Z CHARIOT:誰かの見た世界で


 少女が腰掛けている。地平線の果てが見えないどこまでも白い空間。「空虚だね」少年は問い掛けた。
「こんなに白ばかりだと息が詰まりそう」
「そうでもないよ」
「……きみは」
「ここは『くじら』の中。アヤネちゃんがいた世界。くじらは、綾凪をずっと守ってる……」
 白い世界の中に無数の白い入れ子。その一つに腰掛ける少女は長めの髪を下の方で二つに分けて結っている。笑顔が綺麗だった。
 唐突に少女が少年の方に振り向く。あのね、と口を開き、
「私、本当は助かるはずだったんだって」
 そう、なんとはなしに言う。少年は眉を顰めた。
 彼女は唐突に何を言っているのか。顔にそう記してある。
「だけど、アヤネちゃんのお父さんはそうしなかった。実験だったらしいよ」
「……それ、僕への怨み言?」
「どうして? だって君にどんな関係があるの?」
「……死神だから。僕は」
「面白いね、それ」
「冗談とかじゃ、ないんだけど」
 少女があまり真面目に取り合っているふうではなかったのでむっとして背後にデスを呼び出すが彼女は「そのペルソナ、かっこいい」と言うだけで特に怖がったりはしない。ペルソナに何の疑問も抱かないことが少し気にかかったが、所詮彼女は現の存在ではないのでどうでもいい、と流すことに決めた。
「ね、君の名前は?」
「……湊。苗字はない。僕が人間でなくなった時に、それは無くしたから」
「そうなんだ。でもそれ、ちょっと不便じゃない?」
「なんで?」
「君、これから綾凪に行くんでしょ?」
 少年の幼い体をつま先からてっぺんまでじろじろ見回して少女が問う。こぎれいな短パンに青と白のツートーンのTシャツを着て、肩から銀色のヘッドホンを掛けている名無しの少年は少女に一言もそんなことは告げていない。なのに、彼女はうんうんと頷いて少年の頭を撫でたりなんかしている。
 理解がつかない。少年は半ば苛立たしげに少女を仏頂面で見返した。
「きみこそ、何なの」
「私? 私は神郷結祈。ペルソナ『アベル』を持ってる神郷槙は私のお兄ちゃん。お兄ちゃんに用があるんでしょう? 苗字、絶対あった方がいいよ。名前は契約に必要なものだしね……だから」
 何もない場所からペンとメモを取り出して、彼女はさらさらと紙に文字を紡いだ。「K―A―N―Z―A―T―O」、「神郷」。その隣に「湊」と書き添える。そうして、ぐいとメモを押しつけてきた。
「君に私の名前をあげる。だから、これから君は神郷湊」
「……?」
「いい名前でしょ? 洵はともかく慎お兄ちゃんは変なとこ疑り深いというか、常識ぶっちゃうから。通行手形みたいなもの。あった方がいいと思うよ」
「え、いや、別に……」
「私が君のお姉さんになってあげるから」
 そうして少女は少年をそのかいなに抱いた。
 すごく、久しぶりのことだと思った。
 誰かに抱き締められるのも、抱き締めるのも、もういつぶりなのか、最後がどれだけ昔なのかすぐには思い出せない。少年にはきちんとした家族が存在していなかったのだ。母も父も七歳の時に死んでしまった。かけがえのない「しにがみ」をその身に宿したあの日、両親はムーンライトブリッジでシャドウに殺されてしまった。
 その後は親戚をたらい回しにされた、ような気がする。どうでもいいからあまり覚えていないけど、多分そうだ。
「君は、ひとりぼっちって好き?」
「どうでもいい」
「そっか。嫌いなんだね」
「……どうでもいいってば」
「それじゃ嫌いなんだね。諒お兄ちゃんとちょっとタイプ、似てるかも」
 抱擁を受けてこなかったから、自然と誰かを抱き締めるということも少なくなった。あの子は――ファルロスと綾時は沢山沢山抱き締めてあげたけど、それはこういう抱擁とは異質のものだったと思う。
 その中において、唯一の例外が恐らく岳羽ゆかりだった。彼女の相談に乗る一番最後に、あやすように、誰に言われるまでもなく自然に彼女を両腕で抱き締めてやったはずだ。
「大事なものを取り戻しに行くのなら、家族の支えがどれだけ大きなものなのか、私は知ってる。諒お兄ちゃんが戦ったのは洵と慎お兄ちゃんのためだった。慎お兄ちゃんも、洵もそう。家族ってあったかいのよ。私は死んじゃったけど、それはずっと感じてたの。……洵には、ちょっと悪いことしてたんだろうなって、思うけど」
「きみが家族が好きだってことはわかったよ」
「そう? それじゃ、私が君のこと好きだってこともわかってくれた?」
「……なんでそうなるわけ?」
「言ったでしょ、お姉さんになってあげるって。だったらもう家族だもの」
「ごめん。ちょっと意味わかんない」
「そのうち分かってくれればいいよ。君が『くじら』の中に来たって気がついた時に思ったんだ。君には、家族の名前が必要だって……それが綾凪に留める楔になるんだって」
「楔。それも、『くじら』の言葉」
「そんな感じかも」
 少女ははにかんだ。すごく強引な言葉の数々を投げかけられたように思うが、不思議と少年に彼女を嫌悪する気持ちはなく、嫌いになれない、むしろ好きかもしれない、という「感情めいたもの」が落ちてくる。
 本物の「感情」はあの最後の日になくしてしまった。代償に捧げてしまった。未練と共に捨てた。だからあくまでも「らしきもの」で「それっぽいもの」でしかないけど。
 まぼろしが見えた。
 良く晴れた気持ちのいい日で、家族が屋外でパーティーを開いている。バーベキューセットを持ち出して、真面目そうな長兄が弟妹の面倒を見ていた。少女もいる。同じぐらいの背格好の少年と並んで、瓜二つの顔立ちではにかんでいた。
 でもすぐにその光景は掻き消えて元の真っ白な空間が戻ってくる。視線をやると、少女は躊躇いがちに目を伏せる。
「今の、もしも私が死んでいなかったらこうだったかもしれないっていう仮想の夢なの。慎お兄ちゃんが昔、訪れた世界の残滓。でももしもっていうのは、絶対に叶わない平行線のことなんだよ。だから湊も、『もしも』っていう言葉だけは使っちゃ駄目」
「たとえば、もしもきみと出会わなかったら……とかそういうこと?」
「そう。だって私はもう湊と出会って名前をあげたんだから。それから、きみ、って呼ぶの止めよう。私の名前まさかもう忘れてたりしないでしょ?」
「結祈」
「よく出来ました」
 結祈が頭を撫でる。湊は少し憮然とした表情になったが、
「まあ、どうでもいい」
 満更でもないというふうにそれに甘んじた。
 急速に世界が開けていく。一面の白が恐るべき早さでどこかの街の俯瞰図に塗り変わっていった。「綾凪市」だ。富山の計画開発都市。
 「リバース事件」が多発して、十年前の辰巳ポートアイランド・八十稲羽市以来になる「霊的重要スポット」となりつつある。磁場は酷く悪くなっているし気の通りも悪い。確かにここならばあの事態を再び招くことも出来るだろう。
 「這い寄る混沌」ニャルラトホテプにはそれだけの力が備わっていた。
「じゃあね、結祈」
「慎お兄ちゃんと洵によろしくね」
「……うん」
 周防達哉の救出。それから、繰り返される影時間の修正。今はやらねばいけないことが山ほどある。摂理を堰き止めてでも自分の不始末には方を付けなければいけない。
「だから、今は結祈が何者なのか聞かないでおく。忙しいから」
 湊は振り返らずに一直線に綾凪市へと飛び降りた。俯瞰風景が重力による加速でどんどんと近くへ迫ってくる。人間ならば衝突の衝撃で肉片になり吹き飛ぶだろう。だが、湊の人間としての体はもう十年前に死んでしまった。
 この程度で死んだりするほど軟弱ではいられなくなってしまった。
「――デス」
 素早く召還銃で額を撃ち貫き、十三の棺桶を背負う死神の体現にして強固な絆である「有里湊の象徴」を召還する。ゆるやかに加速が止まった。遠目にシャドウが確認出来る。青い仮面つきのコールタールみたいな何か、無数の「臆病のマーヤ」だ。
 夜闇をただ駆けた。大概のことは、本当はどうだっていい。
 だけどどうでもよくないことだってちゃんとある。
 救わなければいけないと信じているものも、だから確かに、どこかに。



◇◆◇◆◇



『ペルソナを苦痛なく引き剥がす――本来そのパーソナリティを生み出し保持し得るはずの宿主から後遺症ゼロで抜き取るっていうのはつまり、相手からアイデンティティを副作用なしに奪い取ることなんじゃないかなって僕は位置づけたんだ。エゴイズムの浄化、と言ってもいいと思う。勿論使い方を誤れば凶器でしかないけどね。その人である根源を削り取るってことだから』
「やりすぎると廃人になる。その状態がいわゆる通常の『影抜き中毒患者の末路』、『無気力症』ってこと。そのあたりをオートかつマルチに制御してくれるのがアベルの剣の特殊能力。これが僕の出した結論」
「なるほど、ね……」
「慎兄が『因果律の断罪者』って定義されてる意味、ようやくわかったかもしれない。エゴイズムの断罪、エゴ殺しは因果律に強い影響を及ぼすニャルラトホテプに対するすごく強力なカードなんだ。やつは、人間のエゴイズムを食い物にするから。達哉の件なんかは、それが特に顕著だったって聞いてる」
 資料に記載されている「珠フ瑠市」のレポートを慎と洵に見せながら湊は淡々と知っていることを話していく。人間の救い難く度し難いエゴイズムこそを至高のエネルギーとする邪神ニャルラトホテプが引き起こした記録史上最大の災害であったその事件ではまず「噂が現実になる」という非現実がさも当たり前のように浸透し、それを土台に大規模な変革までが起こってしまったのだという。その最たる結果が「パラレル・ワールドへの分岐」なのだと短い時間に達哉は湊に教えてくれた。
 それこそが、「周防達哉の犯した罪と罰」なのだと。
「目下の問題は、今回の綾凪の件がそれに似通って来ていること。多分意図的に似せてきてるんだと思うけど、それが成就すると誰かが犠牲になる上にわりと等しく皆が不幸になりかねない。世界は人間のエゴで書き換えちゃいけない。それは書き換えてしまった達哉本人が漏らした言葉でもあって、書き換わらないように守った僕もそう思っていること。あのね、慎兄、洵兄。もしもだよ……『もしも、自分のエゴで世界が書き換わって結祈も諒兄も両親も死なない世界が手に入る』としたら、二人はどうする?」
「どうするって。僕はどうもしないよ。今のままでいいもん」
「あー、まあ、俺もそんな感じだな。なんていうか、こうなるべきだったようには思うんだ。世界ってそんな簡単に変えていいものじゃないだろ」
「そう。それを聞いて、安心した」
 結祈が言ったことを思い出す。「もしもは、絶対に叶わない平行線上の世界のこと」。事実だ。達哉がそれを証明してしまった。
 何かを手に入れる代償に、人は等しく何かを喪わなければならない。人間は神にはなれない。また、神なんていうものも、いやしない。
「神様なんてみんな悪魔みたいなものだよ……」
 かつて湊が自らのペルソナとしていたものたちも、最上位クラスになってくると誰でも知っているような非常に高名で強力な悪魔や神々の姿を取るようになっていった。魔神ヴィシュヌやら、威霊アリラトやら、果ては悪魔王サタンから堕天使ルシファーまで。それらも全て湊のパーソナリティの欠片なのだ。
 それを見て、「なるほど、人は、神にも悪魔にもなれる、ということだな」と、美鶴は湊に他意なく言った。
『それでね、シャドウっていうのは人々の無意識から抽出されたエゴイズムの集合体みたいなものだから、慎のアベルの剣はすごくよく効くんだよ。凝り固まっているのを一発で霧散させるような、そんな感じ。RPGでいう、○○特効ってやつだね』
「はあ、なるほどな。ドラゴンキラーみたいなもんか」
『そう。人間にアギがよく効くようなものだよ』
 ぞっとしないことを笑顔のまま言って、ねえ湊君と綾時が主の方にすり寄っていく。湊は彼を一瞥して「その例え、最悪」と一言だけ漏らした。
「ごめん。綾時、こういうとこちょっと頭足りないみたい。それから慎兄はペルソナの耐性として炎にはわりと強いよ。どっちかというと、風に弱いかも。だからザン系メインのシャドウと戦闘する時は注意が必要」
「い、いや……綾時には、悪気とかないんだろ? いいよ別に。それじゃ次の大型シャドウは何型なんだ? 真田さんが言ってたけど、湊達は昔同じの倒したことあるんだろ?」
「あるけど、前のより強くなってると思う。一応、その時はジオ型と嫌がらせ系だった」
「なんだよ嫌がらせ系って……」
「マリンカリンとかハートブレイカーとかそんなのばっかり。そもそも、戦闘前に幻惑しようとしてきたし。おかげで僕は何も悪くないのに変態呼ばわりされてゆかりに殴られた」
 そもそもラブホに出現するというその時点で迷惑極まりない。湊は当時の順平言うところの不健康な男子だったからゆかりの裸を見たところで何か興奮したわけでもないし、むしろ焦ったし、というよりバスタオルを巻いていたから裸というのもあれだし、あの時は同じような境遇に追い込まれて美鶴の「処刑」を問答無用で喰らったらしい真田と二人でぶーたれたりしたものだった。
「でもちょっと懐かしい」
「……湊?」
「懐かしいけど」
 資料をくしゃりと握り締めた。綾時が後ろからそれを覗き込んで、けれど何も言わずに目を瞑る。
「もう、全部、どうでもいい」
 しがらみは棄てたから。ゆかりが「有里湊」の幻に縛られているかもしれないということに関しては罪悪を覚える。だけど湊の側からの終着や未練はもうない。
 人であることを放棄した時に沢山のものを捨て去った。人であった頃の名残として感情めいたものはまだ持ち合わせている、と思うけれど、大事なものは、残っていない。
 そもそも大事なものって、なんだったのだろう?
 もしもはあり得ない。だからあの日両親はムーンライトブリッジで死ぬし、その時幼い湊はデスをその内に抱くのだ。やがて月光館学園に進学し、特別課外活動部に入り、満月シャドウを討伐し、最後は選択を迫られる。
 何度繰り返しても同じ。最後に行き着くのは、「大いなる封印」。
「何が大事かっていうのは、喪った時になって初めて気が付くっていうけれど……湊は。いっぱい無くしすぎて、それすらもわからなくなっちゃってるのかもしれないね」
 ふと、洵が言った。



◇◆◇◆◇

 

 前座にハイエロファント、それを倒したと思ったところでのラヴァーズの奇襲――というのがかつてのパターンだったのだが、当たり前だがそういうふうに上手くはいかないらしい。
 前回同様二体が離れた場所に同時に出現。二体間の距離はそこそこ離れているから、複数を同時撃破するために戦力を分散しなければならない。

「真田さんはナオと同行してハイエロファントの方を。ジオ系反射なので物理でゴリ押してください。十年前みたいにジオンガ叩き込もうとしないでくださいね。それが得意なのは知ってますけど」
「そう言うぐらいなら俺をラヴァーズの方に回せばいいだろう」
「却下します。美鶴先輩と同行した状態でラヴァーズに対峙するとか、即処刑行きですよ。凍りたいのなら止めませんけど」
「俺と洵は?」
「僕と来て。状態異常がかかったら、治すから」

 そういう経緯があり、大型シャドウ《ラヴァーズ》の前に集まっていたのは湊とそのペルソナの綾時、そして慎と洵の四人だけだ。真田と湊の会話に度々出てくる「処刑」という物騒な単語が何を指し示しているのか、それが気になって仕方ないがどうにも聞ける雰囲気ではなかった。
 慎は息を呑む。
 蛍光がかったパールピンクの、奇妙にてかってどろどろした印象を抱かせる巨大なハート型のシャドウ。それが六番目の大型シャドウの大まかな外見だった。司るアルカナは恋愛、得意攻撃は精神異常系、らしい。
 綾時に事前にそう説明されていた通りラヴァーズはペルソナやシャドウが通常最も得意とする魔法攻撃をあまりしてこなかった。多分。
 多分というのは戦闘が始まってすぐに何か不可思議な空間に囚われてしまい、その後湊達とラヴァーズの姿を見失ってしまったからだ。
「洵、無事か」
「体は大丈夫。慎兄ちゃんは?」
「俺も身体的には問題ない。他は……問題だらけだけど。まずここ、どこだよ」
 屋内だ。全体的にぎらぎらした派手な蛍光色が多く使われていて、意匠にはハートマークが多い。妙にアダルティな雰囲気の照明があちこちに設えられている。建物そのものの広さは、さほどでもなさそうだ。
「こんな場所に来た覚え、ないんだけどなぁ」
「ラブホテルって言うんだっけこういうところ」
「洵お前どこでそんな言葉覚えた」
「知識では知ってるよ。言ったことはないし、興味もない」
「ならいいけど――伏せろ、誰か来る」
 曲がり角の向こうから誰か、人の足音が聞こえてくる。音からして二人ぐらいだ。壁に張り付くようにして隠れながらその姿を確かめて慎は愕然とした。二人組は男と女のペアだったのだが、その片方に見覚えというか、面影があった。
「湊っ……?!」
 しかし慎にとって見知った湊の姿ではない。背格好は高校生ぐらいで、高くはないがそこまで低いわけでもない。服装はあの見慣れたツートーンカラーのTシャツではなく、どこかの学校の制服だった。濃い紺を基調にしたブレザー。それに銀色のヘッドホンを下げてポケットに手を突っ込み、猫背で丸まりながらぼーっと歩いている。
 隣で歩いている女生徒も猫背でこそないものの同じようにぼーっとしているようだった。湊だけならともかく、女生徒の方もぼんやりとしているのは何か変だ。
「慎兄ちゃん、あの二人、僕達のこと見えてない」
「じゃあなんだ、これはやっぱりラヴァーズが仕掛けてきた幻覚攻撃か何かなのか……?」
「わかんないけど……見えてないみたいだし、付いてってみようよ。そこの部屋に入るみたい」
 洵が指さした先の部屋の戸が、湊に似た男子生徒の手によって開かれる。失敬してその扉が閉まる前に滑り込むと、男子生徒は意志がどこかにいってしまったような足取りでふらふらとベッドに座り込み、女生徒はシャワー・ルームへ向かいその中に入ってしまった。
 シャワーのざあざあという水音が扉越しに部屋中に響き渡っている。非常に居心地が悪い。
 男子生徒が顔を横に振った。
「何か……忘れてるような……」
 シャワーの水音は続いている。きっちりとした制服を着込んだままの彼はなにがしかの運動でもした後なのか僅かに汗ばんでいた。ふと面を上げ、電灯を仰ぎ見ている。目は死んだ魚のような灰褐色に濁っていた。やや青みがかっていて、それが電灯のピンクを反射すると言うよりは呑み込んで、混濁した色合いを映し込んでいる。
 突然、雷でも打たれたみたいに彼が頭を抱え込んだ。
《享楽せよ……》
「誰だ……?」
 ボイスエフェクトを機械でがちがちにかけたみたいな嫌な声がする。その声は甘言を紡ぎ、男子生徒に何かを迫っていた。
《我、汝の心の言葉なり……今を享楽せよ……見えざるものは幻……形ある今だけが真実……》
「……そんなことはない」
《未来など幻想、記憶など虚構……欲するまま、束縛から解き放たれよ……汝、それを望む者なり……》
「勝手に決めるな……」
《汝、真に求むるは快楽なり。汝、今正に快楽の扉の前にあり。本心に耳を傾けよ……快楽を享受せよ……》
「……今はよしておく。そういう気分じゃ、ないから。……あー、大分意識がはっきりしてきた……」
 拒否の言葉を告げたことで謎の声の誘惑は止まった。彼は立ち上がり、かぶりを振ってシャワー・ルームの方へ歩いて行く。その時丁度シャワーの水音が止まった。
 扉の向こうからピンク色のバスタオルを胸から腰にかけて巻いた女生徒が出てくる。
「え、あれ、私……」
「丁度良かった。岳羽さん、」
「……え、ええっ?! イヤーッ!!」
「多分これ新手のシャドウの精神攻撃……は?」
「有里君の、バカッ!!けだもの!!!」
 女生徒が男子生徒に駆け寄り、思いっきり、恐らく渾身の力を込めて男子生徒をひっぱたく。ぱしんという乾いた音。女生徒は慌ててシャワー・ルームに戻っていき、その場には男子生徒だけが残される。
 何かすごく理不尽な光景を見ている気がして慎は密かに男子生徒に同情をした。彼は叩かれた頬を少しだけ撫でて、一言ぼそりと「……理不尽」と言い――

「メサイア。《メシアライザー》」

 そこで急に現実に引き戻された。


 はっと気が付けば、もうどこにもラブホテルの壁なんかなく、立ち尽くす男子生徒も存在していなかった。慎の視界の中にいるのはブレザーを着た高校生ではなくTシャツを着た小学生ぐらいの少年だ。
 湊は気負わない動作で召還銃を額に当てかしりと引き金を抜く。ぱきん、という例の音。救世主の姿をした白いペルソナが引っ込んで茶褐色の肌に赤系の装飾を付けた女性型のペルソナに入れ替わる。
「慎兄も洵兄も、長いこと精神攻撃に掛かってた。今全部解除したけど、問題ない」
「あ、ああ。なあ、一体あれは……」
「僕は精神異常かかってないから二人が何を見たかは知らない。それより、あいつをさっさと倒さないと。観察向きのシャドウじゃないみたいだから……キクリヒメ。アギダイン」
 命じられたキクリヒメが巨大な火炎球を生み出してラヴァーズめがけて放り投げた。デスを出していないのはフィードバックを抑える為だろう。だからかなり手加減しているのだろうが、そんなことにお構いなくその炎はラヴァーズを一瞬で包み込んで燃やし去ってしまう。断末魔を上げる間もなくラヴァーズは綾凪から駆逐され、その姿を一瞬で消した。
「今日はこれで終わり」
 感情の起伏に乏しい声でそう告げる。その姿に先程見た男子生徒の面影がだぶり、ぶれて、そして消えた。二人はよく似ていた。でも、外見とかでなくて、もっと本質的なところが似ているのだ。
 でも神郷湊には、有里と呼ばれた少年にあったものが欠如している。
 ――だとしたら。
「帰ろう、慎兄。二人が見たのはラヴァーズの精神ジャミングによる幻覚だから、あんまり深く気にしない方がいいと思う。すごく嫌なことだったら忘れた方がいい。すごくいいことでも、忘れた方がいい」
 「神郷湊」は、何なのか。
「もうハイエロファントの方もけりがついたみたいだって綾時が教えてくれた」
 人間じゃないんだってことは本人の口からそれとなく聞いてなんとなくだけどわかっているつもりだった。だけどそれだけじゃない。そうじゃないのだ。
 神郷湊は、その人間性のようなものがあまりにも中途半端すぎる。まるで誰かにすっぱり断ち切られたり、抜き取られでもしたみたいに部分的に欠損しているのだ。
 顕現したまま立っている「アベル」の剣を思わず見た。あの剣でペルソナを剥ぎ取られたマレビトの最後の姿が慎の脳裏を掠め、そして消えてなくなった。