W EMPEROR:死人人形と再会

「失礼。神郷慎少年の下宿先はこちらで合っているか?」
 学生寮の管理人を務める戌井は目をぱちくりと見開いて眼前に立つ女王然とした女を見た。黒のタイトなスーツをかっちりと着込み、スカートの下はストッキングでガードしている。そのモノトーンの出で立ちに美しい紅の髪と紅差しの唇が栄えていた。しかしただ美しいだけでなく、同時にその鋭い眼差しや堅いたたずまいからキツめの印象を相手に与えている。言うならば棘のある美しい薔薇のような、というところか。
 しかしともかく、彼女が非常に存在感のある種類の人間であることには相違なかった。
「はあ、彼は確かにここに籍を置いていますが現在は出払っていて居ません。御用なら言伝てを……」
「では現在の居場所を教えて貰おうか。そうそう悠長に段階を踏んでいられる程私の方に余裕がない。早急に事の真意を確かめたいのでな」
「……失礼ながら、私にも管理人とう立場上寮生のプライバシーを守る義務がありますので」
「言い方を変えよう。私は今非常に急いでいて、そして君に圧力を掛けようとしている。綾凪にまた厄介なペルソナ絡みの事件が発生したと聞いてこちらにやってきたのだが、今のままでは条件が悪くてね……明彦とも繋がらん。――ふむ、今少し動揺したな。そう、君の上司である真田明彦は私の古い友人なんだが」
 女はやはり泰然と、女王の威圧を纏ったまま頷いて懐から身分証を取り出した。その文字の羅列を見た瞬間に軽い眩暈を覚える。あの上司は一体どういう経緯でこの人物と連絡を取り合う仲にまでなったのだ?
 既にぐったりと疲労し、根を上げ出した頭で女の言葉を聞く。頬を冷汗が伝うのが嫌でも分かった。真田に後で何か奢って貰おう、と密かに胸中で決意を固める。災難だ。災難だとそう思う。
「申し遅れた。私は桐条美鶴、不肖ながら桐条グループの総帥役を務めている。今回は私用でこちらに来ている故、私のことは内密に願うよ」
 女――南条と並んで世界にその名を轟かせる一大財閥グループの頂点に君臨する正真正銘の女王、桐条美鶴は極めて自然に、しかし尊大にそう締めた。選択する余地は残されていないに等しかった。


 そういう経緯もあって、桐条美鶴の来訪は本当に突然のものだった。今日に限って二階に引き籠もらず階下でだらだらしていた湊に逃走する暇は勿論無かったし、はぐらかすことも出来なかった。こっそりと舌打ちをして後手に組んだ指を弄ぶ。気分は良くない。その昔にタルタロスで面倒なシャドウにバックアタックを喰らって尻餅を着いた時と似たような気分だった。
 しかし予想外の来客に面食らっているのは真田も同様のようで、口をぱくぱくさせて情けなく声にならない声を漏らしている。共犯だったら夜中にアリスとかを遣ってこっそり悪夢でも見せてやろうと考えていたがその案は止めにしておいてやることにした。なんだか可哀相だ。
「……しかしまあ……その、なんだ」
「はい」
 湊は力なく頷いた。「どうでもいい」「心底面倒臭い」と顔に書いてあるが美鶴の方にそれを気にした様子はない。
「明彦が素っ飛んで行ったと聞いて慌てて来てみたはいいが……予想外だった」
「……その割には随分落ち着いてますよね」
「他ならない君だからな。世界を丸ごと救うような奴が何をしたところで今更混乱しないさ。驚きはしているがね」
「あんまりそうも見えませんけど」
「処生術というやつだ。立場上そうそう隙を見せるわけにもいかない」
 美鶴は苦労の伺える顔でそう言った。あの日父の死に泣いていた少女も、世間様に順応してこうして大人になっている。湊は弄っていた指を解いて慰みに召喚銃を取り出した。銀色の重たい、しかし手に良く馴染むフォルム。S.E.E.Sの面々をある種精神的に支えてきたその「良く出来た銃型の玩具」の恩恵には、ご多分に漏れず湊にもあずかっていた過去がある。この「重み」を感じて、引鉄を引く。それは一種の儀式に等しいものだった。
 本来ペルソナの召喚に媒介は必要ない。ストレガのリーダー、タカヤはかつて「そんなきっかけは迷いがあればいくら引鉄を引いたって仕方ない」と叫びノーモーションでペルソナを召喚して見せたが、彼の言う通り結局のところ媒介というものは「きっかけ」を刷り込みで与えて安定性を持たせるためのものにすぎないのだ。召喚銃は精神安定剤だ。湊にとっては今も。
 ぱきん、という特徴的なサウンドエフェクトを伴って霜の精霊ジャックフロストが現れ、湊の手にすっぽりと収まる。美鶴がその端正な顔を僅かに歪めたのに対して「どうぞ、お構いなく」と無雑作に言い放った。ジャックフロストは「湊ー、どーしたホ? 今日もおにんぎょーさんごっこだホー?」と首を傾げてそれから「リョージ、心配してるんだホ」と眉根を下げて大人しくなる。身じろぎ一つせずにいるその姿を主と合わせて見るとまるで不機嫌な子供とあやすための人形だった。
「……君のその召喚銃は」
「ああ、そういえば真田さんが言ってましたね。アイギスが持ってるはずだって……有り体に言えばそっくりの模造品ですよ。限りなく精巧な、本物と同質で、でもイミテーション。そして僕そのものです。この銃は死で出来ている」
 説明を真面目にしてやる気分でもなくて謎掛けのように突き放した言葉がすらすらと流れ出る。神郷湊は死で出来ている。有里湊という少年の死で肉体をかたどり、中身にニュクスを詰め込んで造られている。精緻な贋作。有里湊のコピーフォーマット。
 だからこの思考だって、つくり物の脳味噌の上に「有里湊」と銘打たれた思考プログラムを走らせて生み出しているものにすぎない。湊は自嘲するように言った。少しだけ、良くないふうに興奮しているのかもしれない。
 美鶴は気圧されたように押し黙っていた。真田もだ。真田は痛ましげな表情を隠そうともせずに、だが「僕は神郷だから」というあの言葉を律儀に守って口を出そうとはしてこなかった。優しいのだ。それ故少し甘い人だということも知っている。有里湊が知っていた真田明彦の美徳だった。
「僕は有里湊じゃない。美鶴先輩、あなたは多分今一つ思い違いをしている、そうでしょう? あの日死んだはずの有里が何らかの手段で蘇生してここに立っていると思っているんじゃないですか。あなた方は、僕が死滅したのはあくまで肉体的な面に留まるんだってことをうっすらと知っていますからね。でもそうじゃない。僕は神郷の名を貰うまでは名無しだった」
「……それは」
「有里湊は生き返らないんです。奇跡を一つ起こしたら、もう新しい奇跡を成すことなんか出来っこない。僕が今ここにいることは奇跡でもなんでもなく、種と仕掛けばかりの安い手品以下の理屈によるものですよ。それこそ、二人なら眉を顰めるかもしれない」
 奇跡に頼らずに肉体を顕現させる方法はいくつかあった。死の扉の番人とはいっても単なる蝶番でしかなかった湊の概念そのものは確かに無力だ。ユニバースは奇跡を起こすための力だから、そんなことに使えるほど安くない。あの一月三十一日以降に一度だけ力を貸してやったこともあるがあれは例外だ。
 一時的に使用するはりぼての肉体なら、いわゆる「神」ばりの力があれば容易に造ることが出来る。噂で亡霊の集団を遊び半分に出現させたニャルラトホテプには勿論可能だろうし(確か、死んだ男を噂を利用して「似て非なる存在として」蘇らせたとも聞いた)、「くじら」……無知無能にして万能の白痴神にも出来るだろう。
 であるから、当然だがそれは万物の死の権化であるニュクスにも可能なことだった。そしてかつて有里湊という少年だったものは、十年の時を経てほぼニュクスと同質のものに成り果てている。答えは自ずと出るだろう。
 ユニバース空間で、隔絶の扉に埋め込まれモニュメントと化した昔の体を見ながらそう言った湊に綾時はただ一言「僕は湊君の行くところへ行くよ」と告げた。「君は僕のトモダチで、きょうだいで、おかあさんだからね」と。綾時は湊を止めようとも咎めようともしなかった。それが本当に正しい選択であったのかはさておいて。
「僕は――僕が、ニュクスです。エレボスを退けるためだけに存在する楔。僕はね、もうニュクスの一部なんですよ。そういう存在なんだ」
「――そんなふうに言うな! 君は、君は……」
「だけどこれが全てです」
 言っている間に段々勢いが削がれてきて、最後はもう捲したてる覇気もなく遮るように言葉を流す。美鶴がいよいよ動揺してきたのを見て、今更だが声が必要以上に冷たいことに気が付いた。慎や洵が気を利かせてこの場を離れていてくれて良かったと思う。どうも昔の知り合いに会うと調子が狂ってかなわない。
「すみません。別に突き放すつもりとか、そういうのなかったんですけど。美鶴先輩は、コロッセオ・プルガトリオでゆかりと一緒でしたよね。だから少し、真田さん以上にきつい言葉を使っちゃったかもしれない。……あんまり気を悪くしないでくれると嬉しいな。僕は……仲間のことは……好きなんです。今でも」
 コロッセオ・プルガトリオで美鶴がゆかりに加勢して、真田と天田の「湊の決意を無下にすべきではない」という意見に真向から対立した時は少しばかり驚きを禁じ得なかった。言うまでもなく湊自身はそれを特に望んでいたわけじゃなかったし、尤も仮に二人が勝ち残ったとしてもユニバースを完全に覆すことは出来ないのでさほど気にするべきことでもなかったのだが、それでもびっくりはしたのだ。彼女は今まで、基本的にはもの分かりの良い「効率的な」人間だった。
「……わかった」
 それからしばらく美鶴は呆気に取られていたが、やがて溜め息と共に諦めた顔で目を細めた。肩を竦めて両腕を上げてみせる。湊はそういえば、順平の「お手上げ侍」は彼の一発ネタの中でも結構好きな方だったなあとどうでもいいことを思い出す。本当にどうでもいいことだった。順平と会うことももうない。
「『有里湊は死んだ』んだな。あの日、紛うことなく、絶対的に」
「はい。彼はもういません。どこにも」
 反論の余地を残さぬ程に急なレスポンスで肯定すると美鶴は「だが、私から見れば、君は……」と何か言いかけてそれからぐっと口を噤んだ。彼女が唾を飲み込む音が聞こえる。おそらく共に口にしようとしていた言葉も飲み込んだものと思われた。
「……私達は……特別課外活動部は、間違っていたのか?」
 代わりに彼女はそんなことを問うてくる。課外部が幾月の真意を見抜けずむざむざと大型シャドウに自らデスを引き会わせていたこと、そして醜劇をループする三月三十一日の中で晒したこと、それらを湊に対して恥じているように見えた。だが湊は頭を振る。あの時は湊だって、まさか自分の中にそんなものがいるだなんて――ファルロスが死をもたらすものであったなんて知らなかったのだ。美鶴や真田が責められる謂れなんて何処にもないだろう。
「いいえ。僕はそれに対する答えを持ちませんが……きっと、美鶴先輩のお父上は肯定されるでしょう。……先輩。あのことなら、誰かが悪かったわけじゃないんですよ。エルゴ研やその周辺が原因を作ったことが確かだとは言え、遅かれ早かれその時は来たんです。あなたも、真田さんも、荒垣さんもゆかりも順平も山岸さんも天田君も誰も彼も、……ペルソナを発現したことは決して責められるようなことじゃない。状況に強いられていたと言われれば否定は出来かねますけど。少なくともいつまでも気に病むことではないと僕は思いますよ」
「……だがな、こうしている今も私は」
「唯一責められるとすれば、ぬくぬくとファルロス……デスを育てていた有里湊ですかね。しかも最後の最後でヒロイックになっちゃって、後先考えず自己犠牲なんてしちゃいましたし?」
 湊はわざとらしい台詞で美鶴の続く言葉を遮った。湊の声は抑揚に乏しく表情は伺い知れない。純真無垢な子供の表情でにこにこしながら彼の腕の中に収まっているジャックフロストが酷く場違いだった。美鶴は酷く動揺したようで、焦燥気味の表情になる。湊自身は自己犠牲をどうとも思っていない。ただ、その結果誰かが苦しんだことは知っていた。
「特別課外活動部は最後にニュクスの降臨を阻止しましたよ。結果は十二分じゃないですか」
「しかしそれはたった十七の少年と引き換えに、それも全てを押し付けての結果だ」
「――それでも世界は救われたんですよ」
 湊は腕の中に抱いていたジャックフロストをふわりと放し、真っ暗闇のような瞳で美鶴を見据えて言う。美鶴の肩がびくりと揺れるのを視界に捉えて湊はやんわりとかぶりを振った。小さく「りょうじ」と名を呼ぶと、空を漂っていたジャックフロストが青い結晶に包まれて消え、代わりに少年が現れる。
 泣きぼくろの少年は呼び出されてきょろきょろと辺りを見渡し、それから美鶴の顔を見てぎょっとした表情になり、これまでの経過を悟ったのかまず手を合わせて謝罪のポーズを取った。一方の美鶴はもう綾時の突然の登場にもこれといった反応を見せない。その余裕がなかったのかもしれない。
『湊君』
「何も言うな。ジャックフロストから聞いたし。なんとなくはわかってるんだろ、説明してもいいけど後」
『そういうことじゃなくてね。君は口下手をこじらせすぎ』
 ちょっと頭冷やした方がいいよ、と子供の小さな手で押し退ける仕草をされる。少しむっとしたが、綾時の気持ちがダイレクトに流れ込んできて「ああ、もう」と湊は変な顔をした。ぶるりと体を震わせて、それでようやく「どうやら選択肢をミスしたらしい」ということに思い至る。まずった、と思う。人の心は本当に複雑だ。
 美鶴は俯きがちに、躊躇うように唇を開く。彼女が後悔や葛藤をしている時によくする仕草だった。
「……すまない。君にそんなことを言わせたかったわけじゃない」
「知ってます」
 湊は努めて無感情に返答をした。なんだか少し、やるせなかった。
「真田さん」
「……なんだ」
「多分もう気付いているとは思いますが今夜は満月ですから。影時間の間、美鶴先輩から目を離さない方がいいですよ」
「どういう意味だ?」
「引鉄を引くことの意味を、あなたは知っているはずだから」
 言いたいことだけ言うと湊はきびすを返して二階への階段へ足を掛ける。それから少しだけ逡巡して、くるりと後ろに向き直った。
「美鶴先輩をお願いします」
 それきり湊は真田や美鶴と顔を合わせようとしなかった。階段を幼い子供がぱたぱたと駆け昇っていく音においてけぼりにされて、真田はどうしたものかと息を吐く。美鶴は気丈なたちだが、今は流石に大分ナーバスになっているようだ。湊があそこまできついことを言うとも思っていなかったし、それに満月が異常に早い。予想外のことばかりだ。



◇◆◇◆◇



『ばかだね、湊君は』
「うるさい」
『本当は嬉しいんだよね。でも恥ずかしくて、なんだか変な気持ちになっちゃって、きついこと言っちゃうんだ。わかるよ、僕は湊君だもの』
「……うるさいよ」
『素直じゃないなぁ』
 口に手を当ててくすくすと笑う。綾時はいつもこうだ。わかってる、しってる、ぼくたちソウセイジだから。そういうふうに、笑う。
 思えばそれは彼がまだ「ファルロス」であった頃からそうだった。同じ母の腹から生まれたわけじゃない。むしろ関係性としては親子の方が近しいだろう。だがそれでも「湊」と「ファルロス」は心を許し合えるトモダチにしてはらからであり、それはまた「湊」と「綾時」にとっても同じだったのだ。
 実際に顔形は非常に似通った造りになっていたし(二人の印象の差異は大方泣きぼくろの有無と目付きの違い、それから前髪の処理方法からもたらされている)よくよく聞いてみれば声だって非常によく似ていたのだ。きっと服を揃えて、髪型を一緒にして並べば本物の双生児のように見えたに違いない。

「時々リョージとリーダーってびっくりするぐらい動きがぴったりしてんよな。あれなんて言うんだ? ユニゾン? シンクロ?」
「さあ。どっちでもいいと思うけど」
「えっ、そうかなぁ。ふふ、なんだかそう言われると嬉しいね湊君」
「別に」
「リーダーお前顔と言ってること一致してねーって」
 にやけ顔のリーダーとかレアもんじゃん。確かその時、順平はそう言って笑ったのだったか。
 随分と昔の話だ。もう十年も前のことだ。

 あの時自分が口端をゆるめたのは大抵の場合「独り」であった自分が望月という存在に許容されたことが嬉しかったからなのだろうと思う。湊は仲間達が好きだ。ただこと綾時に関しては飛び抜けて、好きという概念を突き抜けて、彼の中に安らぎを見ていた。
 綾時の鼓動は、湊の鼓動と綺麗に噛み合って心地良いリズムを刻んでいた。二人の心臓が鳴らす音のペースは同質だった。当然だ。感覚として、綾時は湊なのだから。
『君はなんというか、他人からの好意に切り返すことが苦手だよね。今に限らず、昔から』
 綾時がからかうように言うと湊は不機嫌そうに眉間に皺を寄せた。
「僕は逆にどうして綾時があんなにぺらぺら女の子を口説きに行けたのか知りたいよ」
『だって女の子は可愛いじゃないか。可愛いものに可愛いって言うのは当然のことだよ……うん。もしかしたら、僕が湊君のそういうスキルを貰ってっちゃったのかもしれないね。君は苦手にしてるけど決して下手なわけじゃない。学園じゃ、それなりに上手くやってたし』
 六股だもんねぇ、とにやにや笑いをされる。岳羽ゆかり、山岸風花、桐条美鶴、西脇結子、伏見千尋、アイギス。それから、恋とは違うかもしれないがエリザベスも彼に感服して客人以上の興味を持った。彼は普段、非常に悪く言えば死んだ魚のような目をしているのだけれど感情を表に出す時はなかなかどうして、くるくると子供みたいに表情が変わって可愛らしい。普段のそつのないクールさとのギャップ、ってやつなのだろう。有里湊に好意を寄せてくれる女性は少なくなかった。
 そして湊は根本的には生真面目な男だったので、不器用ながらも誠実に応対した。分け隔てなく接したせいで、あちこち八方美人に好意を振り撒いているみたいになってしまったことは否めないが。
『でも、どこか距離が開いてたね。君は人との距離を取ることにかけては――本心を悟らせないことに関しては天才的だった。ごめんね。それ、きっと僕のせいだ』
「綾時は関係ない。単に僕が口下手で性格が変なだけ」
『ううん。君はね、僕をずっと育ててくれたから誰よりも死に敏いんだ。終わりを嗅ぎ付ける能力に長けてる。望まずとも気が付いて、そしてそのために無意識に行動を制約する。湊君は要領が良いから。ほんとは、未練とか一切合切残したくなかったんだよ。違わないでしょ』
 綾時の薄い灰碧の瞳が湊を見据える。未練。今の湊にとって、非常に難しい意味を持つ言葉だった。有里湊は未練を厭った。正確に言えば、そもそもそういうふうな思考を持たずにいることを良しとするきらいがあった。あの『ユニバース』を手にする時湊は躊躇わなかったつもりだったのだ。三月の卒業式までの猶予もあったし、未練なんてものは残っていないはずだった。ある意味でストレガのように刹那的に生きていた彼は「命のこたえ」を手にし、自分という概念の存在理由を理解したことで納得ずくの上全てを差し出した。
 少なくとも本人はそうであると信じていた。
『でも、未練のない人間っていうのは心のないロボットみたいなものだよ。つまりそんな人は存在しないんだ。君の感情が少し希薄だったのは僕がそれを喰らっていたからなんだろうね。僕とのリンクが薄くなってから君は以前よりも大分人間らしくなっていっていたんだよ。気付いてた? 君がニュクス・コアの攻撃に耐えることが出来たのは絆を信じていたから。なんでも『どうでもいい』と思っていた君が世界を、仲間達を、絆を『どうでもよくない』と心からそう信じたから。……皮肉だね。君の未練は世界を一度救って、そして今この綾凪から破滅を生み出そうとしてるんだ。……とても悲しいことだ』
「……綾時。それはちょっと、違う」
『そうかい?』
「そう。確かに最初、僕は受動的で……まあ、なんでもいいかなって思ってた。使命感とかそういうのもゼロ。ただなんとなく、使えるからペルソナを喚んで……でもファルロスがいなくなって綾時になったあたりから、楽しくなってきたんだ。生きてるって思った。寮の皆で何でもない話をしてる時とか、学校でくだらないことやってる時とか。放課後のゲーセンで綾時も一緒に行った時なんか、内心、ワクワクしてた。――勿論、僕の手で切り裂いたシャドウの体液が飛沫した時もね」
 否定による自己充足。湊は薄く笑む。この手に他のものを掛けた時、強い生命の鼓動を感じるのは生物元来のメカニズムだ。だから綾時はその不謹慎とも取れる言葉に反論しない。その気持ちは彼ならずともあの時の課外部メンバー全員が持っていたものだろうから。
「たぶんそれって悲しいことじゃないんだ。それに僕は綾時に感情を食べられてたとか思わない。もし本当に僕から綾時に感情の流入が起こっていたのなら、それは母親の胎盤から栄養を与えてるみたいなものだよ。必要なことだし、大事なこと。綾時」
『うん』
「ありがとう」
『どういたしまして』
 湊はいつも通りに綾時を見ていて、綾時もいつも通りににこにことしているのみだ。仮にもペルソナとその主、そういう形態を持っている二人の間にそれ以上の言葉は要らなかった。綾時が湊の後ろから手を回してぎゅうと抱き締める。二人にとっての「いつも通り」。……少しいびつなこと。
 黒猫は部屋の隅でそれを眺めていた。一応の主従の形を取る二人の複雑な因果関係について、ナオもカズもある程度の説明は受けている。それがおかしなものだとも思っている。けれども面と向かって変だと言うことも出来なくて、いつもこういう場面に出くわすとナオが所在なさげに佇むことになってしまうのだった。
 そういう時は仕方がないのでカズが外に出ることにしている。理由は単純だ。この光景がカズに取って非常に気に食わないものであるからだった。
『男のガキ二人が見せる光景じゃないな、おいおい』
『う、うわ?!』
 綾時が大仰に驚く。一方で湊はいつも通りの顔を崩さぬままだった。ペルソナの方が主より感情表現が豊かなのはどうなんだろう、とふと思うが考えても無駄だろうから口にはしない。
『ビビりすぎだろ綾時。本当にそれで湊を守れるんだろうな』
「……あれ、カズ」
 珍しいね、と首を傾げる湊につまらなそうに鼻を鳴らしてやった。カズは『俺が出てちゃまずいか』と面白くないと言わんばかりの声音で告げて綾時を長い尾で張っ叩く。だが痛みはなく、逆にくすぐったかったようで綾時はひゃあと情けない声を上げて反射的に湊から離れた。
 綾時が涙混じりみたいな顔で弱々しくカズを見遣ると彼はバツが悪そうに舌打ちをした。
『やり辛い顔すんなよ……あー、わかったって。尚也が出るとさ』
『ほ、ほんとに』
「綾時って、本当カズに弱いんだね」
『だ、だって湊君。いつもいつも敵視されるんだよ。僕これでも努力してるのに……』
「ふぅん」
 黒猫がぶるりと体を震わせると、二人がぴったり同じタイミングで屈み込んで様子を伺ってくる。カズから交代をしたナオはなんだか微笑ましくて少し笑った。毎度毎度のことだが、とてもじゃないがこの二人が死の権化だとかユニバース能力者だとか、そういった凄みのある存在には見えない。
『それで、今晩は何がお出ましだ、湊。役割分担を決めておいてくれると俺としても助かるんだけど』
「……ごめんナオ。カズ、機嫌悪い?」
『いや、そうでもない』
 気配りの出来る黒猫はなんでもないよ、というふうに尻尾を振って答えた。ちりんちりんと鈴の音が鳴る。湊が抱き上げてやるといつも通り腕の中で丸くなる。本当に初めのうちは渋っていたのだが、なんだかんだでこの青年は猫としての生活を謳歌していた。ゴロゴロと喉を鳴らしている姿を見るとそう思う。
 しばしごろにゃんと抱っこを満喫していたナオだったが、突然何か思い立ったように湊の腕からすり抜けて地面に降り立った。片耳にだけ付いた銀色のピアスが揺れて煌めく。それはナオがナオであることの証明に似たもので、湊に今なお欠けている要素だった。
『そういや、あの二人どうすんだ。ほっとくつもりか?』
「うん。慎兄と洵兄で手いっぱいだし、多分、満月シャドウはひとところに集団で発生するはずだから僕がなんとか出来ると思うし」
『どうかな。ニャルラトホテプの性格の悪さは筋金入りだって達哉には聞いたよ。大人しくお前と同時行動を取るように頼むべきなんじゃないか?』
「いいや。それならそれでなんとかなるはず。真田さんは召喚銃持ってるしね。そもそも年齢制限っていうルールがちょっと変だなって僕は思ってるんだ。それこそ、向こうがこちらの都合を悪くするために設けた変則ルールっぽいっていうか……」
 湊は、年齢制限そのものがここ十年といくらかの間に突然変異的に発生したものなんじゃないかと疑っている。ペルソナは心の力だから、それが弱まって発現不可になるのはまあ筋が通っていなくもないが、十年経ったぐらいであの真田がぷっつりと、意思に反して召喚が出来なくなるものなのだろうか? ナオも昔いい年をしたサラリーマンのペルソナ使いを相手取ったと言っていたし、どうにもニャルラトホテプの策略か何かに思えて仕方がない。
 ――或いは、綾凪の「くじら」を中核とした大規模な異常現象か何かか。
「とにかくあの二人のことは大丈夫。信頼してるからね。だってナオ、二人は僕の先輩なんだよ。仲間なんだ。特別課外活動部にそんなやわな人間はいない」
『……とは言っても、もし本当に丸腰で襲われたらどうするんだ。シャドウにやられれば普通に死ぬんだ』
「その時はかっこいいペルソナがどこからともなく助けてくれるんじゃないかな。うん、皇帝アルカナのアメン・ラーなんか、かっこいいよね。僕はヴィシュヌも好きだけど」
『はいはい。結局そういう役回りね』
 まーた貧乏くじか、と溜め息を吐きつつも顔付きはまんざらでもなさそうだ。皇帝アメン・ラー、並びにヴィシュヌ、藤堂尚也最強のペルソナ達は湊の指示で雑魚相手には召喚を控える方針になっていた。何せただでさえ強い上に能力セーブの省エネ活動に向いていないのだ。ヒエロスグリュペインなんか使い続けた日にはどうなるかわかったもんじゃない。
 だが相手がある程度の強度を持つ満月シャドウともなれば話が変わってくる。一撃で仕留めるなら大技の発動も止むなしというのが湊の考えだったし(実際湊本人は迅速な処理のために先の満月シャドウ相手にデスを召喚している)、たった一撃でも全力で暴れられれば多少は気も紛れるというものだ。
 ピアスの黒猫は窓の外を見上げた。晴天の中に薄く満月が浮かび上がっている。奇妙なものだ、と考えた。月齢には昔いくらか馴染みがあった。満月になると悪魔どもが興奮してまともに交渉が出来ないのだ。それは丁度、満月になる度に自制が利かなくなったみたいにぞろぞろ湧いて出てくるシャドウの様子にも似ていた。