硝煙とママレード



 思い出話を、一個だけしようかな、って思う。


 身体が重力に逆らい、どんどん高くへ登っていく。世界がフライパンから放り投げられた目玉焼きみたいに引っ繰り返る。ああ、地面が遠い。カイが遠い。ソルも遠い……。
「痛って――!!」
 思いきりぶん投げられたオレの身体が天井に激突する頃、カイは無造作な回し蹴りを鳩尾に喰らって床に転がっていた。衝撃やその他諸々に耐えられるように設計されている(らしい)修練場だけど、流石に人間が天井までぶっ飛ぶ想定にはなってないみたいで、剥き出しの鉄骨が、布越しだってのにもかかわらず、オレの皮膚を豪快に抉っていく。
 ああ、これ、皮膚がべろんっていくぎりぎりのやつ。オレは歯を食いしばって痛みに神経を集中させた。血が流れて背中へ急速に広がる生温かい感触。その場所をめがけて回路が繋がる、みたいな、錯覚。オレの右目から背中へ。脳味噌からつま先へ。身体中の細胞が活性化して、そして、背中の熱が頂点に達する前に冷めていく。オレの身体じゅうに宿る修復機能が、「重大すぎる破損」を治したのだ。
 ……あのヤロウ。最初から、わかっててオレのほうを天井めがけてぶん投げたな。
 カイがいる前でギア細胞の自己治癒が発現するまで痛めつけるとは、酷い自称師匠もいたもんだ。
「もう、怒ったからな……!」
 オレは腹の底から叫び、怒り半分、ワクワク半分ぐらいで、地上めがけて勢いよく天井を蹴り飛ばした。

 事の起こりは、まあ、いつものやつだ。カイがソルを捕まえて手合わせを申し込んでいた。ソルはすっかり「うげえ」という顔をしきっていて、大体いっつも、そういう顔した時は何かと理由を付けてカイを煙に巻こうとするんだけど、今日はその前にオレが通りすがってしまったので、勝手が違った。
「いいぜ。シンと二人がかりで……なら、相手してやってもいい」
 ソルがにたりと笑ってそんなことを言う。間違いなくろくなこと考えてない時の顔だ。オレは喉まで出かかった「うへえ」という言葉を吐き下しそうになりながら飲み込んだ。隣にいる、オレより小さくて華奢な、オレを兄みたいなもんだと思っているらしい十四歳のカイが、どんな顔をしてオレを見ているのか……それは火を見るよりも明らかだった。
「シン」
「はい……」
「やりましょう」
「うん……」
 いいですか、でも、どうですか、でさえない。オレに選択の余地はなく、ただ、承諾をするしか道がなかった。
 うーむ。オレの父さんだったら、こういう時はオヤジの我が儘、止めてくれるのになあ。いやそんなこと言ったって仕方ないんだけど。結局父さんもオヤジに流される時はあるって母さんが言ってたし。まあ、それはそれとして、この年頃のカイは、頑固なのだ。それに負けず嫌いだ。そしてそれを、大人になった後みたいに棚にしまったり隠そうとかは微塵も思っていない。
 ただひたすら、真っ直ぐ頑固で強情っぱりだ。しかも無痛病の気がある。痛くても痛いと言わないし、大けがしても大したことないって言うし、人がいっぱい死んでも上手に泣くことが出来ない。だからオレもカイのことはすっげえ気にかけてるし、ある程度は望みを叶えてやりたいとも思うけど。
 だからってさ。ソルがそれを悪用するのは、ちょっとどうかなって思うわけだ。
「いい気になんなよ! これでも喰らっとけ!!」
 加速した衝撃を乗せ、剥き出しになったソルの右肩めがけて得物を突き込む。同時に、フェイント込みで雷を三発。でもそのどれもが効果を発揮しない。ソルは左手でちょちょいとオレの旗を止めると、右手でだるそうにオレの法術を対消滅させてしまう。
 あー、くそっ! もうちょっとだったのに。この「対消滅」ってやつをされると、オレはどうも困ってしまう。だってやり方わかんないし。何撃っても消されちゃうし。そっから先、どうしていいかわかんなくなっちゃう。
「おら、どうしたガキ共。遊びはもう終いか? 特にそこでくたばって伸びてる坊や。シンなんか天井にぶっ飛ばされて健気に帰って来てるのになあ」
「うるさ……い……! もう、すぐ、起きられます……!」
「あ、おいカイっ! 無茶はすんなよっ。マジできつかったら、無理して動かない方がいいって!」
「平気です、痛くないので。……それよりこのままじゃ、私のプライドが許さない。というより、あの男をのさばらせるという現実に耐えられない。勝負にのってくる以上、あれは何かを企んでいるんです。それだけは……止めなければ」
「か、カイ…………――へぶっ!?」
「阿呆。よそ見してる場合か」
 後ろを振り返って悠長に会話しているオレの頬に拳骨が飛んでくる。慣れたものより僅かに重い拳。ああ、過去まで来て思い知るのが、オレを育てている最中のオヤジは、それでも教育的一撃に手加減の配慮をしていたってことだなんて。どっちにしろ痛いのでめちゃくちゃ複雑な気持ち。
「っ、くそ〜っ、……なんてな! 隙ありっ!!」
 後方へ吹き飛びそうな身体を足腰立てて大地へ踏ん張らせ、カウンターで肘鉄をぶっ込む。それからオレはカイの方へバックステップで戻り、唇を伝う血を拭った。背後からカイの詠唱が小さく聞こえる。傷と痛みが多少和らぐ。カイの治癒法術の腕は本当に大したもんで、ワンフレーズさくっと詠唱しただけで、生傷の大半はすぐ治ってしまう。
 そのことを、クリフのじいさんは第七法階の天才なんだって表した。ソルはその次に顔をしかめて病気だって言った。オレはそのどっちでもないと思っている。カイはこう、単にさ、真っ直ぐ頑固で、諦めが悪いのだ。
 だから粘り強く戦うために怪我を治すのがうまい。そんだけ。
「は〜……やっと一発入った。肘だけど」
「肘が一番強いんですよ。肘が。関節は重いんです。それより、怪我は大丈夫ですか。……よくがんばりましたね」
「あー、まあ。カイの方は平気か? もう立てる?」
「本当は、結構前から。倒れてるふりして、地面に補助式書いてました。一発お見舞いするとしたらこれしかないですよ」
「……こわ……」
 ひそひそと小声で話し合い、作戦会議。ソルはオレたちのほうへ迫っては来ず、ふわあ、とあくびしながら様子を伺っている。実のところ、二対一の手合わせが始まってこっち、ソルは一歩も動いていないのだ。オレがいくら得物を撃ち込んでも、カイが法術ぶっぱなしても、微動だにしていない。
「あそこから動かしさえすれば今日は勝ちなんですから、今に吠え面かかせてやるんですからね」
 カイが熱の籠もった恨み言を呟いた。あまりの気迫にちょびっとビビりそうになるけど、まあでも、こうなっちゃうのはしょうがないとこがあるって知っているので、止めることも出来ない。
 確か今のところ、カイとソルの勝負は、六十五敗一勝。しかもその貴重な一勝は、不意打ちでソルの足を刺し、動揺したところを正面からの頭突きでノックアウトしたとかいう勝利の仕方なので、カイ的にはなかったことになってるっていう幻の一勝だ。
 オレは呼吸を整え、ないなりに頭を捻り、カイの詠唱を支援する方法を考え……そしてすぐに結論を出した。
「――カイの詠唱完了に合わせてオレがソルの腹にまっすぐ激突すっから、オレごと巻き込んで一番派手なやつ撃ってくれ」


◇◆◇◆◇


「また派手にやらかしおって」
「ごめんじいさん……」
「ごめんなさいクリフ様……」
「一番はお前さんに言っとるんじゃ」
「………………悪かったよ」
 チッ、と唾を吐きかける勢いで不承不承ソルが言う。カイがむきになって、「ソル! なんて態度を取るんですか! そもそもあなたには敬意というものが常日頃から不足していて……」とかなんとか突っかかっていったけど、オレにはそんな元気はなく、ただぼんやりと、(ソルもクリフじいさんにだけは謝るんだよなあ)みたいなことを考えている。
 あの後。地面にずらずら書いた補助演算式まで使った超巨大な法術は、発動すると修練場じゅうに小規模な天変地異を引き起こした。まず建物がぐらぐら揺れ、続いて何も無いところから水が巻き起こり、かと思えば暴風が吹き荒れ、終いには天井から流星群のように雷が降り注いだ。
 あまりのことに、それまで調子こいてたソルも流石に豆鉄砲喰らった鳩みたいな顔をして対抗式の詠唱を始めた。ソルが詠唱までして法術を使うなんて滅多にない。その時点でまあまあ勝ちみたいなもんではとオレなんか思うわけだけど(事実、オレはオヤジとの手合わせでオヤジに詠唱まで持ち込ませたことが一回もない)、ソルが陣取ってる場所から動かない限り最初に決めたルールの上では勝敗に結びつかないし、カイは形式に対するこだわりがものすごいから、そのぐらいで手を緩めたりは絶対してくれない。
『左手に懲罰を、右手に愛を、私は平和の器となり、主の慈愛を伝えるでしょう。――天罰です!!』
 詠唱の終わり際、やけくそみたいに駆け出して全身でソルに体当たりをぶちかます。いや、それにしたって、天罰って。とんでもない名前の法術を使うもんで、オレも流石にびっくりしてしまう。そりゃ、空から雷がこんだけ降ってきたら、法術のわかんない人間には天罰に映るだろう。威力も結構ひどい。流石に命まで持ってかれそうな感じじゃないけど、模擬戦闘で使うにはぎりぎりな規模の術式だってことぐらい、オレにだって分かる。
 歯を食いしばり、必死に意識を繋いだ。オレにタックルかまされながらも対抗詠唱を止めないソルの見上げた根性を、無情に光の雨が貫いていく。ついでにオレも。
 で、一秒おいて、修練場全体を巨大な爆発音と煙が包み込んだ。事の顛末はこんな調子だ。
「まったく。修練場が使い物にならなくなったらどうしてくれるんじゃ」
「ごめんなさいクリフ様……頭に血が上って冷静な判断を欠いてしまいました。私の不徳の致すところです……」
「ソルもあまり軽はずみな挑発はよせと言っておるに。この子が本気を出したら今回の騒ぎじゃ済まされんのは、お前さんよく知っとるだろうが」
「まあな。団の敷地ごと吹っ飛ばすぐらいは軽いだろ」
「分かっておるならやめい。……で、何がしたかったんじゃ、結局のところ」
 クリフじいさんが険しい目つきでソルを睨む。そうだそうだ、言ってやれじいさん。ソルが何か企んでカイの申し出を受けたのは、百パー、事実だからな。
 ソルはうっと小さく呻くと、クリフじいさんから気まずそうに目を逸らす。返事に困っている。叱られるのを嫌がる子供みたいに、小さく唸り続けている……。
「……坊やの誕生日だろう、そろそろ」
 そうして、たっぷりとした無言に耐えきれなくなった頃、ソルはしどろもどろに白状した。
「はあ? なんて?」
 オレは思ってもみなかった切り返しに、大分間抜けな声を出した。
「坊やの誕生日。だろうが。確か。だからなあ、たまにはがっつり勝負に乗ってやったら、この小うるさい坊やも、多少は喜ぶんじゃないかと……」
「お前さん、そいつは本気で言っておるのか? 修練場を半壊にしておきながら?」
「うるせえ。精々びりびり飛ばしてくるぐらいかと思ってたんだ。あの『女神』を出してくるとかそのぐらいかと。まさかこんな天変地異みてえなまねをしでかすとはつゆほども……」
「ソル……ライジング・フォースは本来的には人を守るための法術なんですけど……」
「戦意喪失レベルの結界じみた雷をぶつけてきたら攻撃も同然だろうが。……さておき、それが本当のとこだ」
 唇は尖り、眼差しは右往左往していて、大分ぶすくれた調子だけど……別に嘘があるようには見えない。
 じいさんもオレも、当のカイも、すっかりぽかんとしてしまう。そんでまじまじとソルを見続けると、ソルが居心地悪そうにもぞもぞ姿勢を直す。ものすごく嫌そうだけど、逃げ出さないのは、一応反省の気持ちを持っているからか。
 とにかく、ソルはばつの悪い顔でオレたちのガン見攻撃に耐えた。オレがソルと出会ってから今まで、一番頑張ったんじゃないかなってぐらい、我慢していた。
「……ねえソル、私の誕生日を気にかけてくれたのは嬉しいですけど」
 二度目の沈黙を破ったのは、カイの柔らかい声。カイの微笑みは、つい三十分も前は「今に吠え面かかせてやるんですからね」とか言っていた相手に向けてるとは思えないぐらい自然であどけない。
「それで、何か私を喜ばせようとしてくれたのも、嬉しいですけど。それなら私に直接聞けばよかったのに。何がいいか、って」
「聞いたところで、『本気の手合わせ』だとかなんとか抜かすのは、分かりきってるだろ」
「そんなことないですよ。それに今日のだって、ソルは全然本気じゃなかったでしょう。おまけにシンと二人でだったから、なんかやっぱり、ハンディキャップが大きいというか……ずるい戦い方だったような気がするし」
「あれぐらいでちょうどいいんだよ、テメェは人間なんだから」
「あなたも人間ですよ。……それより」
 カイがソルの手を取る。ソルが観念したように首を振る。オレは他人事みたいに二人の遣り取りを見ていた。聖騎士団に来てからこっち、ソルとカイの遣り取りは何もかも見たことのない騒ぎの連続だったけど、そうしていると、オレの知っている父さんとオヤジの何気ない会話が、どこか近しいような気がする。
「それより私は、ママレードが食べたいな。あなたと私の支給金を合わせれば、砂糖とオレンジが余分に手に入るでしょう。作り方も知っています。戦時中に十五歳の男の子を祝うには、そのぐらいささやかなご褒美が相応しい」
 カイが笑う。
 父さんがオヤジに時々向ける、どこか悪戯めいた笑い方をしている。


◇◆◇◆◇


「あの時は悪かったな」
 冬の初めの頃。霜のついた枝葉が月明かりに照らされて窓の外に見える、そんな夜。ソルがぼんやりと言う。あ、昔の話か。オレは手札をシャッフルしてソルに差し出しながら、適当に相づちを打つ。
「ああ、うん。あの時っていつ?」
「ママレード騒ぎの時」
「あ〜……カイの誕生日の時」
 よれよれのトランプを真剣ににらみつけ、オレの手札から一枚を引き抜いてぼそぼそと言った。ハートのクイーンとクローバーのキングに挟まれたジョーカーを引き当て、ソルがうげっと顔をしかめる。そのはずみで口に挟んでいた煙草がぽろりと落ちた。下着から剥き出しになっていた毛むくじゃらの太ももにそれが当たって、じゅっと軽い火傷を作り、でもすぐに治って消える。
「はい、ソルの負け。……ってか、煙草へーきか?」
「見てたろ。もう治ってる」
「や、まあ、そうなんだけど……」
 ぼりぼり頭を掻いてから、思い出したようにトランプを集めて箱に戻した。オレは珍しく夜に自室を抜け出し、隣のソルのところに遊びに来ている。街の巡回をして帰ってきたカイが早々に就寝してしまったので、やることもないし暇だしで、トランプを持ってオレから押しかけたのだ。
「まあなあ。あん時ソルさあ、オレを天井にぶっ飛ばしたの、わざとだろ? 自己治癒が出るようにさ。あれはちょっとひでえなって思ったけど」
「浮かれてついな」
「嘘ばっか。あんた、別に加虐趣味とかないだろ」
「そんな言葉どこで覚えた」
「あんたがカイに言ってたんだよ」
 正確には、「自分をいじめ抜くぐらいの勢いで傷だらけになりながらギアを討つカイに対して」、だ。
 オレが嫌味っぽく言ってやると、ソルの眉間に皺が寄る。
「もののついでに、テメェを試そうと思ったのは事実だ。少々興が乗りすぎた。恐らくは互いに、だ。……が、怪我の功名でわかったこともある」
「なに?」
「あの坊やが人間に対峙する時どのくらいリミッターかけてんのかって話だよ」
「ああ……」
 それからぽつりと漏らされた言葉に、オレは小さく頷いた。
「俺を一歩でも動かせばいいっていうルールに対し、坊やは驚くほど正攻法で攻めてきた。北風と太陽でたとえるなら、太陽のやり方を選んだわけだ。フェイントでテメェを置いて、それごと動かざるを得ないほどのエネルギーをぶつける。言うまでもなく非効率的の極みだ」
 そうだな、とオレは目頭を伏せた。
 ソルの言うことはすごく正しい。戦争をする上で一番大事なのは、いかに「最小の犠牲で」「最大の成果を上げるか」。犠牲は最小じゃなくちゃいけないから、本来は命を捨てて特攻しちゃいけないし、リソースの消耗も最小限じゃなくちゃいけない。百の敵に百のエネルギーをぶつけるようじゃ、戦争屋としては最底辺。聖騎士団に放り込まれて一年近くが経ってくれば、誰だって嫌でもわかる理屈。
 だから確かに、その意味じゃ、あの時のカイの戦い方は下策中の下策だった。あんな大技撃ったら、あとのことは一切保証できない。討ち漏らせば確実にカウンターもらって死ぬし、討ったとしてもその次の作戦行動へ移れない。どっちに転んでも死んでしまう。
「もし俺がギアだとわかり、坊やが人間の情を棄てていたら。あの時どう行動したと思う」
 ソルが静かに問いかけた。
 オレは迷いなく答える。
「まずソルの四肢を潰す。先に足かな。動かれる方が厄介だから。次に手。ソルは詠唱が出来るから、ついでに喉も焼ききっていくと思う。で、最後に心臓抉って終わり」
「法術基礎理論でもそのぐらい完璧な回答を出せねえのか」
「うるせー」
「まあ、ともかくソイツで百点満点の正解だ。まったく、ママレードみてえなやつだよ。本質がしっちゃかめっちゃかで原形を留めてねえ」
 煙草を咥え直し、窓の外へ視線を動かしてソルがぼやいた。オレはつられるようにして窓の外を追った。しんとはりつめた夜の空気以外、そこには何も無かった。
 ――騒ぎが起きた後、オレたちは本当にママレードを作った。
 マーケットで大枚はたいて配給余剰の砂糖とオレンジを買い付け、その結果ソルは一ヶ月間安酒と煙草を我慢するはめになった。買い物が終わったら厨房を占拠し、カイが読み上げるレシピに従ってオレンジの皮を剥いたり下ごしらえに精を出したりした。
 出来上がったママレードは、砂糖が少なかったせいでちょっとだけ苦みが強い。それでもカイは大喜びして、「一生の思い出になりますよ」とか、嬉しそうに笑っていたんだっけ。
 そんな心温まるエピソードをさして「ママレードみてえにしっちゃかめっちゃか」なんて。言いたくなる気持ちが理解出来ないわけじゃないにしろ……ちょっともの悲しいとこがあったり、なかったり。
「カイは必死なだけだよ……」
「そう、己より、正義とかいう曖昧な旗頭にな」
「……そうかもしんないけど。あの頃は……まあ、オレがギアだってばれたら、やばかっただろうな。その場で四肢と喉をやられて、死んでたかもしれない。でも今は、そうじゃないってオレは信じたい。オレたちもう一年ぐらい一緒に暮らしてるんだ。だから今なら、オレは修練場の天井で背中ぜんぶ抉られても、平気だよ」
「やめろやめろ、テメェまで病人みてえなこと言い出すのは」
 ソルの視線が窓の外からオレの顔へ戻ってくる。オレの視線もソルの方へ戻る。ヘッドギアの下の瞳は僅かに金色がかり、ある種の高揚を示していた。オレが遊びに来る前に、酒でも飲んでたのかもしれない。或いは、明日オレたちが行く場所が、オレには報されてないけど、相当な激戦区なのか。
「あの時作ったママレード、確かにちょっと砂糖足りなかったけどさ。でも甘かったよ。オレはそういうの、信じてたいから」
 密やかに、けれど確かに告げると、ソルは「そうか」とだけ答える。それからソルが煙草の煙を吐き出す。あたりが安っぽいタールの臭いに包まれていく。
 小さく深呼吸をすると、肺の奥へ染み込むように、ソルの安煙草とありもしないママレードの味が口の中で広がった。
 オレたちが作ったママレードは、確かに苦かったかもしれない。子供のカイの生き方はめちゃくちゃで、自分を大事にしてなくて、ギアに対して容赦が無くて、ソルには恐ろしいかもしれない。知ってる。知ってるんだ。ソル自身オレにそう話すし、オヤジも、オレが大きくなってから時々言ってくれた。でも苦くてどろどろに溶けてるだけがママレードの全部じゃない。
 でもさ。
 カイは平気だよ。ちゃんと大人になって母さんと結婚してオレが生まれるよ。
 そう続けると、ソルが訝しげに顔を歪める。オレは月明かりを背中に浴びながら「ほんとだよ」と囁いた。ママレードは甘い。いつかカイは致命傷を塞ぐ化け物の身体を見ても剣を抜かなくなる。オレはそんな未来を信じて、勝ち取るために今戦ってるんだよ。本当に……。
「いつか砂糖の味を思い出したら、信じてやるさ、そんな夢想も」
 オレの目を見て、ママレード・ジャムを飲み込んだ後みたいな顔をしながらソルが呟いた。
 オレは立ち上がると、ソルにおやすみをするために手を振った。ママレードの思い出話はこれで終わりだ。




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