U PRIESTESS:疑似家族ごっこ
宇宙だった。
母なる死、大いなる意思そのものであるニュクスすら包括する雄大な宇宙、それが有里湊という「特別な少年」が「命のこたえ」と引き換えに得た世界を救うための能力「ユニバース」そのものだった。染み込んでくる感情があるように思えて、ニュクス・コアはそのたまごのような光る器を打ち震えさせた。
コアから死そのものであるエネルギーが溢れ吹き出て有里湊を襲う。人間の生命エネルギーの上限を遙かに超えた威力だ。だが有里湊は倒れない。彼はぼろぼろの体をそれでも引き摺り起こして歯を食いしばり、風前の灯となりつつある存在でもってニュクス・コアを見つめている。
ニュクス・コアは本能でもって異物である有里湊を何度も、何度も、死のエネルギーで貫いた。だが彼は一向に倒れる気配を見せない。ただ歯を食いしばって耐え、何度でもニュクス・コアをその瞳で見据えてくる。ニュクスはその瞳が酷く恐ろしいと思った。存在しない幻のアルカナ、ユニバース。愚者から始まり永劫に終わる二十二のアルカナから削除された、本来人の子に割り当てられるはずのない大いなる宇宙の力を手にしたその人間の視線がどうしようもなく恐ろしかった。
有里湊の瞳の前では、《大いなる死》《母なる終わり》《星を喰らうもの》《死を招く月》……そういった大仰な名で呼ばれ、掛け値なしに世界に終わりをもたらすことの出来る存在であるはずの自身がほんのちっぽけで矮小なものであるように思えた。
「ここで負けるわけにはいかない」
有里湊はそう言った。
「だから、僕は――」
「……綾時。もう、いいんだ。世界を滅ぼす必要なんてないんだ。君に、君と同一化したニュクスに断罪の鎌を降ろすことはもう出来ない。僕が因果を封印する」
いつの間にか宇宙は消えて、真っ白な光の中にいた。ニュクス・コアであったたまごは消え失せて望月綾時の姿が有里湊と対面している。不意に頬を何かが伝い落ちていくのを感じ、手のひらで拭い取る。温かなその滴が、涙というものなのだろうかと漠然と考える。
「僕がずっと君のそばにいる。母なるニュクス、その息子、そういうお冠はどうだっていいよ。僕の目に見えているのは『望月綾時』ただ一人だ。女好きで、軽薄で、はた迷惑な僕の友達。……綾時はずっと一人だったんだよね。寂しかったよね。でももう、一人じゃないから」
「湊、君……?」
「だから」
湊は綾時の手を取り、微笑む。達観した表情は人の子の範疇を超えて神的ですらあった。馬鹿げてる、と思う。神はいない。始まりと終わりだけが明確に存在する全てだ。そして自分はニュクス。生命を終わりに導く大いなる月……
「そういう馬鹿馬鹿しいことも、要らない。綾時は優しいから。本当は向いてないんだよな。僕に自分を殺せだなんてことを言うぐらいだから。君はニュクスの現身である以前に一人の人間だった。望月綾時は人間を愛していた。違う?」
「いや……」
綾時は首を振った。否定も肯定も意味を持たない。
「君は命のこたえを知ったんだね」
一言そう問うと湊は確かに頷いた。
「らしいね。イゴールがそういうふうに言ってた。僕はその真実と引き換えにニュクスを止めて奇跡を掴んだ。だからもう綾時がニュクスであろうとする必要はないんだ。綾時は、綾時。それだけだよ」
「でも、湊君。君は僕の隣にいるとそう言ってくれたけど、地上の仲間達はどうするつもりなんだい? 彼らは君を待ってる。君の帰りを切望してる。それを棄ててここに留まるって言うのかな」
「……だって、しょうがないじゃないか。命のこたえの対価がそれなんだ。僕が到達したこたえは、生命の終わりの果てにある。もう僕は死んだんだよ。死ぬって、そういうことだろう?」
「どうかな」
だが綾時はやにわに首を横に振り、湊を首肯することを拒んだ。湊が不審そうに首を傾げる。怪訝な表情で覗き込まれるのはあまり愉快なものではなかったが綾時は黙って湊の両頬を包んだ。死者になるにはまだ早計だと言わざるを得ない、それは瑞々しい肌だった。
「忘れてるなんてことないだろ、湊君。君は確かに『大いなる封印』のためにその生命エネルギーを全て捧げてしまったかもしれない。でも僕はニュクスだ。君をほんの少しだけ、地上に戻してやることぐらい出来るさ。勿論君が望めばだけどね。君の『生きて約束を守ろう』という心を体を維持するエネルギーにしてあげられる。……湊君、行ってきなよ。君は本当は、きちんとした別れを告げていないことを後悔しているでしょう」
「綾時、そんなこと、」
「いいから行きなよ」
「でも……」
なおも渋る素振りを見せる聞かん坊の湊の頭をよしよしと撫で、綾時は彼の存在を摘み出した。光――大いなる有里湊のユニバース空間から、人々が住まう現実の空間へ。湊が抗議するように口を開きかけ、しかしすぐに閉じたことが遠目にわかった。どうせ最後にはこの光の中へ還ってくるのだということに気が付いたのだろう。
『心配ないよ……この宇宙で、僕は再び、眠りへと還る。今度こそ、本当の日常が戻ってくるよ……君達にも、彼にもね。彼は……“命のこたえ”に辿り着いたんだ。ただそれが、君達より一足早かった……それだけの事さ』
綾時は地上に残った彼らにメッセージを向けると満足して瞳を閉じた。湊の言う通り、もう望月綾時は一人ではない。この目蓋を再び開けた時には、きっと隣に有里湊の姿があるだろう。命のこたえを手にし、世界を破滅から救った少年が、寝ぼすけな綾時の目を覚ますのだ。
◇◆◇◆◇
『僕は、湊君を守護するペルソナです。湊君から生まれた無数の人格、仮面の一つ。ただちょっと特殊な経緯を得ていて人に近い見た目をしているだけ。それだけですよ』
「綾時」
『でもそうとしか言いようがないでしょ、湊君。僕という人格はあの時確かに君から産み落とされたんだから』
今から二十年前、ムーンライトブリッジで甚大な被害を出しながらも仕留められたイレギュラーのシャドウ、「デス」はたまたまそこに通りかかった七歳の少年の胎内に押し込められ、封印された。十年を少年の胎内で過ごしたデスはその最中で人格を得る。人と同じ自立行動意志を持ったそれこそが「望月綾時」だ。かつては「ファルロス」と呼ばれていたもの。
少年に影響を受けて形成されたものである綾時は確かに湊のペルソナ、と言ってもそう語弊のない存在だった。姿形はよく見れば湊に生き写しであるし、その性質も根本では湊から受け継いだと言えるものだ。人を惹き付け、いつの間にか中央に位置している存在であり、しかし気が付くとふっとそこから消え失せている。悲哀を孕み最後の最後で孤独だ。自己犠牲に走りがちな傾向もある。
そして何より今の二人、「神郷湊と望月綾時」の関係性が「人間とそのペルソナ」という枠組みに強く嵌め込まれているのだった。綾時は湊の内に住まい、湊の意志で戦闘を行う。協力関係にあるだけだと取れなくもないが不自然な箇所も多い。
「ねえ、君はさっきニュクスの息子、って言ったけどあれはどういうこと? そもそもニュクスっていうのもよくわかってないんだ。湊の説明だと何かとても大きな力を持ったものみたいだけど、それは生き物ではなさそうだし」
「うん、生き物……じゃ、ないかも。体を月に、心を地球に分けられた『死の象徴』そのものっていうか……慎兄と洵兄の知ってる概念だと『くじら』に近いのかな。地球に降り立った時世界が終わる、そういう存在。十年前にニュクスが世界を終わらせかけた時にその警告用の個体として生まれたのが綾時なんだ」
「よくわからないけど、その説明だとさっきの『湊から生まれた』っていうのと矛盾してないか」
『そのどちらでもあるんですよ。母ニュクスをモデルとして母に還ろうとするシャドウ達を集めニュクスの心を抽出し、「エルゴ研」はアルカナ:デス、十三番目の存在しないアルカナを持つシャドウとして僕を創造しました。しかし実験が外的要因により中断され僕は死をもたらすニュクスとしては不完全な状態で放り出されてしまった。その未熟な僕を内に宿し育ててくれたのが湊君。湊君の中で育ち、ニュクスに近付いていった僕は月にあったニュクス本体と同調しまずは宣告者、最後にはニュクスそのものとなった。生みの親がニュクスで育ての親が湊君。そういう感じです』
「ますます意味がわからない」
「すぐに理解されても驚くよ」
首を傾げる慎にそう答えて湊は「ともかくね、」と話を続ける。
「昔、一回綾時は滅びを求める人類の声に従って世界を終わらせようとしたんだけど、それを止められて色々あって僕のペルソナになることにしたんだって。よく似たものだったからそれが可能で、今は守護霊気取り」
『き、気取りって……湊君それはいくらなんでも言い方が酷いよ』
「冗談。綾時には感謝してる」
そんな遣り取りをしてお茶を濁すかのようである湊と綾時を、洵はまっすぐな瞳で見ていた。
結祈を失って心を読む力は薄れたが、それでも洵には感じるものがあるのだろう。洵は二人を交互に眺めて何か思うところがあったのか、少し躊躇う素振りを見せる。湊がそれに気付いて洵を呼ぶと、慎も洵に振り返った。
「……洵、どうした?」
「……。ね、湊。一つ思ったことがあるんだけどね」
「何、洵兄」
「湊、湊は……、『湊も今はニュクス』だね?」
その言葉に湊が狼狽したことが見てとれた。表情が露骨に変化し、どうしてと言わんばかりのものになる。しかし綾時がその透き通った幽霊のような体でもって湊を包み込むと少しずつ表情が和らいでいった。深呼吸をし、びくびくした目で洵を見上げてくる。
洵は小さな子供をいじめているような妙な気分になってしまって「ごめん」と湊の頭を撫でた。どうも湊が隠そうとしていた核心の部分だったらしい。
「……結祈が言ってた通り。洵兄には隠し事は出来ないね」
「ごめんね、話したくないんなら聞かないけど」
「そこまでばれたら隠す意味、ないよ。……この体、借りものなんだ。でも影時間はどうしても僕が片付けなきゃいけない問題だから僕が封じてるニュクスの力を借りてここに来た。皮肉だよね。死んで死を抑えてる僕が、死の力で生者の世界に来てるんだから」
明らかな自嘲を含んだ声音は痛々しく、湊の表情もそれを見る綾時の表情も浮かなかった。慎と洵は揃って顔を見合わせる。別に尋問をしたいわけではないのだ。このような顔をされるのは本意ではないし、あまりいい気分ではない。
「僕が慎兄のところに来たのも、端的に言えば慎兄の特別性を見込んでのこと。……家族に、なれたらいいなって思ってはいたけど。結局のところ利用しようとしてただけだから」
「湊」
「でもやっぱり、隠しごとしたままなんて虫のいい話、あるわけないし。そのことはあんまり知られたくなかったんだ。慎兄や洵兄をニュクスのとこへなんて絶対にやらないけど……嫌でしょ?」
何が嫌だとは直接問わなかったがそれが湊の存在を指しているということは明らかだった。死の象徴であるニュクス、世界を終わらせる絶対の存在とニアリーイコールであるのだという少年の姿をした存在。暗に自らを化け物だと言っているのだ。
確かに湊のペルソナ能力は卓抜しているし、その戦闘におけるスキルも並大抵のものではないと思う。だが慎や洵からしてみればそれだけで、今目に映る「神郷湊を名乗る少年」は十歳ぐらいの子供でしかなかった。何やら困っているらしい上に自分達の力を必要としていて、更に「兄」と呼んで慕っている。その声に下心はないだろうし、ただ純粋に求められているということは人の心の機微に敏い洵ならずとも慎だってわかることだ。
「別に、嫌じゃない。家族になるのも能力を求められるのもいいよ。湊に必要なことで大事なことなんだろ。――何が駄目だって言うんだ?」
「慎兄……?」
「結祈に見込まれたんだろ。洵も結祈もそういうところは間違えない。湊が悪い奴だとか気持ち悪いだとか、俺も洵も思ってない。昨日弟だって、そう言ったと思ったけど」
違うか、湊。そう言いながら頭をわしわしと撫でてやると湊はぽかんとして目を丸くした。昨日からそうだが、湊はどうも頭を撫でられることが好きらしい。あまりその経験がないのだろうか。だとしたらそれは寂しいことだ。頭を撫でてくれる人もいないなんて。
湊は家族という共同体に憧れを持っているのかもしれないなと慎は思う。家族というものをまともに持ったことがないのだ。
「湊は家族って、いなかったのか?」
「……うん。七歳の時にデスの研究に失敗して死んじゃったんだって。ずっと天涯孤独だったよ。一人だった。だから家族って羨ましくて……」
「ああ、やっぱりな。そういう顔してる」
慎も幼い内に家族を失ってしまったが、それでも自分には兄弟がいた。一人ぼっちではなかった。だが湊は今はっきりと「天涯孤独だった」と言ったのだ。
家族の距離が恋しくて当たり前ではないか。
「湊はもう家族だ。最初は確かに胡散臭いと思ったけど、もうそんなことは全然思ってない。湊はシャドウから俺のこと助けてもくれたもんな。――どうしても悪い奴には見えないよ」
「慎兄」
「その呼ばれ方もこそばゆいけど好きだな。……子供なんだからさ。甘えてもいいと思うよ」
「……ありがとう……」
湊がはにかむ。子供らしい笑顔だった。
いつの間にか例の湊が飼っているらしい黒猫がやってきて、「一先ず一件落着したな」とでも言うふうににゃあごと鳴く。湊が「あれ、ナオ」と猫のことを呼んでやると返事の代わりに湊をしっぽで撫でた。
◇◆◇◆◇
電話の向こうで「出来るだけ早く来る」と英語の例文のようなことを言っていた真田は、本当にすぐに綾凪にやって来た。まだ三日も経っていなかった。黒いぴったりとしたスーツに赤いネクタイといういでたちは以前に会った時と変わっていない。だが今回はそれに加えて一つ、以前にはなかったものを持参していた。
真田明彦、二十八歳独身。警察組織内でペルソナ関連の事件を扱う部署を神郷兄弟の亡き長男である諒と共に立ち上げたのは彼だ。十年前に辰巳ポートアイランドと呼ばれる場所で何かの事件に関わっていたらしく、それが彼にとってのある種の「楔」のようなものになってしまっているらしかった。
彼は慎達の住み家に訪れると土産の菓子折りを出し、それから真っ先に「拾ったという子供は、ここにいるのか?」とそう尋ねた。
「いきなりですまない。だが、気が気でなくてな」
「います……けど、湊はあまり真田さんと会いたくないって言ってましたよ。……知り合いなんですか?」
「かもしれない」
「二十八歳と十歳の接点って、何なんです」
「……十歳?」
なんだって、と首を傾げられる。
「十歳? そんなに幼い子供なのか? いやしかし、デスを召喚するようなペルソナ能力者などあいつ以外に……」
「あいつって、誰ですか」
「十年前の事件で死んだ仲間だ。類稀なペルソナ能力者でいくつものペルソナを操ることが出来た。だが……」
そこで真田が黙り込んでしまい、間が悪くなる。慎はどうしたものかと試しに思案してみるが策など思い付きもしない。もう一度真田に視線を戻してみると今度は一人でぶつぶつと呟き、頭を抱えるようにしていた。ますますどうすればいいのかわからない。
いくつものペルソナを操ることが出来る類稀なペルソナ能力者。その言葉は確かに湊を正確に表す言葉だった。「チェンジ」の一言で通常一人に一つのペルソナを次々入れ替えていくその所業は「類稀」と呼ばれるに相応しいものだろう。ペルソナは自らの心の仮面、心の在り方、心の形。そういうふうに聞いたことがある。湊には無数の仮面がある。
不思議な子供だ。湊なら何をやってもおかしくないというような、そういう認識が心のどこかであった。
「十年前に死んだその人が湊だって真田さんは言うんですか」
「そういうふうに考えてしまうんだ。あいつは不思議な男だった。世界を滅ぼす死神を知らぬ間に飼わされていたあいつは最後に死そのものと一人で対峙し、滅びを回避し、眠るように息を引き取った。後で知ったことだが、あいつは自身の存在と引き換えにその死へと続く扉を封じているらしい。死んでいるわけでもありある意味で生き続けているわけでもある……こんな話をしても意味が通らないな。とにかく、何をやったとしても不思議のない男だった」
「確かに何をやったっておかしくないようなそんな気はありますけどね」
だがまだ納得がいかないので「どうなんでしょうね」と曖昧に濁す。会いたくないと言っている湊の意志を無視する方が事の真偽よりも大事なことであるようにその時慎には思えたからだ。
しかしそんな慎の思いやりを打ち崩す声が少し離れたところから急に慎に向けられた。
「……慎、兄」
「湊?」
振り返ってみるとやはり声の主は神郷湊のものであった。急に心変わりでもしたのか、真田には見えず慎には見える絶妙な位置で何か窺っている。
「会いたくないんじゃなかったのか」
階下に降りて来た湊はどうしたものかと思案した後に柱の影から出て来た。湊の姿を認めた真田の顔色が変わったのが明らかに見て取れた。驚愕というに相応しい表情をしている。一体どうしてしまったのだろう?
「――有里!」
「有里?」
真田の鋭い声が慎の知らない名前を呼ぶ。だが慎の疑問など耳に入っていないようで、真田は呆然、といった様子で湊を見ていた。一方の湊は視線に居心地が悪くなったのか体をもじもじさせている。慎の隣で、洵が目配せをしているのが見えた。
「真田、さん……」
ややあって湊が躊躇いがちに真田の名を呼ぶ。名前は話したことがあるが、初対面ですぐにそうとわかるものなのだろうか? しかしそんな疑問は湊が次に発した台詞に全て吹き飛ばされた。湊は真田の左手をちらりと見た後に衝撃的な言葉を投げかけたのだった。
「真田さん、まだ結婚してないんですか?」
場が固まった。
「みっ、湊っ、初対面の大人にいくらなんでもそれは」
「余計なお世話だ!」
「真田さん湊は子供だからあまり怒らないで……」
「そんなこと言っても、美鶴先輩はあの桐条の総帥なんですからいつまで独身かわかりませんよ。というかそろそろまずいんじゃないですか?」
「……湊? 何言ってるの?」
「なんか真田さん見てたら隠すの面倒になってきた」
調子の変わったらしい湊はやれやれというふうに首を振って溜め息を吐き――溜め息を吐きたいのはこっちだと三人共が内心で思っていた――例の気負わない動作でごく自然に「召喚器」、銀色の重厚な空銃を握り込む。止める間もなく一瞬で引金を引き、小さく「望月綾時」と名を告げると湊のペルソナが人の姿を取っているものであるらしい綾時がぽんと姿を現した。
呼び出された綾時は周囲を見渡してから『みっ湊君?!』と焦燥した声を上げる。綾時の反応は何も間違っていない。
真田は黄色いマフラーをした透明な子供の姿を認めると「望月なのか?」と零した。湊、綾時、真田の間には何がしかの繋がりがあるようだった。
「お前……やはり有里か」
「有里湊は十年前に死にました。彼はどこにもいません。僕は神郷湊です。有里はいないんです」
「その否定こそがそうであるという肯定に、俺にはむしろ聞こえるんだがな。第一桐条総帥のファーストネームなどそうそう簡単に手に入る情報じゃない」
「でも『有里は』もうどこにもいないんですよ。彼はあの卒業式の日にアイギスの膝の上で残されたエネルギーを使い果たして眠りに就いた。真田さんだって見たでしょう。『だから』僕は神郷湊。似て非なるものです」
「……茶でも濁そうって言うのか?」
真田は納得がいかなそうな様子で『神郷湊』、身長百四十そこらの少年を見ている。長く伸びて右眼を覆ってしまっている深い藍の特徴的な前髪。青と白のTシャツの上に、今はかけられていないシルバーの小ぶりなヘッドホンが乗っかっていた。コードが繋がれている先にあるウォークマンは真田の記憶にある、「特別課外活動部」リーダーであった少年のものとほぼ形状が一致しており、右手には「S.E.E.S」の刻印が施されたメタリックの召喚器が握られている。
そして湊の横に、ある種侍るようにして幼い望月綾時が浮かんでいるのだった。召喚器で呼び出されたことから鑑みるにそれはどうもペルソナであるらしい。
「別に濁そうって腹づもりじゃないです。ただそれだけは履き違えないで欲しいってだけ。有里湊があの日『命のこたえ』に辿り着いたことを無かったことにしたくないから」
あくまでそう主張する湊を宥めるように浮かびながら綾時はちらちらと真田に目配せをしていた。一度そうと決めた湊は頑固なのだと言っているようでもあった。確かにそうだ。宣告者の提案を頑なにはね退けたのはまあ課外活動部全体の意志でもあったが、最後の決戦の日に一人で犠牲になって一人で世界を救うのだと決め込んでしまった彼は、仲間の声を振り払い結局何もかもを背負い込んで遠くへ行ってしまった。
真田は根負けして息を吐いた。勝てそうにない。
「……わかったよ。昔からお前はそうだ……だが、俺は『有里』と呼ぶぞ。いいな」
「…………そうですか。……綾時」
『えっ、あ、うん』
「僕だるいから上でナオとゴロゴロしてる。話は綾時が適当にしといて」
『え、ええー』
「やっといて」
『……しょうがないなあ』
このペルソナの少年特有の「異常なまでに人間臭い仕草」をして綾時は湊の我儘を許容した。大体において綾時は押しに弱いのだ。綾時はいつだって湊を許容する側で、最後は湊のどんな言動も受け入れるしどんな指示にも従う。それがペルソナらしさなのだろうが、しかしなんだか気に掛かる部分でもある。
自然な状態のペルソナは確かに使用者の命に背かないものであるが、喋り、意志疎通をし、自立した自我を持ち時には湊をたしなめたりもする綾時だからそれが必要以上に目に付いてしまうのかもしれない。
綾時を残して湊は一人でずんずん上へ階段を登って行ってしまう。ペルソナを部屋に残したままとは器用なことだが、ことペルソナに関して湊に出来ないことなどないような感覚があった。やはり湊のペルソナ能力の凄まじさとはそこまで苛烈で、飛び抜けている、そういう印象を一目で抱かせるものなのだ。
『ごめんなさい、真田さん。湊君恥ずかしがってるみたい。……あの、あれ多分好きにしていいってことですから、僕で良ければ質問に答えますけど……』
綾時が苦笑いしながら弁明する。真田はもう綾時の存在に一々突っ込もうとは考えなかったようで、額をぽりぽりと掻いて深呼吸をした。
「では一つ目の質問をしていいか。お前は望月……なんだな?」
『ええ、望月綾時、今は湊君のペルソナです。十年前は色々とお世話になりました』
「あ、ああ……。妙なものだな。かつて倒した『ラスボス』に礼を言われるのは」
『ラスボスって、ゲームみたいな形容ですね。みんな真剣勝負だったのにおかしな人』
「俺はゲーム好きなんだよ。ボクシングもルールに則って戦う歴としたゲーム――真剣勝負の、試合だ。ニュクスの降臨は阻止すべき最後の戦いだった。最後の敵という形容はそこまでおかしなものでもないだろう?」
『そうですね。そういうふうに言えなくもないかな』
そういう意味では、僕は湊君に負けちゃったんですけどね。くすくす笑い、綾時は懐かしむようにまなじりを下げる。真田もつられて笑んだ。
「十年も経つと、あの戦いですら懐かしむものになってしまうんだな。まだ結婚してないのかという有里の言葉もあながちではないか……しかし何故美鶴とのことを知っているんだあいつは」
『……バレてないと思ってたんですか……』
「あの、真田さん。綾時も。その盛んに言ってる『十年前』って……? 話、付いていけないんだけど」
慎は十年前に真田が体験したという事件について、辰巳ポートアイランドでのことだとしか聞いていない。このまま思い出話にふけられてもちんぷんかんぷんだ。疑問を投げ掛けられた真田と綾時は顔を見合わせ、何事か合意して頷いた。
「そういえば殆ど何も話していなかったな」
「殆ど何も聞いてません」
『全然知らないんだ』
「うん、全然知らない」
洵も慎に同調する。真田は深呼吸をすると「上手く要約出来るかわからないが」と前置きをして話をする態勢になった。綾時も真田の方に移動していって、聞き手と話し手の二手に別れる。
「十年前に辰巳ポートアイランドにある私立月光館学園を中心に、影時間が発生していた。その頃月光館に通う生徒の中からペルソナ使いが集まりシャドウ討伐の組織を作ったんだ。名前は『特別課外活動部』、略称が『S.E.E.S』。召喚銃に彫り込まれているものだな」
懐から一つの銃を取り出す。実戦向きというよりはアンティークというか、装飾用と言った方が正しいような印象のデザインだ。よく手入れされたメタリックシルバーの煌めきはしかし何処か重たい印象をも与える。
湊がいつもぱきん、ぱきん、と音を立ててくるくるとペルソナをチェンジしていく時に用いているものと同タイプである。ただしグリップ部分に「A.S」と刻印が成されていた。
「湊のと同じ」
「そういえばあいつも持っているんだな。有里の召喚銃はアイギスが預かっていたように思うんだが……」
「っていうか真田さんがこれ持ってるってことは、当時そこのメンバーだったんですね」
『うん。ペルソナ使いじゃなきゃ、普通は影時間のことを認識出来ないからね』
綾時が補足を入れる。電話越しに聞いた「象徴化」現象のせいだろう。真田は召喚銃をもう一度手に取ると布で拭き取り、それから古ぼけたホルスターに仕舞い込む。革製のホルスターも警察の配布物らしからぬ重厚感だ。課外部のスポンサーは雰囲気重視の人物だったのだろうか。それとも単に財力がある人物だったのか。
真田は目を細めて話を続けた。
「有里湊は俺達特別課外活動部のリーダーだった」
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