][ MOON:ムーン・チャイルド
「――ようこそ諸君。私はこの時を待っていた。首を長くして……今か、今かと……」
ニャルラトホテプはそこに「居た」。
「種を蒔いた甲斐があったというものだ。さあ、戦おうではないか。お前達の誇りをかけてな……」
そこに。イデアの海の奥底、周防達哉が幽閉されていたブラック・ホールにも近い空間で、蟻地獄の中へ手招きするかのように存在していた。
まるで全ては計算尽くの出来事なのだと言わんばかりに。
種々の回復と下準備を済ませて、自然と話は全ての意思の還る場所、イデアの海、「意識と無意識の狭間」へ向かおうという方向に動いた。達哉の話が終わって、一息付いた後も影時間は明ける兆しを見せない。邪神の思惑が働き、左右しているのではないか、という話にまとまるのも時間の問題だった。
ニャルラトホテプという存在はいつもそうだった。ある時はシバルバーの奥、またある時はモナドマンダラの最深部、そういう「意識と無意識の狭間」にある場所で常に余裕ぶって待ち構えていた。
「それで一番怪しい場所って、どこなんだ?」
慎が尤もな疑問を口に出すと真っ先に達哉が答える。一番ニャルラトホテプと付き合いが深いのは達哉だ。思考はある程度把握出来ているのだ。
「恐らくは、この街で一番最初にシャドウが出現した場所の近辺だろう。俺の時もそうだった。最後の異界へと通じる扉は七姉妹学園……俺の関わった事件の発端になった場所に設えられていた。……あいつは回りくどいことが好きだから、最初から嬲り殺せるように備えておきながら俺達が成長するのを待ってニヤついてそれを眺めている。さも果実が熟して最も美味くなるのを待つかのように」
「ああ、それ、俺も覚えがあるぜ」
「お互い苦労するな、藤堂……今は和也か?」
「なんで分かったんだ。……しかしまあ、俺はいつ消えるんだろうな? 自分でもさっぱりだ」
舌打ちすると『和也』は後ろ手に手を組んだ。
達哉と同じ空間に幽閉された後湊によって引っ張り出され、猫の身体に移ったことによる副産物だと思われていた和也だが、身体が元に戻った今もこうしてしっかり存在し、尚也と自由意思で人格のスイッチは可能であるようだった。湊はその件に関して一言ぼそりと「これじゃただの怪しい二重人格者だね……」と漏らしていたが、しかし残念なことにそれは限りなく事実である。尚也も和也もそれを上手く否定することが出来ず、「それじゃ、怪しい二重人格者でいいよ」と肩を竦めていた。
和也の本質は尚也自身の疵痕の投影に他ならない。かつて藤堂尚也の抑圧された無意識が姿を得て本物に成り代わろうとした和也は、尚也に受け入れられて一つの人格に還元されていった。尚也の中の集合無意識の海に還元されたのだ。それが今再び、望んだわけでもなく表に浮上してきて一つの確たる形を持ったことにはやはり意味があるはずだし、何かの思惑もあるだろう。
例えばあの邪神の。
「いいよ。使えれば、それで。実際俺が尚也とスイッチ出来る方が利便性高いし。俺は月とか世界とか得意だけど、基本尚也は皇帝のゴリ押しだからな。女教皇とか必要な時はまだ俺の方が和也より適正あるし」
「まあ……俺も必要に迫られなければ太陽以外はつけないからな……。他のアルカナもつけられると言っても、実情はそのぐらいだろう。むしろああして相性を無視して付け替える湊が希有というか……変なんだ。心の形が多種多様に過ぎる、というべきか」
確かに本来、心の形は多岐に渡るものだ。しかしペルソナとして発現するほど強力な心がアルカナの数だけ存在しているというのは、これはもう異常に近い。有里湊という人間の中で人間性の乖離が起こっていたんじゃないかというぐらい。
適正アルカナは本来「愚者」で、そこにデスを押し込められたことにより同調で「死神」の適正を手に入れたというのはまだ理解は出来る。湊の抱えていた愚者らしい感情、未練、それについても先の《影》戦で幾らかは触れて、開示されて納得は出来た。
だがそれでもまだブラックボックスは残っている。
そして空恐ろしいことにそのブラックボックスの中身は湊本人ですらあまりよくわかってはいない。
「俺は『和也』っつう概念があのクソ邪神に利用されない自信があるし、達哉ももう揺さぶられることがなきゃそれでいい。湊も、もう流石に未練はないんだろ。その図体はそういうことなんだろうし」
「……一応ね。それで、交戦経験がある二人としてはどうなの、勝機っていうかパターンは」
「そりゃ、単純だ。『全てを受け入れた上で諦めない』。これが唯一絶対の黄金律だと俺は思う。達哉の話を聞いた上で尚強く」
「ああ。話した通り、奴は人の無意識の根源そのものだ。俺達が希望を持っている、受け入れて前に進む強さを持っている、ということが奴のダメージを通じて普遍的無意識全体に伝播したから奴は以前俺や兄さん達に敗北を喫した。だからキーは……お前だろう、湊。お前が意思を曲げないかどうか」
灰ねずみの眼球を覗き込むようにして達哉が窺った。意思の読み取りにくい、感情の発露に乏しい湊の眼球を、目を逸らさずにじっと。
「逆に言えば、それさえ出来れば勝てる、ということだ」
「……大丈夫だよ」
「確証を持って?」
「元々僕はそのために来たんだよ? この肉体はその意思の表れと言い換えてもいい。覚悟ならある。とっくに」
「へぇ……」
和也が面白がるようにニヤリと口角を歪める。「それじゃ、期待してるぜ。湊の覚悟ってやつ」畳み掛けるようにそう言うと、湊は何も言わずすましてそれを流したが、代わりに美鶴と真田が表情を歪めていた。
「嬉しいぞ? お前達がこうして相見える選択を選んだことが。下準備をしっかりと整えて待っていた甲斐があったというものだ」
「ああ……俺もだ。俺も、ある意味ではこの時を待ち続けていた」
「それから単純に俺はお前をぶん殴るチャンスに感謝してる。神取の時、勝ち逃げされたからな」
「ほう。どうにも久しい顔触れが混じっているな。クク……見事だ。やはり人間はこうでなくてはつまらない」
それが「ニャルラトホテプ」だということがわかっていて尚、強い拒否感情を催して尚也と達哉は顔を見合わせる。一行を待っていたのは黒い縮れ髪の男だった。だが、「千の顔を持つ邪神」「無貌の神」の名の示す通り、ニャルラトホテプには定まった風貌はない。もしかしたら、彼には「本当の自分」などというものは存在しないのかもしれない。
ニャルラトホテプが現在装っている誰かを、藤堂尚也と周防達哉はよく知っていた。二人ともその男と浅からぬ因縁を持って彼が死んでいくのを見送った。神取鷹久。彼もまた、一つの見方を取ればニャルラトホテプの因果に翻弄された犠牲者だった。
「嫌がらせか、その姿は。俺と達哉にしか通じないと分かっているはずだろうに」
「無論お前達への歓迎の心だ、藤堂尚也――そして特異点の周防達哉。どうやらお気に召していただけたようだな」
「御託はいい。終わらせよう……湊はお前の玩具じゃない」
「ほう。随分と面白いことを言うじゃあないか」
パチンと指を鳴らすと神取の姿をした邪神の背後に見覚えのあるアバターが顕現する。一つ、尚也がかつて戦った《ニャルラトホテプ》。神取貴久の肉を呑み込んだ、白い悪魔。二つ、《グレートファーザー》。周防達哉が一つ目の世界で戦った、父親達が集合し醜悪に絡み合ったもの。三つ、《月に吠えるもの》。周防達哉が二つ目の世界で戦った、ニャルラトホテプの相貌の一つ。
そして四つ。
「周防達哉。お前はまだ理解出来ていないようだな。――人間は全て私の玩具なのだ。一人残さず……余すことなく……生きとし生けるもの、私とコネクトする全ての普遍的無意識へ通ずる意識を持つもの、それは死の門番となり死者になったそこの哀れな少年も変わらずだ。仕方あるまい、今からそれを私自らが講釈してやろう……」
四つ目は、《神郷湊のかたちをした何か》。蝶の仮面、女帝のシャドウが付けていたもののような、或いはフィレモンのものにも似た黒い仮面を顔に付けて、Tシャツを着た十歳ほどの少年の姿の何かがそこに立っていた。
まるで《有里湊》に立ち戻った本物に追いすがるかのようにぽつりと佇み、左手には召喚銃を握り、その眼球の見えない顔をもたげて口が裂けてしまいそうな凄絶な笑みをする。何かは喋らない。口を開いても、空気が漏れ出るだけで言葉にはならない。しかしそんなことでは掻き消せない程の醜悪さと吐き気を催すような拒絶の感情を振りまいて引鉄を引いた。
「では、今一度始めようではないか。全ての滅びの瞬間を! お前達が絶望に足掻く様を!! それこそが我が甘美な蜜となり糧となる。精々私に刃向かって見せるのだ。人間の可能性などとほざいたものをな。なあそうだろう、死に魅入られし契約者よ……」
違うかね。そうだろう! ニャルラトホテプは声高に叫ぶ。演説を垂れる最中で高揚しすぎたのか、神取鷹久の姿がどろどろに溶け、見るに堪えないおぞましいものを形容し、しかし一瞬で次の人型に成り代わった。それは制服を着た少年の似姿をしていて、表情こそ醜いこと極まりないが、周防達哉の姿だった。
「私が遣わした十二の《満月シャドウ》達はお前を満足させてやれただろう? 何しろお前自身から抜き取った十二の感情で出来た者達だ。《愚かで無謀な好奇心》。《強情で臆病な反抗性》。《思慮に欠けた残酷な裏切り》。《八方美人で移ろい易い虚栄》。《自分勝手で反省のない独り善がりな傲慢》。《無気力無頓着で鈍感な怠惰》。《過干渉で快楽主義な裏切り》。《自信過剰で強引、その挫折》。《派手で道楽的な独断の本性》。《疑り深く神経過敏な貪欲》。《叛逆と、それに伴う衰退の誤算》。《不公平で不平等な偏見》。《徒労と見込み違いに終わる自己中心的な犠牲》。全ての人間の心に住まう欲望達を手放して、お前は随分と気が楽だったはずだぞ。それをわざわざ掻き集め、未練の大元にまで再生し、そうして一体に戻った気分はどうだ。心地よいか? それとも……」
「ッ……!!」
「何を身構えることがある。別段戻ったからと言って害はない。あれらは、お前達が十二のアルカナと呼ぶ振り分けの概念の本質……。随分と楽しませて貰ったぞ、有里湊。これほどまでに多様で矛盾した、入り組んだ本質を持ち合わせている存在はそうはいまい。貴重なサンプルだ。こんなに愉快な気持ちになったのは、そうだな、周防達哉の失敗を嘲笑した時以来だった。素晴らしい、実に素晴らしいぞ」
《嘲り嗤うもの》ニャルラトホテプが可笑しくてたまらないというふうに哄笑する。既に湊以外の全員はペルソナの召喚を終えていて、じりじりと間合いを詰めるようにニャルラトホテプとその背後の四体の出方を窺っていた。湊だけが、銀色の召喚銃を握りしめたままうまくその引鉄を引けないでいた。どうしていいのかわからなくて、戸惑う幼子のように、引鉄に手を掛けたままそこで止まってしまっている。
「私からの心ばかりの贈り物だ。無様な人間の本質、棄てたと思っていたものに大声で泣きわめかれて、さぞや痛快だったことだろう」
「それでいいって……全部受け止めるって、決めた。だから別に、」
「問題ない? どの口で? それで私に勝ろうなどと傲慢の上に浅はかだ!!」
それを合図に、ニャルラトホテプの背後で控えていた四体が飛び上がった。藤堂尚也の元へ《ニャルラトホテプ》が、周防達哉の元へ《グレートファーザー》が。《月へ吼えるもの》は神郷慎を目指し《神郷湊の形をしたなにか》は真田明彦と桐条美鶴に接近する。周防達哉の顔を歪めた本体だけが湊の前に残る。「さあ」ニャルラトホテプの声音が反響した。
「引鉄を引きたまえ。死を想え、死に損ないの死よ!!」
「ああ、くそ、――ペルソナ!!」
ぱきん、と。
聞き慣れたエフェクト音が鳴り響いて《有里湊》はペルソナを召喚する。
◇◆◇◆◇
「君は何でも出来る人だったよね。何だってそつなくこなすし、何かに困って大慌て、とか全然なかった。クラスの中心の人気者でこそなかったけれどそれは君自身がそう望んだから。そういう役回りは君はいらないと思っていた。ミステリアスで、ちょっと近寄りがたい雰囲気があるって思われているぐらいが丁度良かった。だってあんまりたくさん群がってこられても困るでしょう? 大事なものはいつも少しでいいんだ。大事なものが多すぎると破滅してしまうから。
だから君が放棄したその役回りは僕に回ってきた。僕は君と表裏一体。君から知識や感情を学び、君の選ばなかった選択をとり続けてこの姿になった。歪んだ鏡合わせの僕ら、本当はすごくよく似ていて、そう、例えば……このほくろとかね? 左右非対称のアシンメトリア。何でも出来る君とあまり多くは出来ない僕。だけど昔……順平君は僕らにこう言ったよね。『双子みたい』って。こんなに似てないのにどうしてだろう、だけどそうなんだ……って」
デスが空を駆る。有里湊を象徴するペルソナ《タナトス》と同じ姿をしたものにして神郷湊の最強のペルソナ。
似ているけれどタナトスとデスは違う。タナトスは死の欠片。ファルロスが遺していった片鱗に過ぎないけれど、デスは死そのものだ。生と死を相克する剥き出しの本能、ファルロスの殆ど全て。
愚者と融和したより強き《死》。
「あの時僕は嘘を吐いた。ファルロスは愚者、君の中のユニバースの雛形、それはおおむね正解だ。だけど、おおむね、に過ぎない。完全な答えじゃない。尚也と和也はすごく鋭いよね。僕が君にでさえ隠し事をしていること、気が付いてた」
デスの動きに合わせて湊自身も武器を手にかけずり回る。藤堂尚也も、周防達哉も、神郷慎、真田明彦、桐条美鶴、それぞれが割り当てられた敵に苦戦している。湊はフルオートマのリボルバーを投げ捨ててレイピアを創り出し、《敵》へと突進した。しかしそれもかわされて細剣を放り投げると次は弓を創造する。
「あの日黒猫は言ったね。君が契約した相手は何だ? と。そう、通常ペルソナはね、人間が自我の強度を確立して戦うための意思の鎧をと願うことで発動する。確固たる、自分から向かい合っていくための精神の鎧だ。だけど君って一度だって願ったことがあったかい? 自分で戦わなくちゃって思ったことがあった? 君がペルソナを得たあの一番目の満月の日、倒れている少女を見て偽善に駆られただなんて言うつもりかい?
――違うよね。確かに君は、倒れた岳羽ゆかりがシャドウの手によって殺められる可能性を考えて、ある光景をフラッシュバックさせた。両親が死んだ瞬間の、君の深層意識に最も忌まわしきものとしてこびり付いた普段は忘却されているメモリーだ。だけど君は直前にこうも言ったね。彼女に向かって、感情なんてまるでなさそうな平坦な声で、『死ぬって、そんなに怖いこと?』と」
「まだそれだけじゃないよ?」《敵》の声は続く。最も効果的な姿で、最も効果的な声音で、演説をする。諸手を広げてまがい物の美しい表情をして、湊の攻撃を全て避けてあまつさえ耳元で囁く。
「例えばだけど。君が倒れ、君の影が暴走した時に望月綾時が独立して稼働出来たのは何故だい? 君は言ったじゃないか、ペルソナである以上宿主のコンディションには否応なく影響されるのだって。宿主に異常があり、倒れてしまえばエネルギー供給を受けることが出来なくなってペルソナは活動を停止するとね。実際神郷湊は倒れた。ペルソナを召喚するのに必要な精神力を根こそぎ持って意識と無意識の狭間に潜り込んだ。その間、残りの愚者と死神のエネルギーは影として暴走していたから地上に留まっていた、法則を無視してね。あれは特例だった……意図的に能力を付加されていたこともあったから。外付けのバッテリーを繋がれていたようなものだ。でも……だけどね、彼はどうなるんだい。愚者から世界の全てのエネルギーを君が持っていったはずのに、どうして望月綾時は……《デス》は守るべきもののために駆動出来ていたのかな。それって……おかしいよねえ……?」
「《ブレイブザッパー》!!」
「じゃあ一体望月綾時の動力エネルギーはどこから供給されていたのかな。仮に君じゃないとするのなら一体誰が? 誰ならそんなことを可能に出来る? 可能性の狭間に住むあの鼻の長い老人は、決してシナリオを歪曲する手助けはしない。求められた奇跡に応じてそれ相応の対価を支払ってはくれるけどね……そうでなければ因果律の監視者としては、それを許すわけにはいかない。彼が独立して存在できるのはひとえにその中立性故だ。イゴールは客人への必要以上の干渉を許されていない。
そこで望月綾時の根源に遡るとしよう。彼は《有里湊》の心を奪い取って成長してきた。有里湊の胎内に十年もの間巣食い、彼の保有するエネルギーを喰らって、まるで母親とリンクした胎盤から栄養分を吸い取るように成長した。結論は、簡単だ、もうわかるだろう。その意味で望月綾時というのは間違いなく有里湊の子供だったのさ。代理母の出産の仕組みと同じだ。君は死を託卵された親鳥だったわけだ。――さて」
そこで《敵》はゆるりと着地し、舞台の上に立つ俳優のように大げさな動きで一礼すると突進してきた湊を手に持った武器ごと掴み取った。四肢の動きを封じ、口を裂いてにたりと笑む。(その顔でそんなことをしないで)湊は眼前に広がる映像に張り裂けてしまいそうな心臓を感じていた。(僕の大切な子の真似をしないで)。
湊を相手取る《敵》は言うまでもなく《ニャルラトホテプ》の本体であった。しかし彼は既に周防達哉の姿を棄て去り、最も湊に有効に機能する者の姿を取っている。《望月綾時》の姿だ。綾時の姿で、綾時の声で、綾時の口調で、這い寄る混沌は嘯く。
「この話はお気に召したかな。死に魅入られしユニバースの継承者」
「……知らない!」
「強情な。だがこれは真実だ。君の従者が黙りを決め込んでいた真実の一端だ。紛れもなく。……藤堂尚也、あいつは、随分と知りたがって疑っていたろう? 真田明彦と桐条美鶴にしてもそうだ。異端過ぎたのだよ。不信を抱かせるにはそれで十分」
「綾時は綾時だ。それ以外の何者でもない。綾時は僕に害を及ぼさない、それだけでいい」
「……確かに。これは有里湊には害を成さないだろう。それはシステムの都合だ。システムの原則に沿って、危害を加えることが出来ない対象に君が設定されている。だから望月綾時はその、システム法則に理由と名前を欲しがった。それだけが真相――そう言ったら、どうするのかね、君は」
「敵の言葉なんかに誰が耳を傾けると思う?」
至近距離から、ホールドされていることを利用して手にしたままのカイザーナックルでニャルラトホテプの肉を抉り取った。しかしニャルラトホテプの方にそれが堪えた様子はなく、また、呵呵と嗤うのみだ。
「《望月綾時》は君のパーソナルだ、《有里湊》」
「……何を、」
「望月綾時とは。有里湊の死神の性質を丸々と乗っ取って分離した有里湊の剥離したパーソナルに過ぎない。偽りの人格だ。望月綾時が君を愛するのは自己愛によく似た末路でしかないのだ、わからないのか。分離し独立したガン細胞のようなものだ。有里湊から知識と自我を奪い取って成長したパーソナルは独自性を持ち、やがて胎内に宿っていた死に同化して君の外へと孵った。
孵化した宣告者は、君から奪ったパーソナルを肉体に宿してしまい、完全な死にならない。自分自身には殺されることが出来た。望月綾時は、度々お前に愛情を告げただろう。それこそがシステムに彼が付けた名前なのだよ。『愛』。滑稽だと思わないかね? 壊せない理由に、愛情という張りぼてを選んだのだ……まるで、人間のように!」
「悪いか。綾時は半分は人間だった。僕が綾時に教えた。感情、優しさ、愛すること。全てを」
「随分と美しく飾り立てるな。それも人間の愛情というものか? 私には度し難い……」
万全の態勢で臨んだはずなのに、という思考がちらと湊の脳裏を掠め、慌てて首を振る。
ニャルラトホテプは人の心の負の意識が集合したようなもの。マイナスの感情を好み、吸い取り、活動する。だから湊はここで敗北を考えてはならないし、劣勢を嘆いてもいけない。
幸いまだ他のメンバーは互角に敵と交戦を続けている。まだ大丈夫だ。そう思い直す。
けれどその考えを見透かしているかのようにニャルラトホテプは口を動かすことを止めないのだ。
「言うまでもないが……パーソナルを剥離・分離させて、自分と別個の個体として扱ったらどうなると思うね? それは個人の存在の欠落だ。この街で発生した影抜き中毒者のように……ペルソナを引き剥がされた者は通常死を余儀なくされる。死体が無惨に内側からひっくり返るという形をもって。しかしお前はそうではなかったな。その離別をもってして、より強固な力を得た。――法外だよ。規格外だ。本来ならば、そのようなことは許されてはならない。人の世の理を乱すからだ……だがお前は初めに契約を交わしていた。誰と? 決まり切っている。自分自身と、そして、この世の摂理」
ニャルラトホテプがとっておきの秘密を耳打ちする子供のような、期待に満ちた眼差しで湊の顔を掴み取る。デスがそれに抵抗しようとしたが、ニャルラトホテプの肉体から伸びた触手に動きを封じられてしまった。
綾時の姿を模倣した唇が湊の顔にじりじりと近付いて行く。かつてたくさんの愛情の言葉を紡いだ唇を真似て、嫌らしく、ねっとりと、憎悪をぶちまけるように。
「……《ユニバース》とだ。二十年前ユニバースに選ばれたお前は、やがてその御許へ存在を還元するために生かされたのだ」
そしてニャルラトホテプは、その事実を宣告した。
――その時。
湊は、ようやく遅まきに理解してしまった。
そうか、そういうことなのか。その理論でさえ考えれば、全てのピースが上手く嵌るのだ。綾凪に発生した歪みの原因は、ニャルラトホテプが湊の遺した未練に目を付けたからだと思っていた。それ以上でもそれ以下でもなくそれがただ一つの真実なのだと。だけど違った。歪みは、湊という存在の矛盾が引き起こしたもの。ニャルラトホテプはその歪みを利用して遊んでいただけにすぎないのではないか。
ニャルラトホテプが歪みを起こしたわけでは、ないのではないか?
では。ニャルラトホテプを倒したからどうなるというのだろう。それが原因だと思い込んでいたからこそそれさえ排除出来れば全ては正常化するはずだと信じられた。だけどそうじゃなかったとしたら。そうではないのだとしたら。
――排除しなければいけないのは、一体、誰だ?
「一つだけ断っておいてやろう。周防達哉を囲い藤堂尚也を実質的に拘束したのは確かに私だ。それはお前とは別件で、私が目を付けていた。だが肉体を伴って現世に顕現するお前をそこに立ち寄るよう仕向けたのは私ではない。周防達哉と藤堂尚也をこのシナリオに巻き込んだのはお前自身だということだよ。必要のない戦いに彼らは駆り出されたのだ」
召喚銃に掛かっていた指先が露骨に震える。いつの間にか、ペルソナ使い側の勝利で戦闘が終わったのかニャルラトホテプが注目を集めるためにそれらを排除したのか、どちらかは分からないが本体以外の敵は消滅していて跡形もない。中央にニャルラトホテプ本体と湊、そしてペルソナを臨むように彼らは円形になって取り囲んでいた。「動くな、無駄だ」ニャルラトホテプの冷たい声。「何人たりとも近づけん。選択は常にこやつ自身の責任によって贖われるのだ。それこそがペルソナ使いとして奴が自分自身に課した誓約。強力な力を得るための第一の代償。私はそれを尊ぼう、故に、他者の干渉は認めない」。
その言葉と共に三者と他者との間に薄く光る防壁が出現する。青い蝶がその周囲をひらひらと舞った。なるほど。初めからこの悪意に肉を与えたかのような邪神はその腹づもりだったのだ。とっておきのジョーカー・カードを最後の最後に切って、湊を絶望させ、諦めさせる。
圧倒的な力で一息にねじ伏せるわけではなくじわじわと追い詰めたのはその演出のため。
(……なめたことしてくれる)
だがそれ故に勝機があり、やはり、詰めが甘い。今ならまだ全滅は避けることが出来る。湊は自らの握る手札を今一度確かめて思考を巡らせる。この条件なら、まだ何か、手が打てるはずだ。
そして間髪入れず「慎兄!!」その一手と成り得る人物の名を、あらん限りに声を張り上げて叫んだ。
「慎兄。前に渡した、ブランク・カードはまだあるよね」
「は? あ、あるけど。っていうか湊! お前今そんなこと言ってる場合じゃ、」
「今一番それが必要な時なんだ。それを使う時が来た。――決断して慎兄!」
「決断って何をだよ!!」
「そのカードを使うってこと。慎兄がそれさえ決めれば、それはユニバースの奇跡を司ることが出来る。僕と引き替えに」
ほんの一瞬だけ、しん、とその場が静まりかえった。
「ほう? 結局その選択なのか? あれほど苦労して、今度こそユニバースに骨まで埋めるというのがお前の答えなのか、契約者」
「どうとでも。慎兄。ニャルラトホテプの気が変わる前に、早く、お願いだから」
「だけどこれ、お前と、湊と引き替えなんだろ?!」
「そうだよ。『それでいい』んだ。――慎兄!!」
叫び声をトリガーにして、取り出した覚えもないのに件のブランク・カード、白紙のアルカナは慎の眼前に浮かび上がっていた。「待てよ……」慎はかぶりを振る。真っ白だったフレームの中に鮮やかに印字が浮かび上がり、アルカナ・カードの真の姿を現し出した。《?? UNIVERSE》。
それは有里湊がいつか手にした奇跡の形だ。
そしてそれこそが現在の湊の、有里を棄てた少年の本質なのだ。
「早く!!」
湊がまた叫んだ。図体が随分と大きくなっている今の彼の姿からは、それが「有里湊」の声なのか、「神郷湊」の声なのか、慎にはもう上手くわからなかった。
最初に会った時に、湊は言った。「奇跡は自分のためには起こせない」。
その法則は、変わりようがない。絶対に。
「綾凪の異変の原因は、ニャルラトホテプじゃなかったんだ。こいつはそれに乗っかってただけ。本当の元凶は僕だ。僕――《有里湊》が、十年の月日を掛けて死後に蓄積した存在の歪みが、たまたま直近に異常磁場を発生していたこの街に引き寄せられてシャドウの奔流と影時間の再来、つまり僕の記憶を中途半端に再現する形で発現した。この異変の大元である僕を消さなければ影時間は終わらない。……今、影時間が明けないのは、僕がほぼ完全な形で《有里湊》に回帰しているから」
「待ってくれよ……俺には、湊が何言ってるのかさっぱり、」
「わかってるんでしょ。だったら僕のお願い聞いてよ、『慎お兄ちゃん』。最初で最後の我が儘だからさ……」
結祈の真似をするように「慎お兄ちゃん」と名を呼ぶと慎はとても奇妙な表情で、息を詰まらせ、かぶりを振った。その後ろで洵が避難するような眼差しを向けてきている。ごめんね。湊は胸中だけでその言葉を噛みしめた。ごめん。なんか、こんな、無駄に巻き込んでしまって。
慎が黙ったのを見かねて次に口を出してきたのは美鶴だった。「だが!」激情したように彼女は叫ぶ。必死で、なりふり構う素振りもなくて、十年前の少女に戻ったようだった。
「馬鹿なことを言うな! 私には……また、みすみす君が自己犠牲を働くことを見逃しにするなど出来ない!!」
「だけど美鶴先輩、それしか方法がないし、それに僕は元々自分が招いた事態の落とし前を付けに来たんです。……邪魔しないでください。これが一番スマートな解決方法なんだ。僕という本質がユニバースに還るだけです」
「お前、それじゃ、何のために自我超克のイニシエーションを超えたんだ。聞いてる限りじゃそれは十年前の選択と何も変わらないように思えるぜ」
「そうでもないよ、尚也。僕は確かに未練を受け入れた。全てを受け入れて、諦めない、それが唯一の方法だって達哉も言ったよね。僕の諦めない答えがこれだ。……僕は僕自身の意思で、今一度ユニバースを選択する。諦めた訳じゃない。可能性に賭ける――!!」
その次の瞬間に、慎の手のひらの中のカードが、慎の意思を置き去りにして光り出した。
ユニバースの図柄が大きく空に広がり、防壁を突き抜け、破壊して慎の手元からニャルラトホテプに捕縛されたままの湊の肉体のある場所まで到達する。「湊!」「有里!」と切迫した叫び声が幾重にも重なって轟いた。声を出さなかったのはデスだけだ。彼だけは、黙ってその姿を人を模倣したものへと変貌させ、湊にその手を委ねた。望月綾時は有里湊の一部分。その事実が紐解かれた今や、彼らは命運を共にしている。
「――慎お兄ちゃん、美鶴さん!!」
その際に洵が彼としては非常に珍しい空間を切り裂くような声音で叫んだ。
いや、叫んだのは洵ではない。結祈だ。結祈が洵に身体のコントロールを借り受けてここに来て初めてその意思を主張したのだ。
慌てて慎はユニバースを持ったまま洵の身体の方へ向かう。そういえばさっき、湊が元の姿に戻った際に結祈の気配を洵から感じていた。理屈は知らないがそれが結祈だということは慎には兄弟の直感で確信出来ていた。
「結祈ッ……?!」
「ごめんお兄ちゃん、説明は後。慎お兄ちゃんはユニバースを使って、私が合図するから。それから、美鶴さんはアルテミシアを貸してください。私と洵の《セト》は繋ぐ力。私達、湊がやりたいことがわかったんだと思うの」
彼女は切迫した表情で、けれど嘘を吐いているような態度ではなかった。結祈がこんな大事なときに意味もなく嘘を吐いたりしないということは慎と洵が何より一番よく知っている。「出来るのか」と尋ねると結祈は頷いた。
美鶴が追い付いて、セトを卸して座っている結祈のそばで屈み込む。
「それは本当か?」
「本当です。私は湊を絶対に、損なわせたくない。信じてください」
はしばみの瞳が美鶴の紅を射抜いた。美鶴は生唾を呑み、「……わかった。信じよう」アルテミシアを結祈のセトに近づける。セトがアルテミシアに触れ、リィン、と鈴が鳴るような音の波紋を響かせる。
「湊は賭けに出たのよ。だから私は、それに最善の結果を付与するの。それが私の、湊への恩返しだから……慎お兄ちゃん!」
結祈の号令で慎は光り輝くユニバースのカードを解放した。それと同時に、結界の中に閉じ込められニャルラトホテプに掴まれていた湊の姿が、同じく動きを封じられていたデス諸共この世界から消え去った。
Copyright(c)倉田翠.