どうしてこんなことになっちゃったんだろう。
……こんなつもりじゃなかったのにな。
俺たちいっつも、こんな結末ばかりだよね。
「ぁ、せ、な、……ぅ……うぅ、あぁ……」
ぎりぎり。ぎちぎち。ぶちぶち。ぐちゅぐちゅ。
頭の中が沸騰したみたいに熱い。身体が脳の言うことを聞かない。理性と感情が切り離されて、俺の心の中には、ぽっかりと巨大な穴が空いて真っ黒に染まっている。
「あんたなんか……あんたなんか……最低……最低だよ……嫌い、きらい、だいっきらい……自分勝手で我が儘で……い、いつも、俺のことを、置いてくあんたなんか……! 憎い……憎たらしいの……散々、好き放題、俺の心を掻き乱して……自分だけ素知らぬふりして大好きだよとか言ってぬかすの……有り得ない……人の心がないんじゃないの、あんた、さあ」
ぜえぜえ。ひゅうひゅう。がたがた。ぶるぶる。
れおくんの喉が震えている。顔色が、緩やかに青ざめていく。やがてあの可愛らしい顔を、冷や汗が伝い始めた。グリーンアップルの、きらきらした大宇宙みたいな瞳の、焦点がぼけていく。瞳が濁る。硝子玉みたいになる。
なのにそれでも、俺のほうを真っ直ぐに見ている。
『――いいよ、セナ』
その時、俺の耳の中に、あの幻の声が聴こえた。
『そんなにおれが憎いなら、おれのこと殺していいよ。そしたらおれは、もうどこにもいかない。永遠に、セナだけのものだよ……』
ううん。幻じゃない。幻聴なんかじゃない。れおくんの唇が、震えて、動いてる。まだ辛うじて薄桃色をしている唇が、音のないメッセージを生み出している。
月永レオが瀬名泉に向けて、出来損ないのラブソングみたいな遺言を、歌っている。
「……なにそれ」
れおくんの首を絞めたまま、俺は途方に暮れた声を漏らした。
「なにそれ……。なんで……? なんでそんな顔してるの? 俺の心はぐっちゃぐちゃの泥沼なのに、あんただけ、もう悔いはないみたいな、安らかな顔して行かないでよ。どこ行くの……どこ、行く、つもりなの!」
『なんで? なんでって言われても。おれはセナの願いを、祈りを、愛と夢と希望を、全部満たしてあげたいから』
「うそつき。うそつきうそつきうそつき! うそばっかり! 忘れてとか、殺してとか、あんたからのメッセージはそんなんばっかりだよ。俺が一度でも言った!? そんなものが望みだって、言ったことある!? ないよ!! だって……」
指先に、あたたかいものが当たり続けていた。命の感触だと思った。俺にとっていつも理解不能な宇宙人みたいだった月永レオとかいう男が、首根っこさえ引っ掴んで首を絞めてしまえば、息を奪ってしまえば、簡単に死んでしまえる、俺と同じ生き物なのだと、そのぬくもりが証明していた。
ああ、人間なのだ、こいつも。頬をひとすじの涙が伝う。ぽろぽろと塩水が流れ落ちていく。人間なんだ。人間だから死んじゃうんだ。人間だからさみしいんだ。人間だから……ままならないんだ。
それを自覚した時、しんじゃいたい、と、そう思った。
舌かんでしんじゃおっかな。そうしてこの教室には、首締め死体と自殺死体の二つが横たわるのだ。
それで全部終わりにしようよ。そうすればこの気持ちもきっときれいに成仏出来るよ。
こんなみじめな思い、何度もするものじゃないのに。
……あんたはいつも、そうだよね。
いつも俺のことを、何度だって、こんなにもちっぽけな存在にしてしまう。
「だって……! 俺が欲しいのは、生きて俺の隣で笑ってくれるれおくんなのに……!」
乾いた恋の残骸を必死に抱きしめて、俺は泣きわめいた。ねえ俺たち一体どこで間違っちゃったのかな。これで終わりなの、俺たちは。ひりついた青春の残響が虚しく鳴り響いている。乾いた風が頬をはたいた。指先だけが異様にあつくて、それ以外の全ての世界は、冷え切っている。
『なあセナ、なんでそんな顔してるの? ほら、ひと思いにやれよ。それでもう、全部、終わるのに』
れおくんが言った。
馬鹿じゃないのコイツ、って、今度こそ本当にそう思った。
「できないよお……できるわけ、ないじゃん……!」
『わはは☆ おれが殺されるのに、セナのほうが今にもしんじゃいそうな顔してる! ねえ何が哀しいの? おれが死んで、セナを苦しめるものは全ていなくなる。こんなに嬉しいことって他にないだろ? 完璧主義者で潔癖の、おれのかわいいセナ……』
「笑ってんじゃないよバカ!!」
『あはは。……ねえセナ、最後に一個だけいいかな』
勝手にしてよ。知らない、もう本当になんにも知らない。早く終わりにしようよ。こんな苦しい思い、もうなかったことにしちゃおうよ。
『――知ってたよ。セナがおれのこと好きだって。好きなだけでいいって泣いてたことを、おれは知っていたよ』
なのにあんたは、いとも容易く、まだ、何度でも、俺のことを裏切ってみせるのだ。
「…………はあ?」
俺の唇が歪むと同時に、れおくんの口端が、にっと釣り上がった。あいつは、あのひとでなしのろくでなしの人殺しは、「ごめんね、うっちゅ〜☆」って言う時みたいに、にこにこ笑っていた。とてもじゃないけど、これから窒息して死ぬという人間がしていい表情じゃなかった。
『だからおれも、セナのこと好きなだけでいいよって、思ったんだ。だけど……ごめん! やっぱ最後まで我慢なんて、おれには無理みたい』
月永レオが唇をすぼめる。
キスをねだる女の子みたいに。
恋を歌う少女のように。
無知で無垢な白痴の相貌で、混じりっけのない愛を囁く。
『大好きだよセナ。首絞めて殺されても、セナにそうされるならおれはうれしいよ! だっておれセナのこと、出会った時から、ずっとずっと、愛してる!!』
それで世界の全てが真っ白になった。
指先から、あらゆる力が抜け落ちていく。
思えば昔からずっと、いい子だねと言われるばかりの子供だった。
泉くんはえらいね、手が掛からなくて従順で、大人の言うことをよく聞いて、模範的な奴隷だねと、要約すればそんなようなことばかり、言われて育ってきた。
だから多分、羨ましかったのだ。
『湧いてくる湧いてくる霊感が……☆ セナッ、歌え! 傑作だ! 停滞した世界に革命を起こそう!!』
自由で何者にも縛られない、奔放なあんたが。
天才だとか顔がかわいいとか声が好きとかそういうの全部取っ払って。
――恋の始まりは、憧れからだった。
はじめてスポットライトの当たる場所に引きずり出された時、身震いした。この学院には化け物みたいな天才ばかりが群雄割拠していて、右も左も前も後ろも怪物ばかりの世界で、俺はただへたりこんで閉口するばかりだった。
幼少期からモデルとして生きて来て、それなりの評価は得てきたと自負していたけれど、アイドルとしての自分がお粗末な出来であることも自覚していた。何しろ俺には見た目がいいこと以外取り柄がなかったのだ。だけどこの夢ノ咲では見た目がいいなんて当たり前の条件でしかなくて、化け物共は、その上に十重二十重に才能をぶら下げていた。俺が持っていないものを。
月永レオも、当然、そういった才能に巣食われた側の存在で。
とうてい、俺と人生が交差するような相手じゃなかった。
『歌を歌おう! おれとおまえで、世界中の誰もが思わず振り向いてしまうような、きらきらした歌を! できるよ――だっておれ、おまえのこと気に入った!』
超新星が人間のかたちをとったら、多分この男の姿になるのだ。
舞台に手を引かれ、きらびやかな衣装に袖を通し、喉から必死にひりだした声をマイクに乗せるたび、そう感じずにはいられなかった。超新星に引き摺り上げられて瀬名泉は本物のアイドルになった。それから灰色の毎日は急速にきらきら輝き出して、気付けば、俺たちはふたりで、ユニットを結成していた。クイーンもキングも先に取られてしまっていたから……ナイトをもじって、Knightsにした。
一緒にいるだけで、何をしても楽しかった。隣にいてくれるだけでお互いを満たすことが出来るのだと錯覚していた。手と手を握り合えばどこへだって行けると信じていた。あの明るい声をいつまでも聞いていたかった。後ろ姿を、横顔を、遠目につい追ってしまうくせに気がついたのはいつだったろう。憧れはいつしか恋慕になり、胸を焦がす甘ったるい思いは、俺の胸をじわじわと苛んだ。でもそのくすぐったささえ心地よかったのだ。
臆病だから。好きだよって本当の意味で伝えられなかったし、とてもじゃないけど愛してくれなんて言えなかったけど。だけど好きなだけでよかった。恋してるだけで幸せだった。一緒にいて笑ってくれるなら見返りなんて要らないと思っていた。自分がどんどん欲張りになっていることにうまく気付けず、怠惰に幸福を甘受していた。
いつの間にか自分が欲深になっているのだと自覚した時には、もう何もかも遅かった。
『限界なんだよ、もう! ふざけんなよ、おれのために笑ってくれよ!』
不和とすれ違いから、甘ったるい恋心は急転落を迎えた。あいつは日に日に荒れ果て、不機嫌になり、俺たちはただ一緒にいるだけでは満たされるなくなった。もっと美しいもの、もっと優しいもの、もっと暖かいものを求めて、だけどお互いにそんなものを持っていなかったから傷つけ合うしかなくって、その果てに俺たちは終わりを迎える。
哀しかった。すごく辛かった。やるせない気持ちでいっぱいだった。けど、当然の結末だった。
ごみための中でしたキスは最低の味がして、れおくんの唇はがさがさで、切れた場所から血が滲んでいて。青春の終わり、恋の途絶にふさわしい、みじめな味がした。楽園はもう死んでしまったんだよ。ユートピア幻想は終焉を迎えた。手を繋いでるだけじゃ満足できない。俺の恋は、もはや死体同然だ。
……だけど、ねえ、笑わないで聞いてほしいな。
好きだよ。
それでもまだ好きなの、あんたのこと。
気がつくと、今も、あんたのいる方を目で追っちゃうの。声がした方を振り向いちゃうの。殺害予告が並べ立てられていたあの絵はがきたちも全部取ってあるの。昔あんたがくれた石ころも、書きかけの楽譜も、もらったけど要らないからってくれたピアスも、借りっぱなしのボールペンも、しまってあるの、引き出しの一番奥のほうに。
恋心なんかとっくに棄てたと思ってたのに、何度棄てても、戻って来ちゃう。
れおくんに恋するのがやめられない。失恋して失恋して、失恋して――その度また、恋をしてしまうの。
だけどあんたは、自由な生き物だから。そういうあんただからこそ、憧れて好きになったんだって、知っているから。
この気持ちはもう告げまいと思って、好きなだけでいいよ、ただ好きでいさせてねって、お願いしたんだよ。
なのにあんたと来たら。
散々振り回して、最後の最後にそんなこと言うなんて。
ずるい。
ずるいよ…………。
泉の指先がゆるやかに解け、レオの身体が、がくり、と崩れ落ちた。支えを失って倒れそうになった身体を必死に抱きとめる。レオの首筋にはうっすらと泉の手形が残っていて、顔色は、まともな調子じゃなかった。
「今更遅いんだよ、この、バカ!!」
脂汗の滲んだ頬を手のひらで拭う。手を離しても咳き込んだりする様子がない。レオはまだ、呼吸困難のままだ。
死んでしまう。このままでは本当に。
月永レオが、今度こそ本当に、瀬名泉の手が届かない場所へ行ってしまう。
「俺の方がずっとずっと、ずーっと――大好きだったんだから……!」
そんなのは嫌だ。生きていてほしい。死なないで。生きててくれるならなんでもいいよ。あんたのことだからまたきっと知らずに俺を裏切るんだろうけど。だけどその根底に愛があるというのなら、瀬名泉は、傲慢と寛容で、レオの傲慢と甘えを許そう。
「だから俺のために生きろ! 一緒に舞台に立って、歌って、もう一回抱きしめてよ、れおくん!!」
泉は大きく息を吸い込み、躊躇うことなく、柔らかいレオの唇に口付けた。
一度目のキスはごみための中で、二度目のキスは、夕暮れの教室の中でだった。夕陽の光が窓から射し込み、レオの身体を覆い尽くす。逆光でまぶしい。オレンジの髪の毛が夕焼けに溶けてしまいそうになる。
嫌だ。行かないで。どこにも行かないで。泉は懸命にレオの身体へ息を吹き込んだ。生きて笑ってよ。一緒に舞台に立って歌を歌って。責任取ってよね、スポットライトの下へ引き摺り上げた張本人がいなくちゃ、始まらないでしょ。
「……セナ」
ありったけの息を吐き出し、唇を離す。あの愛らしい二つの瞳が、しっかりと焦点を定めて、泉を見つめている。「なあセナ」からからに乾いた声で、だけど不思議と嫌な感じはさせず、優しいアルトの声で泉のことを呼んでいる。
「今のキス、なんの味がした?」
それからレオは無邪気に微笑み、そんなことを訊ねた。
バカだなあ。本当、バカなやつ。
ほかにもっと聞くことがあるだろうに。
……だけどきっと、恋した時点でふたりとも同じぐらいばかになってしまっていたのだ。
好きなだけじゃ満たされないし、愛した分だけ愛してほしいし、手を繋いでキスをして、優しい言葉を言ってほしい。
「苦いレモンの味がする……」
だから泉は、レオの目をまっすぐに見てそう呟く。
「おれも。おれたち結局、ずっと同じ気持ちだったのかな」
するとレオも、恥ずかしそうにそう言ってくれる。
「あの日、あの時、俺たちの恋心はふたりいっぺんに死んでしまったけれど……もしかしたらまた、やり直してもいいのかな……」
ごめん、好きなだけでいいなんて嘘だよ、人間はみんな愛されたがりなんだ。照れくさそうに頬を掻いて、レオが言った。強がってみたけど無理だった。セナもきっとそうなんだろ? なら、おれたち、お揃いだよ――。
レオがはにかみ、手招きをしていた。泉は誘われるように彼に身を預けた。レオの身体は細くて小さくて、ちょっと力を込めたら死んじゃいそうに華奢だったけど、今はこの胸が世界中の誰よりも力強い。
「セナ」
指先を合わせる。身体が密着する。鼻と鼻が触れ合うほど近く、視線は交差し、心臓の音が、耳のそばでどくどくと鳴っている。
「ふたりでずっと一緒にいよう」
薄桃色のくちびるは夢見る少女のように柔らかく、暖かく、あまったるい、レモンティーの味がした。