]U HANGEDMAN:ユニバース・エンブリオと愚者の影


 赤いカーペットの上に、巨大な金色のルーレット。その上に木馬が嘶きをするような体勢のシャドウ本体が乗っかって、そのルーレットをぐるぐる回している。
 満月シャドウ《フォーチューン》。ルーレットの八つの目から一つ、特殊効果を発揮するという奇妙な攻撃方法を用いるシャドウ。姿格好こそは回転木馬に似ているが、もちろんそんなに楽しいものではない。
「《フォーチューン》自体はそんなに強くないんだけど、≪ストレングス≫がガードしてるから、まずはあれを倒さないと……」
 討伐のメインは慎、尚也、真田、それから美鶴。湊と洵がバックに回り、それなりに順調に戦闘は続いていた。当時の《フォーチューン》《ストレングス》戦を経験しているメンバーが三人いるので、当然と言えば当然の流れではある。
 まず回復はバックに下がっている湊が全てメディアラハンで賄うので、前線の四人がそれを気にする必要はない。十年前に取った定石通りにストレングスを倒してしまうのにさほど時間はかからなかった。これは尚也の持つペルソナ《アメン・ラー》のヒエロスグリュペインの効力も大きい。
 だが案の定というべきか、問題はそこからだったのだ。
「――全員下がって!!」
 湊の鋭い叫びにつられるように四人が全速力で後退する。その直後、先程まで四人が立っていた地形をまるまる含めてフォーチューンが爆発した。湊の見立てではまだフォーチューンの体力は半分ほど残っている。この爆発が消滅の際のエフェクトだとは考えられない。
 げほ、ごほ、と煙を吸い込んでしまった副作用でむせ返りながら六人が目にしたのは、少しずつ晴れていく煙幕の中に鎮座している傷一つない《フォーチューン》の姿だった。残りの体力も変わらず半分ほど。だが明確な変化が起きている。ルーレットの目数が、先程の数倍に増えているのだ。
「何……?!」
「綾時! 上から見て!!」
『わかった!!』
 フォーチューンがどすんとルーレットの上に立ち、嘶き、ルーレットの回転が始まる。今まで赤と青の二色で整然と分けられていた目は全てモノクロカラーで統一され、微妙な濃淡を変えたグラデーションのように連なっていた。回転速度が上がり視認が難しくなっていくそれを、綾時が人ならざる目で必死に追う。描かれているのは、爆発前のようなエフェクト表示のイラストではない。ギリシャ数字だ。ギリシャ数字が、ばらばらになって、回っている。
 もちろん時計ではない。数字は十二よりはるかに多く、もっと嫌なふうに、そのうえ一つだけアラビア数字が混ざっていて――
『湊君!! 全員、無理矢理にでもガードして!! このルーレット、アルカナだ。タロット・カードの大アルカナ!!』
「……了解!!」
 チェンジ、の切迫したかけ声と共に綾時が解除されてかき消え、その代わりに救世主のペルソナ《メサイア》が現れる。審判コミュニティ最高ランクのメサイアは長時間使い続ければデスを使用したマジシャン戦同様のフィードバックを喰らう恐れがあったが、全員を保護しようとすればこれぐらいの戦闘力がないと心許ない。
「おい、湊、アルカナがタロットの目って……」
「わかんない。でも、すごく、嫌な予感がする。フォーチューン……そう、《運命》は、綾時の人としての側面が司るアルカナ。僕は、運命って言葉が嫌い。運命なんてくそくらえだ……『マハラクカジャ』!」
 メサイアが大きくその両手を広げるのと、ルーレットの目が止まるのは同時だった。フォーチューンの頭上に大きく《T》の数字が浮かび上がる。魔術師のアルカナ。
『構えろ!! 来るぞ!!』
 尚也が叫んだ。
 Tの数字がぼやけ、金色の鱗粉みたいになって拡散していく。飛沫したそれを呼吸器から吸い込み、またむせる。そこで急激な立ち眩みを覚え、まず美鶴が、それから真田、湊、洵、尚也、慎の順に倒れ込んだ。メサイアを立てておいたからか、意識は辛うじて残ったが、全員そこから動くことがままならない。
 昔ニュクスの圧倒的な死の力に引力のようにねじ伏せられた時と似た感覚に、覚えのある真田と美鶴が厳しい顔をする。あの時、有里湊は一人だけ立ち上がって行ってしまった。
 不意に、フォーチューンの姿が消え、それからたった今まで全員が立っていた綾凪駅前のロータリーも視界から消え失せた。三百六十度ぐるりと周囲を覆っているパノラマスクリーンが投影していた映像を切り替えたかのように、ぱっと一瞬でまったく違う映像が映り出す。鱗粉を吸い込んだ事で発生した幻覚効果を疑って湊は動かない身体を引き摺りメサイアに「メシアライザー」を命令したが、効果はなかった。
「バステじゃない……? 解除出来な……」
『あ……月だ』
 湊の独り言を遮る形で、しかし湊の声にとてもよく似た声が響いた。ステレオ・サラウンドで頭の中にがんがんに響いてくる。若干ボイスエフェクトがかかっていて、そのせいなのか、酷く平坦な声音だった。機械が与えられたテキストを棒読みで読み上げているみたいに、感情がない。
 映像がぶれて、一人の少女の顔が大映しになる。茶髪の、ミディアムショートの高校生ぐらいの少女。その背景には階段が映っていて、あたりは影時間特有の薄暗さに包まれていた。
 ガン、ガン、という建物を叩く音が響いて断続的に揺れが発生している。少女はその中に立ち、信じられないものを見る目で叫ぶ。
『今はそんなのどうでもいいでしょ?! 死にたいの?!』
『……どうでもいい。死ぬって……そんなに怖いこと?』
 少女が絶句して、立ち尽くした。そのままぶちりとブラウン管テレビの電源を落とす時のような演出が入って映像が終わる。
 入れ替わりに、フォーチューンが綾凪駅前ロータリーと共に出現した。
「今の……」
 誰からともなくそんな声が漏れた。視線が自然と湊に集中する。その湊自身、呆然とした顔をしていて、「なんで」、と唇をふるわせていた。
「僕だ……なんで……カメラの死角だから。このこと、僕とゆかりしか知らない、はずなのに」
「では、有里、これは」
「実際にあった過去の映像。これは二〇〇九年四月九日の、巌戸台分寮の僕とゆかりの会話。でも……これで何がしたい……?」
 フォーチューンが再びルーレットを回し出す。次の目は《V》と《W》。どうやら目の丁度中間に止まったらしい。女帝と皇帝を示す数字は、先の魔術師同様金の鱗粉に姿を変えてそこら中に飛散した。
 次にパノラマ状に映ったのも、やはり影時間の映像だった。横たわっているらしく、天井が大写しになっている。『また一つ試練を乗り越えたね』声がして、その主を探すように視界が揺らめいた。泣きぼくろの囚人服を着た少年が、腰掛けている。
『でもね、不思議なんだ。君を見てると、そんなこととは反対の、大きな可能性を感じる……。現に君の力、前とは大分変わってきてるみたいだしね』
『……』
『ねえ、よかったら、僕とトモダチになってよ。君にスゴく興味があるんだ……どうかな?』
『……いいけど』
『うん! じゃあ、今からトモダチだ!』
『せっかち……』
『僕の名前はファルロス。よろしくね』
 ずい、と手を差し出されて、誰かは手を握り返した。ファルロスと名乗った少年が満足そうに頷いて、また、ぶち、と映像が終わった。
 三度現れたフォーチューンが挑発するようにいななく。湊は混乱しそうになる頭を振りかぶって、思考を一本化するよう努めた。敵の目的が何であるにしろ――まずはこの状況を打開しなければならない。
 倒せるのなら、倒す。そうでなくとも、糸口を確保したい。サーチ能力を持っている美鶴のアルテミシアを借りようと湊は振り返り、しかしそこで想定外の事態に愕然とした。
「美鶴せんぱ――?!」
 既に美鶴は意識を手放した後のようで、事切れた人形のように目を閉じて横たわっていた。美鶴だけではない。真田と、それから尚也もだ。慎と洵はまだしっかり目を見開いて、連続で投影される映像に頭が付いていけなくて混乱しているらしいもののきちんと呼吸をして意識を保っている。
「……慎兄、洵兄、無事?」
「無事って……動けないけど、別に攻撃はされてないから……。……って、あれ?」
「どうも、僕達三人以外は瀕死状態、みたい。考えられるのは、属性アルカナによる即死攻撃。美鶴先輩は女帝で、真田さんとナオは皇帝だから、恐らくは」
「は?! それじゃそれぞれのアルカナがルーレットで出たら、俺達……」
「うん。全滅する。――みんな死ぬ」
「おい……それって、かなりやばいんじゃ……」
「うん。だから何とかしなきゃ。悪いんだけど、今はフォーチューンの幻覚の内容については聞かないで。考えるのもダメ。後でちゃんと説明する。僕がわかる範囲は……《メサイア》!」
 メサイアが静かに降臨し、両腕を開く。重力がキャンセルされ、湊はすぐさま立ち上がり召還銃を自らの頭頂部に突きつけた。それに倣って慎と洵も立ち上がる。急に負荷がなくなったせいで多少ふらついたが、慎の体力自体はまだ八割以上残っているし、気力にも問題はない。
「さっきバステ扱いで解除出来なかったから、向こうに能力キャンセルしてみた。当たりみたいだね。あとは……慎兄、僕が指示するから、その通りにお願い。アベルの剣で切り込めるかが鍵になる。洵兄、僕、多分最後倒れるから。後は頼んだ」
「わかった」
「わかったよ」
 フォーチューンが次なる攻撃のためにまたルーレットを出して飛び乗る。湊の指先が安全レバーの外れた引鉄に触れ、そのままかしりと引き抜く。
「召還。《デス》!!」
 デス諸共、捨て身で敵陣に切り込んでいく湊に被さるように次のルーレットの目が出た。≪]U≫。刑死者。
「ブレイブザッパー!!」
 攻撃をもろに喰らってよろめくが、フォーチューンの映し出すパノラマ映像は止まらない。すぐさままた、天井が現れた。どこかの誰かの部屋の知らない天井だ。染み一つなく、綺麗だが殺風景だった。
『おはよう。こうして陽の出てる時間に会うの、初めてだね』
 先の映像でファルロスと名乗った少年がにこにこ笑ってそう言う。今度は影時間じゃない。小鳥がさえずっている早朝だ。日の光がまぶしい。このまぶしい光は、囚人服を着た少年には不釣り合いなものだった。
『いい天気だね……今朝はほんとの意味で、新しい朝だ。君にとっても、そして僕にとってもね』
『……どういうこと』
『実を言うとね。今まで集まっていった記憶のかけら……ついに、全部つながったんだ。僕は、僕自身の役割がハッキリ分かった。……来るべき時の訪れだ。ほんとは辛い事だけど、でも言うよ』
「デス、アギダイン!! 撃てるだけ!!」
『お別れしなきゃ……君と』
『別れる?』
『そう。今だから分かる……君と友達になれた事は、僕にとって奇跡みたいなものなんだ。でも奇跡は……永遠には続かない。永遠だったら、いいんだけどね』
『……永遠なんて、ないよ』
『……かもしれない。確かに永遠なんて、たとえあっても、誰もそうだと確かめられない。そんなの、ないのと同じかもね。不完全な僕と同じに……』
「慎兄、動いて! アベルで足下!!」
「了解ッ!!」
『君と会えた事は、僕の宝物だ。たとえ今日が最後になっても、『絆』が僕らをいつでも繋いでる』
 回想を無視して放たれた炎弾で、蜃気楼の裏に隠れるようにして姿を消していたフォーチューンのシルエットが浮き彫りになる。そのまま燃え盛る炎に全身を包まれ、しかしそれでもフォーチューンは逃げたり次の行動に移ろうとはしなかった。その隙を狙え、という湊の指示に従いアベルを動かす。
『忘れないで』
 アベルが剣を振りかぶった。その視線の先には、寂しそうに笑う少年の顔。目元が綾時によく似ている。いや、似ているなんてものじゃない。左目の泣きぼくろもしっかり付いていて、まるでこれは綾時そのものだ。
 少年が手を振った。同時に、湊もレイピアを指揮棒のように高く掲げる。
『今まで楽しかった。……じゃあね』
「《デス》!!!」
「《アベル》ッ!!」
 映像が切れて次のルーレットを回し出す前にデスとアベルで一斉に左右から襲いかかる。がきん、と鋭い金属質のアタック音が響き渡り、反動でデスごと湊が後方に吹き飛んだ。「あと一撃。慎兄、最後は、お願い」湊は浅い呼吸を繰り返して、そのままよろよろと地面にへたり込んでしまう。デスの使用限界が来たのだろうか?
 いいや。それだけじゃない。答えはすぐにわかった。
 ルーレットが《0》の目を示す。ゼロは愚者。湊の根源のアルカナだ。即死効果が発動し、瀕死状態に陥ったのだ。湊は頭から後ろに倒れ込み、意識を手放して仰向けに伸びた。
「……ッ! 洵!! 湊を……早く!!」
「わかってる!!」
 洵が走り出し、フォーチューンの次の投影が始まる。影時間の市街地を戸惑うことなく進み、洋館の扉に手をかける。開くとロビーに出て、入ってすぐ左にカウンターが設置してあった。奥に少年が座っている。ファルロスが、顎の下で両手を組んで微笑んだ。
『遅かったね。長い間、君を待っていたよ』
 ファルロスが指を弾いて、何もないところから一冊の名簿を取り出した。カウンターにそれを置いて一瞬で視界の真正面に陣取る。人間に出来ることではない。
『この先へ進むなら……そこに署名を。一応契約だからね、怖がらなくてもいいよ。ここからは自分の決めた事に責任を持って貰うっていう、当たり前の内容だから』
「……左!!」
 名簿の署名欄が大写しになり、そこに細く整った右手がボールペンを走らせていく。署名はすぐに済んだ。有里湊。その「有」という文字が出ている場所めがけて剣を振りかぶるが、すかっ、と素抜けてしまって上手く攻撃が決まらない。湊が放ったアギダインのような、明確に隠れている敵の位置をあぶり出すための手段が慎にはないのだ。
「くっそ……どうしたら……!」
『……確かに。有里湊。うん、素敵な名前だね』
 無闇矢鱈に「アベルの剣」を振り回すが、一つとしてかすらない。駄目だとは分かっていたがはやる気持ちを抑えきれなかった。この、愚者の幻覚の間に倒しきれなければ次は《正義》が出て、慎が即死になるかもしれないのだ。そうすれば、最早戦える者は残されない。
 とてもシンプルでわかりやすい理屈。
 「みんな死ぬ」。
『時は、全てのものに結末を運んでくる。……たとえ』
 ファルロスが青色の――湊のものと同一の硝子のような瞳を見開いて終末を告げるトランペッターのように宣告した。
『耳と目を塞いでいてもね』
「どこだ……どこに……!」
『さあ』
「ああもう……くそっ……」
『始まるよ』
『――メギドラオン!!』
 ここまでか、とそんな思考がとうとう慎の脳裏を掠めだした当たりで突如爆炎が巻き起こり、ファルロスが消えていく闇の中からフォーチューンの姿を引きずり出した。
 宿主の危機を本能的に察知し、意識するより早くアベルが動く。アベルの剣がフォーチューンの喉元を捌くと、それが致命傷となったようで、ようやくフォーチューンは気味の悪い赤黒い染みに侵食されて霧散した。同時にパノラマ投影も消えてなくなり、元の影時間の綾凪駅前ロータリーに完全に戻ってくる。ロータリーに破壊の跡は一切ない。
「……倒した?」
 安堵から、そのままへなへなとへたり込んだ。何度か浅い呼吸を繰り返して息を整えていく。倒した。四人ほど瀕死だが、死んだわけではない。
「慎兄ちゃん!!」
「俺は無事。それより、最後に誰か、メギドラオンを撃った……よな? あれ、誰だ……? まさか洵じゃないだろ。そもそも、あんなの湊以外に撃てるか俺知らないし……」
『俺だよ。感謝していい』
 戸惑いながら洵に問うと、タイミングを計っていたかのようにすいと黒猫が現れ、傲岸不遜にふてぶてしく言い放つ。予期せぬ人物の答えに素っ頓狂な声が漏れ出た。だってまさか、そんな。
「ナオ?! だって皇帝アルカナが出た時に瀕死になってたんじゃ……」
『尚也はな。あいつは皇帝だから一発でダウンしたよ。だけど俺はアルカナ、皇帝じゃないし。俺のアルカナは《月》。メギドラオンはリリムの十八番』
「は、月……ってことはカズ、か……そっか、身体は一つだけど精神は二つなんだっけ……」
『そういうこと。……おい、なんでそんなあからさまにガッカリっつう顔するんだよ。尚也だろうが俺だろうが結果はそんな変わりねえだろ……まあいいか。そんなことよりこいつらの回収が先だ。湊は元々デスの使いすぎで殆ど限界だったから無理かもしれねえけど、他の二人は気力はそれなりに残ってただろ。湊の持ち物に反魂香がないか漁ってくれ。こんな身体じゃ満足に道具も使えないし』
「あ……うん」
『早くしてやれ。あんまり転がしておけないのもそうだが、俺達じゃ大の大人二人は運搬出来ない』
 尤もな主張だ。慎と洵は仕方なしに倒れている湊の荷に手を付けた。



◇◆◇◆◇



 湊は存外早く回復して、リビングルームに顔を見せた。ふつうの睡眠を取るのと同じように、十時間ほどぐうぐうと眠り、気怠そうな表情で「おはよう」と口にする。時刻は午前十時だったから、一応まだ挨拶として間違いではない。
「たぶん、僕に聞きたいこと、山盛りあるよね」
「ああ……まあな。有里でもわからないこともあるだろうが……」
「うん。なんで、シャドウが僕の記憶を持っているのかはわかんないけど……他は大抵答えられると思う」
『ああ、やっぱあれは湊の……湊の視点の記憶なんだな?』
「完全にね。あれは……全部、僕が見たこと。僕が人間だった頃に起こった事実」
 多少フィルターかかってるかもしれないけど、と前置いて空いている席に着く。ポケットに手を入れたまま、最初から浮遊して後ろに着いてきていた綾時を視線で招いてすぐ隣に固定させた。黒猫が一瞬だけ綾時に目を遣り、すぐに湊の方に顔を戻す。
『湊。あのファルロスっていう囚人服の子供と綾時の関係はなんだ?』
「同一人物。正確には、ファルロスは全ての満月シャドウを倒しきる前の不完全な《宣告者》。ちなみに、この状態のままファルロスを留めておけば滅びの確約にはならなかったかもしれない、らしい。先送りに出来る程度だけど」
『そんじゃ次だ。お前は一体何と契約を交わした?』
 湊を見つめる黒猫の眼差しは厳しく、微動だにせず、ともすると睨み続けているようでもある。「……カズ?」湊が遅まきに気がついたというふうに尋ねた。
「今、ナオじゃなくてカズ?」
『気付くの遅ぇ。そもそも和也は皇帝アルカナの時にそこの二人と一緒にダウンしてるだろ。俺の《月》は一度も攻撃対象にならなかったから、全部把握してるつもりだ。戦闘もしてなかったから、ヴィジョンの方に集中出来た。湊、お前が契約した相手、本当に今隣にいるそいつなのか。違うんじゃないか? それに薄々――感付いてるんじゃないか』
「……何を言ってるの? あの日僕に契約書を差し出したのはファルロスだったよ。ちゃんと……その後何度か会った時も、それで話、通じてたし」
『いいや』
「……」
『俺が思うに、お前が契約したのは《世界の理》だな。お前は《デス》と交わしたものと思い込んでいるみたいだが、俺にはどうもそうとは考えられない。《ユニバース》そのものか……或いはもっと悪質なもの。例えば俺達のように《光ある希望を望む者》フィレモンの端末に触れたのか、そうでなければ、《暗き破滅を望む者》ニャルラトホテプと……』
 そこまで言って、和也は急に口を噤んでしまう。湊は困ったように和也を見、他の面々も何をどう言い出したらいいのかわからなくて黙り込んでしまった。和也の方に勿論からかっている様子はないし、かといって、湊自身にそんな覚えはないのだ。フィレモンという存在も、ニャルラトホテプという存在も、ユニバースとなった今でも名前こそ尚也経由で聞いたものの姿は見たこともない。見知らぬ存在なのに。
 湊の反応を十二分に確認し、何らかの確証を得たらしく和也が一人頷く。不吉を司る黒猫の尾が揺れ、値踏みするようにちろちろと湊を指し示して、それから彼はそのそばでこれも黙りを決め込んでいる綾時を指した。綾時の身体がびくりと跳ねる。
『指名させて貰うぜ、《望月綾時》。本名がなんなのかは知らないが。答えろ。お前は何者だ? 大好きな有里湊にまでひた隠しにするその出自、そろそろ、暴かれる時なんじゃないか――なあ』
「ッ……?! カズ、一体何言って……綾時は……」
『湊のペルソナだ。それは確かにな。ちゃんとそうして機能していることは認める。だが、根源が引っかかる。少なくともお前だけが握っている情報があるはずだ。吐け。お前が本当に湊を守護すると言うのなら』
「カズ!!」
『……駄目だよ、湊君』
 黒猫に掴み掛かろうと思わず身を乗り出した湊を制したのは、伸ばされた望月綾時の右腕だった。マフラーがなびき、湊の視界を遮る。「綾時」か細い声。「なんで?」
『参ったなぁ……。あのね、湊君、それから皆さんも。まずこれだけは信じて欲しい……信じてくれなくとも、言わせて欲しいんだけど。僕は湊君を守るためにここにいます。湊君に仇なす全てを僕は許さない。僕は、もう二度と湊君に後悔をして欲しくなくて、そのための剣となり盾となりたくて、ここにいます。もし湊君を揺るがすのなら……それが和也でも。尚也でも、真田さん、美鶴さん、慎、洵、その誰でも……排除します。僕はそういうものだから』
「りょうじ」
『――と、まあそれはさておいて』
 綾時の笑えない言葉にただでさえ静まりかえっていた空間が一瞬で凍り付いた。綾時の目は、ムーンライト・ブリッジで自らの正体を思い出した日に宣告者の役割について話した時と同じ冷徹さを孕んでいて、あの普段の頼りなかったり、剽軽だったり、そういう素振りは一切ない。和也は生唾を呑み込む。尚也にあんなやつが頼りになるのか、と言ったのはどうやら間違いだったようだ。正直綾時にこれほど非情な目が出来るとは、ふっかけた和也本人にとっても驚きだ。
 それは正しく冷徹に非情にあらゆる生命に降り注ぐ死の宣告の眼差しだった。こいつはその気になれば確かに、湊を苦しめる全てを残酷なまでに殲滅出来るのだろう。
『あの……そんなに怖い話はしませんよ。それに、和也が期待しているようなこの戦局を打開出来るような秘密はないしね。この場で今僕が話すべきは、多分、一番最初の湊君の契約についてのことだよね。和也』
『あ、ああ……』
『じゃあ、その話を。湊君』
 手を、握らせて。湊の手を粉雪に触れるような手つきで握りしめ、おずおずと伺いを立てる。勿論湊はそれを拒まない。『あのね……』母親の耳元で内緒話を始めるように、極めて自然に緩やかに綾時はそうして話を切り出した。
『《ファルロス》は……囚人服の愚者。始まりのアルカナ。湊君、ユニバースはね、宇宙は……何にでもなれる《愚者》でなければ、その身に宿すことは出来ない……。僕、いいや、《ファルロス》はずっと長い間君を待っていた。一番初めのファルロスが君の身体に宿っていたデスに還りつくことを、そして君にファルロス自身が宿ることをだ。……君のペルソナ能力は』
「僕の?」
『うん。だからね、君のペルソナ能力は《愚者》なんだ。有里湊のペルソナ能力とは、言ってしまえば《ファルロス》そのものだった。今はもう、そんな小さな言葉では括れはしないけれどね。君に宿った愚者はまずはじめに君の中で眠っていた死神と同一化し、死神の破片の活性化を促した。そうして初めに魔術師が母体への回帰を求めて訪れた。次に女教皇。その次に女帝と皇帝。更に法王と恋人。戦車と正義。隠者。運命と剛毅。刑死者。十二の欠片がゼロと十三と融和する。そうして死神は完全になり、君の中から離れていった……』
 綾時がぱっと湊から手を離す。そうして浮かび上がると、彼の背後であの見慣れた死神の姿になる。有里湊に託された死神の欠片の体現、タナトス、デスの未完成品。今は湊がデスと呼称して用いているペルソナのかたちをして、望月綾時は話を続ける。
『最初に言ったね。君のペルソナ能力は愚者即ちファルロスそのものだったと。だから、融和した死神がいなくなった時、ペルソナ能力も失われていなければいけなかったんだ。だけどそうはならなかった。君という人間そのものが思っていたよりも強く死神と結ばれ、そうしてそれを超克したものへと近づいてしまっていたからだ。君は昔、保健教諭の魔術の授業で習ったんじゃないかな? タロット・カードの大アルカナは愚者の旅を意味しているっていう話だよ。魔術師から刑死者までは、十三番目の死を超克出来ていないふつうの人間の旅路だ。けれど、死を乗り越えた十四番目以降の愚者の旅はそこから意味合いを変えてくる。刑死者を迎え死神で転生の概念を得た愚者は、そこから永劫と宇宙への旅路に身を投じる……』
 デスが空中で身を翻し、弧を描くようにしてふわりと湊の正面に舞い降りる。その時には、もうその姿はペルソナ《タナトス》のものでも、幼い《望月綾時》のものでもなかった。ベリーショートの黒髪を持つ、囚人服の少年の姿だ。フォーチューンの幻影の中で和也や慎、洵が目にしたあの《ファルロス》の姿だった。
 ファルロスはその細い両かいなで湊を包み込むように抱き締めて、耳元に囁く。さながら悪魔の囁きのように。
『《ファルロス》は君から生まれた《ユニバース》の雛形だ。君は自分自身と契約を交わしたんだよ。だからファルロスと融合したデスは君のペルソナに成り得る。僕は君のシャドウ。有里湊から生まれたもの。有里湊の空っぽの自我の影。空っぽだから、愚者は反発を起こさない。全てを受け入れる準備が出来ている。愚者は全ての決断を受け入れる。湊君、僕も君のこと、すごく、好きだ。君がどんな存在であったとしても……』
 母親に縋り付く雛鳥の如く顔を埋めて、その瞬間、ファルロスはふっと姿を消した。
 と、また次の瞬間には湊の隣に立っており、後ろ手に両手を組んで不思議なはにかみを見せた。『こんなふうに』ファルロスの手が、また湊を握り直す。
『愚者は生まれた時から有里湊と共にあり、けれど、一番遠い場所にいた。契約の時になって、ようやく君の前に『姿を現す』ことが出来た。僕はそれが嬉しかった。これが僕の持てる答え』
 ファルロスの姿が消え、望月綾時が藤堂和也の顔を覗き込む。人好きのする、湊とはまるで正反対の明朗闊達な笑顔でにこにこしていて、気味が悪くないと言えば嘘になる。だがそれを口には出さず、和也は目を細めて綾時を尻尾で少し遠ざけた。距離が近い。
『これで満足した?』
『……いや、どっちかというと、引いた。……冗談だ。そんな人間みたいな悲しそうな顔されても困る。ハァ……ったく……そうだな。望月綾時の性質……それだけで結構考える材料にはなったな。そこの二人も。懸念があったんだろ?』
「ああ。私なりに考えていたことと、いくつかは合致する。彼のペルソナとしての違和感……何故死が生を守るのか……まだ疑問点は多いが、それはここで問うても仕方ないことだろう」
『ま、いいよ。今まではまったく信用してなかったが、これで確信出来た。こいつは湊を守るよ。たとえ世界が終わってもな……』
「だろうな」
 真田がゆっくりと肯定した。
『だから、湊、それで一つ提案がある』
「……何? 何か、作戦?」
『一種のな。ハングドマン戦、お前は戦闘に参加するな。これは俺と尚也の合意の元での考えだ』
 それを受けて、黒猫が今日の議題の総括に入ろうとする。確信を得て疑惑から結論に変わった答えを和也はまっすぐに湊に投げかけた。湊の顔が不信で僅かに歪むが、お構いなしである。
 最大戦力である湊の不投入に慎と洵も不思議そうな顔をしていたが、真田と美鶴は何も言わなかった。かつてのデスの破片達をなぞって出現する満月シャドウの強化レプリカ、まるで悪魔を召喚するための宗教儀式のように歪に再現される有里湊の過去。そして今綾時――デス本人が語った湊の能力とシャドウ達の関わり。それらから推察される答えに二人は尚也と和也同様辿り着いたのだ。
 だから、文句を言おうとしてか開かれた湊の唇を、和也は肉球で無理矢理にむぎゅうと押し留める。
 そして簡潔に警告した。
『お前がハングドマンを倒すのは、危険すぎる』