]\ SUN:リグレットの鎮魂歌


 墓だ。ずらりと墓石が並ぶ霊園のどこか、その御前に青年と女性が立っている。墓石に掘られた文字は「有里家之墓」。そこに花束が手向けられ、線香からあの特有の香りが立ちこめている。薄らと赤い熱を孕んだ線香の束、白菊、手に掛かった数珠。黙祷を捧げ終えた青年は振り向くと、ちょっとだけ困ったような顔をしてはにかんだ。
「……変な感じがするでしょう? 自分のお墓なんて。あんまり気持ちの良いものではないですよね。ごめんなさい。だけど……僕達にはこの形が必要だったんだと思います。あの時……今でも、恐らくは……」
「あなたが亡くなってからすぐに、桐条さんが建てたんです、このお墓。あなたしかいないお墓……」
「でも皆が来てるわけじゃないですよ、ここ。年に一度、命日の日に訪れるのが桐条さんと順平さんかな。真田さんは時々。あっちこっち転勤してて、忙しいみたいで。山岸さんも、遠いし。僕は……僕がたぶん、一番よく来てるんじゃないかな。返事とかないって知ってるけど、独り言、しに来たくて」
 夏の日。盆の真ん中、日差しがぎらぎら照りつけて蒸し暑い。墓の中に眠る誰かにはもう二度と訪れなかった季節の一つ。最後の夏には、まだ全てがいた。
「有里さん……リーダー」
 青年が躊躇うようにそう口にする。「あの、」と一度どもり、でも気を取り直してまた口を開いた。
「あなたが来るって、なんとなくそんな気がしていました。今日はお盆ですから……」
「……ええと、天田君?」
「ええ、そうです。びっくりしました……? 十年経って、僕も大学生ですから。就活真っ最中ですよ、もう」
「随分伸びたね」
「そりゃ身長ぐらい、伸びますよ。真田先輩に聞いて……プロテイン飲んだり色々やったんです。……僕も、誰かを守れるような強い男になりたかったから」
 だって結局最後はあなたに守られてばかりだったじゃないですか。最早少年ではなくなった天田乾が唇を尖らせる。たけのこみたいに身長の伸びた姿で、だけど笑い方は十年前の、小学生の彼と寸分違わなくて、それが夏の日差しと相まって酷く眩しい。
「もう十年経つんですね……」
 天田が感慨深そうに呟くと隣に立った女性――山岸風花が、「そうね……」とそれを肯定した。風花の左手の薬指には指輪があった。既に彼女は山岸ではないのかもしれなかったが、天田は敢えて彼女に「そうですね。山岸さん」と、返していた。

 十年前の夏には全てがあった。
 当然有里湊は生きていたし、荒垣真次郎も存命していた。コロマルも元気だった。天田乾はまだペルソナを発現していなかった。
 その季節には望月綾時の代わりにファルロスがいた。有里湊に与えられた最後の全てが調和した季節。夏が終わり、秋が過ぎた頃から、全ての《崩壊》は始まる。
 秋。ストレガのジンに撃たれ、荒垣が死んだ。天田はペルソナを発動していたが、その頃はまだ精神が未熟だった。そこにもたらされる荒垣の死には、戦力の低下なんかよりももっと大事な意味があった。
 冬。ファルロスが消えて望月綾時が現れ、しかしそれもすぐに別の形になって消えてしまう。死の宣告者デスとなり立ち塞がるそれに、有里湊は、一つ、ブレーキを外した。
「有里さん、十年経ってもあんまり変わらなかったんでしょうね。なんとなくそう思うんです。割と小柄な有里さんがすごいムキムキマッチョになったりするの、想像付きませんし。僕が今見ているあなたがそういう夢想の体現なのか、どうなのか判別は付きませんけれど。何か、悔しいんですよ。僕だってこの十年間努力してきたし、かっこよくて頼れる大人になりたくて、あなたのような……だけど、やっぱり叶わないなって思いました。リーダーには」
 墓石の前で天田がそんなことを喋り続けている。「叶いません。有里さんは、やっぱり……すごいです」憧れのヒーローが出ているヒーロー・ショウを見物した後の子供のようなことを、しかしそれとは裏腹な声音で言う。特撮番組のフェザーマンが好きだった天田少年はそこで一度口を噤み、湊の姿をじっと見た。
 湊には自分の姿が見えない。鏡がないというのもあったけれど、鏡があったところで映らなかったかもしれない。実際のところがどうなのかはわからなかったけれどとりあえず天田は湊のことを盆帰りの幽霊みたいなものだと考えているらしい。湊自身よくは知らない。本当に盆の幽霊状態なのかもしれない。
 ばらばらした季節。今まで、夏にいたのか、それとも秋にいたのか冬にいたのか春にいたのか。それさえもあまり判然としなかった。
「私達ね、有里君がいなくなった後……何人かで、何回か、話をしたことがあるの。その度に参加している人はばらばらだったけれど。議題は、いつもあなたのことだった。リーダーが最後に一人で行ってしまったことを……飽きもせず、ぐるぐる、と」
「……なんで?」
「皆リーダーのことが好きだったから。対ニュクスの時、重力に押し潰されて倒れたままの私達を置いてリーダーが行ってしまったこと、私達はずっとそのことを考えて、囚われてさえいるようだった。私達はあなたに感謝すると同時にやるせなさを覚えていた。それが全部噴出した形になるのがあのコロッセオ・プルガトリオなんだって私は思う。私はナビゲーターの立場上中立にならざるを得なかったけれど、あの時……皆の痛ましい重いがすごく強く伝わってきて……私はそれが一番辛かった」
「……別に、僕のことなんか忘れてくれれば良かったんだよ。そんなに皆が辛い思いをするのなら……」
「それは嘘ね。そんなこと、思ってないでしょう。それに……出来なかったと思う。私達はリーダーのことが好きだって、言ったでしょう? あなたが遺してくれた大切な思い出を棄てることは出来ないわ」
「死者の思い出なんか、生者を束縛するだけだよ。美しく飾り立てて神棚に飾るぐらいなら壊して棄てた方がいくらもましかもしれない」
「リーダー……」
「――それは、違いますよ」
 天田が割り込んでくる。彼らしい、確たる意思を持った強い口調で「違います」、そう繰り返す。
 その時湊は天田の言葉を聞かなければいけないと思って、口を噤んだ。天田と山岸がいるところに理由も意味もわからぬまま現れたのは、きっと彼がここで言うことを聞くためなのではないかと思ったのだ。
「死んだ人が、ある程度生き残った僕達の中で美化されるとかそういうのは確かにあると思いますよ。僕にとって母さんが初めはそうだった……母さんの死は僕を捉えて離さなくて、突き動かされて……そうだった時もある。だけど、事実の一端でしかないんです。あの人が……荒垣さんが、それを僕に教えてくれた。だからリーダーが死んで……あのコロッセオで僕と真田さんが同じ道を選んで。死んだ人の意思を無碍にしたくないなって……同じだったんです。僕達二人とも、荒垣さんに救われていたから。
 ねえリーダー、知らなかったでしょう。僕はあなたに憧れてました。《有里湊》っていう、あの時、僕のそばで指揮を執ってくれた人、実は寝顔があどけなくて、料理がうまくて、大食漢で。勉強が得意で、だけど時々変なことを言って。本人の知らない隠れファンクラブがあったりして、変わり者で、一番大切なものが何かを教えてくれたリーダーに僕は憧れていました。今も。大好きなんです。お兄さんみたいだった」
「……一番大切なもの」
「ええ、そうです。一番大切なもの。あなたははっきりと口に出しては言わなかったけれど……」
 天田の指先が輪を作り、それがくい、と形を変えてハートマークを描き出す。彼は微笑み、その指先のハートマークをすっ、と湊の方へ差し出した。
「『心』ですよ」
 その時何かが駆け抜けていくような心地がした。心。君に貰ったものだよ、とあの子が言ったもの。アイギスが得てその人間性を確立したもの。人間が持っている最も尊いものだと、昔誰かが言ったっけか。
「思い上がりかもしれませんけど。あの時、ニュクスとの最後の決戦の時……僕達は有里さんに心を預けられていったような、そんな気がしているんです。有里さんは、人間だったから……当たり前のこととして色々な人と交流を持って絆を築いていたでしょう? その端々に……少しずつ、心を預けて貰えたんじゃないかって。荒垣さんが僕達にそうしてくれたのと同じように。僕はそれが嬉しかったんです。離れてても繋がってるっていうか……」
 ハートマークを象っていた指先が離れて、また別の事柄を図示する。人差し指と人差し指を絡めて、人と人の交差する絆を指し示して天田は湊をまっすぐに見つめた。
 心。もう一度口中で反芻する。置き忘れてきたもの、それがもしあったならばそれはきっと未練という名のものだけだと思っていた。ダメだなって、そういうふうに感じていた。立つ鳥が跡を濁してはいけないと信じていた。
 だけど天田はそうではないのだという。「遺されるものがないほうがさみしいですよ」と彼は言う。
 だったら、あれで、良かったのだろうか?
「そういう感じ。素敵じゃないですか?」
 風が凪いでいる。夏の日の幻影の中、ひとり、ふたり、さんにんで、その時彼らは墓前にいた。



◇◆◇◆◇



「なんとなくわかってたよ。キミが来ること」
 かつて少女だった彼女は、ベッドサイドに腰掛けてそう言った。昔よりも随分と大人びて、もう、滅多なことでは泣いたりなんかしなさそうな顔をしている。髪型は茶髪のミディアムショートのままで、以前よりも薄く派手さを落とした桃色の服に身を包んでいる。
「私も、十年精一杯頑張ってたんだけどな。キミっていつもそう。いつも、皆が考えてるよりもずっと先に行っちゃうの。ねえ、一つだけ、言わせて貰っていいかな?」
「……何?」
「有里君、十年経って、またかっこよくなった。悔しい」
 そうして、岳羽ゆかりははにかんだ。

 ゆかりの私室は十年前に寮で見たものより少し落ち着いた印象のものになっていて、けれど少女特有の感触があちこちに見てとれるようだった。二十七歳になった岳羽ゆかり。まだ、岳羽のままの、彼女の部屋。
 有里湊は岳羽ゆかりに負い目があった。ある意味で、これが有里湊にとっての、最後の未練だった。
「私がまだ『岳羽』で、岳羽のままで、それを知ったら有里君がどう言うのか、わかってたつもり。でもそれでいいの。それは、君が死んだからじゃないのよ。私、確かにすごく嫌だったし怖かった。君が死んでしまったこと……信じたくなくて受け止めたくなくて、きっと、有里君はそれさえも知ってるのよね。私達があの終わらない三月三十一日でやったこと。私が桐条先輩に我が儘言って加勢して貰って、順平とコロちゃんも、真田先輩と天田君も、皆の言うこと全部突っぱねてそうしてアイギスとメティスに負けたこと、知ってるのよね。ちょっと、恥ずかしいな……。
 だけどあの時私分かっちゃったんだ。私は……君が好き。それはもう、ずっと、この先どんなに長く生きて、しわくちゃのおばあちゃんになったとしても変わらないことなんだって……。他のどんな人と居てもそうなの。私は君に恋してる。独り善がりでも愛してる。だから君のお葬式に立ち会って、それから一周忌で集まって……大学に行く前かな。自分の中ではっきりと分かったの。私は一生有里湊に恋をし続けているんだって」
 そんな、悲しそうな顔しないでよ。ゆかりが困ったように笑う。「君にそんな顔されたら私寂しいから、笑ってとは言わないけどいつもみたいにしてていいんだよ」と、彼女は首を振る。
「これは私が選んだ答えなの。他の誰が……君もよ……強要したことじゃないし、悲しくて辛いことじゃないわ。憐れまれるのは嫌だな。君はきっと、死者の思い出に束縛されているだけだって言うんだろうなって知ってたよ。死んだ人の思い出は人をより強く美しく縛り付ける……君が言いそうなことだもん」
「事実、そうだ。僕が死んで……死者の存在が生者の選択を妨げることが、僕の大きな未練だったから」
「それは確かに事実の一端だと思うよ。私、お父さんがいなくなってからそのことをずっと考えてた。お父さんがいなくなったから、お母さんはあんなふうになって……反動みたいに男に溺れていって。それがすごく嫌だった……。知ってるか。散々、話に付き合わせたものね。
 だけどお母さんは、その先で新しい幸福を見つけたんだって。確かにあの人はお父さんの幻影に首を掴まれていたかもしれない。だけど、もう前に進むって決めたから、それで終わったの。風花が本当のお父さんの遺言を私にくれて、イオがイシスになった時に私もお父さんへの気持ちに一つ整理を付けたんだ。それと一緒だよ。私は私なりに気持ちを整理して、だけどやっぱりそれでいいと思ったんだ」
「だけどそれって、」
「私は君のことがすごく好き。それだけの、すごく単純なこと」
 ゆかりは言葉端に強い心を込めて湊の手を握った。
 二十七歳のゆかりの隣に座る有里湊は、いつか彼がこうなっていたのかもしれない仮定の、架空の、仮想の二十七歳の有里湊の姿をしていて、身長があれから少しだけ伸びていて、髪の長さはそんなに変わらなくて、瞳は相変わらず灰がかった空の色をしていて、ゆかりはきっとそれが夢に似たものだと感じ取っていた。
 だからすごく素直に全てを伝えることが出来る。今この場で、ありったけの飾らない本心を、偽らざる本音を伝えられる。握りしめた湊の指先の暖かさがゆかりを後押ししてくれているような気がした。今、この奇跡のような幻のような瞬間にちゃんと言わなければいけないと信じた。
「君が綾時君を選んだのだとして、もう二度とそこから……死の元から帰って来ないのだとしてもね。これは私の気持ちよ。私の気持ちを、思いを、心を君にとやかく言われる覚えはないよ。――好きだよ、有里君」
「ゆかり」
「例え君が私を選んでくれなくっても」
 そこではっとして息を呑んだ。
 ゆかりのはしばみ色が湊を見ている。二十七歳の肉体、二十七歳の体格差、訪れなかった現実、二人の間に夢想されていた未来。その体現がこの空間の全てだった。「ゆかり」湊から手を伸ばし、湊の手を握りしめている彼女のその手のひらに触れる。「なによ……」ゆかりの声は、少し、泣き笑いしてしまいそうなものに聞こえた。
「確かに僕はゆかりのことを選べなかった」
「……うん。そうだね。知ってるよ」
「ゆかりだけじゃなくて。順平も、アイギスも、山岸も美鶴先輩も真田さんも天田君もコロマルも、誰も彼も、選べなかった。死んでいくのにそんなことは出来なかった。だって死にゆく僕が選ぶって、一緒に死んでっていうようなことじゃないか。僕は大事な人には生きていて貰いたい。簡単に死んだりしないで欲しい。生きている限りたくさんのことがあって、いいことも悲しいことも等しく降り注いで、泣いたり笑ったりして、だけど、生きていて欲しかった。ゆかりにも。僕は……ゆかりに、生きていて貰いたかったんだ」
「……え?」
「綾時は元々死だ。僕のために巻き添えになって死ぬ訳じゃない。本当はあの子にも生きていて欲しかったけれどね。けれどあの子も僕と同じで、もう死しか選べなかったから仕方ないんだ。でもゆかりにはこれからがあった。契約をしていたわけでもなくて……ゆかりには。未来に生きる権利があった。だから生きて。僕が大いなる封印をしたのは……きっとそのためだった」
「ちょ、ちょっと、湊君……」
「それでゆかりを傷つけていたのなら、ごめん……」
 かつて彼女とそうしたように、手を握ったまま隣り合って身体を触れ合わせた。十年前の幻想が少しだけ脳裏を掠めてすぐにどこかへ消えていく。瞼を伏せると、ゆかりがハァ、と溜め息を吐く音が聞こえてくる。「君ってほんとそういうとこ、ダメ」ゆかりが言った。
「ねえ、それは、私達こそ君に思ってたことなんだよ。知ってた?」
「……何を?」
「生きて……生きてればきっといいことも悪いことも、楽しいことも辛いこともあるけれど、それでも一生懸命に生きて欲しかったって。自己犠牲なんてほんとはしてほしくなかったよ。だけど君はすごく優しいからそれが選べたね。誰かを助けるために……誰かの生を願って……そういう人。だから私はもっと君が好きなの」
「僕、やっぱり、ダメなのかな」
「ダメダメ。君って人の気持ち、大事なとこで全然考えない。だけど言ったでしょ、もういいの。私は君のそういうダメなところも、全部受け止められたから」
 だから大丈夫よ。繰り返すゆかりの瞳はやはり泣きそうにはなかった。もう必要以上の涙をずっと前に流していて、だから今は綺麗な顔で送り出すの、と言わんばかりで。握り返すと心臓の音が聞こえてくる。岳羽ゆかりが生きている音。それがたまらなく切ない。
「誰も彼も同じなの……。私達は……私は、君に、有里湊に生きていて欲しかった。だからもし今度があるのなら簡単に自分を差し出さないで。自分を大切にして。その上で、ハッピー・エンドを探すのよ。いいわね」
 強く言い含めるゆかりの顔はとても気丈だった。そして、とびきり綺麗で、美しく、逞しい。

「今度こそ」

 さよならの代わりにそう口にしたのだろうということはすぐにわかった。



◇◆◇◆◇
 


 がすん、とものすごい衝撃が下から上へ向かって駆け抜けて湊は思い切り顔を顰めた。派手に尻餅をつく形になってしまい、かなり痛い。ゆっくりと面を上げると、ミルクを垂らして充満させたように真っ白い空間が広がっていて、そこには少女が一人と湊の半身がぽつねんと立ち尽くしているのみだった。
「……いると思ったよ」
「言ったでしょ? 私は湊に恩返しがしたかったんだって」
「それも聞いたけどね。そうか、そういうことだったんだ……」
 「僕が結祈を連れ出した時点で、既に保険が利いてたってことなんだね」。問うと。二人はゆっくりと頷いてそれを肯定した。
 羽根が少女を中心にゆらりゆらりと重力を無視して舞い踊っていた。何の生物の羽根なのかはよくわからないし、その生物を特定出来るような気もしない。敢えて言うのなら「天使の羽根」に近いのではないかと思った。つまり架空のものなのだ。
「そういえば、結祈は『くじら』だったね」
「そう。私はくじら。くじらの一つである、『神郷結祈』の意識。私の意識は普遍的集合無意識の海の中に溶けたほんの小さな一つにすぎないわ。くじらは一であり全であり、大きな力を持ってはいるけど自らの意思で誰かの命運にメスを入れることはないの。それはあたかも、ニャルラトホテプを生み出したとされる盲目白痴の神アザトホースのように」
「これも……『くじら』の引き起こしたもの?」
「くじらの影響があった場所にはこうして『くじらのはね』が残るの。ねえ、湊、生前に伝えたいことを伝え切れなくって、それが生き残った人達を縛るものになっていたらっていうのが湊の未練だったよね。今生きてる彼らは……どうだった?」
 結祈が問う。「湊が想像してたのと同じだった?」――コロッセオ・プルガトリオでかつて垣間見たようなものと同じだったのかと、彼女は言う。余りにも大量に舞い散っているくじらのはね、きっと彼女は覗き見なりなんなりして知っているだろうに意地悪なことを聞く。溜め息を吐くと、彼女はちょっとだけ申し訳なさそうに「ごめんね。悪気はないのよ」と言った。
「最初からぐるだったんだ。……綾時は、結祈のこと、知ってて、黙ってたんだね」
「そういう約束だったからね。僕達は二人ともすごく君に感謝しているという点で共通していたから。僕には湊君を今度こそ守るために、保険が必要だった。彼女はそれを分かっていたよ。わかりやすく言うと利害が一致したっていうことで」
「そう……まあ、いいけどね……」
 望月綾時、有里湊の自我から生まれ出て一個の別人格となった存在に投げやりにそんな言葉を返す。分離した自我との共存。自分の人格の仮面としてのペルソナの一つ。ニャルラトホテプの説明を借りればつまりそういうことで、綾時は和也と同じ概念の基存在していたのだ。
 違いは一つ。正常な空間では和也は決して尚也の身体より外には出られないのに対して、綾時は死の宣告者《デス》という肉体を手に入れてしまったため、常に湊と分離して行動していたこと。だけどペルソナとして活動していた際には湊の自我の海の中へと入っていくこともあった。当然だろう。彼は元々そこに棲むものだったのだ。
「尚也と和也の疑問の答えがこんなに簡単だったなんて思わなかった。我は汝……汝は我……結局皆同じだ。あの暴走した僕の影と」
「尚也が猫の身体に入って、この地にやって来る時に和也が顕現したのは僕達が影響を及ぼしていたからだろうね、きっと。僕達は尚也と和也の関係性によく似ている。波長が同じなんだ。二人は本物の双子だったけれど……僕達もそのようなものだったから」
「順平によく言われた。双子みたいだって。別に……僕は綾時みたいに軽薄で女の子の尻を追いかけているような奴になりたいと憧れたことなんかないけどね?」
「ひ、酷いなぁ。僕が追いかけてたのはずっと君だけだったのに」
 本気で傷付いたような声を出して綾時が抗議した。嘘だよ。知ってる。あの子はたくさんの女の子に(マスコットみたいな感じで)可愛がられていたけれど、そのどれ一つとっても全然本気じゃなくって女の子達もそのことをちゃんとわかっていた。
 綾時は僕のことを知りたがった。
 同時に僕も綾時のことが気に掛かっていた。僕達は惹かれあった。まるで二つに分かれた魂が一つに戻りたがって引き合おうとする、双子のファンタジーみたいにだ。
「ね、湊。湊が《ユニバース》であること、ユニバースとなることを選んだこと、それはきっといいことでも悪いことでもなくて、ただ湊が選択出来た一つの結末に過ぎないのよ。誰もそれを責めないわ。だけど、誰もそれを褒めることもしない。人類の救済は確かにあの瞬間望まれたことだったのかもしれないけれど」
 ニュクス・コアには本来感情がない。心もない。それは世界を破滅させるためだけの存在であって、慈悲や情けを持たされる必要などないからだ。ニュクス・コアはただ無機質に死へと還る雛形で、奇跡なんか、起こせるはずがなくて、あの日世界は滅んでしまうはずだった。
 だけど奇跡は起きた。運命に翻弄された少年が最後に願ったのは、自分を救う奇跡ではなく誰かを願う奇跡で、そしてもっと奇跡的なことに、ニュクス・コアには欠片だけだったけれどその奇跡を甘受してしまうような心が宿っていた。
「ユニバースは奇跡の力。慎お兄ちゃんが持たされたアルカナ《ユニバース》のカードは、確かに奇跡を行使したわ。慎お兄ちゃんだけじゃなくて、全ての、《ユニバース》と関わりのある存在の願いを抱いて発現した。だとしたらどうなると思う? それでもやっぱり、湊は消えちゃうと思う? 今度こそ礎になって、奇跡を構成する要素になって溶けて消えちゃうと思う?」
 例えば神郷慎は。神郷洵は。真田明彦は。桐条美鶴は。藤堂尚也は。周防達哉は。天田乾、山岸風花、伊織順平、アイギス、岳羽ゆかり、或いはもっとあちこちにいたたくさんの彼らは。
 湊の消滅は願っていなかった。ゆかりの言葉が蘇る。「今度こそ」。今度こそ、ハッピー・エンドを探すのよ。いいわね。
「天田君が僕に言った。最後の戦いの時、僕がニュクスの元へと向かう前に心を預けられたような気がしたって。それで今彼らと出会って……そういうことでしょ? 結祈は、意地悪だね。エリザベスみたいだよ」
「だってあの人に半分考えて貰ったんだもの」
「……え。エリザベスが?」
「うん。あの人は、客人と案内人っていう関係性を超えて湊に入れ込んでしまったんだって。だからベルベットルームの案内人をやめて、次の客人の世話は自分のお姉さんに任せてあちこち放浪したらしいわ。少しは聞いたことあるんでしょ?」
「……マヨナカアリーナに乱入した時あの人フリーだったの」
「そう言ってた」
 それを聞いてなんだか、どっと疲れたような、正反対に肩の荷が下りたようなそんな気持ちになった。
 もし。
 天田が言ったように湊の心が、少しずつ彼らに託されていたのだとして、それがニャルラトホテプの手によってばらばらにされた十三のアルカナ、湊の未練ともまた別のもので、それがユニバースの行使とか、奇跡の邂逅とかで湊の元に集まってきているのだとして。きっとそれらには元々の湊の心以上に託されていた誰かの心がついているのだろう。それが湊が生きていた頃に築き上げた絆の本質だからだ。
 離れていても繋がっている。
「確かに、湊のこの十年の存在は《ユニバース》という名を付けられ、定められたシナリオの通りにその下へと連れて行かれて、そこには断ち切れない因果があった。それに、別に湊自身がそこに戻ることに抵抗はないっていうのも知ってるよ。だけどニャルラトホテプが介入してしまったから、今、全てをリセットして……あるべき形に戻すにはそれなりの代償を支払わなければいけない。湊はその代償にとりあえず自分を選んだのよ。それが現状」
「……でも、だけど、だろ?」
「そう」
 意味ありげに少女が微笑む。地平線の果て、目に見えないどこかまで続く乳白色の空間で白い羽根を纏いながら。「絆よ」少女は囁いた。「絆を通じて、私達はずっと湊と繋がっているの」。
「そして絆こそが、ニャルラトホテプが最も不得手とするものなのじゃないかって私はそう確信してる。藤堂さんと周防さん、言ってたでしょ? 意思の力が揺るがせるかどうかだって。ペルソナは心の力、そして湊の能力はコミュニティの強さ。私がお手伝いしたのはその、絆を強く結ぶことだけだよ。後は……皆次第だけど」
「ここまでお膳立てされて失敗出来ると思う? 後でエリザベスに言っておいて。僕、ケーキも割と好きだって、三ホールぐらい」
「いいけど食べ過ぎよ」
「構わないよ。僕はもう死んでるもん」
「……湊って、結構、死後をエンジョイしてるよね……」
 どうする、もう行く? 結祈が出口らしき光の先を指し示して尋ねる。「くじらの海は意識と無意識の狭間の一つだから、時間の流れは曖昧だけど」と捕捉。ユニバースを使う直前は、確かそう、敵は本体だけになっていたけれど、その後ニャルラトホテプがどう動くかはあまりわからない。
 湊は綾時の手を取り、示された方へと当たり前に歩き出す。その途中でふと思ったことがあって、振り返った。
「結祈」
「なあに」
「ありがとう。皆と……ゆかりと話をさせてくれて。僕は、ゆかりのことがたぶん一番気がかりだったから……」
「好きだった?」
 結祈の意地悪い顔。岳羽ゆかりは有里湊に今でも恋しているのだっていう。じゃあ湊は? だけど湊にはそれに明確な答えが出せなくて、ふるふると首を横に振り、
「――さてね」
 含みのある声でそう言い捨てると光の中へ消えていった。