05:痛ましい儀式
イースト・エンドの薄暗い路地で赤いジャケットが翻る。その下にはお決まりのリバース死体があって、全身の皮が剥かれたことで体中の肉や血管が露になっていた。サーモンピンクの肉に飛沫する血液は新鮮で、てらてらと光っているようだった。その生々しさに、血液が意志を持って動き出して生きた人間を襲い、世界中に感染拡大していくというアメリカらしいB級ホラー映画のことをふと思い出す。
《石畳の緋き悪魔》、《魔女メーディア》、《緋色のきちがい》、《血まみれマリア》、悪魔を差す多様な名称の全てに共通するのがレッド・カラーのイメージだ。悪魔には常に赤色が付いて回る。赤が悪魔を形作る。
悪魔は赤という色が好きだった。どんなに小汚い人間でもその内には燃え滾るように美しい鮮紅を内包している。赤色は裏切らない。血は悪魔を失望させない。
だが、いやだからこそなのか、その血が乾いて変色した赤茶色のことは好きではなかった。あの薄い色彩は死んだ色だと思う。生命力が欠片もない。愛する死体があの色になることを、恐れているからかもしれない。
《九番目のハインツ》、悪魔に狙われた哀れな九人目の被害者は七番目のようにみっともない命乞いをしなかったが、八番目のように好奇者でもなかった。彼は臆病で小心者だった。
ホールド・アップの態勢のまま一息に殺されることを静かに選んだ。
ハインツの大腸を手で弄び悪魔はぼうっと月を見上げる。満月から幾日か経ち、月は欠けていた。下弦の月が血に塗れた手のひらを晒し出すとなんだか妙に落ち着かない気分になる。
体の内部からの衝撃でリバースしている死体はいつも血を撒き散らした。だからいつもねっとりとぬめつく少年の返り血で全身が汚れてしまうのだ。赤いジャケットは赤黒く重たくなるし、元々赤いわけでもないズボンや白い肌もまばらな赤に染まる。その後死体を切り刻む右手なんて酷いものだ。どっぷりと血色に塗り込められてしまう。しかしいつものことだ。いつも、ねぐらに帰ってからそれを洗い流して真っ暗な眠りに落ちる。
だが今日は馬鹿にその赤が気に触った。急に居心地が悪くなってきてこの赤い色彩を脱ぎ捨てたい衝動に駆られる。悪魔はリチュア・デッキから一体の少女精霊を呼び出した。
「『リチュア・エリアル』、水をくれ」
寡黙な禁呪使いの少女は命じられるまま悪魔の肌に纏わりついている血液を洗い落としていく。「E・HEROバブルマン」、水属性のヒーローを呼び出すことはしなかった。ヒーロー達は主である十代に請われれば何だってやってくれるだろう。異世界で虐殺をしてくれた時のようにだ。でも悪魔はあのヒーロー達に血を洗い流させるなどという動作を命じることなんか出来ない。
「なんで急に……」
急激な居心地の悪さに思い当たる節がなく、不思議に思ってきょろきょろ辺りを見回す。すると視界の端の方にこちらに向かってくる小さな人影が見えた。靴音が響いて次第に大きくなる。悪魔は顔を綻ばせた。見知った顔は、もぞもぞとした不安の上からそれとは違う気分を与えてくれた。
「――翔」
「なんで……なんで、アニキ……」
しかしそれもつかの間のことで、すぐに嫌な空気、焦燥と不安とほのかな苛立ちとが悪魔の中に返ってくる。
「おい、翔、どうしたんだ? 顔色が悪いぜ……?」
洗ったばかりの綺麗な右手を伸ばそうとしたが、歩み寄るそばからその手のひらは叩き落とされた。久しく感じていなかった痛みが脳随に突き抜けていく。いつぶりだろうか、この痛みは。ヨハンが死んで以来であろうか。
「なんでアニキが、《石畳の緋き悪魔》なんて、たくさんの人を殺してなんかいるんだよ!」
翔の言葉が呪いのようだった。じくじくした痛みが広がって、無くならない。顔から表情が消えていくのがはっきりとわかった。辛い。苦しい。あんまりにも、痛い。
◇◆◇◆◇
「僕はね、ずっとアニキのことを尊敬してた。大好きだった。でももう、駄目なのかな。アニキはヨハンに変えられてしまったのかな」
「止めろよ翔。ディスクをしまってくれ。俺は翔を傷付けたくない」
「嫌だよ。エドと話して僕なりに考えたんだ。エドはアニキが僕を殺すかもしれないと言った。《石畳の緋き悪魔》はもうアニキじゃ、遊城十代じゃないって。僕もそうかもしれないって思って、それで話を聞きたいと思った。結果はどうあれアニキは理由もなしにこんなことをする人じゃないから」
「……翔」
十代はみるみる顔を青ざめさせてディスクにデッキを詰める翔を見ている十代の、悪魔の予定の中には丸藤翔を貢物に加えることなど記されていない。十代は首を振った。翔は悪魔の獲物ではないのだ。
だが、このままではその予定を狂わせざるを得ないかもしれない。
「デュエルしようよアニキ。兄さんがリスぺクトを廃したヘル・デュエルに明け暮れてた時にアニキは言ってくれたよね。自分の足で向き合えって。だからアニキの前にも僕はこうやって立つ。――楽しいデュエルをしようって、いつも言ってたじゃないか!」
「俺の前から退いてくれ、翔」
「嫌だよ!」
「頼むから!!」
十代は頭を抱えて、牙を向き涎を垂らす悪魔を抑えようとした。叫び声をトリガーにして十代の背からメキメキと音を立てて翼が生え出す。悪魔の、ユベルの持つ翼だ。それが伸び切るとばっと広がり威嚇するようにその姿を誇示した。顔を抑える両手のひらの隙間からオレンジとライトグリーンの発光が透けて出た。ゆっくりと剥がされた手のひらの下から出てきたのは、互い違いにてらてらと光る異形の瞳だ。これも、ユベルと同じ悪魔の瞳。
翔はじり、と後退る。ヒトが悪魔に姿を変貌させるスプラッタ・ムービーのような異常な光景に背を怖気が走った。あぁああ、という呻き声がその人の口から地を這うように漏れ出てくるこの現状が心底おぞましいと思う。まるでちぐはぐだ。認めたくない。
「翔……」
ぜえぜえと発作のような荒い呼吸を繰り返しながら弱々しい言葉を紡ぎ出す。悪魔の翼で自らの体を抱いている十代は涙を流して懇願するように名前を呼んだ。
「頭が割れてしまいそうに痛いんだ。がんがんして、手元を狂わせようとしてくる。必要以上のものを、俺を苦しめるから、壊してしまいそうになる。でも十人目の死体も十一人目の死体も、十二人目の死体もお前じゃないんだ。ここから退いてくれ。誰にも俺は止められない。悪魔は、俺にも止められない。そこを塞ぐようなら俺はもう歯止めが効かなくなって翔を殺してしまうかもしれない。でもそんなのは嫌だよ」
「ならなんで、あんなにたくさん殺したりなんかしたんだよ。僕を殺すことは躊躇うのに?!」
「ヨハンを蘇らせるために必要な犠牲だったからだよ。……もうわかっただろ翔。俺はもうまともじゃないんだ」
「だとしても、」
「ああ、全くだよ。その通り、お前はもうまともじゃない」
やにわに飛び込んできた声が翔の台詞を遮る。よく通る、しかしどこか腹立たしくもある声音だ。振り向くとそこには案の定エド・フェニックスが立っていて、やれやれと首を振っていた。その隣に見なれない少年の姿がある。しかし見知った姿に似たものだ。
少年の容姿はヨハン・アンデルセンによく似ていた。でもあれはヨハンじゃない。
「一足遅かったな。九人目の仏さんはもうバラバラ死体だ。何度見ても趣味の悪い絵面だよ、このテイストは陰惨で凄惨と言うに相応しい」
「え、エド……なんでここに……」
「それはこっちが聞きたいね。よくもまあ素人一人でこいつの居場所を突き止められたものだ」
呆れているようで、声が嫌味ったらしい。しかし心配はしてくれていたみたいで彼は胸を撫で下ろす仕草をしていた。
「……間に合わなかった。九人目も、死んでしまった……」
その隣でハンス少年、いやその体を借り受けているヨハンがぽつりと漏らす。悔しげに口を開き、悼むように両手を合わせた。その姿に十代が目ざとく気付き、一変して間の抜けた声を出す。
「よはん?」
つい先程まであれほど張り詰め、あげく苦しげに呻いてすらいたというのに今はまったくそんな気はなく、夢見る少女のような世間知らずの令嬢のような表情をしている。幼子が舌ったらずに親の名を呼ぶように名前を転がして十代ははにかんだ。
ヨハンは眉間に皺を寄せる。十代は心の傷を抉るような、精神の痛みに非常に弱い。それがトラウマなのだということは幽霊になってから二年ぐらいで気が付いたことだ。寝ている間、夢見が酷く悪い日はうなされていつも決まった叫びを上げる。「嘘だ、嘘だ、嘘を吐くな! ヨハンが死んだなんてそんなことあるもんか!」「俺は俺に出来る最善のことをしたはずだ。なのになんで……俺の何が悪かったっていうんだよ!」「ヨハン、俺のせいだ、ヨハン……」在りし日の記憶を見ているのだろう、はっきりと同じうわごとを十代は繰り返した。幾度も、幾度も、幾度もだ。もう十年それが続いている。
異世界での体験が十代の精神に確かな心的外傷を刻み付けたのだ。傷跡は永遠に治らない。
「ああ、でも、違うな……ヨハンは“置いてきたから”いない。お前はハンスか。……なんでエド達と一緒にいるのかは知らないけど」
「……そうだよ。十二番目になるらしい予定のね」
「ああ、間違いない。ハンス・C・ウォーカー、君は十二番目の被害者になる。心臓を抜かれて死ぬ。理由は簡単、俺が見付けた中で『一番ヨハンに姿が似てたから』」
「すっげえ、理不尽」
「そうだな。それが?」
十代は醒めた金の瞳で謳うように言った。トラウマによる揺さぶりが「ヨハンの誤認」で鎮静化されて暴走が収まったからか、もうあのてらてら光る瞳はどこかに引っ込んでしまっている。エドが、翔を十代から引きはがすように動かした。翔は脱力してしまっていてぺたんとへたりこんでしまいそうだ。
金の瞳もすうっと仕舞い込み、あの懐かしいこげ茶色の瞳を表に出して十代は深呼吸をした。深く吸って、吐いて、何かを整える。まだ興奮が治まり切っていないのだろう。何せ異形に変貌しようとしたぐらいに焦燥していたのだから。ヨハンは何と言っていいべきか量りかねて押し黙ってしまった。トラウマと、それに依る精神不安定症状のことは説明した方がやはりいいだろうか。
「十代、もういい加減、こんなくだらないことは終わりにしたらどうだ。馬鹿げてる。ヨハンがそんなことを望んでると思うのか? あいつは誰かの犠牲を喜ぶ奴じゃなかっただろう」
そうこうしている内にエドに先に口を開かれた。しまったと思うが手遅れだ。
「……馬鹿げてる、だって?」
「だってそうだろう。誰の目から見てもお前は間違ってる。明白にだ。昔から馬鹿だ馬鹿だとは思っていたが、ここまで気がふれてるとは思わなかったよ。考えてもみろ……十二人殺したからって何故人が甦るとお前は盲信していられるんだ」
「そりゃあ気がふれてるからだろうよ」
「エド!」
十代は苛立たしげに眉を下げる。今の十代はいうなれば、選択肢を一つ間違うとバッドエンドに直行する難易度のおかしいゲームだ。さっき翔は既に選択肢を間違えた。ここでエドが十代の機嫌を損ねてしまえば、一度治まった発作はぶり返すだろう。エドも翔も生きて帰れないかもしれない。
ヨハンは一歩踏み出してエドに耳打ちをしようとする。しかしそれはエド自身に遮られた。
「邪魔をするな。俺はこのうつけ野郎を一発殴りでもしないと気が済まない。殴ったところで何も解決しないがな!」
その宣言のまま、エドの手が拳の形に握りこまれてストレートに十代の頬をぶん殴る。十代は初めぽかんとして、何が起こったのかわからないというふうに目をぱちぱちさせていた。やがて頬が物理的な痛みを主張してきたことでああ殴られたのだということに思い当たったらしく腫れた頬をさする。十代は掛け値なしにびっくりしていた。誰かに殴られる痛み、体の痛みというのは、この十年の間にどこかに置き忘れてきたものの一つだったからだ。
先程とは違う、鈍いがしかし気持ちのいい痛みを噛み締めて十代は微笑む。それは安らかですらある横顔だった。
「……痛い。でも、必要な痛みだ。エドの言いたいことはわかるよ――『殺された少年の遺族は、お前と同じ気持ちじゃないのか』『一人で被害者面をしているな』こういうところだろ。でも悪い、知ったこっちゃない。今更後戻りなんか出来ないんだ。諦めたりなんかしてやるもんか。だからもう、この案件に関わるのは止めた方がいい。誰も、俺は、止められない」
にこにこと表情を歪めて宣告する十代の姿をヨハンは悩ましげに眺めた。バッドエンド直行は回避したが、結局行きつく先はバッドエンドだ。ハッピーエンドは潰えていたのかもしれないと遅まきに悟る。
ふるふると首を振り小さく息を漏らした。ヨハン・アンデルセンはこんなことになってしまってもそれでも遊城十代を愛していたが、こんな狂行は望んでやいないのだ。死んだままでいい。幽霊のまま、長い年月を生きる十代の傍にいられるのならそれでもいいかなと思った。だが十代は執拗に「生きたヨハン」を求める。挙げ句に、霊感のチャンネルをすっぱりと閉じた。
愛することは果たしてそういうことであっただろうかという意味のない自問自答なら眠れる悪魔の隣で数えきれない程やってきた。その度に「ノー」の答えが出る。相手を求めるということも、そういうことじゃない。ずれている。間違っている。だけど声は届かない。
「エド、翔、今はっきりわかった。アクセル全開でブレーキが壊れてる。時々這い出てこようとする本能――十代のじゃなくて、悪魔の本能を、制御出来なくなってるってそういうことだ。お前らなら知ってるよな。例の異世界での体験以来のトラウマである精神の痛みが苦手で、そこらへんに超過圧力がかかるとさっきみたいに暴走して姿かたちが人間から離れてく。それで苦しいから痛みの元凶を排除しようとするんだ。十代にはずっと継続して一定の負荷がかかってるんだ。『ヨハンは死んでる』っていう負荷。十代を止められないっていうのは多分そういうことだと思う」
「ちょっとそこのヨハン似君急に何言ってるの? っていうか君、誰。僕のアニキを呼び捨て連打って気になるんだけど」
「日本語で喋ってることに留意しろよ……ちょっとは回復したみたいで安心したけど」
とんちんかんな文句を付けてきた翔に苦笑いしてヨハンはそれより、と十代の方を指差す。視線が一気に三人分集められたことにぎくりとして翼が音を立てる。
「あいつこれから逃げるぞ」
「そういう大事なことはあいつに気付かれないように言え!」
「……ありゃ。ばれてた」
「途中から面倒だから逃げたいって実はずっと思ってただろ」
「そりゃまあ、その通りだけど。すげーな」
十代は悪戯が見付かった幼稚園児のようにばつが悪そうな様子で腕を後ろ頭に組んでいる。少し離れた地面の上に立っていたはずの十代はいつの間にか、並び立った家々の屋根の上に登っていた。これから飛び立つつもりなのか羽根が既にスタンバイ状態で手持無沙汰そうに動いている。
「あそこまで色々看破されてるんじゃしょうがないし。エドのことも翔のことも傷付けたくないから一先ずここで撤退するよ。ハンス、君だけはまた明日迎えに来る」
「明日? 十番目と十一番目をすっぽかしてくれるって言うのなら歓迎するけど」
「予定を変えた。お前達はあんまり時間をくれなさそうだから今日の内に後二人片付けてくる。俺さ、今でもエドを相手取るのは実は得意じゃないんだ。昔嫌な思いをしたから」
何でもない世間話のように予定を早めて二人殺すと犯行予告をするというのはなかなかぶっ飛んでいる。それが十代の覚悟の量なのだと思った。この殺人鬼は、甦った最愛の人間に「お前なんて死んでしまえ」と言われるその日まで動くことを止めないだろうというそういう予感が走る。
エドに悪い、と目配せだけしてヨハンは十代の他愛ない話に付き合った。どうあっても回避出来ない未来に形がさだまってしまったことで奇妙な静寂が胸中に訪れている。
「カード真っ白騒動な。木星の衛星・イオまで行ったって昔よく聞いたよ」
「ああ、まさにそれだ。……ハンス、君って本当にヨハンに似てるな。そういうの嫌いじゃない」
「おい、待て――!」
慌てて追いかけようとしたエドの行く手を塞ぐように突如として大量のヴェルズ・モンスターが出現してスクラムを組む。エドは舌打ちをし、翔は立ち尽くし、ヨハンはぼんやりと別れ際の唇の動きを思い出す。
悪魔のくちびるが声なき声を紡ぎ出したのを確認出来たのは、ヨハンだけだったのだろうか。ヨハンは誰もいなくなった上空を見上げたまま《石畳の緋き悪魔》が言い残した言葉を反芻した。
『君のこと、殺しに行くよ』。悪魔は確かにそう言った。
そして『あいしてる、ヨハン』。そうとも言った。
一晩明けた朝、宣言通りにあれから二つ、少年の死体がロンドンの街に増えていた。いつも通りのバラバラ死体。だが今までの魚を切り身に分けたみたいな乱雑さではなく今回は人間でソーセージが作れそうだ、というぐらいに細かくミンチにされていた。
ハンバーグの種でもこれからこしらえようかといった様子の肉の山は早起きな鴉に散々食い散らかされた後で、やはり死体検証など出来そうにもなかった。
「石畳の緋き悪魔」-Copyright(c) 倉田翠