黙示録の騎士はまだ来ない



 抉れた傷口がみるみる間に塞がっていく。土手っ腹に空いた大穴、そこから覗いていたピンク色の臓物たち、ひきつれた繊維、どろどろと流れ落ちる鮮血、それら全てを上塗りするように、ボコボコと肉が盛り上がって再生する。
「……見られてしまいましたね」
 カイが呟いた。気まずさが大方で、残りは、なんとも言えない、悲しい声音で出来ていた。
「……カイ」
「ええ、まあ、見ての通り、です」
「ギア……なのか?」
「そうですね。あなたと私の眼を交換した、あの時から。少しずつ……私の身体は蝕まれ、もう人と呼べる存在ではなくなってしまったんです」
 言葉がぎこちない。油の切れた機械のように、ギ、ギ、とこすれた音でも立てていそうな動きでカイが振り返る。父の双眼がシンを見ている。シンは息を呑んだ。シンのまわりの人間たちが口々にきれいだと褒めそやす海色はもうどこにもなかった。カイは深紅のひとみにシンを映していた。深紅。血のようにあかい。
 シンと同じ色。
「……オヤジがキレるぜ」
「でしょうね。知ってる」
「あと、イリュリアの兵士たちが見たらソットーしちゃうと思う」
「見られたくないな……」
「オレも……オレも、ちょっと、びっくりした、かも……」
「そうでしょう。謗っていいんですよ、シン。私はこのことに関して、誰に赦しを請うつもりもありませんが。私を人間だと信じてくれたひとたちを裏切ったことへの糾弾は、甘んじて受けるつもりで…………シン?」
 シンは一度唇を噤んだ。そして父親の身体をその手に引き寄せる。急激に身体を引かれ、カイはバランスを崩してシンの胸にぽすりと顔を埋めた。そのまま、息子の力強い手のひらがカイの背をがっしりと支える。
「シン……」
 ふたたびカイが名を呼ぶ。シンは、カイを抱きすくめたままふるりと首を振った。それからカイの耳元に唇を寄せて、こわごわと小さな声で、囁いた。
「びっくりした。びっくりしたんだ。でもオレ……ほんとのこと言うと、カイがオレと同じになってくれてちょっとうれしい」
「……どうして」
「だってオレ、ずっと怖かった。オヤジはギアで、もう百五十年ぐらい生きてる。母さんもギアで、オレもギアで、だから人よりずっと長く生きる。生きなきゃいけない。でもカイは……カイは人間だと思ってたから。あと五十年も、生きられるかわからないと思ってたから……。
 ごめん。オレ、変な事、言ってるよな。でもうれしいのはホント。カイがギアなら。これでもう、ずっと、一緒の時間を生きられるって」
 震えるカイの身体を、逃さぬよう強く抱きしめた。シン=キスクは、物心ついて己が生まれながらにギアであり、長命種であり、そして人間とは儚い生き物だと教えられた時から、それが恐ろしかった。赤子の手をひねるように脆く人の命は終わってしまう。心臓を撃ち抜かれたら死ぬ。あっという間に歳をとり、身体は衰弱していく。けれどギアの成長速度は人のそれより遙かに遅い。
 ソルは未だに若々しい姿を保っているが、多くの死をその手で看取ってきた。だから彼は時折冗談めかしてこう言った。「いつかカイは俺より早くじいさんになる。そして俺を置いていく。かつてクリフ=アンダーソンがそうしたように」。
 その話を聞く度に、シンは心臓が縮み上がるような心地を覚えた。父を嫌っていた頃は、自分の知らない所で勝手に死なれるなんて最低だ、到底許される行為じゃない、オレの気持ちも知らないまま死ぬなんて、と身勝手に憤って見せた。しかし父と和解してからはそれはもっと根源的な恐怖に成り代わる。即ち大切な人を失う恐怖。老いさらばえていく父の隣で若々しい身体をもてあますことへのぞっとしない感情。「オレはやだからな」。度々シンはソルにそう叫んだ。「やだからな。しわくちゃになったカイの手を、今と同じ顔して握らなきゃいけないなんて。やだからな……!」。
 しかしソルはそれを聞く度にシンのことを鼻で笑った。ばかだな、カイは人間なんだから、そうやって子供に見守られながら老いて死んでいくのが、幸せなんだよ。俺はカイより先に逝ってやれねえからな――。
「なあ、カイ。オレはいけない子供なのかな?」
「ああ、シン、そんな、」
「カイと一緒に生きられることを喜ぶオレは、悪い子かな。オヤジはいつも言うんだ。カイは人間だからって。人間じゃなきゃって。でもオレ、わかんないよ。人間だとかギアだとか、そこに何の違いがあるんだろう。ギアになってもカイはカイで変わりないじゃん。抉れた肉が再生するのだって、死ににくいってことだろ、いいじゃん。だってオレはカイに生きててほしいから。死なないで欲しいから。家族に生きて欲しいって願うのも、悪いことなのかな……」
 シンの肩が震える。傷がないのに血だらけの服を着た父が、そんなシンの身体を抱きしめ直す。カイの身体はなまぬるい。一度死んだ人が起き上がったから。やはり本当は、カイはここで死んでいなければいけなかったのだろう。少なくとも心臓は一度動きを止めたのだろう。シンはそこで考えを止める。――でも生きてる。それ以上の理由なんか、オレには必要ない。
「……ごめんなさい、シン。私はあなたの問いに、答える言葉を持っていない」
 カイが力なく唇を開いた。カイが化け物に変生したのは、シンを守るため。ソルがいくら憤り、怒ったとしても、シンのためにそうしたことだから、カイは許してくれとは言わない。そのことをシンもうっすら分かっている。ああ、このひとは、自分のために人間をやめたのだ、と。
「うん。いいよ。無理に答えなくて。……その代わりさ、カイ。オレの我が儘、一個だけ聞いてよ……」
 ふたたび、カイの手のひらを強く握り込んだ。剣だこの出来た手はそれでもすべらかで、まだしわくちゃになるにはほど遠い。
 この指先のまま生きてくれないかな。シンは思う。自分や母や、ソルと一緒に。シンがいつか年老いて墓の下に埋まるまで、永遠に……。
「オレのために人間をやめてくれたカイ、ならどうか、オレのためにずっと生きてよ」
 耳元で低く囁くと、カイが息を呑んだ。
 シンは息を吐く。恥知らずで厚顔無恥なことを口にしている自覚はある。たぶん今の台詞を聞かれていたらソルに脳天かち割られるまで殴り倒される。そういう自覚もある。ソルはカイを人間でいさせたかった。シンのよろこびをすぐに分かち合える相手じゃない。
「……ずるいことを言わないで、シン」
 カイの指先がシンの頬をなぞる。かわいた頬にぬくもりが伝播する。いつか幼いシンを抱き上げ、頬をすり寄せ、どうか元気に生きて、と祈っていた時と同じぬくもりがシンを包み込む。
「あなたにそんなこと言われて、断れませんよ……」
 だって私はあなたたち母子と生きていくことをとっくに選んでいるんだから。
 カイはそう呟き、あかく潤んだ瞳をまっすぐにシンへ向けた。