]V DEATH:マキナの肖像
――お前がハングドマンを倒すのは、危険すぎる。
――自分でもそれはわかってるだろ? 湊がわかってなかったとしても、綾時は、俺がこう言う理由を理解出来るはずだ。俺に確信させるに至った「十年前のメカニズム」を今その口から吐いて聞かせたお前ならな。
和也は聞く耳を持たず、そう言って一蹴した。湊がハングドマン討伐に参加する危険性。それは、確かに可能性としては否定出来ないところだ。慎に予め予防策を渡してあるのもそのためだし、言わんとすることは理解出来る。
出来るが、しかし。
「……見てるだけって、かなりきつい……んだけど」
少し離れたところで、洵と綾時と三人で戦闘を見守っていた。尚也の指示により、湊はハングドマンから半径一キロ程離れたビルの屋上、その手すりにもたれかかっている。ハングドマンはそれなりに巨大なので、多少離れているぐらいなら視認は可能だ。
湊のぼやきに、綾時が宥めるように頷く。
『うん、まあ、湊君、ずっと司令塔だったもんねえ。それも前線出ずっぱり。そうでなくとも支援には回ってたしね』
「動かさないと身体はなまるよ。それはこの身体でも同じだ。せめて……」
『でも約束したからね。本当に、本当の最後まで、僕が隣にいるよ』
うぅ、と湊が呻いた。綾時の言葉はつまり全滅寸前に追い詰められるまで湊はペルソナを召喚してはいけない、ということで、綾時はデスの姿にならないと本当にサーチぐらいしかそれらしい能力を発揮出来ないので湊は何をすることも出来ずハングドマン戦を傍観せざるを得ないのだ。
確かに、パーティはそれほど悪くないとは思う。若干タイムロスこそ生じるものの尚也と和也はスイッチすることで攻撃特化型の皇帝アメン・ラーと補助を得意とする月リリム、その他トリッキーな動きをする幾つかのアルカナを使い分けることが出来る。真田や美鶴達と違って一人で複数アルカナを相性の制限こそあるが使い分けられるのが彼らの特徴で、人格を二つ保有することで一つの身体でありながら多範囲にわたるアルカナをカバーしている黒猫の臨機応変さは殆ど湊に匹敵する。
美鶴も真田もまとまった火力と回復・補助を行えるオールラウンダー寄りのスキル構成をしているし、慎だけは攻撃一辺倒強化型だがそれに特化するだけの価値がある「アベルの剣」を保有している。それに湊が仕込んでおいた保険もあるし、四人だけでもそれなりの成果を出せるだろう。しかし。
「カズはああいったけど、ハングドマンこそ、僕が倒さなきゃいけないようなそんな気がする」
『どうして?』
「……なんとなく」
『うーん……それじゃ和也は納得しないだろうね……』
「わかってるよ。だからカズには掛け合わなかった。取り合って貰えないのは目に見えてる」
天井からぶら下げられた巨大な肉人形のように、羽の生えた輪にマリオネットよろしく吊り下がっているハングドマンを遠目で見守る。弱点属性なし、破魔呪殺無効。三体の彫像を召喚し、彫像にはそれぞれ異なる弱点と得意属性がある。
十年前と完璧に同じ。気味の悪さに薄ら寒くなるぐらいに。
先のフォーチューンが、中盤から全く性質も意図も異なる攻撃を仕掛けてきたという事実が脳内でくすぶっていた。このハングドマンも、或いはそのように途中からアルゴリズムそのものを切り替えて「姿だけ同じまったく別のもの」になるかもしれない。
今回の作戦の指揮を執るのは尚也だし、きっとそのぐらいはわかっているだろう。尚也は自身がペルソナ能力を発現するきっかけとなった事件の際に友人達を纏め上げるパーティリーダーを担っていたらしいし、采配にも問題はない。準備は万全に整えてあり、怠りはない。
しかし「完璧なはず」だからこそ、ふとした崩壊を恐れていた。
もう一度ハングドマンの方を見た。美鶴を事実上回復専門に回し、慎主体で軸を組み、ローテーションで役割を分担している。今出ているペルソナはアベルにカエサル、アルテミシア、それからリリムだ。彫像の処理に手こずっている間はヒエロスグリュペインを撃てるアメン・ラー持ちの尚也ではなく和也で処理しているらしい。悪くない判断だ。悪くない、だが、胸騒ぎが収まらない。
「湊、さっきからずっと変な顔してるよ。爪でも噛んじゃいそう。……大丈夫?」
湊の隣で足をぶらつかせて座り込んでいた洵がそう問う。
「不安なんだね。ううん、それだけじゃないかな……自分が出来る選択から背を向けることが怖いんだ。後で後悔したくないんでしょう?」
「……洵兄」
「なんとなくね。湊には、僕のペルソナの話、してなかったっけ。今はもういないんだけど」
「確か聞いてない。セト、だっけ? 慎兄のアベルについて聞き知った時に、ちょっとだけ、聞いた程度」
「そっか。そういえば何でアベルは知ってたの?」
「アベルの能力はすごく強烈だったから。僕にも見えた。……慎兄は」
半年前の綾凪市の事件。表皮がひっくり返った死体があちこちで発生するショッキングな《リバース事件》によって開幕を告げ、そこからとうとう《くじら》に辿り着いた。くじらは綾凪の海に眠る万能の不能。その立ち位置はニャルラトホテプやフィレモンにほど近く、今現在の湊にも通じるものがある。
くじらは大きな力を持っているが、故に、自らは何も成さない。何かを成そうとしない。そうやって密やかに存在していることで、その役割を果たすのだ。
だからくじらを利用しようとしてはいけない。くじらは制御が出来ない。それが小松綾音のケース。
「つよい、ひとだね」
「うん」
「諒兄も。だけど諒兄は、その代償としてすごく、『よわい』」
「湊もね」
洵の手がぐいと湊を引き寄せて、頭をくしゃりと撫でる。反論はしない。
《せかいのおわり》が近づいてきた一月の終盤にもなると、有里湊は類い稀なるワイルド能力者としても無類の、はっきり言って人間離れした鬼神の如き強さを持つようになっていた。ワイルド能力は、ある一面を取れば「一人で何でも出来る」力。有里湊には仲間がいて、無数の絆があり、決して一人ではなかったけれど、一人で何でも出来たから、一人でそれを選ぶことが出来たから、有里湊はユニバースを選んでしまった。
神郷諒も一人で選んで行ける人間だった。しかし孤独は完璧な力にはなれない。
「僕のペルソナはね、『複合ペルソナ』っていうちょっと特殊なものだったんだ。一種の人工ペルソナ。それはすごく歪で、不完全で、寂しがり屋だった。リバース事件を起こしていたマレビトたちのペルソナも複合ペルソナ。くじらは複合ペルソナをいやがった。不純物だったんだ。だから僕はくじらを鎮めるために、結祈と決めた。諒兄ちゃんについて行って……つまり、人柱になろうってね」
「人……柱」
「なれなかったけどね。慎兄ちゃんはそれを許容しなかった。そんな方法はおかしいって。すごく、強いひと。諒兄ちゃんは、最後に眼鏡を捨ててカインで慎兄ちゃんを助けてくれた。諒兄ちゃんは、眼鏡をかけて、自分を殺して、理性を優先して、だけど、優しかったから」
最後は情を選択した。
「あのね、洵兄。僕が結祈に会ったのは、くじらの世界でだった。結祈は……くじらの場所にいた。自分から、あそこに留まって何かを待っているみたいだった。……ようにも取れた」
「結祈が?」
「うん」
「そう」
神郷諒はそこで弟妹を守り命を落としたが、当たり前にそれに恨み言を言わなかったし、最後の瞬間まで本当は彼らを愛していた。態度にはあまり出さない人だったけれど、それは確かな事実で。有里湊に似ている。
でも、明確に違う、とそういうふうに感じている。
結祈ならそう言うだろうと。「湊は諒お兄ちゃんとは違うわ」、と面と向かって言ってきそうな気がした。
「結祈って変な子だよね」
「湊もね」
「そうかも」
困り顔で笑った。
◇◆◇◆◇
爆音が鳴り響いた。戦闘開始からはおよそ十分ほどが経過しており、ハングドマンの体力もほとんど削れていなかったが対するペルソナ使い達の方もまだぴんぴんしていたはずだ。その反応が不意に灯火のように小さくなる。湊と洵は会話を止め、手すりから身を乗り出して爆心地に目を向ける。
やはりハングドマンのいる方角からだ。火柱がいくつか上がっていて、誘っているかのようだった。ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ。丁度、そこで戦闘をしていたはずの仲間達の数と同じ。
「なん、で……」
隣の洵の表情も、急激に青ざめていっていた。無理もない。想起したことは二人とも一緒だったのだ。「全滅したかもしれない」。或いは、もっと最悪の可能性……「皆死んだかもしれない」。
「だから――言わんこっちゃ――なかったのに!!」
気がつけば、湊は洵を置いて走り出していた。ペルソナ能力の補正に頼って三階建ての小さなビルの屋上から平気で飛び降りる。今まで話していた事柄なんかは全部意識の外に放り投げられて、シグナル・レッドだけがぎらぎらと頭の中で回りエマージェンシーを繰り返していた。四つの火柱に包まれたかもしれない、彼らのことを考えると心臓が押し潰されてしまいそうだった。だから走る。洵もその後を追って階段を駆け下り始めたようだったが、速度が桁違いで、距離はどんどんと開いていった。
『湊君、だめ、君はそっちに行っちゃ――』
「今そんなこと言ってる場合?!」
『違うんだ、この演出じみた流れではっきりとわかった。君がハングドマンを倒すことこそが、恐らくその最後のトリガーになって……』
「うるさい」
綾時の声も今は聞いてやっている余裕がない。静止を振り切り、強引にペルソナを解除・再召喚する。解除に抵抗が感じられなかったから、綾時もきっと言っても聞かないことはわかっていたことだろう。
「召喚、《ノルン》」
時を司る女神を喚び出し、少しでも早く向かうために時の流れを歪め着地の勢いのまま強く地面を蹴り上げて一足飛びにそちらへ向かっていく。空中に飛び上がり、一キロメートルを恐るべき速度で飛び抜けた。そうしてそのまま間髪入れずに空中で頭を撃ち抜く。ぱきん、という硝子が割れる音。青い召喚エフェクト。湊は動きを止めない。ペルソナの効果圏内にハングドマンを捉え、即座に攻撃の体勢に移る。
「《トランペッター》!!」
黙示録のラッパを吹き鳴らし、審判者が刑死者のずんぐりした肉体に攻撃を加えた。火柱が沈静化したらしい場所に、ハングドマンを取り囲むようにして四人が倒れているのを認めて動悸が激しくなる。
焦りはペルソナにそのまま現れた。トランペッターが立て続けに魔法攻撃を行う。アギダイン、ブフダイン、ジオダイン、ガルダイン、四発撃たせたところでまたペルソナを切り替えた。ぱきん、ぱきん、ぱきん、と絶え間なく再召喚の音が繰り返し響き渡り、それに被さるように息せき切った呼吸音が絶え間なく口から漏れ出てる。それに構うことなく、アバドンが酔拳を叩き出し、メタトロンがメギドラオンを、メサイアはゴッドハンド、そんなふうに休む間もなく湊はペルソナ達を使役する。
ハングドマンは態勢を整える暇さえ与えられず、ただごりごりと湊に一方的に体力を削り取られ続けていた。湊が引鉄を引く度にそれが激化していく。数分も経たない内に九割方残っていた体力が目に見えて落ち込み、とうとう、一割を下った。
「これで終わりにする……《ルシフェル》……《サタン》……」
荒く浅い呼吸。髪の毛は乱れ、汗で張り付き、必死の形相とあいまって般若のようだ。灰ねずみの瞳が青を通り越し、血走った赤に高揚している。もしその顔を誰かが見ていたら、きっと気付くことが出来ただろう。
もう賽は投げられ、「神郷湊自身が」その選択をしてしまったのだということを。
時は待たない。選択には責任を持たなければならない。この決まりごとは、今もって有効なのだということが。
「ミックスレイド《ハルマゲドン》!!」
召喚銃を握る右手を天高く掲げ、その滅びの呪文を声高に口にした。湊が用いることの出来る間違いなく最強のペルソナ能力は敵の殺傷に最大限の威力を発揮し、そしてかつ、綾時を――デスを経由しない。
超高火力の万能攻撃に全身を包まれ、ハングドマンは断末魔一つあげることを許されずあっという間に燃え上がった。肩で息をして、固唾を飲みその様を見守る。降魔中のペルソナが勝利の雄叫びをあげ、ハングドマンが塵になって消滅する。
染み一つ残さず、綺麗にシャドウの消え去った市街地をまだ肩で息をしながら呆然と眺めた。何もない。アスファルトの黒い地面、不気味な黄緑色の空、それから巨大な満月、見慣れた影時間。体力を殆ど持って行かれ、意識が朦朧としているペルソナ使いの仲間達。彼らは倒れているだけで、精神力などはさほど消耗する前に無力化されていたことが幸いして体力さえ戻してやればすぐに動けるようになるはずだ。痛手らしい痛手が何もない。
拍子抜けするような単純さで戦いは終わった。
終わったのだ。満月シャドウの最後の一つが今倒された。襲い来る超巨大シャドウはもういない。死神の体現者、死の宣告者デスは湊の半身になったから、もう二度と、現れない。
では、ニャルラトホテプは一体何のためにこんな大がかりな「再現」を行ったのだ? 綾凪という街一つを巻き込み、因果にペルソナ使いを寄せ集め、死の扉の番人たる《ユニバース》能力者さえ引きずり出して、本当にこれで終わりなのか?
「……おかしい……」
静寂に包まれながら湊はかぶりを振る。違う。こんなわけが。こんなに簡単に終わらせてくれるはずがない。藤堂尚也が黒猫になり、周防達哉が無限の牢獄に囚われているのに有里湊だけがこんな、何も失ってすらいないような軽傷で済むわけが。
「《アティス》――リカームドラ」
嫌な予感が、これでもかというぐらい汗水を伝わせて背筋を通り抜けていく。身体が動く今の内に、振り返りもせず横たわる仲間達にリカームドラをかけた。時間が惜しい。自らの体力を減らしてでも、彼らをリカバリーしておかなければ。そうじゃなきゃ、たぶん、
「遅かったね」
声がした。
「長い間、君を待っていたよ」
はっとして立ち止まる。ハングドマンが塵になって還っていったまさにその中心に、幽鬼のように立つ囚人服の少年が立っている。つい一秒も前まではそこには何もなかった。いつの間に、現れたのだろう。
湊にとっては、見慣れた少年だった。愛おしい夜の子。死神アルカナを司り、湊の内で育ち、やがて外へ出て行って、形見に分け身を預けて寄越した。それがペルソナ《タナトス》。有里湊の一つの象徴だった、「死そのもので形作られた」ペルソナ。
「ファル……ロス……?」
「この先へ進むなら……そこに署名を。一応契約だからね、怖がらなくてもいいよ。ここからは自分の決めた事に責任を持って貰うっていう、当たり前の内容だから」
「……何言ってるの?」
「――確かに。《神郷湊》……いい、名前だね?」
その大切な子供の姿をした何かが薄く嗤う。違う、湊は直感した。これは違う。ファルロスではない。だって、泣きぼくろの位置が、左目じゃなくて右目の方に。
望月綾時と鏡映しにしたように、有里湊と同じ位置に、それが付いている。
「言ったはずだよ。時は、全てのものに結末を運んでくる」
反射的に召喚銃を握る手に力を込めた。湊の後ろにはまだリカームドラのために召喚したアティスが出ていて、よく考えるまでもなくあの囚人服の子供が綾時であるはずがないのだ。今の綾時は、ペルソナという形に押し込められた存在だから、存在するにあたって通常のペルソナと同じ縛りが課せられている。ミックスレイドでも使わない限り一度に二体のペルソナを出すことは湊にでも出来ない。
それに見れば見るほどその子供は「あの子」とは違っていた。酷く悪趣味な意趣返しのようだ、と思った。それは在りし日の幼い有里湊に、ファルロスの囚人服を着せ、同じように髪の毛を剃り上げ、立たせたような姿なのだ。よく見れば瞳の色も違う。有里湊の灰ねずみでも、ファルロスの氷のようなあおいろでもなくて、影時間の月と同じどぎつい黄色の眼球がその顔には嵌っていた。
「たとえ、耳と目を塞いでいてもね。忘れちゃった?」
目を閉じて、両耳を左右の人差し指で塞ぐジェスチャー。吐き気がする。そういえば、リカームドラを使った後自分に回復をかけていないから体力は殆ど瀕死寸前なのだっけか。だけどそんなことは問題にすらなっていない。この吐き気は怯えから来るものだ。神郷湊は、今、自らのドッペルゲンガーと向き合っているのだ。
それは正しくペルソナであり。
決して神郷湊に、有里湊に優しくはない。
「お前は誰だ」
「ご挨拶だね。知ってるはずだろう?」
「知らない……」
「知りたくないんだ。認めたくないんだね」
「知らない……!」
「意固地だね。仕方ないなあ」
肩を竦め、姿が成り代わる。ファルロスと同じ囚人服が闇に溶けて、今度は湊と同じTシャツ姿になる。ベリーショートの黒髪が長く伸び、正面に立つ湊を鏡で写し取ったように顔の左半分を覆った。右目の下にある、普段湊が隠している泣きぼくろを露わにしてそれは湊に迫ってくる。
「じゃあ、教えてあげようか。僕は《有里湊》。君と一緒だね。そう、僕こそがエリザベスの示した欠落――《十二のシャドウが集まって完成した有里湊の未練》ってわけだ。おめでとう、奇跡は果たされた。今ここに、有里湊の欠損が完成した」
「お前が、僕、だって?」
「そうさ」
「嘘だ……」
震える声で呟いた。
その答えに、息が触れるほど近くでそれが目を見開く。狂人のように。気が狂った人間みたいに。《愚者》のように。そうしてその腐った満月のような鈍い金の目で湊の灰色を睨むのだ。
二つの銀色のヘッドホンがかち合って金属質な音を響かせる。二人分のスティグマータ、聖痕、恐怖を燃やし尽くそうとするメロディを垂れ流す傷跡、消えないトラウマが形になったもの、それがぶつかって、痛みさえ感じさせるようなハウリングを引き起こす。
心臓の音が止まりそうなぐらい怖かった。
「嘘だ。お前が。お前なんかが僕なはずがない」
だから否定した。
「……言ったね?」
否定しないといけないと思った。否定しなければ全てが足下から崩壊していってしまうと思った。全部がらがらに崩れて、なかったことになって、それで、そうして、それから。
背後に浮かんでいたアティスが、紐解くように霧に溶けて消えた。ペルソナを維持しているための精神が乱れたのだ。心の乱れでペルソナを喚べなくなる例なんていくらでもある。それが精神力の枯渇。あの夏にストレガのタカヤと対峙した時、心に迷いがあったから岳羽ゆかりはいくらトリガーを引いてもペルソナを喚び出すことが出来なかった。
それと同じだ。
湊を守るものが剥がれ落ちて、鬼神のように強く、一人で何でも出来るワイルド能力を持っていて、最後に世界を救って、死の待つ場所へ行きその門の番人となった少年はその時十年ぶりに何も出来ないひとりぼっちの子供に立ち戻った。手から召喚銃を取りこぼす。カツン、カラカラカラ、という鈍い音がしてそれは後方に飛んでいった。
「我は影」
「僕の……影」
「そう。そして、真なる我。君が僕を否定するという、とても残酷な結論を選び取ったのなら僕は影としてそれ相応の姿を見せなきゃならない。残念だよ。愚者の特性は無であるからこその万物の許容だろ? 違ったの? ああ、そうだね……もう違うのかもしれないね。死神の特性をトレードしてしまったからね。残念だ。残酷だ。あんまりだよ。だから」
「僕が君になってあげるよ」
囁きと共に愚者の手が湊の首に伸びた。
切りそろえられた爪が子供の柔らかく無防備な皮膚に食い込み、肉の先の骨が軋み悲鳴を上げる。一卵性双生児の片割れがもう片方を喰い殺そうとするように、他方を喰らって一方が完璧にならんとするために。とてもシンプルな図式。それ故強烈で、強力で、性質が悪く、手に負えない。
元々リカームドラの後で体力なぞあって無きに等しい。苦しい。息が出来ない。首根っこを引っ掴まれ、どこにそんな力があるのかわからないけど、宙に持ち上げられた。だらりとだらしなく手足をぶら下げる。酸素が足りない。もう何も考えられない。
『死ぬって、そんなに怖いこと?』
(怖い……怖いよ。それは……もう会えないって、ことだから……)
『乗り越えるのは困難、ということさ。このままだとみんな……死ぬよ』
(それは……駄目だ。だけど、一体。どうしろって……)
『ねえ、良かったら、僕とトモダチになってよ』
(ともだち。ずっと、もう、ずっと前から……友達だった。ずっと……)
『大丈夫、任せて湊君。君は何があっても僕が守ってみせるよ』
(……あぁ)
――ひかりだ。
光があった。漆黒の闇の身体を持って、愚者の爪先から湊を奪い去り、顕現した湊にとっての光がそこにあった。八つの棺桶を背負った死の宣告者が湊を守ろうとしている。
確かに湊は先程精神の枯渇でペルソナ《アティス》の召喚をキャンセルしているから、その顕現は理屈として通らないこともない。けれど首を絞められて絶命寸前の湊にそんな強大なペルソナを呼び出す精神はなかった。
解放された呼吸器に目一杯息を吸い込みながら思考する。つまり、デスは、ひとりでに召喚されてそして自立意識で主を守ろうとしたのだ。
「りょうじ」
『ごめん……湊君……』
「綾時……」
さっき湊の方が彼の言葉を無視して押し込め、綾時を裏切ったはずなのに、そんなことはお首にも出さない。いいんだよ、それが湊君の優しさだから。わかってる。デスの両腕からそういう、あるはずのない温もりを感じて安堵する。
『これが今の僕に出来る最後の役割。君のことを待っている人がいる。だから君はこんなところで負けちゃいけないんだ』
身長百四十センチ、体重たった三十五キログラムの小さく不健康な身体を両腕に抱き止めてデスは愚者に向き直った。愚者が顔を顰め、舌打ちをする。
「邪魔するんだね、宣告者」
『ごめんね。僕は大元を辿れば完全な湊君のペルソナじゃないから。決めてたんだ。何があっても湊君を守るって。そのためなら……君に刃を向けることも』
「酷いね。まったく揃いも揃って……」
『僕は湊君に育てて貰ったからね。似てるんだ。根本的にね』
「滑稽だよ」
デスの腕の中でくたりと意識を失った「本体」を冷たい目で見て吐き捨てた。やってられない、とばかりに肩を回して、姿形を変えてゆく。神郷湊と同じ百四十センチ三十五キロの身体から、百七十センチ五十五キロの身体へ緩やかに変態し、身体じゅうをぐっと伸ばし、仕上げに頭を一振りして降り立つ。
その身には月光館学園の男子制服を纏い、青みがかった黒髪を野暮ったく流し、右手に剣を左手に銃を握り込んでいる。首からかけっぱなしのポータブルプレイヤーと銀のヘッドホンが身体の動きに合わせて揺れた。完璧な、往年の有里湊の姿。
ただ一つ、瞳の色がおぞましい濁り金に爛々と輝いている以外は完全に本物を模倣出来ている。
「十年前に一回死んでるんだから、もう一回死ぬぐらいどうってことないよね。ねえ、『僕』」
《湊の影》が明確な殺意をもってあたりを見渡した。意識を失う前に湊から受けたリカームドラの効果で尚也・慎・真田・美鶴共に回復している。洵も合流して、五人は事の成り行きを呆然と見守っていた。その外になかったのだ。特に真田と美鶴は、覚えのある光景に動揺を隠しきれないようですっかり言葉を失ってしまっていた。
王居エンピレオの最深部に待ち構えていた《特別課外活動部の未練と妄執の成れの果て》のことを思い起こさずにはいられないのだろうと思う。だが《湊の影》はあれほど生やさしいものではない。正真正銘の有里湊の人間らしい抑圧された感情の集合体であり、かつ、ニャルラトホテプによる補正が行われ、往年の有里湊のポテンシャルそのものを兼ね備えている。
『いいや、それは僕が許さない。例え君が僕の大事な湊君の、影であったとしてもね。勿論湊君には君を……《愚者》をもう一度受け入れて貰う。それは必要なイニシエーションだから。だけどその前に……』
故にそれは既に、人間の力だけではとても太刀打ち出来るような存在ではない。それこそ有里湊が一人で立ち向かったとしても勝てるかどうか定かではないのだ。
けれど人には絆の力がある。有里湊にも――神郷湊にも、それは存在している。
『僕が君を倒す』
デスの鋼の口先で眠る湊の額に小さく、優しく口づけた。今デスが湊に出来るのは、彼の生身の肉体を守って彼の精神が無事に彼女の所へ行き着くことを願うことだけだ。
「そう。でも、僕は『僕』になるよ。最後にはね。全て契約の通りに」
湊の影が銃口を自らに宛がい、引鉄を引き抜く。一切の迷いなく、高揚すらその顔に映し出し、口端を歪めて瞳を輝かせながら。
そうして彼は、ペルソナの名を呼ぶ代わりに滅びの確約の呪われた祝詞を謳った。
――さあ、
始まるよ。
Copyright(c)倉田翠.