]]T UNIVERSE:きみの記憶、そして巡る春へ
「――それで結局、お前のコンプレックスってなんだったんだよ」
影時間が明けて、普通の、ありふれて穏やかな朝が巡ってきていた。寮のリビングに大人数が腰掛けて、椅子が足りないので何人か床に座り込んでいる。「僕の?」湊が不思議そうに反芻した。湊は月光館学園の制服を着たままだ。ユニバースの力があればいくらでも服ぐらいは作れたはずだが、そうしたくないのかもう出来ないのか、一張羅に身を包んでいる。
「そう。俺は和也へのコンプレックス。達哉は孤立へのコンプレックス。全員それぞれに理由がある。じゃ、お前のはなんだったんだ。ニャルラトホテプはユニバースに迎えられるべく目覚めた特例だとか言ってたが、まさか、ないのか」
「いや。たぶん……愛情、じゃないかな」
「……マジで?」
「うん。僕は高校二年生までの間に親戚中を転々と……たらい回しにされてたんだけど、まあその、厄介者だったというか、手はあんまりかからないようにしてたんだけどそれが余計にダメだったみたいで。人間味がないって。両親が死んでから愛されるどころかまともな感情を向けられてなかったような節があった。僕の回りではすぐ命は死んでしまうし」
『中に僕がいたからねえ。死は死を引き寄せてしまうんだ。死期を早めるというか』
「だから。僕はきっと疑り深くて、そのくせなんでもどうでもいいと思ってて、愛情というものには久しく触れてなかったから……だから僕の初めてのペルソナはオルフェウスなんだ。あれは妻を信用しきれず、結局失ってしまっている」
ふうん、と慎が最もらしく頷いて見せた。
ニャルラトホテプはユニバースに願われた通り、奇跡を果たした湊の手により綾凪から退却した。深手を負っているので、そうそう簡単には戻ってこれないだろうというのが何度か交戦した達哉の見立てで、間もなく影時間が明けたが代償に湊が泡のように消えたりする、なんてことは特になかった。
どうやらアベルの剣が切断した因果はニャルラトホテプと尚也や達哉、湊を結ぶものだけに留まらなかったらしく、そもそもまず第一に切断されたのが湊とユニバースの因果それそのものであったのだと湊は言った。
「だけどあの一年で随分色んなものに触れて、拒絶じゃなくて許容をされて、愛されたり愛したり愛を教えてみたり、一気にぶわっと情報が堆積していく感じで。それで僕は最後にユニバースを選んだんだ。ニャルラトホテプはなるべくしてなったとか、誘導されてたみたいに言うけどあれはやっぱり僕自身が選び取った結論で望んだ末路。……僕は人形じゃないから。ちゃんと、生きてたよ。あの一年間を」
「……知っているよ。それは私達が、何よりも」
「そうですか。……あ。美鶴先輩、僕、一つ美鶴先輩に言おうと思ってたことがあるんです」
「私にか?」
そんなに改まって言われるようなことがあったか、と美鶴がきょとんとした面持ちで尋ねる。真田も思い当たる節がないようで、「珍しいな」とコーヒーを啜っていた。
深々と頭を下げる。誰かに頭を下げるということは昔もあまりしたことがなかったけれど、ことこの綾凪の地に来てからは恐らく初めてのことなので、その場の全員がぎょっとしたり目を見開いたりした。
「ごめんなさい。また自分を犠牲にしようとしました。だから美鶴先輩が繋いでくれたの……嬉しかった。すごく」
「とんでもない。私は最初から危惧していたんだ。君が私達を保険にお膳立てしておくことで、自分の消滅後の補完を図っているんじゃないかとな。その保険に使われるぐらいならペルソナ能力なんて戻ってこなくていいと思っていた。だが……最後に役に立てたのなら、これでいい」
「うん。湊とチャネリングさせてあげられたの、桐条さんのおかげだもん。桐条さんのアルテミシアがなければ出来なかった。絆の、一番強力な媒体は絆だから」
「……くじらの何でもありな感じに、むしろ僕は驚いたけどね……」
溜め息混じりにやれやれと湊が首を振った。
洵の身体には今はまだ結祈が収まっていて、結祈が喋りたい時なんかはその意思を尊重して洵は結祈を表に出してあげているらしい。あまり皆それには驚かない。そもそも慎は洵のそういう状態に慣れていたし(真田もだ)、尚也と和也もそうだった。
「そういえば、和也は消えたんだっけ」と尋ねるとピアスの青年は一つ頷いて肯定する。
「まだ完全にいなくなったわけじゃないけどな。表に出るほどの元気はないみたいでさ……元々こいつ、磁場の狂いが影響で出てきてたみたいなもんだろ。殆ど消えかけてる。湊がいなくなったらまた俺の中に完全に戻るよ。それだけ。消滅するわけじゃない」
「……そっか」
「そう。あ、和也から綾時に伝言。『お前のこと、やっぱあんま信用は出来ないけどまあ悪い奴ではなかったと今なら思える』ってさ」
『え、そ、そうかな?」
「あと、『でも間抜けだよな』って。概ね俺も和也に同意かな……」
『同意っていうか、和也も尚也も元を正せば同じ人間じゃないか……』
綾時ががっくりと肩を落として項垂れた。あの、湊に合わせていた頃の小学生の姿ならばまだ違和感はなかったけれど、高校生の湊よりも大きいぐらいの図体でやられるとまるで大型犬がシュンと項垂れているみたいだった。
「慎兄と洵兄は、巻き込んじゃってごめんね」
「いいよ。こうして終わってみれば、あっという間だったし……お前に会えてよかった」
「ねえ、一個聞きたいことがあるんだけど。湊はどうして僕達のこと慎兄と洵兄って呼んでたの? だって本当の年は真田さん達の一つ下なんでしょ?」
「あ、洵」
「それがちょっと……不思議なんだよね……」
結祈と交代して洵が表に出てくる。洵は小首を傾げた。この仕草は、洵がやると妙に愛嬌があってさまになる。結祈がやるのと変わらない。
「だって……結祈が、自分はお姉ちゃんだって言うから。実際、綾凪に降りるのに名前は必要だったんだ。有里という名字は僕の人間としての未練を表す記号で……名は体を表すって言うでしょ……綾凪に縁のある名前を持ってるにこしたことはなかった。……それに」
「うん?」
「家族っていいなって思ったから」
それだけだよ、と少し恥ずかしそうに言うと慎は無言で湊の頭を撫でた。
しばらく歓談が続いて、美鶴と真田が持ち場にそろそろ戻るか、という話を出した頃には昼過ぎになっていた。二人は大人で、立場もあって、ここまで時間を割いていたのにもものすごい労力がかかっているんだろう。「アイギスが残念がるだろうな」美鶴が言う。
「彼女は君のことを随分と気にしていた。ペルソナ使いに至る根源のことをさえ」
「だから、綾時を僕に入れたことは別に気に病まなくていいって言ってるのに……」
「伝えておこう」
「え? それじゃ湊はこれからどうするんだ?」
美鶴のイントネーションが含む意味に気が付いて慎が慌てて尋ねる。また遠くへ行ってしまうみたいな口ぶりだったからだ。湊は相変わらず意思の読み取りにくい灰ねずみの瞳で慎をじっと見つめる。それからその中にみずいろを孕んで、くすりと微笑むと、
「帰るよ」
いっそ清々しいまでに簡潔な答えを出した。
「え」
「帰るよ。だって僕は十年前に死んだもの。死者は蘇らない。その摂理だけは、奇跡でも覆していいものじゃない。人が一人死んだことをなかったことにしようとしてパラレル・ワールドを作り出したらどういうことになったのか達哉は痛い程知ってるでしょ。そもそもこの肉体は仮初めの入れ物で、神郷の名前でこの綾凪に結びつけていたけれど、目的は果たせたし」
「帰るって……どこへ」
「そりゃ、勿論。死の扉の元に」
冗談を言っているふうではない。「それが湊の選択なんだな」尚也はわざとらしく耳元のピアスを弄りながら問う。スティグマータに手を伸ばし、湊のイヤホンを掴んで、「お前が望むならそれでいいさ」と口にする代わりにイヤホンを握って離す。
「そうだよ。それが僕の選択。十年前に出した答えを嘘にしたくない」
「じゃ、綾時連れてまた隠居だな。そのうち俺もお前のところに行くよ……よぼよぼのじいさんになってると思うけど」
「あんまり若いまま来たら追い返すから。あれね、楽な仕事じゃないんだよ」
「想像は付くよ。ちなみに、俺と達哉はどうする?」
のらりくらりと交わして次の質問。この綾凪の時空において尚也と達哉は異邦人だ。過去の世界の人間。達哉に至ってはそもそも並行世界の人間だ。
湊が帰るようにあるべきものはあるべき場所へ最終的には戻らなければいけない。特異点が留まり続けることで歪みが拡大するのは過去に散々証明されてきた事例だった。
湊が緩慢に頷く。
「尚也と達哉は、半分はくじらの力で結祈が因果に招き寄せたらしいんだ。因果は一切合切慎兄にばっさり切り捨てられちゃったし、とりあえず責任取って僕と結祈で元の場所に戻すよ」
「そりゃ助かる。俺はニャルラトホテプに拉致される前は同窓会に出るつもりだったから、そのへんに戻してくれると助かるな」
「因果が歪んでる場所に戻すから、たぶん大丈夫」
「なるほど。あ……そうだ。どうせなら一個湊に頼みがあるんだけど、どうだ?」
「いいこと」を思いついた悪戯猫の表情で尚也が嬉々として湊の肩を掴み、綾時が「えっ」と情けない声を上げているのを尻目にそのピアスのない耳たぶにひそひそ声で耳打ちすると、湊は「わかった」と薄く唇に笑みを乗せた。
◇◆◇◆◇
バーの戸を開いて藤堂尚也が中に入った頃には、旧知の友人達は既に皆そこに揃っていた。この懐かしい顔ぶれを見ると、ちょっとばかりセンチメンタルな気分になる。高校生時代のあのペルソナを手に駆け抜けた日々へのノスタルジー。誰もが懸命に戦った。尚也自身も。
最後に和也を受け入れた時に自己と向き合って、あれ以来、尚也は困ったときに左耳のピアスに耳を伸ばさなくなった。
「よっ、もう全員揃ってるのか? 皆来るの早いな。俺なんか、ここ来るまで大分迷っちゃってさ……『バー・パラベラム』って言って聞いたんだけどなかなか。結局ぐるぐる何周かしてたよ」
「なおりん〜おっせえぞ! 美女二人に『おかえりなさい……』なんて出迎えて貰っておきながら照れる素振りさえねえのかよこの薄情者ォ〜」
「薄情ってなんだよブラウン。俺お前に恨まれることとかした覚えないけど」
「恨んじゃいねえけど、羨ましいんだ割と……」
冗談めかして上杉が肩を竦める。タレントとして売り出し中の上杉だが、そう言えば浮いた話しというかスキャンダルはあまり耳にしない。逆に気を遣っているのだろうか。だが尚也にとっては知ったことではないので「どーも」と軽く流して席に着いた。
出迎えてくれた面々もカウンター席に着き直す。自然と尚也は中心に座る形になって、何故か隣は桐島と麻希に囲まれてしまった。
「そうそう。城戸君、結婚するんだってよ! 私達の中で一番乗りじゃない? これがもうすっごい美人さんなんだ。子供が産まれたらきっとかわいいしかっこいいと思うよ。あ、もう、名前決めてあるんだって。男の子だったらだけど……」
「……男なら、『鷹司』だ。……いい名前だろ……?」
「ああ。いいと思うぜ」
兄貴の名前を半分か、いいな、と口には出さなかったが思う。それは玲司がコンプレックスを乗り越えたということの現れだ。少し容姿が神取に似てきたのも、きっと心の整理がついたからなのだろう。
「それはいいんだけどぉ、なおりんホンット遅いよぉ。あたしだってギリギリだけど間に合ったんだよ? エリーと南条は超早かったから待たせちゃったっぽいけどさ」
「そう言うけどなあ、本当、ここに来るまでまじでしんどかったんだって。普通に家出たのに時空の狭間に連れ込まれるし。俺はなぁ、家を出てここに辿り着くまでに何ヶ月か時間が経ってるんだよ。一筋縄じゃいかないことがあって……」
「……Naoya、Youはジャングルにでも行っていたんですの?」
「あー、ジャングルだったらもっと楽だったな。それはそれは大冒険だったさ。猫になるわ和也は出てくるわ」
「Kazuya?!」
「もう引っ込んじまったけど。聞きたいか? 俺の手に汗握る大活劇……」
「知らん。実にくだらん。どうでもいいの一言に尽きる」
「んだよ南条ツレねえなあ。なおりんの話聞いてやろうぜ気になるし」
「気になってなどいない!」
「あー、これは気になってる顔だねえ」
麻希が南条の頬をつつく。南条はぶすっとした表情で「違う」と繰り返しているが、綾瀬と上杉は完全に弄る気だ。ゆきのが桐島に「相変わらずだねえ」とこぼしていたが、止める気配はない。
何だかんだで、皆こういうくだらない遣り取りが大好きなままだ。高校を卒業して幾らか経ったけれどこういう根本の所は何も変わらないし、それでいいのだと思う。これが愛おしい彼らの在り方だからだ。
「じゃあご期待に応えて話さないとな。どっから始めようかな……」
「尚也君、マイクは独り占めしないでちゃんと回さないとダメだよ?」
「ここカラオケじゃないだろ! ……あ、そうだ。桐島に南条、お前ら俺がいない間になんだか面白いことに首突っ込んでたんだって?」
「……何のことだ」
「とぼけるなって。ニャルラトホテプにはめられて閉じ込められてた間暇だったからお前らの話も聞いてるんだ。おーい、達哉、出てきていいぜ」
「Tatuya?!」「達哉だと?!」と桐島と南条は思いもよらぬ名に顔色を変えるが、他の四人はきょとんとしている。やがて麻希が「あ!」と思い出したように手を叩いて、「あの赤いジャケットの男の子のこと?」と首を傾げた。
「待て藤堂、何故お前が達哉のことを?!」
「だから面倒なことに巻き込まれてたんだって。達哉も交えてその話、してやるよ……な?」
『……俺としては、結構、不本意なんだが』
尚也が手招きをすると物陰から一匹の猫が躍り出てくる。茶色の、短く毛並みが整えられた目つきの鋭い猫だ。その上人語で喋る。
周防達哉の声で。
「What's……?」
『尚也。俺はやはり、こうするべきではなかったと思う』
「いいんだよ。向こうに戻る手段は確保してあるし。お前がなんとか元気でやってるってこと、伝えてやりたかったしさ」
「この猫が、本当に達哉なのか」
南条が恐る恐る猫の頭に手を掛ける。感触は完全に猫だ。多分野良猫。しかし確かにその口から人語を介しているばかりか、まるで……
「Naoya、先程ニャルラトホテプに嵌められた、と言いましたわね」
「ん。俺も達哉もそうだな」
「では達哉のその姿も? ですが……ニャルラトホテプはつい先日倒されたばかりのはずですわ。そんなに容易く起き上がってくるものでしょうか……」
「色々あってちょっとばかり未来にね。その帰りに、達哉を少し借りて行っていいか頼んだらこうしてくれた」
「えー、誰がやったの、ソレ、」と綾瀬の尤もな疑問。「神様みたいな奴だよ」と茶化して言うと達哉がすかさず『それじゃあ何の解答にもなってないし、正解でもない』と訂正を入れる。
「じゃあ最初から行くか。あのな、未来の富山県の綾凪市ってところで一時期影抜き事件っつうのが頻発してて、それは紆余曲折あっておさまったらしいんだけど……俺は直接関与してないから又聞き。が、それで磁場が狂っちまったんで、よくないものが引き寄せられてその一つがぼちぼち力を取り戻してきてたニャルラトホテプだったんだ……」
ごほんと咳払いをして怪談話をする時のように尚也の目が細められる。生唾を誰かが呑む音。マイクの代わりに手を当て、尚也はゆっくりと話を進めていく。
「そこに『神郷湊』って名乗る少年が現れて今回の事件は始まる。そいつは俺達の後輩みたいな立ち位置にあたるペルソナ使いでとにかく変わった奴だった。俺達はニャルラトホテプに幽閉されてた関係で湊と出会った。湊には目的があって、それが俺達と一致したのでとりあえず俺が助け出された……」
その時、丁度バーのバックで流れているクラブ・ミュージックが切り替わった。尚也はあまりこういった場で流れる音楽に詳しいわけではないが、この曲だけはすぐに曲名を思い出せる。「そうそう、これ。この曲」呟くと鼻歌でハミングを被せて、「この曲、知ってるか?」と仲間達に問いかけた。達哉以外が首を振るとまた満足そうに「うん、だろうな」と独り言を呟く。
「――『Burn my Dread』。あいつはこの曲が好きで、丁度、この曲の歌詞みたいな奴だったよ」
尚也が言った。
◇◆◇◆◇
「――っくしゅ!」
「わあ、すごく盛大なくしゃみ。これはあれだね、されてるね、噂話」
「……噂はもう、こりごり。噂が現実になるようなのはもっとこりごり……」
意識と無意識の狭間のどこだかわからない異次元をてくてくと歩いている。綾時と二人で、あの元の生と死を隔てる門の場所へ。二人ならどこへでも行ける。星のある空の下も、星のない場所へでも。
帰り路はまっすぐじゃなかった。エリザベスと約束したから、彼女に会いに行かなければならない。あのエレベーター・ガールの彼女は約束事に割と厳しいのだ。依頼だって、期限が過ぎたらもう絶対受け付けて貰えなかったし。
意識と無意識の狭間、と一口に言っても何しろそれは海よりも広大な場所だから、色々な次元があってそれが複雑に混じり合って存在し時に並行している。今回湊が足を踏み入れたのは結祈が還っていった「くじらの海」とニャルラトホテプが住まう空間、それから周防達哉の囚われていた場所、そして鼻の長い主イゴールが支配する「ベルベットルーム」の四ヶ所だったが、その中でもベルベットルームなど現世に直結する扉を配置したりする程度には開放的でフレンドリーな場所という認識だった。少なくとも湊の中では。
「あの短期間で満月、何回巡ってきてた?」
「そりゃ、シャドウの数だけ……ええと、ハングドマンを倒してから湊君のシャドウと戦ってニャルラトホテプを倒すまでは一晩だから、十二回かなぁ。とんでもないね。世界一つ一度滅ぼしかけた事象だって言われて、すごく納得出来るなあ」
「……綾時も世界を滅ぼしかけたんだよ?」
「あれは僕の力じゃないもの。ニュクスの、母なる死の本能だよ。僕はあくまで《宣告者》」
「ふうん?」
道行く先に、ぼんやりと現実にリンクしたヴィジョンが浮かび上がってくる。岳羽ゆかりが出勤している姿とか、天田乾が大学の大教室で講義を受けていたり、山岸風花が家事に勤しんでいたり。真田明彦は書類と睨めっこをしているし、桐条美鶴はティーブレイクタイムを迎えているようだ。伊織順平は、なるほど国外に旅行に出ているらしい。隣には髪の赤い女がいた。湊は彼女を知っている。
アイギスは、これもやはり国外での任務に携わっている最中のようだったが、視線を感じたようにこちらに振り向いた。蝶のホログラフが彼女の視界に映り、ぼやけて、消える。
猫の姿にして一時的に尚也に同行させた達哉はというと、早速尚也の仲間達に囲まれて四面楚歌に窮している。尚也は実に楽しそうに口端をつり上げていて、達哉の解放はそう簡単には見込めないようだった。だけど達哉もそこまで嫌そうなわけではない。たまに、尾が揺れている。
神郷慎は模試の会場にいた。浪人一年目、でもまあさほど無理な目標ではないようなので、とりあえずペルソナ関係の戦いに巻き込まれていた分の埋め合わせを今現在図っているらしい。神郷洵は中学校の教室でノートを取っていた。神郷結祈は、達哉と尚也を送った直後に湊と共に意識と無意識の狭間に飛び込んでいったが、すぐに彼女のあるべきくじらの海へと行ってしまった。
「彼らは幸せだと思うかい?」
宣告者が「明日は雨だね」と告げるみたいに囁く。湊が絆を結んだ人達を示して、無邪気ですらあるふうに。
「それは僕が決めることじゃないよ。でも、そうだな……僕の目から見て、とりあえず人生に悲観して今すぐにでも僕の所へ来ようとしている人は、いないかなって思う」
「じゃ、君は?」
「僕?」
「そう」
黄色いマフラーを靡かせて綾時が横顔を覗かせる。「ねえ、どうかな?」母親の機嫌を伺う子供と同じ顔をして、あわよくばお菓子を買って貰おうと狙っているみたいに尋ねてくる。「まったく、綾時は……」とイヤホンを耳から外して携帯音楽プレイヤーの停止ボタンを押した。
その指先で綾時の泣きぼくろに触れる。耳元に唇が近付き、触れ合いそうな距離になる。
「満たされてるよ」
そして湊は囁いた。
「隣に綾時がいるもの」
演奏を一時停止しているプレイヤーには「NOW PLAYING “KIMINOKIOKU”」のデジタル文字。プレイヤーが湊の胸で跳ねて踊る。いつの間にか眼前には見慣れた蒼く光る不可思議な扉が鎮座していて、その先にベルベットルームがあるということを示している。
湊がドアノブに手を掛けると、その上に綾時の手のひらが覆い被さってくる。昔はあんなに小さかったのに、今はもう湊よりも幾分か大きくなってしまった。それに少しだけ感慨を覚えながら、二人でお茶会に臨むためにドアを開いたのだった。
《ワールドトランス/END》
Copyright(c)倉田翠.