03 人魚姫は泡と消ゆ


「かさくん、聞こえるなら出てきな……! 別に怒ったりしないからさぁ!」
「それ絶対出てこないと思うけど……まあいいや。ス〜ちゃん、おいで〜? 何もないけどハグしてあげるよぉ」
「司ちゃ〜ん、お姉ちゃんも抱きしめてあげる。あと、泉ちゃんが暴れたらちゃぁんと守ってあげる……!」
「あのさあ、おまえらは俺をなんだと思ってるわけぇ!?」
 司を捜そうと言ったって、そう簡単に見つかるわけもなくて。折衷案として、噴水迷宮を目指しながらとりあえず呼びかけ続ける……というかたちでひとまず合意を得た。
 そうして三人で司の名前をかわりばんこに呼んで歩き続けること、しばらく。相変わらず日は沈まないし天候は一定だしで、時間がどのくらい経っているのかまるでわからない。
 時々手慰みに携帯電話を取り出してみるが、表示される時刻はいつ見ても「23:59」のままだし、電池は十三パーセントから一向に減らない。もうバグなんじゃないかな……。電波表示も永遠に圏外だし。泉はプログラムというものにとんと無縁なのだけれど、当てずっぽうにそう考えた。
「圏外だから当たり前なんだけど、電話も通じないしねえ。これさえ使えるんなら今すぐかさくんのこと呼び出すんだけどさ」
 ていうかまず、王さまに掛けるけど。
 泉がぼやくと、凛月と嵐が、曰く名状し難い微妙な顔つきをした。
「……なに? その顔」
「んん。べつに……」
「言いたいことあるならハッキリ言いなよぉ? 王さまも多分『世界の管理者』を探してるんだろうし、手分けするにせよ合流するにせよ、さっさと連絡取れたらよかったのにってだけ。あいつは度し難いほどアホだけど、いないならいないで迷惑だし、いてくれた方が安心するし……」
「泉ちゃん、本当に王さまのこと大好きよねェ」
「うっさい」
「王さまもセッちゃんのこと大好きだけどね。その結果いいことも悪いこともいっぱいあったよね、本当」
 たとえば――凛月が口を開く。しかしその瞬間、遮るように、着信メロディが鳴り響いた。
「えっ?」
 それまでのんべんだらりと雑談に興じていた場の空気が、一瞬にして凍り付く。着信メロディの発生源は、戯れに握り締めていた泉のスマートフォンからだ。泉は慌ててスマートフォンの画面をひっくり返した。ロック画面に着信表示が映し出されている。しかし相手の名前が出るべき箇所は文字化けしていて、まったく読み取れない。
「な、なに、これ、」
 着信メロディは尚も鳴り続けている。泉は躊躇い、立ち止まる。スライドしてロック解除の文字に重なった指が震えて動かない。発信者名が文字化けしているという状況が否応なく恐怖を駆り立てる。そりゃ、確かに、バグかなみたいなことは言ったけれど。だけどこんな、学校の怪談みたいな演出、心臓がもたない。
「どうしたら――」
 唇が一気に青ざめる。言いよどんだ泉の言葉を、凛月が遮った。凛月は縋るような眼差しで泉の裾を掴み、ふるふると首を振っている。
「セッちゃん、出ちゃ駄目」
「駄目なの!?」
「駄目、絶対駄目、それはきっと【破滅の歌】だ」
「は、はぁ? なんでそんなことわかるの」
「とにかく、駄目なの。お願い信じて? ……――ス〜ちゃん! 俺たちずっとス〜ちゃんのこと呼んでたでしょ、もうパスは出来てるから……! 早く来て、あいつなりふり構ってないよ、お願い、セッちゃんを守ってあげて!!」
 鳴り止まない着信メロディを掻き消すぐらい強く、凛月が絶叫した。そんなに着信を取らせたくないのならスマートフォンを奪い取ればいいのに、というか泉の知っている凛月なら躊躇いなくそうしそうなものだけれど、何故かそれはせず、口だけをぱくぱくと動かしている。
 コイツは何がしたいんだろう? まったく意味がわからない……。
 だけどもっと不可解なのは、泉を取り巻くこの世界そのものだ。
「――瀬名先輩! お待たせして、本当に申し訳ありません……!!」
 突如、虚空から声が降り注いだ。
 泉はその声を聴いた瞬間、信じられないあまりに何度も瞬きを繰り返してしまった。顔を上げる。頭上に何かがあって、光を遮っている。凛月の必死の呼び声に呼応するように、空から人間が降ってくる。
「は?」
 朱桜司。赤いショートの、クソ生意気な顔をしたかわいい後輩。夢ノ咲学院一年次の制服を身につけた司が、勢いよく落下してきてどさりと泉に覆い被さり、そのまま諸共に地面へ倒れていく。
「なに? なんなのぉ? ちょっと重ッ、かさくん? かさくんなのぉ? どうなってんの一体!!」
 スローモーションで引っ繰り返っていく世界を呆然と眺めながら泉は叫んだ。その衝撃でスマートフォンが手のひらから離れ、どこか彼方へすっ飛んで行く。同時に、あれだけしつこく鳴り響いていた着信メロディもぴたりと鳴り止んで消えてしまった。
「ああっ、もう……!」
 ずきずき痛む頭を抱え、泉は苛立たしげに舌打ちをした。もはや、なにがなんだか。凛月は宙に浮かぶし嵐は召喚されるし、果ては司が空から降ってくる。そのうえラ*ュタの女の子だってもっとふわりと降りてきていたというのに、全体重を掛けてズドンだ。
「本当、チョ〜うざぁいっ……!!」
 前途多難。
 泉はまだ見ぬ【終わりの塔】と「世界の管理者」のことを思い、特大の溜め息を吐いた。【破滅の歌】とかいうもので人間がばたばた死んでいくという時点で頭がおかしいのに、この世界には最早気が狂った要素しかないんじゃないだろうか。


 そんなこんなで司がパーティインして小一時間。
「――なるほど、概ね状況は把握しました。凛月先輩、鳴上先輩、ありがとうございます。おかげさまで間一髪間に合うことが出来ました……♪」
 落っこちてきた司相手にひとしきり怒鳴ったり経過説明をしたりして歩いているうちに、一行はとりあえず噴水迷宮なるエリアには突入していた。案内板も何もあるわけではないが、見渡す限り噴水がジグザグと続いているので、ここがそうなのだろう、恐らく。
「駆けつけるのが遅くなり、大変申し訳ありません」
「本当、ひやひやしたわよォ。アタシたちもちょっとのんびりしすぎてたきらいはあるけどねェ。まさか泉ちゃんの電話がまだ繋がるなんて……アタシとしたことが油断しちゃったわァ」
「うむ、盲点だった……。危機一髪だったねえ、電話から流れる【破滅の歌】は本当にやばいからね。生で聴く次に攻撃力高いんだもん、生がアルテマなら電話はフレアぐらいあるよ」
「あのさあ、日本語で話してくれる?」
 不明瞭な内容を話す凛月はうっちゃって、泉は司に視線を遣る。司はやたらにうんうん頷き、顔を上げると、泉に振り返ってにこりと微笑んだ。
「ううんと。説明しますと、瀬名先輩もご存じの通り……この世界ではもう大半の方がお亡くなりになられています」
「嘘みたいだけどそうらしいね」
「Yes。そしてこの世界での死とは、即ち魂の消失である――と、眠りに就かれる前、天祥院のお兄さまは仰っていました。みなさんの亡骸がとても綺麗に残っているのを、瀬名先輩も何度かご覧になったでしょう?」
「まあ、見たけど……」
「Well。そしてこれは凛月先輩が実証してくださった新事実なのですが、消失を免れた魂は、Passを繋ぐ……名前を呼ぶとかですね……と、そのそばへ引き寄せられる特性があるのです。私は、ぎりぎり魂の消失を免れていましたから。強く呼びかけていただくことで、ここに現れることが出来ました。まあ、凛月先輩が強引に再結合をかけたせいで意図せぬ場所に出現してしまったみたいですけど」
「はあ……なるほど……?」
 あまりよく分かっていないが、司が説明してこうなのだから、これ以上の解説は望めまい。泉は頭の中で自分なりに話を解釈しようと試みた。この世界では死んだら肉体だけを残して中身が消えてしまう。嵐が、「ゲームだからって死者蘇生が出来るという考えはナンセンス」と言っていたのは、これが理由か。魂が消えたら生き返れない――というのは、この手の設定に疎い泉でもまあわかる。
 そしてその結論に至った天祥院は眠りに就いている、らしい。
 あの皇帝でさえくたばっているとは。そのことを思わぬ形で知らされ、泉は微妙な気持ちになった。fineには散々辛酸を舐めさせられてきたし、英智本人に煮え湯を飲まされたことも多々あったが、それでも彼は泉のクラスメートの一人だった。それに……あの天祥院英智でさえ殺されてしまうのだという事実は、単純に恐怖を駆り立てる。
 というか、どうして泉は生き残っているのだろう。
 Knightsの面々も、ギリギリ生きているみたいだけど……彼らは一応、この世界の理を知っている。生還者なのだ。瀬名泉だけが、この世のことを何も知らないのである。
 知らないからかけずり回って情報を集めているけれど、道行きは一本で、出会う人々は大抵みんな疲れ切っていて。まるで気付かぬうちに誰かに操られてでもいるかのような……そういう居心地の悪さがあり、泉は唇を噛みしめた。
「ねえ、この世界はさあ、なんなの? 俺はゲームか何かだと思ってたけど。俺たち一人一人がプレイヤーとしてログインしてるとかでさ、勝利条件を満たせば、全員ログアウト出来るゲームか何か。……そうじゃないわけ?」
「この世界がGameかどうかは、私たちには分かりかねることです。だって知らされていませんから。LogoutもEndingも、もしかしたらないのかも。……ですが私は信じます、その中に一欠片でも、真実に至る可能性があることを」
「……。かさくん、いやにあっさり受け入れてるんだね。ううん……かさくんだけじゃない、くまくんやなるくん、今まであった奇人の連中も。どうして?」
「それはきっと、私たちが既に【破滅の歌】を聴いてしまっているからでしょう」
 さみしそうに微笑み、司が言った。
「この世界がいかにCrazyかは悉知しています、Stupidです、ばかげています。……でも、自分の無力さを受け入れるしかなかったんです。
 ――私たち自身には、最早抗う権利がありません。本当に本当に悔しいし虚しいですけれど。なればこそ、瀬名先輩が世界の管理者を捜してこの世の果てを目指すというのであれば、それを手助けしたい。それが私たちの使命です。私たちは同じUnitの仲間ですから」
 司は、儚げな顔をして泉の手を握った。彼は殆どちっちゃい子と変わらない落ち着きのない男の子だったのに、司の手も、やっぱり氷みたいに冷たかった。凛月も嵐も司も人形みたいに身体が冷えている。生きて動いているのが不思議なくらい……。
(一体誰? こんなゲームを作ったのは。「世界の管理者」とやら? ううん……違う気がする。管理者は、破滅の歌の主に便宜上付けられた名前のはず……。それにこの世界、別に最初からおかしかったわけじゃないんじゃないかな。だって別に俺たちは殺し合ったわけじゃない、ドリフェスで潰し合ったわけでも、革命がなされたわけでもない。ただ、たった一人が、全てを終わらせようとしているだけ)
 だけど一体誰が?
 アイドル達を皆殺しにするほどの衝動を知ってしまったのは、どこのどいつだ?
(……――まさかね)
 不意に、未だ会えていない男の子の姿が脳裏に浮かんだ。「世界の管理者を捜せ」という手紙を残して行ったという月永レオ。あいつは今どこにいるんだろう。
 魂が存在している限り、呼べばパスが繋がるはずだ、と司は言った。そして零は、「死んではおらんじゃろ」と証言している。……なら、あいつのことを呼んでみようかな?
 一瞬だけそう考え、でも怖くなってやめた。
「これ以上考えても頭痛くなりそうだし、一旦終わり。それより噴水迷宮の最深部を目指そうよ、深海に会わなくちゃいけないんだから」
「はい! となれば、水先案内人が必要ですね。そちらの方は、私にお任せください。流星隊の皆さんとは【クルージングライブ】でご一緒したことがありますし、忍くんとはクラスメートですし。瀬名先輩をお連れする程度のご縁はあるはずです」
「ああそう、なら任せるよぉ」
 泉はレオに会いたい。零の前で、あいつの居場所を知っているのと取り乱してさえ見せた。けれどその光景を知っている凛月は、レオのことを一度も呼んでいない。
 そこに嫌な予感を覚え、泉は目を逸らすように考えることを止めたのだ。


◇◆◇◆◇


「♪〜♪〜♪」
 司のあっちこっち頼りない先導でなんとか進み続け、噴水迷宮最深部に辿り着く頃には、泉は這々の体を晒していた。
 ジグサグと無限に続いていた巨大な迷路から抜けると、そこにはひときわ大きく開けた空間が広がっている。もはや浅いプールのようになっている広間中央には彫刻めいた噴水が設えられており、深海奏汰は、そこに腰掛けて歌い続けていた。
「〜♪ ……おやぁ? ひと、ですね?」
 こちらに気付き、奏汰が歌声を止める。澄んで美しく、しかしどこか儚げな歌は耳をひくものがあったが、永久に聴いていると気が違ってしまいそうでもあり……歌が止んだのは正直ありがたい。
「『おきゃくさん』なんて、めずらしい。このよにまだ、『いきのこり』がいたとは〜……?」
 奏汰がこてんと小首を傾げた。泉は浅瀬をじゃぶじゃぶと掻き分け、奏汰に歩み寄る。すると奏汰は、「は〜い」と右手を振って、可愛らしく笑った。広げられた手のひらは水色の鱗で覆われており、爪は十センチ近くも鋭く伸び、指と指の間にはえら≠ェ張っている。
 奏汰も、零や宗同様、奇人として「怪物」に変生したあとのようだった。
 よくよく見れば、奏汰は、上半身しか服を身につけていなかった。彼には脚がない。その代わり、宝石のように美しく煌めく人魚の尾が胴から伸びている。そのうえ頭にはヒトデや珊瑚がお姫さまの髪飾りみたいにくっついていて、流星隊の派手な隊服とは微妙にアンバランスだ。
 深海奏汰が奇人として歪められたかたちが「人魚」であることは明らかだ。それもディ*ニー映画に出てくるような夢見るプリンセスではなく、原典であるギリシア神話に出てくる海の魔物、セイレーンの方。
 ……ということは。
「ッ……やっぱり、か……」
 恐る恐る、彼の顔から足下へ視線を動かす。それらを確かめ、泉は歯噛みをした。奏汰の足下、いや尾下で、三人の子供達が安らかな死に顔を浮かべて永遠の眠りに就いている。
 高峯翠、南雲鉄虎、千石忍。
 流星隊の一年生達が、それぞれ緑と黒と黄色の鮮やかな隊服を身に纏ったまま、母親の腹で微睡む胎児のように身を屈めて死んでいた。
 だけど何より泉の感情を揺さぶるのは、奏汰が怪物の腕で大事そうに抱きしめている赤色だ。
「……守沢」
 泉は喉の奥から絞り出すようにその名前を呼んだ。赤をまとった青年はうんともすんとも言わない。あの鬱陶しいくらいの大声も、何も、返ってはこない。
「守沢だよね、それ」
 泉が訊ねると、奏汰は儚い顔で頷いた。
「はい」
「死んじゃったの」
「……はい」
 ずいぶんまえに。真っ赤な隊服を着た流星レッド――彼ら流星隊の家長であり太陽だった男の身体を何より愛おしそうに抱きしめて、奏汰が言う。
「そうです。これはちあきの『なきがら』です、きしさん」
 しかたないんです、わかってます、と呟く声は、今にも壊れそうなぐらい張り詰めていた。
「ちあきは……『ヒーロー』、でしたから。だれよりもたくさんのひとをまもろうとして、だれよりもたくさん、【はめつのうた】をあびてしまったんです。……つよいたましいだったのに、うつくしいにんげんだったのに、だれよりもいちばんはやく、ねむってしまった……」
 奏汰が千秋の亡骸を撫でる。守沢千秋の死体は、ひどく美しい抜け殻のかたちをしている。
 肌はつるりとして傷一つなく、どこも腐敗なんかしてなくって。清潔で、美しい、死んだ肉。ただ心臓が止まっていて、伏せられたまぶたが、今日も明日も明後日も開くことはないというだけの……穏やかに眠る亡骸。
 泉は俯いて息を呑んだ。
 心のどこかで予感はしていたのだ。生き残りは殆どいないと、散々ぱら言われてきていたのだし。閉じた口から歯ぎしりの音が漏れる。だけどこんなにやるせない気持ちは覚悟出来ていない。
 守沢千秋は瀬名泉の友人だった。もう彼は息をしていませんと言われ、平静でいられるほど他人じゃなかった。仁兎なずなの亡骸を見た時も悲しかったけれど、それよりもっと、心へ鋭利に突き刺さる。
 ああ。今思えば、朔間零が羽風薫の遺体を棺桶から決して出さなかったのは、彼なりの気遣いだったのだ。
「ごめん……」
 泉が膝を折って俯くと、奏汰が弱々しく「ありがとうございます」と笑った。


 泉が落ち着くのを待って、二人で情報交換をした。その間もずっと、奏汰は千秋の亡骸を抱きしめたままだった。泉がこれまでの道行きについて話すと、奏汰も、知っている限りの内容をたどたどしく教えてくれる。破滅の歌。世界の管理者。怪物になった奇人達。永遠に美しいままの死体。変質した夢ノ咲学院。過去と未来と現実について。大凡は零や宗に既に聞いていた内容で、目新しいものはない。
 その中で、ふと、泉は「魂」の話について奏汰に尋ねた。
「死んだ人間の魂が消滅するっていうのなら、じゃあここに生きている人間は一体何なんだろう」
「どういうことでしょう?」
「死んだやつから現実に魂が帰っていくとか、そういうシステムかなって漠然と思ってた。死体は全部ログアウトずみの奴らとかでさ。だけど……もしそうでないのなら、今ここで会話している俺たちは……」
 昔聞きかじった流行りアニメのことを思い出す。ゲームと現実の肉体がリンクしていて、ゲームの中で死んだ人間は、現実でも死んでしまうのだ。もしかしてこの世界も、そういう悪趣味な代物なのでは。
 泉たちが、それを自覚出来ていないだけなのでは?
 しかしそれを告げると、奏汰はふるりと頭を振る。
「ではあなたは、にんげんの『ていぎ』とは、いったいなんだとおもいますか?」
 言葉に詰まり、泉は口を噤んだ。奏汰が小首を傾げて微笑む。そうですね、むずかしいですよね。ぼくたちも、いちどしぬまで、それがわかりませんでしたから。そう呟き……すうと目を細める。
「ひとは、なにをもって、たしゃを『にんげん』とみとめるのか。そのじょうけんはいったい、なんなのか……。なまみの『のうみそ』があることなのか、『かんじょう』があることなのか。『にほんのあし』で、たってあるいていることなのか」
「……」
「……それとも、ふくせいされた『でーた』のせかいのなかでも、かわらず、『じが』をたもっていることなのか。あなたは、どうおもいますか」
「……えっ?」
 複製?
 その単語を耳にした瞬間身体が総毛だって、口から変な声が漏れてしまった。
 ねえ、どういうこと? 訊ねようと振り向いた先で、司が何か言いたそうに唇を大きく開いていた。けれどその唇を、とっさに凛月が塞ぐ。酷く厳しい顔つきで。これでもかと苦汁を飲まされたみたいに。嵐と二人で、葬式にでも来たような顔をして、奏汰にちゃんと向き合えと指で示す。
 泉は恐る恐る奏汰の方へ視線を戻した。奏汰は変わらず微笑んでいた。超越者の微笑みだった。握り締めた手のひらが、じっとりと汗で湿る。
「うふふ。『こたえ』は、ぼくにはもうわかりませんね。でもあなたは、きっとそれにたどりつくでしょう。それがあなたののぞみであり、しんでしまったぼくたちのねがいであり、ししてなおうごくぼくたちの、『いのり』でもあるのですから……」
「あんたたち、揃いも揃って、難解な謎かけばっかり――」
「はい。ごめんなさいね。……だけど、すみません。ぼくもう、ちょっと、つかれちゃったんです」
 あなたがやっときてくれて、ぼくたちはこれですくわれるとおもいました。奏汰が言う。れいもしゅうも、あなたによってすくわれました。古めきを謳うように。
 奇人は死を赦されない。【破滅の歌】で人間としての死を迎えても、魂の消滅した骸を集めて見守る怪物に変生してこの世界に縛られる。先に逝ってしまった愛おしいものたちには永遠に追いつけない。
 それこそ、この世界が滅びを迎えるまで――怪物の苦しみは続いていく。
 しかし泉が訪れることで、彼らはそのくびきから解き放たれるのだという。
「だから。さいごにひとつだけ、あなたに『ひんと』をのこします。もう、ぼくがしっていてあなたがしらないことなんて、ほとんどありませんし。そのことをちょくせつおしえることはできませんが、こうすれば、かんせつてきに、しめすことはできます」
「待って、何、するつもりなの」
「――やっとこの『とき』がきましたよ、ちあき」
 奏汰が微笑み、千秋の亡骸を抱き上げた。彼は愛おしげに大陽の死に顔へ頬をすり寄せ――以前はあんなに熱かったのに、今はいくら触っていても冷たいままの頬を――悲しげに撫で、唇を落とした。
「ねえ、ちあき。ようやくぼくも、『そちら』へむかえます。ちかごろぼくはね、かんがえるんです。おかへあがって、にほんのあしであるいていられたのは、そばにちあきがいたからなんだなって。まいにち、ずっと、かんがえています。
 ……ちあきがいなくなってすぐ、ぼくのあし……こんなに、なって。せっかくおかにあがったのに、また、みずのなかでしかいきられなくなって……そのうち、こどもたちも、ねむってしまって。ぼく、ずっと、ひとりぼっち。それがいまは、とても……くるしい……」
 不意に、奏汰の長い爪が、千秋の健康的に焼けた肌を引っ掻く。けれど傷口から血が流れることはない。代わりに、電子のチリのようなものが、ぼろぼろと零れ落ちていく。
 守沢千秋の皮膚の内には、黒々とした、四角いポリゴングラフィックみたいなものがびっしりと詰まっていた。そしてそれは、多分千秋に限ったことではない。この世界の人間、自然、建造物、そのどれもが、表面の精巧なテクスチャを剥いでしまえば、中身は全てグラフィックリソースの粒で出来上がっている。
 メッシュとフレームにマテリアルが設定され、テクスチャを焼き込む。必要に応じてボーンを仕込み、最後に魂を埋め込むのだ。
「どうしてさきにいってしまったの、とはいいません。ぼくたちをまもってのことだと、ぼくも、こどもたちも……わかっていました。だけどね、ほんとうはみんな、さびしかったですよ。むなしかった。あなたにおいていかれるのは……とてもつらくてくるしいことです……」
 じゃあ魂って何? 生きているって? 死んでいるって? 人間と怪物の違いは? この世界における死や破壊は、本当は何を意味しているのだろう。人間を殺すのは悪いことだと勝手に思い込んでいた。だけど今目の前の人魚姫は、自らの手で終わりを選び取ろうとしている。
「にんげんのぼくはもうしんじゃいました。のこっているのは、『かいぶつ』としてていぎされた、ぼく……。ねえ、『かんりしゃ』さん。このこえがきこえているんでしょう? だったら、ぼくのおねがい、かなえてくれませんか」
 この世界はどうして狂ってしまったんだろう。
「ぼくをちあきとこどもたちのところへつれていって」
 頭が痛い。目がチカチカする。そんな泉の苦しみを吹き飛ばすように、何処か遠くから、誰かが、「わかった」と人魚姫の願いを肯定する。

 ――ほどなくして、世界に歌声が響き渡った。

 歌が流れ始めた次の瞬間に、凛月と嵐と司が必死の形相で駆け寄って来て、泉の耳を塞いだ。世界中の音が遠くなる。それでも、隙間から入り込むようにして、微かな歌声が泉の脳に到達する。
 美しい男性ボーカルのラブ・ソングだった。
 その声に、泉はいやというほど聞き覚えがあった。喉が引きつる。だけど世界中の誰よりその声の主を知っている。泉だけは、決して、この声を聞き間違えることはない。
「れおくん」
 歌声は月永レオのものだ。曲も。特有のクセがそこかしこに散らばって滲んでいる、彼のもの。
 泉は息を呑んだ。とても信じたくはなかった。
 ああ、でも――だけど。
「……やっぱり、そうなんだ。【破滅の歌】の主は――『世界の管理者』は、れおくんなんだね……」
 言われてみればこれほどしっくりくる答えは他にない。
 噴水に腰掛けた深海奏汰は、柔らかなラブ・ソングに包まれ、眠るように目を閉じた。安らかな死に顔が浮かび上がる。抱きしめた守沢千秋と共に、彼が守り続けた三人の子供たちと共に、彼の魂は天に召されていく。
 そして奏汰の息の根が止まった瞬間、彼の身体に変化が起きた。
 えらの張った鱗だらけの手が、ゆっくりと、白く柔らかな人間の皮膚に立ち戻っていった。人魚の尾は魔法のようにほどけ、流星隊の隊服を身につけた二本の足になる。ヒトデと珊瑚だけは、頭の上に残っていたけれど。人魚姫は人になり、そして、最後は……泡になって消える。
「ねえ」
 歌が止み、離れていった手のひらを追って、泉は振り返った。視線の先では、三人が三人とも、何とも言えない難しい顔をしている。泉は感情のまま唇を動かし、声を荒げた。
「『世界の管理者』の正体……あんたたち全員、知ってたんでしょ」
 泉の声に、凛月がばつ悪く首を縦に振る。
「……セッちゃん以外はみ〜んな、【破滅の歌】を聴いてたからね。そりゃあ、知ってるでしょ。だけど生きてる人にそれを教えちゃいけないルールだから。ましてやセッちゃんには――あのひと、王さまだって、知られたくなかったんでしょ」
「嘘。さっき電話が掛かってきたじゃん」
「あれこそ、究極の毒だわ。いいこと泉ちゃん、あの電話を取っていたら、あなたあの場で死んでいたのよ。今みたいな世界中に響く歌は、拡散されて威力が弱まっているの。だからアタシたちが耳を塞いであげれば致命傷には至らない。けど電話で直に送り込まれちゃったらとても対抗出来ないわ。そればっかりは見逃すわけにいかなかったの」
「……死んじゃうならばれても問題なかったってこと? 虚仮にしてるのかなぁ、あいつは! だったらなんで今は、歌を……」
「深海先輩の決意に敬意を払ったのです。Leaderにも、その程度のPrideは残っていたということでしょうね。奇人の方々が変生して残ること自体は、想定外だったのでしょうし。それにここまで来てしまえば、遅かれ早かれ瀬名先輩は【終わりの塔】へ辿り着きます。直接対決を選んだ。そういうことなのではないでしょうか」
 或いは私たちの動きに気付いたのかもしれませんね、と司が言った。
 そっか。そういうことだったんだね。肩で息を吐き、泉はこれまでの全ての情報を頭の中で並べて整理し始めた。月永レオはある時この世界を壊そうと決めた。それで【破滅の歌】なるものを作り出し、無差別に虐殺を始めた。理屈はわからないけれど、まあレオは天才だから、その才能を極限まであくどい方向に使ったのだろう。
 その結果人々は殆どが死に絶え、奇人だけが生き残った。とはいえ正確には彼らも既に死んだあとであり、望まずして墓守を強いられ、精神は限界まで追い詰められている。そこに泉が情報収集のために訪れると、彼らは皆一様に「救われた」。……怪物から人に戻り、そして恐らくは死人に還った。
 それはきっと、多分。待ち続けていた最後の使命を果たしたからだ。
「みんな、バカばっか……」
 ――致し方なし。この世界は呪われておるのじゃ。
 ――歌を聴いてもあれを恨んでやるな。あれは信じられないほど愚昧で阿呆だが、しかし、君を愛していることに変わりはない。
 ――でもあなたは、きっとそれにたどりつくでしょう。それがあなたののぞみであり、しんでしまったぼくたちのねがいであり、ししてなおうごくぼくたちの、『いのり』でもあるのですから。
 奇人たちの今際の言葉が蘇る。死して尚、彼らは解放を願って最後の生者を待ち続けていたのだ。出来ることならその気持ちを汲んでやりたい。ポケットの中でぐしゃぐしゃになった手紙が揺れる。もう立ち止まることは許されない。
 会いに行くよ。あんたの元へ。
「……くまくん、なるくん、かさくん。行くよ、【終わりの塔】へ。こんな虚しいこと、本当に、終わりにしなくちゃ」
「……構わないのですね、瀬名先輩?」
「当たり前でしょ。身内の恥は俺たちがけじめをつける。それにあいつもきっと俺のことを待ってるから」
「そう、ならアタシたちもお供しないとね」
「ありがとね。ちょっとは……助かるよ」
「相変わらず素直じゃないなあ、セッちゃんは。まあ、でも、そうだね。俺たちの力を全部セッちゃんに預けるよ。だから……」
 だからきっと王さまを救ってあげて、と凛月が言った。
 泉は確かに頷いた。見上げた向こうに、高い塔がそびえているのが見える。あの上にきっとレオがいる。会って真意を確かめなくちゃ。その結果何が起こったとしても、ちゃんと向き合ってあげたい。
 決着をつける時が迫っている。泉は強く強く、不吉な塔を睨み付けた。