08


「なあセナ、あの鳥、なんて名前なんだ?」
「ヒヨドリじゃない、たぶん」
「ふうん、ヒヨヒヨ鳴いてるからそんな名前なのかな」
「さあ。知らないけど、案外そうなのかもね」
 めっきり冷え込んだ通学路を、二人で歩いていた。そろそろマフラーが欲しくなってくるなあという寒空で、レオは両手をポケットに突っ込んでぶるぶる震えている。鼻っ柱が赤らんでいて、そうしていると、元々子供っぽい顔つきが、より一層幼く見える。
「さむ……早く行こ」
 目配せをして、学院への道を先導する。近頃のレオは何を考えているのかわからない以上に、神出鬼没だ。今朝は泉の家の玄関口にチャイムを鳴らして現れた。かじかんだ頬で「おはようセナ」と笑っているレオを蔑ろにすることも出来なくて、泉は彼を一旦家の中へ上げた。
 母親が、「レオくん、久しぶりね」と親しげに話し掛けているのを、背中で聞いていた。そういえば今から一年と少し前――ふたりが昔の「Knights」だった頃は、こうやってたびたび、レオが泉の家へ来ることがあった気もする。その逆に泉がレオの家を訪ねることもあった。レオの家はごくふつうの中流家庭で、いつも、引っ込み思案な妹ちゃんが、泉のことを迎えてくれた。
「手がつめたい……」
 そんな呟きと共に、一際大きく、レオがぶるりと身体を震わせる。シャワーをかけられた子犬みたい。泉が苦笑すると、レオがむっと頬を膨らませた。
「あ、セナ、今なにか不本意なこと考えただろ〜……?」
「べつになにも。芋洗いされた犬みたいだなって思っただけ」
「うが〜っ! じゅうぶん不本意だ! おれはレオだからな〜、犬っていうより……そう、たぶん、ライオンだ!」
 自分で自分の台詞がツボに入ってしまったのか、そのままレオはうわははと笑い始め、ハミングを始める。あ、この曲は、なんていうのだっけ。なんだろう。知っている気がする。昔もこんなふうに、レオが鼻歌で歌っていたのだ。それでわからなくて、名前を教えて貰った。曲名は、確か……。
「『動物の謝肉祭』……」
「そう! サン=サーンスの痛烈な風刺曲。おれはその中でも、第一曲の『序奏と獅子王の行進曲』がいっとう好き……って、セナ、よく知ってたな?」
「あんたが昔教えてくれたんだよ」
 教えた方は覚えてないのか。無責任な。
 小声で言い棄て、泉は辿り着いた昇降口で靴を脱いで上履きに履き替えた。
 そのままふたりで並んで階段を昇り、三年生の教室があるフロアへ辿り着く。泉の家の玄関から、ここまで、ふたりの距離はずっとつかず離れずだ。近いけど、遠い。お互いポケットに入れたままの手のひらはかち合わない。そこにいるのに触れられない。ガラスケースを隔てたように、視線だけが、何度も交わってはふいと逸れてゆく。
「じゃあまたなっ、セナ!」
 A組の教室に辿り着くと、レオが手を振って、元気よくB組の方へ駆けていった。その後ろ姿を見送りながら、泉はぼそりとぼやく。
「『また』っていつだよ……」
 あの日から、こんなことばっかり。
 レオが帰って来た日から、ふたりの距離はずっとぎこちない。


 七夕以来となるS1、【ハロウィンパーティ】の開催が決まった。無論Knightsもこれへ参加することになったのだが、事の経緯が妙に複雑で、泉はちまちまと書類を書きながら何度も何度も溜め息を吐く羽目に陥っている。
「はあ〜……。本当、チョ〜うざぁい……。ゆうくんと一緒なのはいいけどねえ? Trickstarと合同だし、おまけに王さまは出席拒否るし。後者は今に始まったことじゃないけど……! もう書類には、五人で出るってことで、天祥院の承認印押しちゃったんだからね! 本当、今度という今度は引き摺ってでも舞台に上げてやるんだから」
「セッちゃんも懲りないよねえ。いっつも、王さまが来ないこと想定して四人用の振り付けも考えてきてるし。過労死はしないでほしい」
「保健室に搬送されたくまくんが言っても説得力ないよ、それ」
 しょうがないじゃん吸血鬼は昼起きてる生き物じゃないし。泉がつっけんどんに口を挟むと、凛月は唇を尖らせ、頬を膨らませた。高校二年生にもなって子供みたいな仕草をするなと言いたいところだが、何故かそういうところが「かわいい」としてファンに受けているので、あまり口出しもしづらい。
 泉はこれでもう何度目かもわからない、盛大な溜め息を吐いた。一緒に肩を降ろすと、ばきぼきと音が鳴る。ああ、肩、やばい。疲労でいかれているのかもしれない。
 これというのも全て、三毛縞とレオのせいだ。
 フラワーガーデンで三毛縞に告げられた話を、正直言って、泉は完全にもてあましていた。レオが……あの月永レオが、泉のためになんでもしたいと思っているらしいとか、世界でも滅ぼしてくれるだろうとか、現実味がなさすぎて、どんな顔をしていいのかわからない。あの世界と生命と音楽を何より愛しているレオが! 愛の言葉を世界じゅうに投げ売りしているレオが。たった一人のために……到底、信じる気持ちにはなれなかった。
「この前三毛縞に変なこと言われてから調子狂いっぱなしだよ、ああ、もう」
 そう呟くと、凛月が興味深そうに身を寄せてくる。
「へえ、何言われたの?」
「ミルクは零れたらまた注ぎ直せばいいってさ」
 結論だけ言って茶を濁したつもりだったのだが、凛月は「ふうん、そういうこと」と訳知り顔で頷いた。本当にわかっているのか、わかったつもりになっているのか……。どうでもいいのだけれど、凛月は何を考えているのかまったく伺えない、あの「吸血鬼」の横顔でふんふん頷いているので、それがどうにも癇に障る。
「ちょっとくまくん、あんた兄貴みたいな顔になってるけど」
「げえ。嫌すぎ。吸血鬼が厭世的になると、似ちゃうのかな。……はあ、それにしてもあのひとも大概病的だねえ。まあ言いたくなる気持ちは、わからんでもないけど」
「ちょっと、それどういう意味?」
「ん〜ん。それよかセッちゃん、最近王さまとは会ってるの?」
「会ってるっていうか、向こうから絡んでくる。仕事に関係ない時だけね」
 癇に障った直後にもう一人の元凶の名前が出てくる。泉は完全に気分をくさしてしまい、書類に書く文字を一箇所間違えてしまった。
「ああもう、ほんっと最悪! くまくんが王さまの名前なんか出すせいだよお!」
「泣かない泣かない、修正液貸してあげる。……ねえ、なんかあった?」
「なんにもないよ、笑っちゃえるぐらいなんにも。だからイライラしてるんでしょ」
 ぽいと寄越された修正液で誤字を塗り潰しながら、泉は怒り気味に答える。そう、本当に、何もないのだ。決して二人で過ごす時間が短いわけでもないのに……何も起こっていない。
 相変わらずレオは、Knightsの活動には非積極的なくせに泉にはちょくちょく世話を焼いてきている。仕事のたびに感想みたいなLINEを送ってくるし、時々教室まで来て、一緒にお昼を食べようとか、今日は一緒に帰ろうとか、そんなことを言う。
 昨日なんて、家がほど近くなった頃になって、「まだ一緒にいたいな」とか言い出すので、わざわざ遠回りをして、公園まで寄り道をした。けれどだからといって、特に何を話すわけでもない。二人は終始無言でランチを食べているし、帰り道では、道ばたに咲いている花やそのへんの野鳥の名前を当てたりするぐらいで、身になる話なんて何も無い。
『ブラームスの交響曲は、ベートーヴェンの後継って言われることがあるんだけど、おれは特に、誰かのあとを継ぎたいとは思わないなあ――』
 泉はそんなレオの言葉に、ああそう、と気のない返事をした。この前レオが特集を組まれていた音楽雑誌に、「現代のモーツァルト」とかいう一番レオが嫌がりそうなキャッチコピーがあてられていたことを思い出したけど、ただそれだけだ。
「あいつが何考えてるのかわかんないもん……」
 レオと一緒にいる時、泉は決して、「ねえどうして舞台に来てくれないの」とは訊ねない。「本当に俺のために何でもしてやりたいなんて思ってるの?」ということも確かめない。手と手で触れ合うこともない。ただ、傍に並んで、同じ空気を吸って、気のない会話で空虚のキャッチボールを続けている。
 それを聞いたら、全てがご破算になってしまう気がするのだ。あの雨の日の終わりのライブみたいに。瀬名泉の恋が死んだ日の再演が行われ、今度こそ決定的に、あの男を失ってしまうのではないか。
 そう思って、何も訊けないでいる。レオが何も訊ねてこないことも、だから丁度いいと思う。
「臆病なんだね、ふたりとも」
 口をへの字に曲げたまま押し黙ってしまった泉を見て、凛月がぽつりと漏らした。嫌味とか、当てつけとか、そういった調子の声ではなかった。彼は血の色をした目を細め、「かわいいけど見てるのは辛いよ」と、吸血鬼特有の全てを見透かしたような眼差しをして……泉のかじかんだ指先にそっと触れた。
「きっと王さまもセッちゃんがなに考えてるのかわかんないんだよ」
「……あんたに何がわかるわけ?」
「わかんないよ。セッちゃんにもわからないことだもん。だけど俺、王さまに言ったことあるんだよね〜、『セッちゃんだけ泣かせるな』って」
「はあ? 何余計な真似してくれてんの!?」
「その時王さまは、真面目な顔して頷いたよ。あのひとはいい加減で天才だけど、約束を律儀に守ろうとするひとだから。もしかしたら、セッちゃんだけが大泣きする結末を変えたくて……ひとりで戦ってるのかもね」
 ひとりきりでなんて未来は変えられないんだけどね。人間はさみしい生き物だから。さみしいから寄り添いあって温もりを求めるんだけど、たいていの場合は、うまくいかないもんだよね。
「ヤマアラシのジレンマだ……」
 みんな幸せになりたいだけなんだよ、なんて言って、凛月はうっそりと微笑んだ。
「ねえセッちゃん、幸せになりたい? 俺はねえ、なりたいなあ。幸せを求めるのは、悪いことじゃないんだよ。誰も責めないよ、泣いて叫んでも」
「……」 
「恋心の残骸は……確かに、きれいな形にはもう戻れないかも。けどセッちゃんは、今もずっと王さまのことが好きなんでしょ? 自分から幸せになる道を閉ざしちゃったら、チェスで言えば詰みの状態だ。俺から見たセッちゃんと王さまは、そんな感じかなあ」
「…………」
「あのねセッちゃん、もし求めるのなら、ジャッジメントでもなんでも何度でも付き合ったげる。お互いに血で血を洗い合って、膿を全部出し切って、それできれいになるのならきっと有意義だからさ」
 抱きしめ合ったら、身体中の針がお互いに突き刺さって、血まみれになってしまうかもしれないけれど。
 濁った血液を取り除いて、また新しい血を作っていけば、命はきっと繋がるんだよ。
「喧嘩しなよ。思いっきり、胸ぐらをつかみ合って、目と目を逸らさずにさ。男の子なんだから。俺とま〜くんだって、たまにはするよ、そういうの。愛してるからって腫れ物扱いしてるだけじゃ、誰も幸せにはなれないよ」
 俺でよければいくらでも抱きしめてあげられるんだけどねえ、と凛月が微笑した。今度の彼の眼差しは、まろくてふわふわしていて、超越種のそれではなくって、どこにでもいる、甘ったるい女子高生みたいな色をしている。みんな恋に恋するお年頃なんだよ、と彼は囁く。いっぱい傷付いて血みどろになって、だけどそれでも、セッちゃんはあのひとが好きなままだったんでしょ。
「……あんたと話してると、ほんと、いやになる」
「ふふん、それはどうも〜。……でも、ほんと、どうして好きなひとほど分かってくれないんだろうねえ。ま〜くんも、俺が考えてること実は全然分かってくれてないんだもん……」
「ああ……あんたたち、今まさに喧嘩してるんだっけ?」
「そうそう。これで何回目かな〜、でもきっと最後は、また仲直りして元通り……」
 指先がもつれる。泉は俯いた。きらきらした凛月の顔を見ていると、心がずんと重くなって、手足の先端がじんと痺れたような気がしてくる。朔間凛月と衣更真緒が普段どんな遣り取りをしているのか、それを思い起こすと、なんだか彼らが遠い世界の住人のようにさえ思えてきてしまう。
 ああ、俺ももうちょっと、素直だったらなあ。
 道ばたに咲いている徒花の代わりに、まだあんたのことが好きだよって、言えたら良かったのかな。
「だけど俺には無理だよ……抜き身の剣しか持ってないってのに……」
「だったら剣で刺し合えば? それもまた愛だよ」
「……あんた、言ってることが物騒。まあでも、ありがと。本当に剣で刺し合ったら、骨ぐらいは拾ってよねえ?」
 冗談めかして泉が言うと、凛月は「任せろ〜」とはにかみ、泉の手のひらを握り締めた。


◇◆◇◆◇


 進路希望調査書なるものが、学年の全員に配られた。
 聞けば、春先にも一度同じようなものが配られてはいたらしい。不登校だったので知らなかったけれど。B5サイズの紙にプリントされた三つの長方形と質問文を読み、レオは机に突っ伏して唸る。
「うう〜〜〜ん……? 卒業後の進路……?」
 この時間は調査書の記入時間として宛がわれており、教室には、監督の教師もいなかった。しかしだからといって遊びほうけている者もおらず、周囲ではクラスメートたちが勤勉にプリントを記入している。
 ――進路とか希望とか言われたって、おれ、未来とか、あんまり考えたことないしなあ。
 ――自分がどうなりたいのかよくわかんないし。
 ――それにだいいち、自分が来年まで生きてるのかもわからないし……。
「うん、わからん。レ〜イ、暇そうにしてるなら教えてっ!」
 三秒ほど考えてからあっさりと思考を放棄し、立ち上がると、レオは同じ教室の中で暇そうに居眠りをしている朔間零の方へ寄っていった。
「ふあ、なんじゃい、月永くんか。あんまり耳元で大声を出さんといてくれるかのう……?」
「わはは! リッツみたいなこと言ってる。なあレイ、レイはもうこの紙書き終わったの?」
「ん〜ん。我輩、あんまり参考になるようなことは書いとらんよ。家督をいつから継ぐかでまだ揉めてる最中じゃし。薫くんがやる気を出すようなら、まあ、我輩にも考えの二つや七つや百八つはあるんじゃけども」
「めちゃくちゃ多いな!」
「ううむ、新鮮な突っ込みじゃ。月永くん、基本的にノリが良いんじゃものな。ほれ、見てやるからそちらにお座り」
 零がとんとんと示すまま、空いている前の席に腰を下ろす。椅子の背に向かって足を伸ばし、顔を付き合わせると、レオは白紙の進路希望調査書を零の机にぺらりと広げた。「問一、進学を希望するかどうか」。「問二、問一で進学を希望すると答えた場合、第三まで希望大学と学部を記入せよ」。「問三、進学を希望しない場合、卒業後の予定を記入せよ」。大まかに三つに分かれた質問を、零の指先がしなやかに伸び、指し示していく。
「まず問一じゃな、月永くん、進学の予定は?」
「たぶん……ないかなあ。行くなら、音大だけど。それほど興味もないっていうか、どっちかというと仕事の方が乗り気」
「ま、そうじゃろうな。おぬしは既に国内外のメジャーレーベルと取引実績があるしのう、卒業するとなれば、引く手あまたじゃろ。では、問二を飛ばして、と……」
 指先が問三をつつき、零の顔がゆっくりと上向く。「ここに何を書くか悩んどるんじゃろ」、と静かに訊かれてレオはこくりと頷いた。
「はてさて、何で悩んでおるのかえ? 月永くんなら、音楽家かアイドルかの、どちらか二択じゃろ」
「そういうレイは、どうなんだ?」
「我輩も似たようなもんじゃな。どちらを取るかは、未だ決めかねておる。本家が許すかどうかというところも大きいしのう、凛月なんかには、『やりたいなら本家なんか爆破してアイドル続ければいいじゃん』とか、物騒なこと言われてるんじゃけども」
「リッツは過激だからなあ……」
「うむ、そこが愛らしいところでもある。して、月永くんや。我輩てっきり、おぬしは作曲家としての生き方に人生を集約させていくのかと思っておったぞ。それがここまで悩むということは、なんぞ未練でもあるのかえ?」
 つねづね、世界に比べると夢ノ咲は狭すぎるとかなんとか、言っておったしのう。我輩耳年増の吸血鬼じゃからなんでも覚えておるのじゃよ。
 零は、まなじりを伏せるとそんなことを嘯く。
「つまり瀬名くんのことが心残りなんじゃな」
 それから、レオの目を見てにっこり笑い、そう言った。
「……あれっ? 言われてみれば……そうかも、レイ、おまえエスパーか? なんでおれにもわかんないことが読み取れたの?」
「ふふん、吸血鬼じゃしサイコメトリが出来るのじゃ。……というのは置いておいて、我輩もわりと似たような立場でな。進路は相棒の進退如何舌先三寸という次第じゃから、おぬしの気持ちはわかるつもりじゃよ。しかしそれなら、B組をうろうろしとらんで、実際に本人に確かめねばならぬじゃろ。薫くんは、答えを出すまでにいましばらく掛かるじゃろうけども……瀬名くんはしっかり者じゃ、もうとっくに答えなど出とるはずでは?」
「どうだろ。セナに訊くとなると、おれのことどうしたいかまで、教えてもらわなくちゃならないし……?」
 手のひらを顎にあて、ううんと唸る。この数ヶ月間、月永レオは瀬名泉にめいっぱい気を遣ってきた。出来るだけ優しくしたいし、親切にしてあげたいし、病院で聞いた秘密の独白に触れるようなことは、言わないでおこうと気をつけていた。レオが不用意なことを言えば、たちまち泉は傷付いてしまう。だから確かめたいと思ったことは何度もあったけど、これだけはまだ聞いていない。
「セナの人生にいつまでおれが必要か見極められないことには、どうにもなあ。明日にでも必要ないって言うのなら今日屋上から飛び降りてもいいけど、だけどそんなの聞けないじゃん、『セナ、おれにいつ死んで欲しい?』とか、怖いし」
「…………。月永くん、我輩、めちゃくちゃ素でそういうこと言い始めるおぬしが一番怖い」
「そうか?」
「そうじゃよ。いや、ていうかじゃな、瀬名くんに聞くのは瀬名くん自身が進路調査書になんて書いたかであって、それ以外ではないからの。あんまり早まらんでおくれ?」
 我輩、十年後とかにみんなで同窓会なんぞをやるのが夢なんじゃよ。吸血鬼の兄がおいおい泣いたふりをしながら懇願してくる。レオはそれを適当に聞き流し、がたりと席を立った。
「おや、行くのかえ?」
「うん。レイのおかげで、隣に直接行ったほうが良さそうだってわかったし」
「うむ、それは何よりじゃ。……とりあえず、そのう、命は大事にしとくれよ〜」
「約束できないけど、ありがと!」
 授業中であることに一切構わず、教室を飛び出して隣へ駆けて行く。三年A組は、B組同様、この時間を進路希望調査書の記入時間に充てられており、教師は誰もいない。生徒達がカリカリとペンを走らせる音だけが響く中、レオは我が者顔で教室に侵入する。
「……あれ?」
 けれどその群れの中にお目当ての姿が見つからなくて、レオは首を傾げた。ここにいるはずの泉がいない。
「――やあ、月永くん。瀬名くんに何か御用かな」
 教室のど真ん中で立ち往生してしまったレオを見かねたのか、英智が気さくに声を掛けてきた。なんだか今日は学院の権力者とばかり話しているなあ。まあ権力とか、レオにとっては至極どうでもいいものの集合体なのだけれど。泉がそのあたりを割と気にしていた過去もあり、なんだか奇妙な心地がする。
「うん、そう。おまえ、セナがどうしたか知ってる?」
「ついさっき、グラビアモデルの仕事があるとかで中抜けしたよ。それで、月永くん。用向きは、希望調査書に彼が何と書くのか聞きに来たってところかな」
「え? あ〜、うん、そう。おまえほんっとすぐ人の心を読んだみたいに言うな〜……」
「話が早くて助かると言ってくれないかな。で、どうしたいの。僕は調査書の回収係だから、瀬名くんが置いていったプリントも持っているわけだけれど」
 見たい? これ。英智が人の悪い声で訊ねかける。レオは一瞬だけむっとした表情になり、悪魔に魂を売り渡すかどうかの計算をしたあと、苦渋の表情で頷く。
「……見たい」
「はい、どうぞ」
 けれど、そうして差し出された進路希望調査書は、一番右上の記名欄を除き、全てが白紙だった。
「……あれ?」
 レオは眉をへの字に曲げ、困惑の声を漏らした。
 零が言っていた通り、真面目で几帳面な泉なら、こんなもの、とっくに決めているとばかり思っていたのだ。でも実際はまったくの白紙。悩んで線を消したあとさえない、踏みしめる前の新雪みたいな真っ白。
「ふふ、困っているね。彼がどうして白紙のまま提出したのか、考えあぐねているんだ」
 そんなレオを見て、英智は実に愉しそうに笑った。悪戯っぽい笑みだった。無邪気で、真っ直ぐで、稚気に満ちている。
「ちなみに、中抜けで急いでいたからとりあえず白紙で出した、とかではないよ。プリントを預かる時、きちんと理由を聞いたからね」
「……なんでか教えてくれるの?」
「どうかな。僕の愛すべき夢ノ咲学院のアイドル、その有力株である『Knights』が、これからも夢と希望を振りまいて生き馬の目を抜いて抜いて抜きちらかしてくれるというのなら、教えてあげてもいいけど」
「うう〜……?」
「……ふふ、冗談。月永くんは僕の友達だからね、こっそり教えてあげよう。耳を貸してくれるかな」
 英智に請われるまま、耳元を彼の唇へ寄せる。いい子だね、と英智が笑った。それから彼は、静かに、ゆっくりと、その死告天使のように澄み渡った声音をレオの耳に響かせる。
「彼はね、もし月永くんがアイドルを続けるつもりがないのなら、マイクを棄てるつもりなんだよ」
 ――だから君の気持ちがわかるまで答えを決めかねているんだ。
 英智の言葉にレオは息を呑んだ。
 心臓がこぼれて、ぐしゃりと床に落っこちたような気持ちがした。


◇◆◇◆◇


 放課後の教室に、レオはぼんやりと佇んでいた。日直のなずなも「れおちん、鍵預けとくから、最後締めといて!」と言っていなくなってしまった今、ここにはもう、レオ以外誰もいない。
「セナが、アイドルをやめちゃう……?」
 レオは魂を抜かれたように茫洋とその言葉を繰り返していた。
 さっきから、ぐるぐると同じ内容ばかりが口から流れ落ちていく。レオはぎゅっと拳を握りしめた。誰もいない教室の前方に、いつかの泉の幻が蘇る。
『〜〜〜♪』
 空き教室で、耳にイヤホンを挿し、唇を大きく開けて歌っている泉。あの頃「チェス」は資金難で……満足に練習室も使えなくて、だからいつも、ふたりは空いている教室にこっそり忍び込んで歌を練習した。
 泉のくすぐるような歌声が高く高く伸びて、美しい調和を生み出す。それがレオの作ったサンプル音源にぴたりと嵌って、世界でいちばん輝かしい音楽を作り出すのだ。
 あの頃ふたりは幸せだった。
 そばにいるだけで何もかもが満たされると信じていた。
 未来は希望に溢れていて、みんなでいっぱい楽しく歌って、そうすれば愛と平和で世界じゅうが満たされると錯覚していた。
 幸福な調べを奏でることで、全ての心が癒せると思い込んでいた。
「……湧いてくる……こんな時でも、おれのインスピレーションは、十全だ」
 記憶の中の瀬名泉は、今より少しだけ背が低く、レオと目が合うと、いつも屈託なく笑ってくれていた。泉はくるくるよく表情が変わるたちだったけど、笑った顔が、一番好きだった。あの笑顔を見ると、無尽蔵に名曲が生まれ出でて、レオは無限に幸せになれた。
「湧いてくる……止まんないよ……セナのための歌が、おれの腕から零れ落ちちゃう」
 瀬名泉の笑顔が、歌が、あの声が、今やレオの創作の源になっていた。あらゆる全ての歌は、何かしら、泉に向けたメッセージを孕んでいた。だからどれか一つでも泉が歌ってくれなければ、曲たちは報われない。家なき子になった旋律は、路頭に迷って凍え死んでしまう。
「セナがマイクを棄てちゃったら、一体誰がおれの音楽を救ってくれるの?」
 レオは自分自身の身体を抱きしめ、苦しみに呻いた。
 死んでくれと言われるのは構わない、今までレオが生み出した音楽たちは、この世に残される。泉の持つiPodの中にだって、まだ入っているのを知っている。パソコンに残っている未発表音源も、家中に散らばっている五線紙も、全部、Knightsの名義で持って行けるようになっている。音楽は残る。あとはそれに泉が歌を乗せてくれたりすれば、万々歳だ。
 だけど、泉が歌をやめてしまったら。
 レオが生きてるとか死んでるとかそういうのに関係なく、救われない音楽達が、姥棄山のごとく積み重なっていくだけなのだ。それがなにより、レオには恐ろしかった。漠然と、泉は永遠に自分の歌を歌い続けてくれるものだと信じていた。レオの作った歌だと気付く気付かないに関わらず、彼の美しい歌声によって、あらゆるメロディは救済されると信仰していた。
 それなのに……。
 まるで棄てられた子犬と同じ気分だ。レオは悲嘆に打ち震えて立ち尽くし、呆然と空っぽの椅子を眺めていた。なんにも、考える気分にはなれなかった。考えがうまくまとまらない。思考が覚束ない。どうやって生きたらいいのかわからない。
 それからどれくらい、そうしていただろう。
 がらりと教室の戸が開いた時には、窓から入ってくる陽光はもうすっかり朱に染まり変わっていた。
「――ねえ、ちょっと、王さま! やっと見つけた……あんた、こんなところにいたの。かさくんが泣きついてきてさあ、勘弁してよね。散々探させといて…………王さま?」
 瀬名泉が、そこに立っている。レオはぼんやりと振り返り、「セナ?」美しい声で喋る彼の名前を呼んだ。
「今日は、モデルの仕事、行ったんじゃ……?」
「とっくに終わってるっての。ハロウィンを目前に控えて、もうほとんど余裕がないんだから。採寸にはどうしてもあんたが必要だから、俺が仕方なくこうして探しに来てやって…………って、なに? どうしたの、あんた、その顔」
「セナ……セナ、おれ、信じられないよ……」
「な、何事、本当に」
「――セナ!」
 ふらふらと幽鬼のような足取りで泉の方へ寄って行き、細くしなやかなその身体にしがみつく。今まで触れないようにしてきたことも忘れて、レオは衝動のまま泉に抱きついた。腕の中に囲われた泉が困惑顔で「ちょっと」とか「ねえ離して」とか言っているが、レオの耳には届いていない。レオは自分勝手に泉の顔に胸を埋め、衝動のままに独白を続ける。
「なあセナっ、セナが歌を――アイドルを止めちゃうって本当か? もうおれの曲を歌ってくれないの? おれのために、笑ってくれないの……?」
「は、はあ……? 急に何、言ってるの……?」
「やだ! それだけはやだ、おれはセナのためになんでもしてやりたいけど、夢も願いも希望も全部本当にしてあげたいけど! それだけは許せない……!」
「……本当に、何、言ってるの?」
 許せない、という言葉がレオの口から転がり落ちた瞬間、泉の声がさっと氷点下まで冷え渡った。
 レオの身体が、強くはじき飛ばされる。泉が振り払ったのだ。レオは教室の床に尻餅を付き、いてて……とさすりながら立ち上がって、目の前に立っているうつくしい男の相貌を眺め見た。
「『許せない』? 許せないって何が? まさか俺が?」
 彫刻のように整ったきれいな顔面が、怒りで逆上して、見るも耐えないかたちに歪んでいた。レオは目を見開いた。こんな泉の顔は見たことがない。知らない。だけど不思議と、おかしな感じはしない。
 そう、だって、泉だって人間なのだ。瀬名泉は今まで月永レオの前でこんな怒りを見せたことはなかった、煮えたぎったマグマのような、今にも噴火してしまいそうな火山みたいな、危うい表情は。だけどそれは単に、これまでなかったというだけの話だ。
 本当は、泉はずっと、こうやって怒りたかったのかもしれない。
 我慢してたんだ。レオは薄ぼんやりとそう考える。
「はっ――熨斗つけて返してやりたい。俺の方こそ、もうずっと、あんたのこと許せない気持ちでいっぱいだったんだけど……?」
 泉が、ゴミでも見るような眼差しで冷徹にレオを射貫いてきていた。語気は徐々に上がり、頬は、力んで真っ赤に染まっている。
「あんたさあ……ちょっと、自分勝手すぎるよ。いい加減にしてよ。俺の気も知らないで。勝手にいなくなって、勝手に帰って来て、俺のお願い一つ聞いてくれないくせして、そのうえ何、許さないとか、何様のつもりなの。もう、あったまきた……俺ひとりで苦しんでのたうちまわって、馬鹿みたいじゃん……」
「せ……セナ……?」
「気安く名前を呼ばないで!」
 泉の手が、レオの胸ぐらを乱暴に掴み上げた。荒事もしないし喧嘩もしない泉が、暴力に訴え出るところを見るのも、はじめてだった。
 泉は歯ぎしりをして、親の敵を見つけた悪鬼みたいな表情をしている。否、親の敵なんかじゃない――泉自身の恋心の、感情の、情緒の殺人犯を、睨め付けている。
「俺もう、あんたのことわかんないよ……! どうしたいの? 許さないなら何? また俺を棄てるの? 奉仕させるだけ奉仕させて惨めにポイするわけ? 俺を置いてどこか行く? 今度はどこ? 宇宙? 異世界? いい加減にして!!」
 無惨に殺された恋心の、その干涸らびた亡骸が、泉の目の中で泣いていた。愛の言葉の残響が、ふたりの胸の裡を虚しく走り抜けていった。
 レオはされるがままになって、顔を真っ赤にした泉を見上げていた。ひどく感情的で、刺々しくて、剥き出しの怒りと憎しみが、一秒ごとにレオと泉自身を刺し貫いている。
「これ以上俺を苦しめないで! 安らかでいさせてよ! もうあんたのことで思い悩むのはたくさん!! あんたなんか……あんたなんか……」
 泣きそうな顔をした泉が、レオの首元へ手を掛ける。
 ひそやかに、性急に、残虐に、繊細に、やわらかな指先が頸動脈の眠る場所へ伸ばされていく。
「れおくんなんて死んじゃえ……!!」
 そして暁に染まる世界の中で、丁寧に切りそろえられた爪先が、無防備な肉の内側へきゅっと食い込んだ。