもなくて、赤黒く乾いた冷たい木乃伊を、後生大事に抱えてるんだ。ぞっとした……セナにそこまでさせたやつを、心底憎んだ。だけどその憎しみの先にいるのは、おれなんだよな。おれがそうしたんだ。おれが傷つけた。おれが殺した……セナの美しく暖かい、幸せな感情……」
 おれは罪人だよ。
 月永レオはまるで他人事のように、そう嘯く。
「本当は、おれはセナと一緒にいちゃいけない。でもおれはセナのそばにいたい。セナもおれに帰って来て欲しかったらしい。だからおれはね、セナの願いを尊重しようと思った。そばにいてあげたいと願った。もしもセナがおれを殺したいっていうのなら、そうされたいって思った……」
 だから今の俺は執行の時を待つ死刑囚みたいなもんだよ、と乾いた笑みを浮かべ、レオは鼻歌を奏で始めた。
 もの悲しいメロディラインの序奏から始まり、手拍子を交えたパーカッションがそれに加わり、激しい旋律が彼の身体中で紡がれた。フランツ・リストの「ダンテの『神曲』による交響曲」、地獄編。永遠に罪を許されることのない罪人たちを題材に奏でられる、悲壮の音楽。
 その旋律が、きっと月永レオという男の心を取り巻く、今この世の全てなのだ。
「おれはねママ、セナを苦しめるこの世の全てを、滅ぼしてしまいたいよ」
 鼻歌を歌い終わり、レオが振り向く。目の周りが赤く腫れていた。涙を必死に堪えているのだった。愛を知り、悲しみの全てを知り、月永レオは決意をしたのだ。
「でもたぶん、今、世界で一番セナを苦しめているのは、おれ自身なんだ。だからおれは、セナを脅かしているおれ以外の全てを殺したら、ちゃんとおれ自身を終わりにするつもりだよ。作りたい曲、まだいっぱいあるけど。ま、死んでも作曲はできるだろうし……? モーツァルトの新曲を拝むのが予定より早くなっちゃうぐらいだ、仕方ないよ。……でも。
 もしも、その時。たったひとつでいい、おれの願いが叶うのなら」
 その決断に敬意を払おう。三毛縞は喉の奥まで出かかっていたありとあらゆる言葉を、生唾と共に胃袋へ押し戻した。もはや彼の前に言葉は無意味だ。どれほど救いを求めて身体を震わせていても、レオは誇り高き騎士たちの王なのだから。外様の者が無粋な真似は出来まい。
 彼を連れ戻せるとすれば、それはこの世にただ一人。
「引導は、セナに渡してほしいなあ。そうしたらおれの恋は無駄じゃなかったって、きっと証明出来るよ」
 その人は今も泣いている。お互いの優しさと思いやりが、ふたりを相互に苦しめていると気付かぬまま。


 その日から、三毛縞斑はらしくもなく祈っている。友人の幸せを、哀しい結末を迎えた恋心の救済を、バッドエンドのその先を。
 車窓に映る花畑を眺め、三毛縞は嘆息した。泉には悪いが、今日の舞台へレオを上げることは、まだ出来ない。彼らが、レオを数えたベストメンバーを想定した演目で練習していることを知ってはいるが、今はまだその時ではないのだ。
 傷付いた心を埋めるには、ふたりで真っ直ぐに向き合い、現実を直視するしかない。それに際して傷を舐め合うことになるかもしれないし、はたまた、抉り合うことになるかもしれないけれど……そればかりは、致し方ない。恋には障害がつきものだから。
「なあんて、訳知り顔をするものではないと分かってはいるのだがなあ。ははあ、『ママ』というのもままならない役割だよ」
 フルール・ド・リスが開催されるフラワーガーデンに降り立ち、一般客の群れに混じりながら三毛縞は願う。
 ――ああ、どうかふたりの、清らかで美しい愛が、救われる時が訪れますように。


◇◆◇◆◇


 想い出だけは永遠に綺麗なままだよなんて大嘘、一体誰が言ったのだろう。
 ……ううん、その言葉を残した人間が、たんにそれを知らない幸せ者だっただけなのだろう。
 生きた人間が想い出を塗り潰していけば、それさえも、憎しみに変わることがあるのだと。
 否定され続けた想い出ほど哀しいものもないんだよって、きっと誰も教えてくれなかったのだ。


 フルール・ド・リスでのライブが終わり、その直後、泉は着替えも忘れて走り出していた。
 ――Knightsのみなさんと同じ衣装を着た男の子が、高台のほうで舞台を見ていたんです。だから関係者かなって、思って……あのひとは誰なんでしょう?
 ――え? ああ、背格好は、ちょっと低めで。オレンジ色の髪の毛のかわいい子でした……。
 ファンになって来てくれたという女の子の話を聞き、もう、いても立ってもいられなかった。「ちょっと泉ちゃんどこ行くの?」「瀬名先輩、あとでちゃんと戻って来てくださいね!」なんていう制止の声を振り切って、泉はとにかくがむしゃらに走り続けた。
 繁華街から大分離れたところにあるだけあって、フラワーガーデンの敷地は無闇矢鱈に広く、ライブの直後で残り体力のない泉には、あまりにも厳しい。しかしそれでも泉は足を止めることだけはしなかった。顔を見て、手を握って、言ってやりたいことがいくつもあった。
(今日の演目、あんたがいないせいで、滅茶苦茶だったんだから)
 ライブの振り付けを決めるのはいつも泉の役割だ。だから泉は、ジャッジメントが終わって以降、全ての仕事にレオの出演を想定して演出を組むようにしている。あのアホは、司に負けてKnightsを続けることを誓わされた。だからあいつが舞台に上がるのは当然なのだ。
(ど真ん中センター、王さまのためのとっておきの場所を、いつも開けてあるのに)
 それがそんなに嫌なのかな。
 ……それとも、泉の隣で歌うことが、苦痛なのか。
(そうだったら……くそったれすぎる……)
 あの歌声が聞きたい。耳にこびり付いたアルトの歌声、その本物が欲しい。跳ねっ返りで突拍子もなく、賑やかなれおくんの歌が。
 そんなささやかな願いさえ、叶わないのか。
 秋桜の群れを追い越し、泉はそこで足を止めた。フラワーガーデンの入り口が目前に迫っている。時間切れだ。これ以上はもう追いかけられない。流石に、衣装のまま園外に出るわけにはいかないし……それになにより、ここまで逃げ切られてしまった以上、今日のところはもうあいつを捕まえられないだろう。
「はあ、さいあく……」
 立ち止まって深呼吸を繰り返していると、いくらか身体が楽になってくる。
 一旦、ステージに置いてきた嵐たちへ連絡を入れるか。そう思ってスマートフォンをポケット空取り出した泉は、ロック画面に出ている通知を見て顔を凍り付かせた。
「……本当、最悪」
 画面に出ている通知は三つあった。一つが、転校生からのもの。ライブをねぎらう内容で、特に当たり障りもない。二つ目が、嵐からのもの。撤収の予定時刻と気が済んだら帰って来てほしい旨のメッセージが添えてあって、これもどうというものではない。
 問題は、三つ目の通知。
「あのバカ」
 月永レオからのメッセージを見た瞬間、泉の身体に言い知れぬ悪寒が走り抜けた。
『お疲れ、セナ。今日もきれいだったぞ、愛してる! レオ』
 そんなごく短い内容に、泉は自分でもはっとするぐらい怯え、身体を震わせた。言葉のひとつひとつ、何もかもが、神経を逆撫でしてくる。
 きれいだと言われ、嬉しいと喜ぶ無邪気な天使の隣で、きれいなんかじゃないよ、醜い掃きだめが必死にアイドルの形をしているだけだよ、と卑屈な悪魔が泣き叫んでいた。スマートフォンを握り締めた手がぶるぶる震える。やがて冷たい鉄の塊は泉の手をすり抜け、アスファルトの地面へ向けて落下していく。
「愛の安売りしすぎなんだよ、あんたは! れおくんの愛してるなんて、ほとほと、信用ならない……!」
「――うん、その点については、俺も同感だなあ。レオさん、言霊の概念はあるのにどうも自分で使うのは下手くそなんだよなぁ」
 しかし寸でのところで、スマートフォンは誰かの手のひらに救われて地面への激突を免れた。泉は振り返り、手のひらの主を見上げる。
「……三毛縞。そういやあんた、来てたっけ」
 そこには三毛縞斑が立っていて、泉のスマートフォンをこちらへ差し出してきていた。
「そうだぞお、みんなのママだ! ……だけど今回はちょっと、一介の個人として、泉さんに話があってなあ」
「話? 何? こっちはあんたに構ってる暇、全然ないんだけど」
「まあ、そう言わないでくれ。どうやら愛のバーゲンセールを開いているらしいレオさんにまつわる、私信だからなあ」
 こっちへおいで、と三毛縞が手招きをする。衣装を着た美人さんのきみはとても目立つからと言われ、ああ、それはそうかと思い直し、フラワーガーデンの関係者のみ立ち入りになっているスペースへとてとてと着いていった。レオを探すのに必死になって、細かいことがおざなりになっていたことに遅まきに気がつく。
 ……そういえば、なんで探しに行っちゃったんだろ。
 期待するのはもうとっくに止めたはずなのにな。
 答えの出ない問いをぼんやりとこねくり回し、パイプ椅子に腰掛ける。向かいに座った三毛縞が、コンビニのビニール袋からホットのレモンティーを渡して寄越す。
「まず。レオさんは今、相当、思い詰めてる」
 そして開口一番に言うのがそんな内容なので、泉は、口に含んだばかりの甘ったるいレモンティーを、吐き出してしまうかと思った。
「は、はあ……?」
「ああ、勘違いしないでほしい。レオさんに伝えてくれって頼まれたとか、そんなんじゃないぞお。むしろその逆で、俺がこんな話をしたなんてばれたら、恨まれるだろうなあ。けどそれでも、こう、じっとしていられなくてなあ……」
「いや、まあ。あんた昔から余計な話に首を突っ込む天才だから、その言い分はどうせ本当なんだろうけど」
 ペットボトルの飲み口にリップバームがこびりついて、ぬるぬるとてかった。舌の根が急速にひりついて乾いていくのがわかる。甘ったるい飲み物のせいなのか、早鐘を打つ心臓のせいなのか。そのどちらでも、最悪に変わりはないけれど。
「思い詰めてるって、一体何を」
「そりゃあもちろん、泉さんのことだ」
 三毛縞の簡潔な答えで、いっとう最低な方が答えだと分かり、泉は唾棄するような思いで顔を上げた。
「まさかと思うけど、また俺のせいとかなんとか、言ってるわけ? あのバカ」
「いいや、そっちの方が、まだ単純だったろうなあ。……あの子、泉さんの願いを叶えたいって言ってるだろう?」
「ああ……まあね。何の冗談か知らないけどさ」
「ふむ。ちなみにそれは、冗談ではない。あの子は本気で、泉さんの願いを叶える気でいる。望みを現実にしようとしている。ただ……どうもやり方というか思想が歪だし、加減を知らないようでなあ。それで野暮と知りつつも、予防線を張りに来たわけだ。根回しだな」
「なに……? そんなの俺に言ったって、しょうがないでしょ……?」
「いや、いや。泉さんに伝えておくのが一番確実だ。なにせあの子は、泉さんのためならなんでも出来るんだから」
 あの子は泉さんのためなら、なんでも出来るよ。
 そう言われて世界じゅうの時が凍り付いてしまったのかと思った。
「は?」
「世界を滅ぼせと言われたら、その指先でいくつだって滅ぼしてみせるだろうなあ」
「ちょっと……何言ってるわけ?」
「そのぐらい、レオさんは本気だ。泉さんのためにきっと全てを擲つよ」
 死刑宣告をされたみたいな心地だった。
 泉はひゅうひゅうぜえぜえと何かが気管支をせり上がっていくのを感じていた。自分の心音なんかもう全然わからなかった。何。今何が起きているの。世界は。何を――言おうとしているの。
「面白くないこと言わないで……」
「本当のことだ、どれほど痛ましくとも」
「知らないよ。あいつがそんなに……俺なんかのこと、今更構うもんか!」
 レモンティーが手のひらの中で生ぬるくなっていく。三毛縞の言っていることは、なにひとつ、泉の心に響かなかった。代わりに、ジャッジメントの時に聞いた、あのか細い幻のような声が脳裏にぶり返す。
「俺がいくら頼んだって、毎日メッセージを送ったって、舞台ひとつ上がってやくれないのに。俺のために世界を滅ぼすとか、たとえ話にしても信憑性なさすぎ。大言壮語がクセになってんじゃないの、三毛縞」
「はは、手厳しいなあ、泉さんは。だけどこれはなあ、嘘じゃないんだよ。嘘にはならないんだ。泉さん、いつも一番痛ましいのは、真実だよ」
「だとしたら……そんなの、間違ってる……」
 俺はどうしたらいいんだろうねとさみしそうに笑った男の子の眼差しが、こびりついて離れない。ペットボトルに付着したリップバームみたいにドロドロして想い出を上塗りしていく。愛されたがりのいじましい瀬名泉が、土足ではしゃぎまわり、心臓を穢していく。心の一番奥深くにある、熟れた傷口を、踏み荒らす。
「三毛縞はさあ、そんなこと言って、一体何が望みなの?」
「友達には幸せになってほしいのさ。恋心はすべからく実ってほしいとも願ってる。想い出は確かに美しいが、未来も同じぐらい、きれいなものだぞお」
「ひとでなし」
「では愛の破滅は人殺しかなあ?」
「そう。そうだよ。俺たちはもう終わっちゃってるんだ」
 未来に期待なんて持たせないで、と泉は地を這うような声で呻いた。涙こそ一滴も流れていなかったが、メイクはぐちゃぐちゃに歪んで、表情は、深い拒絶の悲しみに染まっている。
「あんたの個人的なキューピッド願望なんて知るか。覆水はねえ、もう盆には、かえらないんだから……」
「零れたミルクも戻らないなあ。けれど泉さん、このふたつのことわざ、実は微妙に意味が違うことは知っているかあ?」
「何が言いたいわけ……?」
「ミルクは、また注げばいい。何度だって。それと同じだ」
 俺から伝えたいことはこれで全てだぞお、と明朗に微笑んで三毛縞が言った。
 泉は宇宙人を見るような目で三毛縞を睨み付けた。ロック画面には相変わらずレオからの通知が残っている。『今日もきれいだったぞ、愛してる』。誰にでも愛を振りまく男の、安っぽいメッセージ。
「もうそんな元気ないよ……」
「そうかあ?」
「あんたと違って人間のエネルギーは有限なの」
 画面電源をぷつりと落とし、通知から目を逸らした。こんなメッセージは未読で無視してやる。そうだ、それがいい。これ以上傷付かないためには、その方がずっとましだ……。
「言えない……今更、特別が欲しいだなんて……」
 だからあいつが世界を滅ぼしてくれたってちっとも嬉しくなんかないよと呟くと、三毛縞は無言で泉の頭をわしわしと撫でまわした。