「やあ、来たね、瀬名くん」
黒々とそびえ立つ【終わりの塔】。その入り口に、一人の男が立っている。
「この塔を登れば君は必ず不幸になる。大切なものを一つずつ失い、果てに、絶望を知るかもしれない。真実が必ずしも幸せを導いてくれるとは限らないからね。それでも、君はこの先へ進むのかな」
整った容姿に、怜悧な眼差し。人の心を見透かすような喋り口――fineのリーダー、天祥院英智。しかし泉は彼の姿を見るなり、首を横へ振る。
「当たり前でしょ。こちとら、もうとっくに決心固まってるの。……それより、つまらない変装はやめなよ」
ここへ来るまで、泉は三人の奇人を看取ってきた。その際に多少なりと犠牲を払っているし、情報も得ている。ここに英智がいるはずはない。
となれば、彼の正体は一つ。
「天祥院はもういない。うちの末っ子が、証言してる。そうでしょ――日々樹」
「――うっふふふ! あっという間にバレちゃいましたね!」
重たい息を吐きながら指摘してやると、英智に扮した男は狐につままれたような顔をして見せ、それから場違いなほどにこりと笑って花吹雪を巻き起こした。吹雪が全て消え去る頃には、そこには英智とまったく違う男が立っている。ブルーシルバーのロングヘアー、役者がかったオーバーな動作。そして顔に掛けられたベネチアン・マスク。
奇人・日々樹渉。塔が存在する最後のエリアに残された人柱。【破滅の歌】で死ぬことを許されなかった怪物だ。
見たところ彼は一人ぼっちで、そばには死体も墓も棺桶も見あたらない。fineメンバーの亡骸は、別の所にそっとしておいてあるのだろう。日々樹渉という男は、そのあたりのケアが存外マメで手厚い男だから。
泉が腕組みをして考え後とをしていると、渉はにこやかに、喧しく、一礼をした。
「その通り! 私こそ、最後に残った奇人が一人、あなたの日々樹渉です! ああ、でも、あなたが『日々樹渉』を呼んでくれて助かりました。私、とうとう元の形がわからなくなってしまって……危うく、日々樹渉に戻れなくなりかけていましたので!」
「はあ、そう。……ていうかあんた、他のやつらと違って全然見た目変わってないんだね」
「それはまあ、私が受けた呪いは『透明の仮面』ですしね。つまり私は何者でもあり、何者でもないのです。定型を失い、本質を見失う――道化師に相応しい呪いでしょう。『世界の管理者』さんはなかなかのサディストですねぇ」
おっと、あなたはもう彼の正体を知っているのでしたっけ。渉の姿を取った怪人が、唇の端でだけ微笑んだ。
「本当の私の姿は、もしかしたら日々樹渉でさえないのかも? それは『現実』の私にも言えることですが――まあ、細かいことは今は不問ということで。それよりあなたは、この塔の上に用があるでしょうからね」
「そうだよ。だからさっさと通してくれる? それともあんたが俺を連れてってくれるわけ?」
「残念ながら、私の役目は塔の中に上げてさしあげるまでです。我々奇人は、死者ですから。特に強い念を残した幽霊であればまた別ですが、基本的には、生者である『管理者さん』の支配が強いエリアでは形を保っていられないんですよ」
「こんなにぴんぴんしてるのに死者とか言われてもね、何度聴いても納得し難いよ」
「まあ実態のある死人なんてほとんど生者と遜色ないですからね。でも一応、影とか映らなかったりするんですよ? どういう原理なんでしょう、シャドウの投影がオフになってるんですかね……?」
「いや、知らないし……俺そういうの詳しくないから」
「ふふ。ちなみに零も宗も、自分のそばに鏡を置いていなかったりします。あと奏汰の姿は、水面に映りません。無論、私も、鏡にも水にも投影されない。我々はそういう『とうめいな』存在なのです。しかしだからこそ出来る悪あがきもあります」
それが、あなたを待って世界の真実に至るヒントを渡すことでした。
渉は囁くようにそう告げた。
たとえば。零は「世界の管理者」を探せという手紙を泉に渡した。でおあれは本来、泉の手に渡る想定のものではなかったのだ。むしろ泉にだけは持たせちゃいけないもので……しかし零はシステムの穴を突いて裏技的にそれを渡しおおせた。泉に動機を与えるために。
宗が泉に開帳した情報だって、本来は制約が掛けられていて、泉が知っていいものではない。しかし宗は「死人に口あり」という異常な状況を利用して泉に情報提供をした。彼を次のヒントに導く為に。
そして奏汰は、己が存在がギリギリ残っていたことを利用し、最後の自爆特攻を掛けた。死人の口を持ってしても語れなかった「管理者の正体」を間接的に示した。泉を塔に向かわせるため、全存在を賭して消滅した。全ては最後の生き残りである泉に決心をさせるため。
「ですから私は、最後にあなたへ魔法を掛けましょう。本来なら、魔法使いの称号は夏目くんに譲っていたのですがね。あの子はもういませんから。守ってあげることも出来なかった、不甲斐ない兄ですが……最後の大任ぐらいは務めてみせますとも」
「いない、んだ。奇人は全員、死にきれないで怪物になってるのかと思ってた」
「ええ、あの子は我ら奇人のなかでもとりわけ早く、念入りに、殺されました。それこそ怪物への変生もしようがないくらい徹底的に」
「……そっか。ごめん、うちのバカ殿が迷惑かけたね」
「いいんですよ。それに、その真相を紐解いてもらうための魔法≠ナす。あんなものをまともに浴びたら、人間の精神は保ちませんからね。
さあ、目を閉じて。この塔で待ち構える関門を超えるため、おまじないを掛けてあげましょう。愛と、驚きと、そしてAmazingを。真実はいつも苦しいものです、本当はいつの世も人間を苦しめます。愛は憎悪に反転し、喜びは悲しみに裏返る。だけどそれでも、守りたいものがあると言うのなら――」
渉の指先が、泉の顔を優しく撫でた。指先はやはり氷のように冷たかった。
「どうか終わりには安らかな夢を。……ささやかながら、これが私たち奇人から生き残ったあなたへ、最後のはなむけです。さあ、この世の『ほんとう』へ辿り着いてください。そしてあなた自身手で選び取って欲しい。彼を許すか。断罪するか。愛するか、憎むのか。しでかした罪を数え――心臓が音を止めるその瞬間まで、あなたの心が気高くありますよう」
三人の騎士さんたち、私にでさえかすかにしか姿の見えないあなたがたも、それでよろしいですね。
魔法の終わりに、渉が泉に聞こえないように小さく囁いた。彼の目線の先で、凛月と嵐、司は静かに頷く。分かっている。三人とも最初からそのつもりだった。泉をレオときちんと会わせてやる。それだけの願いを叶えるために、彼らの魂は未だここにあるのだから。
◇◆◇◆◇
塔の内部は拍子抜けするほどあっさりした構造で、罠らしい罠もなければ、敵とエンカウントして戦闘になるようなこともない。それがかえって不気味で、泉は慎重に螺旋階段を昇り続けた。
嵐の前の静けさみたい。
独り言で呟くと、相変わらずふよふよ浮かんでいる凛月が耳聡く聞きつけて、そうだねえと間延びした声を出す。
「まあもともとうちの王さま、小手先の策を弄するより当たって砕ける方が好きなタイプだし」
「直情径行ですよね、あの方は。考えなしというか怖いもの知らずと言いますか……。それに救われたこともあれば、振り回されたことも数限りない。困ったものです」
「今はまさに、それに困らされてるわけだしねェ。あのひと、アタシたちにもな〜んにも相談してくれなかったのよォ。だからこうして必死に世界中かけずり回って、ヒイヒイ階段を昇る羽目になっているんだけど……」
凛月に乗っかるように、司や嵐が会話に混ざってくる。泉はふぅんと頷いた。レオの独断専行は今に始まったことではないが、いつもわりをくうのはこちらの四人だ。このわけのわからないデジタル世界でもそれは変わらないらしい。協調性とかそういうものをママのお腹に落っことしてきてしまったのかもしれない。
「あ〜あ、それにしてもそろそろ階段登るの飽きちゃったわ。流石にこの状況じゃ、疲れなんかは感じないんだけども。いつまで続くのかしらねェ?」
「さあ……。しかし確かに、随分登りました。そろそろ関門が来てもおかしくはないでしょう。気を引き締めていかなくては」
「うん。何も起こらないってことは、有り得ない。そもそもさあ、王さまが一回セッちゃんに電話掛けてきたのは、何でだと思う?」
凛月が人差し指をぴんと立てて訊ねる。泉は歩みは止めないまま、少しだけ首を捻って呟いた。
「……くまくんたち、『俺を即座に始末したいから』みたいに言ってなかった?」
「うん、そうそう。多分その理由がこの塔なんだよ。セッちゃんに知られたくないものがここにあるんだ」
「自分が世界の管理者だってこと以外にま〜だ後ろめたいことがあるわけえ?」
「そりゃあ、王さまだって男の子ですから、あるでしょ。男の子はいつだってかっこつけですもの。それにあなたに辛い思いしてほしくなかったのよ」
「いやもう十分辛いんだけど……」
「そのあたりは不幸な事故かもしれませんし。LeaderにはLeaderの考えがあったのかもしれません。説明してくださらない時点で大分Fack……失礼、糞喰らえですけど」
「かさくん、言葉遣い」
「あはは。いいじゃんそのぐらい、お目こぼししてあげなよ。ス〜ちゃんはね、王さまのせいでセッちゃんのとこくるまで時間かかっちゃったから。鬱憤溜まってるんだよね〜かぁわいい♪」
凛月が司の頬をくすぐると、司が「子供扱いしないでください〜!」とふるふる身をよじる。そこにきゃあきゃあと嵐も混ざり、三人は女子高生がじゃれ合うみたいにはしゃいでいる。
ここは敵の本拠地みたいな場所なのに、浮かれてるんじゃないよ。一瞬だけそう思って、だけど泉は口を噤んだ。ああ、違う、そういうんじゃないんだ。三人の様子は、まるで空元気のようで見るだに痛ましい。
多分彼らは、何かを予感している。
「……。ねえセッちゃん、怖い?」
凛月が後ろから、ふわりと泉を抱きしめた。抱きつかれているのに全然重たくなかった。それは彼が重力を無視して宙に浮いているせいだと思いたかったんだけど――どうしても、質量がないからだという考えの方が、先に脳をちらついて仕方がない。
「怖いのは、あんたたちの方でしょ……。無理してはしゃいじゃってさ、見るに堪えない」
「なっ、瀬名先輩っ、」
「どうどう、司ちゃん。本当のことですものね、仕方がないわ。……ね、泉ちゃん。アタシたち、確かに、怖いのよ。この塔で何が起こるのか――さっぱりわからないなりに、本能的な恐怖も感じているわ。だって泉ちゃん、もうぞろ気付いているんでしょう? アタシたちがこの世界においてどういう存在かってこと……」
人は宙に浮かないし、急に現れたり、空から振ってきたりはしないわ。たとえここがプログラムされた世界の中だとしても。
嵐が呟き、泉の頬に触れた。次いで司が泉の手を引き留める。どの指先も冷たい。奇人たちと同じように。
泉は首を横へ振った。
「……そのことはまだ考えなくていいでしょ」
「うん、そうね、そうだわね。どうせすぐにわかることだわ。ならアタシたちに出来ることは、もうたった一つだけ。魔法使いさんが掛けてくれたおまじないもあることですし」
「はい、鳴上先輩。凛月先輩も。私たちはそのためにここまで来たのです。
……瀬名先輩、どうか最後まで忘れないで。私たちはいつもそばにいます。ただ少し、姿が見えない時もあるでしょう。それでも――一人ではありません。そしてあなたがたを愛しています、そのことを、我らが王にもきっと伝えてあげてください」
螺旋階段が終わり、そこから続く廊下を歩いていくと、奥に大部屋が現れた。質素な、何もない部屋だ。中央に巨大なディスプレイが一枚だけ、ぽつねんと浮かんでいる。
駆け寄ってディスプレイを確かめると、そこにはコードも再生機器も何一つ繋がっていなくて、電源ボタンさえ見つからなかった。ただの真っ黒な画面。意図的に、コンソールの類を隠されてしまったようでもある。
「はいはい、俺に任せて〜。魔法を預かってるからね、ちちんぷいぷいでなんとかしてあげる。せ〜の」
適当なことを言いながら凛月がモニタを撫でると、パッと電源が入り、映像の投射が始まった。「泉ちゃん、座って」嵐に促され、一つしかない黒椅子に腰掛ける。「私たちの手を握ってください、瀬名先輩」司が手を差し出してきて、それをそっと握りとめる。
「ねえセッちゃん、最後まで俺たちの手を離さないで。俺たち三人で、セッちゃんの痛みも悲しみも苦しみも、全部引き受けてあげるから。……だから任せて」
「うん。……信じてる」
「ありがとう」
三人分の凍り付いた指先を感じながら、泉は一度目を瞑り、そして見開いた。映し出された映像には、スタジオで来客対応をしているKnightsのメンバーが映り込んでいる。
『……ふム、ありがとウ。おかげでなかなかいいデータが採れたヨ、助かっタ』
『どうってことないわよォ、今日はみんなそこそこ暇してたしね。同級生の頼みは叶えてあげたいし♪』
『うんうん。今日は何故かセッちゃんと王さまが乗り気だったからね〜。どうしたんだろ。あのひとたち、普段こういう面倒なことはやりたがらないんだけどな?』
『さァ……。ともあレ、抗争の前線で戦っていた君たちKnightsのデータは貴重だからネ。必ず分析しテ、完全なデータで再現しておくヨ。今ちょっとアルゴリズムの付与で苦労してるかラ、出来るのはいつになるかわからないけド……』
映像の中で、逆先夏目が小首を傾げた。彼はノートパソコンを片手にデータの入力を行っている。それをレオと泉が遠巻きに眺め、ふうんと頷いている。
ああ、これ、覚えはないけど知ってる。泉は凛月の手を握りしめながら記憶を反芻した。
『?アイドル?という奇跡のデータ化……。まァ、新しい魔法を試す一環のようなものだからネ、一筋縄ではいかないだろうけド。せめテ、未来に何か残せるものがあればいいなっテ。愛されるべき歌や踊リ、そして情熱ガ、よりよい形で後世に伝えられたラ。そういう試みだネ、何もかも未知数だけド、やってみる意味はあるはずダ』
『ううん? 逆先先輩の言葉は難しいですね。宙くんがいれば、わかりやすく教えてくれたんでしょうけど』
『フフ。難しいことなんて何もないサ。アイドルとハ、ステージの上で輝キ、夢と驚きとスプーンひと匙ぶんの奇跡を与える者。そのことを伝える宝箱をもし造ることが出来たラ、それもきっと魔法に違いなイ』
ボクたちSwitchは魔法使いのユニットだからネ。夏目が悪戯っぽく微笑む。司が「頑張ってくださいね」と手を振って、スタジオの外へ出て行く夏目を見送った。壁に掛けられたカレンダーは三月を示している。卒業式を間近に迎えた、高校三年生の終わり頃のことだ。
そこでぶちりと映像が途切れ、一度画面いっぱいに砂嵐が映り込む。泉の身体に触れる凛月の指先が震えた。はっとして彼の方を見る。真っ青で、見るからに尋常な様子ではない。泉は彼に声をかけようとした。しかしそれを凛月の方が拒む。
「……ナッちゃん、はやく、おねがい。一個目は、俺が引き受ける……」
きれぎれに凛月が呻いた。嵐がディスプレイを撫でる。凛月の手が泉の身体から離れて落ちていく。砂嵐が止み、ふたたび、映像が始まる。
次の映像は、シンプルな部屋の中だった。たぶんこの、終わりの塔のどこかだ。最上階かな。そこにはオルガンと、巨大なディスプレイが浮かんでいる。
オルガンの前に腰掛けた逆先夏目は、手紙を持ったまま、気むずかしい顔をして首を横へ振った。
『……あァ、この手紙を送ってきたのはそういうことだったんダ。でも駄目ダ、許可出来なイ』
手紙には「世界の管理者を捜せ」とだけ乱雑な字で殴り書きがしてあった。集合墓地で、零が泉に手渡したものと同じものだ。では、もしかして――そう思ったところでカメラが大きく動く。逆先夏目の正面には、険しい顔をしたレオが立ち尽くしている。
『どうしてもか?』
彼は眉間に皺を寄せ、かなり強い語調で、夏目に迫っていた。
『この世界はもう駄目だ。製作者である本来の逆先夏目から管理システムへの接続ライセンスを得ているおまえなら、そのことはわかるだろ。目を背けるなよ、事は一刻を争う。もたもたしてる場合じゃない――』
『駄目ダ。月永センパイ、それは摂理に反しているんだヨ。この箱庭はあくまでも受け皿、内から自壊する毒なんかに耐えられる構造をしていなイ。ましてや付け焼き刃のアイディアなんテ、どんな事故に繋がるかわかったもんじゃあなイ。許可出来なイ。ああもウ、確かにオリジナルのボクはちょっと特異なアルゴリズムを全員に積んだみたいだけどネ、どうして汎用AIの月永センパイがこんなことを言ってくるんだカ……』
ほとほと困り果てたという様子で頭を叩き、夏目が大きく溜め息を吐いていた。その間にも、レオの顔はどんどん剣呑になっていく。
夏目の方にはまったくレオの主張を取り合うつもりがないらしく、『大体、内部でウイルスなんか作れるワケがないでしょウ』とかぶつぶつ呟いていた。この箱庭に収容されたアイドルたちには、確かに自立型の思考プログラムが搭載されている。しかしそれには外部の人間が授けた制約がある。自殺や自傷は行えないし、他人を傷つけることも許されていない。魔法の箱庭は、アイドルたちの輝きと奇跡を蒐集しておくための宝箱なのだ。
『ともあレ。製作者であるボクのオリジナルから管理権の許諾を受けた者としテ、月永センパイ、あなたの申し立てはリジェクトすル。申し訳ないけどネ、理解していただきたイ。さもなくば奥の手としテ、あなたに割り当てられている思考野を強制凍結させてもらうヨ』
夏目がすげなく二度目の通達をする。レオはふうん、と顎に手を当てて首を捻った。背筋の凍るような声だった。そのあまりの酷薄さに夏目がはっとして顔を上げる。
でももう遅い。
『そっか。じゃあ、仕方ない。力尽くでも――こうするしかないな』
レオは冷淡に微笑み、大きく唇を開くと歌を歌い始めた。
それは切々とした愛を歌うラブ・ソングだった。身を焦がすような想いを綴る、悲恋の歌だ。まるでポスト・アポカリプスに残された恋人の片割れが書いた詩みたいな。二度と叶わない恋を綴った、【破滅の歌】……。
『嘘……馬鹿ナ、何なのその歌ハ! 有り得なイ!!』
美しいアルトの歌声に晒されながら、夏目が真っ青になって叫んだ。管理権を委譲され、中枢に接続することが出来る夏目は、箱庭の自浄作用と維持も務めている。その夏目が、よりによって内部からのウイルスで破損させられるなんて――あってはならない事態だ。
『月永センパイは確かに作曲の天才ダ、息をするように曲を紡ぎ上げル、だけどそれは現実世界でだけの話……! この世界のAIは、新規概念の創出を許諾されていなイ! ましてや他のAIを殺す手段なんテ……』
だけど実際にレオはウイルスを完成させ、それを歌の形にして起動している。効果の程は夏目の存在をもって今まさに実証されており、反論の余地がない。
夏目は舌打ちをした。まさか。そんなことがまかり通っていいはずがない、でも、
『ああそウ、そういうことカ! ぬかったヨ――あなたは『本物』なんだネ、月永センパイ。オリジナルのボクが思考ルーチンを与えたプログラムじゃなイ、アバターを間借りしタ、本来ノ――』
言葉は、そこで途切れた。
夏目の身体から表皮のテクスチャが剥離していく。中身の黒い粒子が露わになり、ボロボロと零れ、天へ召されて消えて行く。
『……。おまえがそれを知る必要はないよ、魔法使いの小僧』
レオが歌を止め、独り言を零した時には、もう、逆先夏目が生きていた証はどこにもなかった。死体一つ残らず完膚無きまでにウイルスに侵され、魂は完全な消滅を迎えた。レオは誰もいなくなったオルガンに向かって手を合わせた。黙祷を捧げ、そして最後に騎士の一礼をする。
『ごめんな、魔法使い。おまえを真っ先に殺したのは、おれなりの敬意の表れなんだ。この世界は存続してちゃいけない。だからおれはみんなみんな、殺すけど。だけど信じてくれなくていい、誰もゆるしてくれなくたって、それでもおれは、愛したみんなをあらゆる痛みから守ってあげたいよ……』
振り返ったレオの目は、悲しみに濡れていた。そこで再び映像は途切れ、ディスプレイいっぱいに砂嵐が映り込んだ。今度は嵐がひゅうひゅうと荒い息をつく番だった。気管がおかしな音を立て、今にも呼吸不全で倒れてしまいそうな紫色のくちびるをしている。
「つ、かさちゃん、いって、」
嵐が言うのと同時に、司が躍り出てディスプレイを撫でた。嵐の手が泉から離れ落ち、残された司の手は、酷く震えている。それでも彼は続行を選び取った。日々樹渉が掛けた最後の魔法を、繋ぐために。
みたび、映像が始まる。場所は先ほどと同じ、塔のどこか。オルガンが安置された部屋で、凛月と嵐と司が地を這っている。
『王さまっ……あなたねえ、自分が何を言っているのか、ちゃんと自覚しているのかしら!?』
重力に押し潰されるように身体が床に縫い止められている中、頭だけを上げて必死の形相で嵐が叫んだ。凛月と司も嵐同様、抗ってはいるものの、そこから起き上がれないでいる。
『うん、ごめん。知ってるよ。それでもおれはおまえたちを――おれの騎士たちを真っ先に殺す。それがおれの愛だから。おれがおまえたちにしてやれる、最初で最後の愛情表現だよ』
『ふざけないで。全っ然、納得できない。言ってること、支離滅裂にも程がある……! だいたいさあ、セッちゃんは? それセッちゃんにも同じこと言ったの? それとも怖くて先延ばしにしてるわけ? はっ、最低の臆病……!!』
『……そうだな。おれは最低の臆病者だよ、リッツ。このことを話すのは、リッツたちがはじめてだ。管理者にも全容は言ってないし、あとは他の誰にも明かすつもりはない。おまえたちに端っこだけでも伝えたのは、まあ、おれなりのけじめかな。セナには、何も言えなかった。こわくて……あいつに『やめろ』って言われたら、おれ、そこで立ち止まっちゃいそうだったし』
『Leader、あなたまさか、瀬名先輩に何を、』
『うん。あいつのことは、もう殺したよ』
とっくに済んでるんだよ、おれは卑怯者だから。レオが儚く笑う。乾いた笑みは痛ましく、見ているだけで心臓を掻きむしられたみたいな最低の気持ちになる。
『音楽室で……曲書いたから歌詞つけてって頼んでさ、……そんでその場で歌って、終わりにしてあげた。セナには一秒たりとも苦しんだり悩んだりしてほしくなかったから、なにも考えなくていいように、すぐ殺した。おれはひとりぼっちになって――はだかの王さまに立ち戻って。そしたらもう、後戻りは出来ない』
レオが蹲り、順々に三人の顔を撫でていく。温かな手のひらは、しかし誰よりも冷淡な、死神の指先でもあった。レオは優しく慈しむように凛月と嵐、司の額にキスをした。それはかつて彼の頭に忠誠のキスを捧げてくれた騎士たちへの、王からの返礼だった。
『ごめんね、愛してるよ、おれの子供たち』
レオが泣きそうな顔で歌った。
三人が息絶える、最後の瞬間だった。映像はそこでまた砂嵐に変わった。今度はもう次がない。
泉は立ち上がり、まだ繋がれたままの司の手を辿った。司は苦しそうに呻き、脂汗を垂らしていた。泉はその身体を思いっきり抱き寄せた。氷を抱いているみたいに冷たく、綿雲より軽く、質量がない。
「かさくん――かさくん! しっかりして、ほら深呼吸して、ねえ息が必要なら、俺が分けてあげるから……!!」
「……いいえ、いい、です、平気ですから。ねえ、おわかりに……なったでしょう? 私たちは、元から死人です……幽霊、なのですから、」
「そんなのどうだっていいよ! ねえ、あんなの見せられたら、俺だっていい加減気付くよ。あんたたちがここまで俺についてきたがったわけ。日々樹が掛けたとかいう、最後の魔法の意味……」
はい。司が囁く。凛月と嵐も、苦しそうな顔で床に倒れている。顔は土気色で、生気がなく、足下が透けている。
司が泉の頬へ手を伸ばし、弱々しく微笑んだ。
「せなせんぱい、の、痛みとか。かなしみ、とか……苦しみ、とか。りーだー、に、会うために、枷となるもの……それを、わたしたちへうつしとる。それが、ひびきせんぱいがかけてくださった魔法の……正体。わたしたちが支払うべき、対価……」
「あんたたちどこまで馬鹿なの。なんで俺のためなんかにそこまで……」
「……それは。愛しているから、ですよ」
泉の苦しみを腑分けされた末子が、母の愛に報いるように、あまりにも軽い指先で、泉の目頭を拭う。
「愛しているから……だから。あなたが望むのであれば、ちゃんと、会ってほしかった」
そのためなら何も惜しくはありません、と司が言った。
それきりもう、司は目を開かなかった。
残された違和感の正体が、少しずつ紐解かれていく。どうして零が凛月に声を掛けなかったのか。宗が一つしか椅子を用意しなかった理由。奏汰が人間の定義について訊ねたわけも。
凛月たちの姿は、最初から泉にしか見えていなかったのだ。
彼らは魂だけの存在で、何らかの要因で辛うじて存在を取り留めていた。そのせいで一度は散り散りになっていたが、泉が目を醒ましたことにまず凛月が気付き、泉を守るため、集まった。
一応死人のルールも適用されるので、言えないことも多かったし、干渉出来ないことも多い。それでも泉が一人で世界を彷徨うよりはずっと助けになったし、何より、心の支えになった。彼らがいなければ、泉は塔に辿り着くより前に自我崩壊を起こしていただろう。
「ねえ、セッちゃん。俺ね……王さまに殺された時、本当はね、セッちゃんが死んでないって、知ってたんだぁ」
血の色をした瞳を力なく見開き、凛月が囁く。手を握ってやると、ほっとしたような顔をする。
「なんでかは、知らないけど。たぶんあのひと、セッちゃんを、殺し損ねたんだ。音楽室に……セッちゃんが寝てるのを見て……。なんだかすごく、嫌な予感がした。だから俺、予め……日々樹渉に、交渉しておいたの。本来の魔法使いが機能していないことに、気付き始めていた奇術師は……俺のお願いを呑んでくれた。――死んでも俺たち三人の魂が残るように。魂のままセッちゃんを捜して、連れて行ってあげられるように。……まあ、その反動で日々樹渉のほうは、とうめいになっちゃったみたいだけど」
セッちゃんがいつか目覚めた時、何もわからないまま王さまにやられるなんてごめんだからね。せめてここまで守ってあげられてよかった、と凛月が言った。
「ごめんね、ほんとは、一緒に文句の一つぐらいつけてあげたかったんだけど。だけどもう、力が入らない。幽霊なのに、心臓が弱ってく音が聞こえるんだ。悪い冗談みたい……」
「くまくん、もう、いいから」
「んふふ。吸血鬼は存外、おしゃべりなので〜。最後まで、めいっぱい内緒話をしちゃう。セッちゃん……確かめて、あのひとが何をしたかったのか。それで許せなかったら、謀反とかしちゃえばいいんだよ。だけどもし、恨めないなら、」
キスしてあげてね。あのひとは寂しがりだから、一人でこんな大それたことやらかして、もうきっと全身ボロボロに違いないよ。
それを最後に、凛月のまぶたが閉じられる。安らかな死に顔。幽霊の身体が透き通って消えて行く。
「泉ちゃん、忘れないで」
それをじっと見ている余裕もなく、最後に、嵐が口を開いた。
「アタシたちずっとあなたと一緒よ。たとえ世界が偽物で、アタシたちがプログラムされたAIだとしても。それはずっと変わらない。そこに魂が宿っているのなら、きっとそれは、人間足りうるのよ」
零が墓を作り、宗が子供たちを美しく着飾らせ、奏汰が家族を守り続けたように。電子の容れ物もいつか魂を得ることが出来るのならば。
魂は存在する、王さまの中にも、泉ちゃんの中にもね。
嵐が微笑む。唇はチアノーゼを起こして真紫で、こんなに苦しそうなのに、それでも最後の顔は今までで一番美しいのだから――鳴上嵐という男は魂から全部、根っからのモデルなのだ。
「……馬鹿だねえ、おまえらも」
誰もいなくなったモニタールームで、泉は一人へたり込んだ。ディスプレイに映る砂嵐がぷちりと消え、画面がブラックアウトする。するとそれを合図に、奥の扉が静かに開いた。そこからまた螺旋階段が伸びていて、遠く上へ繋がっている。
真実の扉か。趣味が悪いなあ。
泉は腫れぼったい顔を拭ってゆっくりと立ち上がった。コンディションは最悪だが、まだ動ける。足は透けてないし心臓も動いている。
ショック死しちゃいそうな映像ばっかりだったのに、辛い気持ちを全部引き取っていった馬鹿が三人もいるから、まだあいつに会いに行く力が残されている。
「なら俺もその愛に報いるよ」
左胸にそっと手のひらを置いた。消えてしまった三人の何かが、まだそこに残っているような気がした。魂という魂が死に絶えた0と1の世界で、それでもまだ守りたいものがある。
「会ったら殴ってやろうかな……」
泉は螺旋階段に足を掛けた。この世界の管理者に何を言ってやろうか。まだ決まっていないけれど。とにかく早く会わなくちゃ。その一心でひたすら塔を登り続けた。